今年私は、天使にバシッと言われていることがある。

結果や事実といわれていることではなくて、

「こうなればいいな」と考えること

です。

希望を述べよ、希望に意識を向けよ、ということが大事なのだ、
それが「ポジティブ」ってことですよ、・・・


だそうです。






先日、私も大好きなバンドのスクープに心揺れたこともありましたが、
所詮、他人には何も出来ない、その人の許可なしに。
それに色んな話が、この世には飛び交っている。
それらの話が「嘘」か「誠」かどうか=実際、が大事なことじゃなくて、

「私的には、こうであればいいな」の方を向く、っていうことが大事なことだ


というのを、改めて知った気がする。
悪霊から自由になるには。

正しい境界線の引き方。


「豊かさの思想」という話らしい。






世の中、悪霊の猛威は収まらないし、御本人さえ自覚できない御本人がある、っていうのは仕事上良く知っているわけです。


「人間関係は”腹6分”が長続きの秘訣」と美輪明宏さんが言ってたけど、

これって、「残りの4割は、本人すら知らない悪霊とか、ネガ記憶に影響されているのが普通で、付き合うと大変」、っていうことだと思います。

4割のネガは基本、自分でデトックスを鍛錬して、日々手放していくしかないのだと思います。

(しかし、結婚などの「緊密・親密」な関係では、この境界線を誤りやすいですね。
お気をつけを!)




そういう、他人とまともに付き合えるのは6分である、みたいな人の真実・ネガな事実から、心を自由にするには、

人も物も「こうであればいいな」っていうところになるべく心を置くこと、

そんなふうに思います。


あえて人や事の「未完」を赦し、自分の希望に集中し、自分に正直に生きる。そういうのがいいのかも。「未完」にすると次に繋がる、完ぺきにすると終る、・・・
(→横尾忠則さんの「死なないつもり」に書いてある素晴らしい言葉・・・)




誰がどーでも、それが誠か嘘か、そんなことは実は個人の幸せには関与しない。

自分の「こーであればいいな」≒理想に近いもの、じゃないことには、「こーであれば」に意識があれば、自然にさよなら、するものだ。

関心がなくなってしまうものです。

そうすると、頑張らなくても悪霊ワクチンが出来たみたいに、悪霊は去っていきます。

他の人の悪霊で痛い目遭うのは御本人。全ては自己責任。痛い目を他人のせいとか呪いとか言って生きるのも自由。でも私はそういう人生からサヨウナラ!のひとなの!





「こーであれば」という「天国へのオファー」の質を、高く維持すること。

「こーであればいい」に意識を置く。

不安になったり、疑ったりするより、希望することが大事。



最近、そんな事を強く思う。





「こういうの要らない」っていうと、希望がかなっても、要らないものの排除だけになって、ただの安定だけの世の中になる。安全だが楽しくもない。

そーではなく。

「こーであればいい」を大事にしよう。

正しい境界線の思想。


・・・天照大神は、岩の奥で「こうであればいい」と願ったはず。
「こんなの要らない」と思って奥に引っ込んでいるのが神ではないはず!

ですね♪
ではでは♪