最近、立て続けにサッカーの監督の本を読んだ。
以前からお家にあるのと、
ケーブルTVの抽選に、ひっさびさに応募したら当たってしまった(笑)
書籍の応募は、本当によく当たる。 何冊目かな。 
引き寄せの法則にかなった心で、応募してるんだろうね。

二冊とも、私と誕生日が近い、名監督。クライフと、今を時めくシメオネ監督。

サッカーのお話、っていうよりも、
シンプルな人生のやり方、
そういうことを学ぶ感じで読めます。


サッカーという種目は、判断に迷っている時間がない。
この2冊に共通するのは、パッパッパッ、と大胆な決断をし、挫折しても立ち上がる、
自分の人生に真摯に、ダイレクトに、挑んでいる、
自分はこういう考えだ、だからこうする、っていうのがシンプルなんです。
それは、とてもかっこいい人間の姿だ。 


昨日読んでた本の、シメオネ監督は19歳の時に、
南米アルゼンチンから イタリアのリーグへの移籍を、
短時間で自分一人で決めた、という経験があるそうです。
両親はバカンスで、当時電話が通じない所へ行っていて、
誰にも相談できなかった、
結局はそういうことだったらしいが
でもその「決断」の「経験」が、シメオネ監督の今を作る礎の一つとなっている気がします。
家族のきずなが強い南米で、彼にとっては大きいことだったと思う。


日本って、こういう「決断」を、させてくれない社会だなあ、って思うんですよ。
高校とかも、偏差値とかで、先生が勧めてくるでしょ。
就職先も、なんとなくリサーチした場所に、何とか就けた、とか。
結婚すら、なんとなくするひともいる。
レストランではセットメニュー。とか。

これらのすべてが、なんとなく、されていることに、
いい場合も悪い場合もあると思うけど、

「流されちゃった」
って思っている人って、多い気がする。
街を歩いてて、そう思うんですよね。選択できない、みたいな。


「決断」、私はしたことが有りますよ。
20歳の時、初めてした。 学校を辞めるとき。

これはもう絶対にしなくてはならない
そんな感じだった。
命かかってるぞ、だった。
当時もういっぱいいっぱいの体調だった。
でも周囲は全員反対。何十人、という人から、連絡が来てごらん?
(あんたにあたしの人生の何が分かるんだ、って思ってた(笑))

それぐらい、不眠とか鬱とかって、理解されない。
ちょっと疲れているだけ、
そんな感覚。周囲のだれもが。今もそうじゃないかなあ。
だから今、若者の死因№1が自殺なんだろうなあ。
簡単に鬱になる環境は、本当にどこにでもあるのにねーー。


そこで「決断」しないで、生きるって、人生変わってただろう。
死んでたかもしれないなあ。

あれは、「私」が、「私」になった日、だったのだ、

そう思う。
そんなことができる機会、っていうのはそうは人生に現れない。



先日、亡くなった友人は、なんか「決断」したことが有っただろうか、
そんなことを昨日ふと考えた。
流されることも悪くはない。
しかし、結局、友人を蝕んでたのは、周囲の意向、とかそういうものだった気がする。

その一番の「周囲」、は、家族、だったが、
その一番大きな家族から、興味深い話を聞いた。


その人は、友人の死因の源流となるような、
流され、
我慢し、
という家庭で育ったそうだが、
職に着くとき、「これだけは」と、「決断」して、実行したそうだ。

その後、年齢で職を辞して、病気を頻発。
自分の人生を支えていた仕事を失った、ということが、起こした病気だろう。
なるほどな病気ばかりだった。
年齢とか疲れとか、病気は関係ない。


サッカーの名監督たちみたいに、
「自分がしたいこと」が明確で、
ずばずばと、「自分のできる範囲」で行っているひとたちは、
こういう病気にはなっている暇がないのです。


「決断」が、いかに大きなものか、
そういうことを物語っているお話だった。


「決断」をする機会、は、ギフト、だと思う。
日々の小さいことから、大きな人生の岐路、まで。

変えられないものを変えよう、ということに執着する人は多いが、
変えられるものを変えようとしない人って多いなあ。

どこまでが神による力で、
どこまでが個人の努力の及ぶ力か、
そういうことだと思うんです。


「決断」、をしてこなかったひとが、「自分ってなんだ」って考える機会が、
「病気」
とかに、なっている気がします。
かなしいことだ。
初めての決断が、「死」だったなんて、酷い話だ。


自分にとって、ポジティブな「決断」を。そう飯田は願います。