今日はエイプリルフールだけど、このマクモニーグルの遠隔透視の結果は、信じるも信じないもあなた次第ってことで。。
でも、かなり当たってる氣がします。
⚫︎前回の復習から⬇︎
宿敵、卑弥弓呼率いる「狗奴国(くなこく)」との戦いのさなか、卑弥呼は崩御しました。
寒い冬のある日、肺炎を悪化させたのです。
卑弥呼が崩御した場所は山口県下関市にある豊田湖湖畔の「冬の居城」。
卑弥呼のお墓は「冬の居城」の横に作られました。
それがココ⬇︎
マクモニーグルが「卑弥呼の墓」として遠隔透視した場所は、何と!「安徳天皇西市御陵墓参考地」とされる場所だったのです。
前方後円墳の向きこそ違いますが、マクモニーグルの書いた地図の正確さに驚かされます。
壇ノ浦の戦いで源氏に敗れた平氏軍は壊滅状態になり、敗北を悟った平氏一門は次々と海上へ身を投じたと言います。
そして、神璽と宝剣を身につけた祖母・二位尼(平時子)に抱き上げられた8歳の安徳天皇が「どこへ行くのか」と仰ぎ見れば、二位尼は「弥陀の浄土へ参りましょう。波の下にも都がございます」と答えて、安徳天皇とともに海に身を投じたと伝えられています。
安徳天皇にまつわる伝説は多く、生き延びたという説もある中、現在、安徳天皇の陵墓は、壇ノ浦の下関側、「赤間神宮」にある「阿弥陀寺御陵」が正式な場所とされています。
なので、この「西市御陵墓」は文字通り参考地ということになり、宮内庁によって厳重に管理されています。
このような安徳天皇陵墓参考地は、10箇所以上もあるそうです。
しかし、マクモニーグルによって透視された墓の形状は「前方後円墳」であるので、安徳天皇は平安時代の天皇であり古墳が造られることはありえないのです。
「古刀出土の地」などの伝説もあり、それっぽく演出されているような氣もします。
卑弥呼の墓と一緒に安徳天皇も埋葬されているのかも知れませんが、マクモニーグルは一人だけと透視しています。
せつ子さんご夫婦と三者三様で卑弥呼の御魂にお祈りいたしました。
正面に見えるのが、卑弥呼の「冬の居城」のあった下褄山です。
これまで、人々にずっと安徳天皇のお墓と思われ、人知れずひっそりと眠っていた卑弥呼。
マクモニーグルによって、ようやく卑弥呼のお墓だと認められるようになり、卑弥呼は喜んでいるのでしょうか。
帰ろうとした時、階段にだけ陽の光が射し込んで来ました。
それはまるで、卑弥呼=アマテラスの降臨のように美しかったです。
マクモニーグルによると、卑弥呼は死後、神様のような扱い、つまり、太陽神・天照大神として崇拝されるようになっていったと言います。
247年と248年に、日本列島で日食が見られており、卑弥呼は日食があった時期に亡くなったと言われています。
卑弥呼が天照大神であるならば、まさに古墳と言う天岩屋に隠れたわけです。
古墳を下褄山側から見たところ⬇︎
しかし、天岩屋から出てきた天照大神は卑弥呼ではなく、台与(とよ)でした。
卑弥呼が亡くなった後、倭国は乱れ、邪馬台国に男王が立つも、民衆が望んだのは、神秘的な力を持つ霊能者であり巫女でした。
そして、卑弥呼と同じ一族で、霊感の鋭いシャーマンだった台与が女王として推戴され邪馬台国の女王が復活したのでした。
しかし、台与の権威は名目だけ、連合は、すでに崩壊を始めていたと言います。
隙を見計らうように、卑弥呼の宿敵、「狗奴国」が邪馬台国連合内に進出を始め、また、九州では、新しい渡来系の一派が勢力を拡大し始めたそうです。
大陸から「騎馬遊牧民族」の流れをくむ一派が長崎に上陸して来たのです。
この一派は戦闘兵器として使う術を心得ており、こうした新勢力の拡大の下、やがて、新しい秩序が形作られて行きました。
そして、邪馬台国連合は、日本最初の統一国家ヤマト王権へと変貌を遂げるのです。
こうして卑弥呼の出身部族「ヤマト」の名前は統一国家へと受け継がれていき、伝説となった卑弥呼は太陽の女神・天照大神として伊勢神宮に祀られる事になるのです。
「卑弥呼」と言う漢字は、中国人が勝手に当てたものであり、日本人を侮辱した意味も含まれています。
なので、「卑弥呼」をヤマト言葉にすれば「日巫女」となるのだと思われます。
その為「卑弥呼」は名前ではなく、役職名だとも言われる所以です。
籠神社の極秘伝によると「海部氏勘注系図」に登場する二人の日女命(ひめみこと)はそれぞれ卑弥呼と台与だと言う事です。
⚫︎卑弥呼→天照大神
⚫︎台与→豊受姫命
本来「邪馬台国」という国は日本にはないのです。
邪馬台国と言う漢字表記は古代中国人によるもので、台与の「台」を「と」と読む事からも分かるように、「やまと国」を邪馬台国と表したのでしょう。
マグモニーグルも「ヤマト」は国家の名称であるとともに、邪馬台国及び卑弥呼の出身部族の名前であると透視しています。
「日本書紀」によれば、国名をヤマトと命名したのは、九州から天磐船に乗って畿内へと降臨したニギハヤヒと言う事になっています。
ヘブライ語で「ヤマト」は「神の民」と言う意味です。
邪馬台国に先立って、畿内に物部氏がやってきて、三輪山のふもとに広がる盆地をヤマトと名付けたそうです。
後に倭国の連合が成立すると、都のあるクニをヤマトにちなんで「大和」とし、これが大和朝廷へと引き継がれていくのです。
ニギハヤヒがヤマトと命名したのは、かつて住んでいた北九州にヤマトと言う地名があったからで、調べてみると、九州にはヤマトと言う地名がいくつもあるそうです。
マクモニーグルの透視によると、大和の馬見丘陵公園にある「巣山古墳」は、台与の陵墓の可能性が高いとの事です。
そして、箸墓古墳は卑弥呼の時代よりも更に遡り、西暦180〜190年のもので、5人の男性が埋葬されていると透視されています。
だけど、これだけの規模の古墳となれば、よほどの権力を持った人物が眠っているんだと思われます。
それが、卑弥呼ではないとするならば、私には一人しか思い浮かびません。
箸墓古墳を卑弥呼の墓と言う事にしておき、歴史から抹消しておかなければならない人物。。
それは、ニギハヤヒ!?
私のインスピレーション、当たっているかマクモニーグルさんに聞きたいです(笑)
今回の卑弥呼に関する考察、なかなか濃いものでした。
でも、他の場所にも行ったんです。
それは、また後日に。
続く。。