(先日見てきた蘭。なんと複雑な美しい花なのでしょう)




その日は「サインがやってくる」という噂の日、で
それは「愛と哀しみのボレロ」という映画、だったのだと思う。


その前の日にも「人類は【フィクション】を信じることで作られている」
などというのをうっかり耳にして、正月なんて吹き飛んでしまった。




この【フィクション】という話をしていたのは、
イスラエルの人で、例えばあの国の周辺は「神」という言葉で、争いが起きています。

人や物、でもなくて「神」という概念、の話だけで、血が流れている。
もう何年も、不条理で残虐な殺しが続いている。


私達はそういうのを、遠い国から見ているので、事の顛末がよく見えているわけです。


でも、「我が国」の中にも、かの国の「神」みたいなことがあるのには、気づいていないのだと思います。

私はそれの大きなものの一つに「親孝行絶対主義」とか「子供は生まれたら可愛いものだ」みたいな概念、があると思っています。


「結婚は一回がいい」とか「有名企業の就職がいい」とか、「子供が生まれて孫も生まれてそういうのが幸せ」とか、そういうのは無数に有って、

延々と人を地味に不自由にして、不幸にして、終いには残虐な死に追いやるというのは、
そんなに変わらないのだと思います。



そういう「変な囲い」、「牢獄のような枠」、に気づいた人は、幸せだと思うが、
ほぼ、何かしらの大きな損失をして、気づくというのが悲しいことだ。

でも一番悲しいのは、大きな損失もなく、死ぬまで耐えて、他人を追い詰めて、幸せを羨んで奪うことに生きて亡くなっていく人なのだろう。



そんなことを思いながらクロード・ルルーシュ監督の「愛と哀しみのボレロ」を観ると、
冒頭にこんなふうな言葉が流れてくる。


「人生には2つか3つの物語しかない。
しかしそれは何度も繰り返される・・・
その度ごとに初めてのような残酷さで・・・」




全く同感・・・・



この映画は、戦争に巻き込まれて、・・・同じようなパターンの「初めてのような残酷な」ことに苦しんだり、実を結んだりすることを描いているものですが、


それはやはり「フィクション」が絡んでいて、

私はいつもここにいて強く思うのは、

「そのフィクションの”本当の影響”を、人は知ることが出来ない」から、悲しい、

ということです。



脳の構造のお話を、いつも催眠の前にはさせていただいています。

脳は「本当の影響」が隠れる構造になっている、という話を。


でもその恐ろしさを知るのは、結局、真新しい残酷な事件が起きてから、なのだ。



それを、悪いとは思わない。
でも人生に絶対必要か、と言われるとそうでないと思う。


ただ、「本当の影響」というのは、さも普通の生活の中の依存症として現れていて、大きな事件になっていないことのほうが多いのかもしれない。

「戦争は、他人の幸せが羨ましくてしょうがないやつが考えるんだ」

などという、「愛と哀しみのボレロ」の中にも有ったセリフですが、

我々の生活の中にさも普通に染み込んで、依存的に行われている虐待、というのは、
ちょっと子供や他人が幸せそうに見えると、自然に出る。これは他人にはわからない地味な事件で、地味な戦争だと思う。戦争は個人的になっているだけのような気がする。


大人の中のインナーチャイルドが、本当の子供が幸せそうなのを観て「私もこんなふうな幸せを味わっていいはず!」って思うと、自動的に虐待は出る、というものなのです。

これが日本では主流の「戦争」だと思う。

そして、こういう小さな残虐な行為が、子供の中で大きく育って、集まって、ムーブメントのように「戦争」になるのだ、
そう思います。


暴力とかお酒や煙草、薬物っていう「依存症」はわかりやすくて、派手に公共の迷惑になるから、いい。

家庭という密室のなかの、認知されない虐待依存が、毎日のご飯、みたいになっているのは、とてもいたたまれません。大人がネガな記憶を持っていて、ストレスを感じていたら自然発動している。


絶対権力者、の母親だけでなく、去年は父親からのストレスの犠牲になった人、というのも、とても多かった。




みんな、我々大人が無理や我慢をして、フィクションを押し付けて、「同じような話」が繰り返される。

私は実は、こんな「同じような話」ばかりじゃないと思うんですよね。世の中。


例えば自分が教師だから、子供を学歴地獄に追いやって苦しめる人もいれば、
「やっぱ大学辞めます、劇団がやりたい、ごめんなさい」っていう手紙に、
「好きなことがあるっていうのはいいことだ」とあっさりOKしてしまう、宮藤官九郎さんのお父様みたいな人だっていらっしゃる。(ちなみに宮藤さんのお父様は校長だった人で、彼は末っ子の長男、田舎の出身ですね)


もっと、オリジナルな、楽しい「フィクション」を信じていけばいいのになあ、


っていうことなんです。



あまりにも多くの人が信じている「フィクション」のバラエティーの少なさが、常々、気になります。

田舎のひと、という概念は、そのフィクションのバラエティーの少なさに拠る、と言っていた人がいたけど、私もそう思う。

どんどん実は保守的になっている世界を感じます。

でも私は、「いいダイヤモンド」になるために、圧力になる「フィクション」の概念を、きちんと選んで生きたいなあと常々思っています。


それには、古い「幻想」を、拒否すること。

もう、老人が学んでいた頃の世界じゃない。



そんなふうに思います。