(今では考えられない名女優の共演。火サスなどの元となったような作品でしょうか。
桃井かおりさんの演技もサイコーだし、もちろん岩下志麻さまの脅しはマゾっけある人には響きます(笑)おすすめな昭和映画。)


2018年の年末に、「来年はこれよ・・・・このテーマだからね・・・」的なお話として舞い込んできたDVD、松本清張原作の「疑惑」については、年末に記事を書いたような気がします。→こちら


タイムリーに、その同じ原作のドラマが、先日放映された。


期待したのですが、ああ残念。


俳優さんたちのせいとは思えない。
脚本とか、プロデュースが、・・・っていう感じでした。

私は黒木華さんと桃井かおりさんを比べてこの感想を述べているわけではないです。
米倉涼子さんと岩下志麻さんでもなく。

明らかに様々なシーンの辻褄が合わないし、観ていて?って感じだった。あまりにも、シーンを構成したときの知識が浅すぎて、深く感動しない、という感じだった。



芸術、芸能、表現の世界というのは、いわば
世界のカウンセラー
世界のヒーラー

という世界なのだ、と言えるのだと思う。

芸術に触れて、

直に会って、個人的な話を聞いてもらったわけではない、薬を打ってもらったりしたわけではないが、悩みが心から消えるような経験になった、というのは、

世界のカウンセラー、ヒーラーなのだと思う。
故に、力はとても強い。

しかし昨今、日本のドラマは下火一直線とか言われている。

先日の「疑惑」を観ていても、なるほどなあ、と感じた。

制作費云々、ではない。 

ドラマの中心に、多くの人の心を動かすような、知識や見識や感情が、あまりにも浅い。
そんな気がしたのです。


先日の「疑惑」では、黒木華さんが、恵まれない育ちをしたホステスが田舎の金持ちの老人と結婚をして、関係がこじれ、お相手が結局無理心中を図り、自分だけなんとか助かったが、夫殺して保険金殺人した「疑惑」をかけられる、

・・という女の役を演じていたが、

今回その元ホステスの女、球磨子が、事故に遭った時の記憶がない、
というのは、
その時幼少期の辛い記憶を思い出していたから、

そして、こんな事になったのは、幼少期に捨てられたことが全ての原因だった、

みたいなことを、裁判の最後で、

「弁護士が、私(の幼少期に端を発した事件であることを)を理解してくれた・・・」

などと、言うセリフが合ったのですが、実に「容易だなあ」と感じました。

私が球磨子ならば、そんな事は言わないし、言えないし、第一、今回のドラマでの球磨子の行動は全く辻褄の合わない描き方をされていた。

もっと裁判所の証言台に招かれる人って、ドロドロとしているものです。
見たことあるんだけど・・・

桃井かおりさんはそういうところ、出てました。

でもドロドロとした演技を黒木華さんがあそこでしたとしても、浮くだろうなあ。

ドラマ全体を、妙な薄さ、浅さ、が覆っていた。



映画「疑惑」が非常に深い小説=心を育てるもの、魂を揺さぶるもの、だったのに対し、
週刊誌程度の情報量という感じがしたのです、ドラマは。

かいつまんだ、「こういう事件がありました」「怖いですね」、少しだけ深い考察に結びつくような「育ちがこうだから」。読者は「こういう感じのことには気をつけなきゃ」で終わる。=脳のガードが分厚くなるだけ、というような感じ。

もっと全体的な平和とか、魂の解放とかが、目的じゃない、妙な軽さを感じた。
ドラマだから仕方ない、というような概念だから、視聴者は飽きたのでしょう。日本のドラマに。



幼少期に捨てられて生き抜いてきた人の描き方が、全く足りていない。
それは、そういう女に騙されてしまう老人役にしてもそうだった。弁護士役にしても。

映画「疑惑」は「なるほどああいう母親がいてお金持ちのお家を継いでたら、ああいう若い女にハマっちゃうよね」っていう役の人や、シーンがきちんと出てきた。
深い制作陣や原作の考察に私は感動したものでした。

今回のドラマは、
原作を飛ばし飛ばし読んで、かいつまんで理解した振りになっている感じだった。

ちょっといい俳優さんたちを出したら、それでクオリティーは出るだろう的な安易な感じがした。

妙なタイミングで球磨子が自供したりとか、全く辻褄の合わないシーンばかりが続いて、

球磨子の悲しみや狂気、球磨子の夫の育ちの偏りに対する悲しみ、
弁護士に至ってはほぼ背景は語られなかった。何も描けていない感じがした。

あの時間でまとめようとしたのが悪かったのか(でも映画と時間はそんなに変わらない気がする)何が原因かと考えると、

やはり、松本清張が観ていた、伝えたかった情報というのは、
深い、人の、人生に対する偏りに対するもの、であり、

その点で、今回のドラマは、あまりにも浅すぎる、と感じざるを得なかった。



「頭で作ってる」
という感じが強かった。

その情報の薄さに、びっくりしたというのが、本音です。


芸術は、
感情や心で作るもの


だと思っています。

脳深部から出てくるエネルギー=心で作らない作品(顕在意識的な作品)は、力が弱い、ということは、脳科学的にも証明されています。

それは現代のコンセプチュアルアート、とモナ・リザの違いみたいな感じですね。

顕在意識の影響力10% 対 潜在意識の影響力90%、です。
それをもとに作った作品も、そういう感じだと思います。





昨今、ハリウッド映画にしても、ヨーロッパのものにしても、
私が催眠のお仕事で語っているような、

「人生の核は幼少期
(のプログラミング)が
大きいですよ」


という話が、主流です。


夢のような恋愛モノや、冒険もの、アクションもの、フィクションの世界に綺麗な大スターの出てくる夢物語を観に行くというような作品は、あまりない気がします。
(若い子向け国内映画はまだそういうのあるのか?観ないからわからない)

