今も昔も変わらず、地理情報は重大な国家機密です。古代中国では、自国の地図を相手国に渡すことは降伏とみなされました。いつでも攻めてきて下さい、というメッセージになります
日本書紀に、百済は道を偽るので信用ならない、という記事があります(推古31年)。この時、百済は大和朝廷に救援を求めてきたのですが、友好国の間ですら地理情報を隠そうとしました
この件に関して、百済が特に不誠実だったとは思えません。外交とは、騙し騙されの駆け引きでしょう
百済の詐術は大和朝廷に見破られましたが、地理情報の幻惑がはまったのが魏志倭人伝です。倭人の対中謀略がキマり過ぎて、1800年後の現在でも邪馬台国の位置が同定できない、という事態が続いています
邪馬台国への道のりを復元する旅を続けましょう
北部九州から瀬戸内海を東進してきます。鳴門海峡を迂回して淡路島を一周後、再び鳴門海峡の南側を通り過ぎれば四国の太平洋岸に出ます
徳島市街地付近の景観は瀬戸内側とほとんど変わりませんでした。南国らしくなるのは、四国東南端の蒲生田(かもだ)岬からです
7/18 蒲生田岬灯台
灯台からのパノラマ。真ん中は伊島(いしま)。その左手(北側)に淡路島、中央から右手(南側)に紀伊半島が遠く見えます
灯台から南西を向くと、阿南海岸の断崖絶壁が始まります
この岬から何が変わるかというと…
海は、外洋の水平線の伸びやかさ
陸は、近づくのが困難な荒々しい海岸線
そして最も南国感を醸し出すのが植生です
蒲生田岬までは瀬戸内側と同じ植物相でした。紀伊水道に突き出したこの岬から南西は、黒潮植生と呼ぶのか、照葉樹にびっしり覆われるようになります
スダジイやウバメガシが主体とのこと。下草としてシダが目立ちます。タケがほとんど生えてないのが気になりました
魏志倭人伝にはシイやカシ、クスノキなど20種弱の植物の記載があります。西暦3世紀の気候は今より寒冷で、富士山の冠雪は夏でも溶けず万年雪だったといいます。しかし、この植生は黒潮が流れている限り、当時も変わらなかったと思います
現在、蒲生田岬と同じ植生を関東の三浦半島や房総半島の先端部でも見ることができます。気温や緯度よりも潮流の影響が強いのでしょう
古代人は、現代人よりずっと鋭敏に自然観察していました。魏志倭人伝では2種のクスノキと3種のタケが報告されていますが、私には木々を見分ける知識がなく、それらの違いがわかりません
もし1800年前に魏使がここを通過していたら、植生の変化に気づかないはずがありません。もっとも、北国出身の魏使が初めて目にする植生で、木々の名前を言い当てられなかった可能性もあります
蒲生田岬から室戸岬までずっと断崖が続きます。人が住める平地がほとんどありません
チャリで日本縦断をしたことがある私も阿南・室戸海岸は初訪問でした
5/1 南阿波サンライン
5/1 室戸岬
室戸岬の近くにある洞窟
のちの弘法大師がこの洞窟に籠り、空と海しか見えないので空海と名乗った、と言われます
室戸岬の上にある最御崎寺(ほつみさきじ)
明星院って書いてありますね…
弘法大師 空海も明星(=金星)と関係あるんですか?