晴れ

 先月から読んでいた北杜夫『どくとるマンボウ青春記』を読み終えました。昔、100円で古本屋で買ったものですが、しばらく全く読まれないまま本棚にありました。北杜夫さんに哀悼の意を表し、読むことにしました。

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 旧制松本高等学校入学から東北大学の医学生時代、そして、作家を志すまでの青春記。父である斎藤茂吉の死の報知を受け、東京に戻るところで物語は終了します。

 一番、読者を虜にするのは旧制高等学校時代の文章でしょう。その中でも、生徒や教授の描写はいきいきと描かれています。

 数学の教授として登場するヒルさんは、愛すべき型破りな人物です。通常、旧制高等学校は戦後の学制改革によって新制大学の教養学部や文理学部の母体となり、旧制高等学校の教授の多くはそのまま新制大学の教授となることが普通でした。旧制松本高等学校に赴任した当時、ヒルさんは全国の高等学校で一番若い教師でした。ヒルさんにも信州大学の教授のポストが用意されていたはずですが、それを断って教えることに情熱が抱けそうな小学校の代用教員となったのです。

 ヒルさんに人間的な魅力を感じました。

 以下は平成11年2月17日(水)の朝日新聞夕刊「にゅうす らうんじ惜別」より

「自由を愛したヒル公」

 「バッキャロー」が口癖だった。ベランメエ調の数学教授。拘束の少ない旧制高校を心から愛し、生徒から「ヒル公」のあだなで慕われた。
 長野県松本市の旧制高校記念館に、当時の授業風景をパネルなどで伝える「ヒル公」のコーナーがある。「どくとるマンボウ青春記」にもこの名前で登場した、作者で松高OBの北杜夫さんは「松高で最も愉快な名物教授でした」と懐かしむ。
 東京生まれ。東京帝国大学理学部を卒業し、1926年、松高に赴任した。身なりが汚く、物売りと間違えられて追い払われる初日だった。
 落第点を付けなかった。名前を書いただけで50点。「君たちのような有能な人材を落第させるわけにはいかない」という理由だ。
 陸上競技部の部長だった。荒縄を帯び代わりにした着流し姿で、寮歌を高らかに歌いながら部員を引き連れて街を練り歩いた。遠征先の旅館では裸踊りをして部員と騒いだ。陸上競技のスタートピストルを手に、明け方、熟睡している部員を起こしたことも。
 戦後、6334制の施行で松高が信州大学になると、「自由に振る舞えない」と教授のいすをあっさり捨てた。
 「無垢な連中を育てる方が性に合う」と、50年、松本市郊外の小学校の代用教員に。そこでも教科書や指導要領をそっちのけにし、校長と折り合わず。4年でやめた。
 54年、知人の紹介で名古屋市近郊の愛知学院大学へ。陸上競技部を創設して、25年近く、監督、部長を務めた。
 「青春のもやもやなんて、グラウンドでヘトヘトになるまで汗を流せば吹き飛んでしまう」が持論だった。
 寂しい顔をすることもあった。「優ばかりほしがる学生が多い。旧制高校生は点数なんて気にしなかった」
 青春時代をおう歌する「寮歌祭」がどこかで開かれると、必ず顔を出した。80歳を超えてからも100m走で20秒を切れるのが自慢だった。
 3年前、教え子らが発起人になって妻久子さん(91)の米寿の記念式を開いたとき、約100人が集まった。出席できない断りのはがきも800通。いかに慕われていたかをうかがわせた。
 生前、「おれの死んだ顔なんか見なくていい」と口にした。葬儀・告別式は開かず、1月31日、肉親らだけで密葬を営んだ。形式主義が大嫌い。墓もなく、戒名もない。自宅の祭壇には松高の制帽だけが置いてある。
(社会部・小泉 信一)