そういうふうな作品でも、底辺には「幼少期だよ」というエネルギーが流れていないと、プロデューサーはまず「深みが足らない」という判断になったり、宣伝関係もそういう判断になるのではないかと思っています。そういう作品は話題にもならない感じがある。

「上辺だけ(の理解)」っていう作品は相手にされない、と思います。


芸術は「世界のカウンセラー」になるもの、と先に書きましたが、

その点から言っても、「上辺だけ」の作品は、認めてもらえませんよ、と言われても仕方がないという感じなのだろうと思います。




しかし、今回のドラマ「疑惑」を観て感じたことは、
そういう「幼少期だよ」っていうことを書かないと、っていう見識はある、が


人生に対する圧倒的な知識の浅さ、
人間という生き物に対する概念の不足、

というものが、決定的な欠如となって作品に出てしまっていた気がしました。




これって、若い人たち、TVや映像制作に関わる年代・人々全体に欠如しているものなのかも、って感じがしました。

時々、街で他人の会話を聞いて、浅い、イージーだ、と思うときのような感じがした。

いろんな映画とかみて、知識はあるけど、やり方がすごくイージー。

心殺して生きちゃった、っていうか
今の教育って、そういうことをしないと耐えられないようなエネルギーがあって、
なんとか耐えて仕事に就いたけど、やっぱダメージが出たという感じなのだろうなあ、と思う。

丸暗記で点数稼いで、地位がやってきて、いいお金が入ってくる、みたいなイージーさを、作品全体に感じました。

人生そんなイージーなものじゃないと思う。


人に対して、すごく知識が浅い、という感じが、
「人と泥臭い経験をしたとかないのかもなあ」という気がしました。

まあ今の日本というのは、様々な圧力が厳しくて、きついよなあ、でも最高の学びが生まれるのだなあ、とは、思いますが・・・・





話は変わって。

中国っていうのは、エリートならば一生ウハウハ、一回失敗したらアウト、みたいな話を聞いたことがあるが、

うちの近所の喫茶店が、ある日突然玄関を黄色に塗られ、オールナイトのマッサージ店になったことが有った。

私は店名の感じや、その、ものすごい労働量、いきなり黄色く塗られた玄関を観て、
「あ、中国の人が越してきたのだな」と思った。

ちなみに黄色い玄関、というのは、イージーにお金が入る風水、なんだと思いました。

しかし、その場所でオールナイトのマッサージなんて開いても、玄関黄色くしても儲かるのかなあ、って思っていた矢先に、閉店。

更に、すぐ、看板が変わって、激安餃子の中華になった。
「あ、私の予想(富裕層の中国の人が越してきた)は当たったのかも」と思いました。
(未だに、どういう人達なのか知りません)

黄色く玄関を塗った風水を信じて、またイージーになにかするんだなあ、と思っていた。
もちろんすぐに閉店。(場所が悪い。)

そしてさらに、スポーツカフェ、に改装して、激安ランチを出したりしていたが、また、閉店したらしい。そうだろうな、と思った。前の喫茶店も流行っている感じはなかった。

これはこの一年ぐらいのお話です。
 



日本の名古屋の住宅地の駅近一戸建てを買えるぐらいだから、いわゆる富裕層の住人なのかも。

しかし、玄関を黄色く塗って、安いものを売ったりしても、流行らないものは流行らない。

社会的に失敗しなかった、という人には、「成功記憶」が強くて、「自分がやれば何でも成功する」みたいな言霊があるのかもしれませんが、その凄いポジティビティーには感動しそびれている。





世界中で行われている教育がどのようなものかはわかりませんが、
こと日本やこの極東アジア圏で行われてる「まず、個人を殺す」的な、
ひたすら従わせる的な教育というのは、歪みを生んでいると思います。

クラスメイトも、同年代の人も、結局倒すべき敵、みたいな受験をさせる。
若くて今しかない遊びとか体験をしないで、そんなことさせてたら、お金は儲けられるのかもしれないけど、人は人らしさを失って、結局実を結ぶ人生からは遠くなるのではないだろうか。


桃井かおりさんと岩下志麻さんの映画「疑惑」は、もっと深いことを書いて、深い人生の理解を促す、

松本清張や監督・制作陣の素晴らしい表現、素晴らしいセラピー・カウンセリング・講座、だった、

・・・その世代が育てた子どもたちは、なんとイージーに育ったのだろう、と

そして昨今の社会の妙な薄さ、凄い巧妙になってきた嘘を感じて、悲しくなったものです。

情報と言われているものはものすごく増えたが、本質を築く情報は紛れてしまったのかな。

子どもたちはより繊細になって生まれてきているというのに、深さを感じたくても否定されるような世の中の傾向が大きいことを、悲しく思います。

人生の本質は、そういうものじゃない気がします。

それは不変のこの世の法則だと思います。

心を学ぶ、というのが人生の最大の目的だと私は思っています。


私達はしばらく、一昔前の、完成度の高い知恵や叡智のあるお話から学んで、自然に触れて、自分を守っていくしかないようです。


長くなりました。ではでは。