火薬の匂い。それは子供の頃に胸を躍らせた夏の匂いだ。

 ――雨上がり。

 夜はオタマジャクシが孵化するより早くやってくる。気がつけば目じりに刻まれていく皺のように、ただその繰り返し。生きてきた中で今目の前のことを一生忘れないと幾度となく誓ってきたはずなのに、時間が経てばあっという間に忘れてしまい、そうしていつだって目を開けると夜なのだ。

 時間は薬であり毒なのかもしれない。先日、職場の年下の女性に、頭がキラキラしていますよ、と笑いながら言われたのである。……太陽の下では白髪が目立つのだ。

 ――今は夜。目の前にきみがいる。

 彼女はシングルマザーだった。それでもぼくは彼女を心から愛した。その娘も、もちろんできる限りの博愛精神で。

 公園。ぼくは手に花火を持っている。彼女も持っている。娘だって持っている。誰かが先に火をつけた。周囲の闇を切り裂くような尖った光が目に刺さる。火事場のような煙が最愛の二人を隠していく。火薬の弾ける科学的な音が断続的に聞こえる。あっ。

 ――蚊だ。

 ぼくは慌てて持っていた花火に火をつけて、ニルヴァーナの「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」の和訳すると「蚊」が出てくるサビの部分まで一気に歌い出す。公園の遊具に反響する酒焼けした汚いシャウト。彼女の持っている花火が消えた。続いて娘のも。

 娘は小学三年生。離婚を経験しているせいか、大人より大人っぽく、ぼくはそんな娘をよくからかって遊んでいる。

「ねえ、お姫様抱っこして」

 日に日に重たくなっていく娘を抱き上げて、ぼくはその体重に人生の確かな手応えを感じていた。

 娘は常に成長している。

「きっときみは今目の前のことを当たり前だけど一生忘れないと思っている。そうだろう? ただ、覚えておいて欲しいんだ。きみはおそらく大人になるにつれて子供の頃の記憶を失くしていく。もしかしたら今目の間に広がっているこの光景を、今自分が絶対に忘れないと思って生きている目の前の景色をすっかりと忘れてしまうかもしれないんだ。現にきみは赤ん坊のときのママとのやりとりを忘れている。先日、まだ赤ちゃんだった頃のきみとママが一緒に歌を歌っている動画を見せたときに、きみは不思議な顔をしていたね。自分自身なのに、記憶のない自分が歌っている。……きみはきっといつか今日の日のことも忘れるかもしれない。ただ、忘れないこともある。それは分からないけど、ぼくたちだって同じだった。子供の頃、絶対に忘れてやるもんかと思った記憶ほど、不思議ともうこの世には存在していない。そして気がついたら、もう髪の毛は真っ白さ」

 娘は二本目の花火に火をつけた。彼女も同時に火をつけた。

 ぼくはそれを黙って眺めている。

 昔の映画のように光の粒が高速で生まれて死んでいった。

 ああ、そうか、もしかしたらぼくたちは常に死に続けているかもしれない。

 そう思った瞬間、彼女がなにを思ったのかまだ火のついている花火をむしゃむしゃと食べ出したのだ。

 それを見ていた娘も真似をする。

 二人の口の中が光っている。まるで美しい夢のようだ。

 夜。見上げると星が瞬いている。

 光が消えた。

 ――蛙の鳴き声。

 花火は後始末が大切なんだ、とぼくは二人に言う。二人の顔はもう見えない。

 帰り道、ぼくは先程の二人の顔を思い出す。

 顔の内側から光という光が溢れていた。口はもちろん、鼻からも、目からも。きっと耳からも出ていたに違いない。科学的な音は二人の脳にどう響いていたのだろうか。なぜ二人は花火を食べるということを知っていたのだろうか。ああ、夜が更けていく。

 ぼくは決めた。今度はぼくも食べよう。線香花火みたいな優しい花火ではなく、音も光も強烈なやつだ。

 ふふ、野鳥が鳴いているぞ。ぼくは布団の中で寝返りを打って、口を開けて眠っている娘と彼女を交互に眺めて、また目を閉じた。

 脳裏に浮かぶ花火の色とりどりな閃光を思い浮かべながら。

 

 

 


 

 

 

※2021年6月の作品です。

 

 

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

これからもよろしくお願いします。

 

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