富士の写真館さんより↓
聖徳太子の謎
そう言えば、新潟の旅行記がまだ終わっていない事に、今更ながら氣づいたのですが、先にこちらの方をご報告しておきます。
11月12日に奈良の法隆寺に行って来ました。
夢殿にある救世(ぐぜ)観音菩薩像が秋の特別開扉中で私が観に行けるのはその日しかなかったのでした。
9月に『廣瀬大社』『龍田大社』を参拝した時に、近くに『法隆寺』がある事が分かり、その頃からいつか救世観音菩薩を拝みたいと意識していました。
ようやくその日。。
五重塔と金堂が見えて来ました。
私の目的は、救世観音菩薩なので金堂前を素通りし、夢殿に直行です!
日本史上、トップクラスの歴史上の人物であったはずの聖徳太子。
過去には7回もお札の顔になっているくらいなのに、最近では「聖徳太子は実在しなかった」という説まで出て、あの有名な姿は聖徳太子ではないとされ、今では教科書にも載らなくなっているとか。
聖徳太子は、推古天皇の摂政として仏教普及に力をそそぐ一方、『冠位十二階』や『十七条憲法』を制定したことで有名です。
しかし、用明天皇の皇子でありながら、何故、推古天皇に皇位を譲ったのかなど、聖徳太子にはいくつもの大きな謎があるのです。
秦河勝は、主に聖徳太子の側近として太子を支えていたとされています。
厩戸王 (うまやどおう) の名とその出生の秘密には、イエス・キリストの物語が彷彿とされます。
このあたりに原始キリスト教徒であった秦氏の関与があり、弥勒菩薩の広隆寺にもその影響が残っています。
また、『日本書紀』の記録によると、皇極天皇2年11月、蘇我入鹿が斑鳩にいた聖徳太子の長男である山背大兄王一族を襲撃し、一度は背後の生駒山に隠れるものの、山を降り、斑鳩に戻りそこで聖徳太子の一族は滅んでしまったとあります。
この出来事は、上宮王家滅亡事件と呼ばれ、飛鳥時代の熾烈な皇位継承争いの一つ出来事であり、今後に起こる大化改新と呼ばれる国政改革のターニングポイントとして語られています。
救世観音菩薩は、聖徳太子の霊を祀るために制作された、あるいは聖徳太子自身の像であると言われています。
聖徳太子の等身像(180cm)と伝えられる救世観音像は、行信が夢殿建立のときに本尊として迎えた霊像だと言う事です。
本尊として新しく彫像したのではなく、行信僧都が聖徳太子ゆかりの寺院から譲り受けて安置したとされています。
救世観音菩薩は、東院伽藍の中心に立つ夢殿に安置されていました↓
めっちゃ並んでいるかと思いきや、全然行列が出来ていなくて、楽勝で見られました。
ネットより画像をお借りしています↓
アルカイックスマイルを浮かべています↓
楠の一木造りで漆箔が施され、金銅仏と見まがうような輝きをみせています。
実は、739(天平11)年に八角堂の夢殿に納められた救世観音(造仏推定年代は629-654年)は、長い間、誰もその姿を見ることを許されない秘仏だったのです!
737(天平9)年、都で天然痘が流行し、藤原氏など政治の中枢にいた人物が相次いで亡くなりました。
これを聖徳太子の怨霊の仕業だと考えた人々は、太子が亡くなってから100年以上を経てから、夢殿を建てて太子の供養をしたのではないかと言われています。
このように聖徳太子の怨霊説が広まったため、救世観音の「封印」を解くと聖徳太子の怒りに触れ、天罰があると信じられ、明治時代までは、法隆寺の僧侶さえ目にすることが出来なかったのです。
明治に入り廃仏毀釈嵐が日本中を吹き荒れ、数多くの貴重な仏像や仏教建築が灰となっていきました。
その頃、東京大学に御雇外国人として来日していたアーネスト・フェノロサは、明治政府のもと文化財の調査をおこなっていました。
日本の文化財保護はここから始まることとなります。
明治17年(1884年)に法隆寺を訪れたフェロノサは、祟りを恐れ嫌がる法隆寺の僧侶たちに説得に説得を重ね、ようやく救世観音の封印を解くことに成功します。
明治時代にフェノロサたちが訪れるまで、厳重な封印を施され数百年間、誰も見たことがなかった秘仏中の秘仏。。
幸いなことに、フェノロサによって発見されるまで、像が麻布や和紙でグルグル巻きに包まれていたおかげで、救世観音の保存状況は極めて良好でありました!
救世観音像は、なんと、長さ450メートルもの長い麻布でグルグル巻きにして保存されていたとの事です。
よっぽど、祟りが怖かったのですね。
聖徳太子の等身大の救世観音菩薩像が、当時珍しい180cmもの長身であった事から、聖徳太子はペルシャ人であったともされています。
聖徳太子が謎である上に、法隆寺自体にも色々な謎があるようです。
五重塔の上にある相輪には、
4本の鎌が備えつけられており、日本じゅうをみても他に例がないそうです。
鎌があるのが、遠くからでも見えます↓
何なんでしょうね。
聖徳太子の謎をYouTubeで調べると、色々出て来ますので、みなさんもチェックしてみて下さいね!
教科書でも習わなかった歴史の謎は面白いです。
そして「次に何処行こう?」と考え、修学旅行?以来の「東大寺の大仏でも観に行こうか?」となり、そちらへと車を走らせていました。
すると目の前に『薬師寺』と言う看板が現れたのです。
11日は彫刻家の薬師寺一彦さんの個展に行って、13日にも画廊に行くから、12日も薬師寺に行ったら、3日間、薬師寺三昧になるぅ💕
って事で、東大寺はやめて、急きょ進路変更です😆
薬師寺↓
薬師寺には、東塔と西塔があります。
創建時の白鳳時代の建物として残っているのは東塔だけだそうです。
薬師寺の東塔は『法隆寺』『法起寺』に次ぐ、3番目に古い貴重な古代建築なのだそうです。
せっかくなので、両方の塔の中に入ってみました。
まずは、東塔から↓
塔の中は、お釈迦様のブロンズ像の展示がされてありました。
東塔から西塔をのぞむ↓
西塔↓
西塔から東塔をのぞむ↓
ひょっこり班↓
薬師寺には白鳳時代に作られた仏像もあり、奈良時代よりも古い、古代日本の美を鑑賞できます。
金堂↓
薬師寺は680年に天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病氣平癒を願って発願したお寺で、本尊はお寺の名前のとおり薬師如来(医薬の仏様)となっています。
パンフレットより↓
薬師三尊像、遠くから撮れちゃった😀
薬師如来像↓
薬師如来像の両脇に日光菩薩像と月光菩薩像がいらっしゃいます。
日光菩薩像↓
月光菩薩像↓
日光・月光。。日月さまだぁ🩷
東塔・金堂・西塔↓