写真で見ると何故か幸せそうに見える不思議。

その場に居ると特に何にも楽しくもない、何なら過酷な状況に居ても何故か写真は幸せそうに見えます。

私が撮った写真は楽しくても全く楽しそうにも幸せそうに見えませんが、そちらも不思議です。

他人は、見えているものだけで判断しがちなので、写真の中の人を幸せだと思い込みます。

「私は幸せじゃないわ」と嫌なことを思います。

その思い込みが不幸せの原因です。

他人は苦労なく、自分は苦労をしていると思う人ばかりでしたが、どうしてそんな風に決めつけてしまうのでしょうか?

私は何も言いませんでしたが、嫌なことを沢山言われてきました。

今もずっとそうですが、それが不思議です。

相手のことを知ろうとしないと何にも分かりません。

分からないことを決めつけたりはしません。

他人は幸せで自分は不幸せと思うのはどうしてでしょうか?

他人の痛みは分からないと言うのと同じ理屈です。

私は分かりますが、他人は分からないと言います。

言い換えると他人のことはどうでもいいと言っています。

自分にしか興味がないので、自分の感情にばかり囚われて不幸せを自ら作り出してしまいます。

どんどん内面も外見も醜くなっていきます。

自分を大切にしないので、病気になったり、他人に興味がないので、病気の知識や健康が何かが分からないのです。

感情をコントロールすることも出来ないので、常に嫌なことを言い感情的になります。

そんな人ばかりでしたが、ある幸せには気づけないので、ないものばかりを求めて現実を見ることが出来ません。

私にはないものばかりみんな持っていますが、要らないと言いました。

子供も「いる?」と聞かれましたが、私の子供ではないので貰いませんが、要る要らないの話ではありません。

女の子がいいだの男の子がいいだのと自分勝手なことを言う人ばかりでしたが、理想や希望はあっても健康なら自然でいいと思います。

健康ならというのは、子供が健康であることを願うという意味です。

色んな人を見ていて理想ばかりよりもちゃんと大人として物事を理解出来ている人が素敵だと思いました。

大人になれない失礼な人や身勝手な人は受け入れがたいです。

そういう人を沢山見てしまいましたが、どうして人は身勝手になるのでしょうね…

身勝手過ぎて言っていることがみんな辻褄が合っていません。

自分に都合の良い人だけを探し、如何に他者の悪口を言うかのみです。

一生それが続くのがどうしたものかと思います。

「よく飽きないね…」と思います。

頭を打ってもより酷くなるばかりです。

答えを伝えても一人も一切聞きません。

人を馬鹿にしますが、自分が無知だとは気づきません。

病気の苦しみが分からないと言うのは、無知だからです。

普通に分かります。

自分は関係ありません。

その人の苦しみです。

難しいのは、苦しみを隠す人と正確に伝えない人です。

「ちゃんと言わないと伝わらないよ」と伝えていますが、今一伝わっている気配がありません。

痛い時は我慢ではなく、ちゃんと「痛い」と言うのです。

以前、癌のCMで「痛い」と言うCMがありましたね…

微かに思い出しました。

言っても理解されないからみんな言わなくなったり、我慢する美学や美徳で我慢しがちですが、痛みは危険を知らせてくれる大切なサインなので、ちゃんと伝えることが大切です。

人の痛みが分からない人は馬鹿なので放っておけばいいです。

本当に分からない場合は仕方がないですが、大抵は自分のことしか考えられない思いやりに欠ける人です。

医師も他人の痛みは知らん顔をして自分の痛みには慌てます。

それを家族は冷めた目で見ているようですが、そういうことです。

一生、私の痛みや苦しみは理解されることはありませんが、私が光る石を持っていると人は嫌がらせをしたり、奪い取ろうとすることは分かります。

「どんなん…」と思いますが、人に道徳心を求めることは不毛だと思います。

想像するだけでも「嫌だわ」と嫌悪感とストレスでしかありません。

自分の人生を歩むことしかありませんが、何をしても悪口を言われるのなら同じことなので、自分の好きなことをするのがいいです。

綺麗なものをずっと見ていたいですが、何が綺麗と感じるかはその人次第です。