失われた超古代都市「富士王朝」の謎 | misaのブログ

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さて、ようやく「宮下文書」の内容に入って行きます。

「宮下文書」は、大きく分けて3つから成り立っています。

① 日本開びゃくから神々の時代を経て、第12代景行天皇に至るまでの古代日本史。

② 富士山の麓に栄えた高天原と、かつてそこにあった天皇の住む都・家基津のこと。

③ 歴代の宮下家大宮司たちが書き残した日記類「寒用日記」。

この膨大な古文書を一冊にまとめたダイジェスト版「神皇紀」が、初めて世に出たのは大正10年(1911)の事でした。

「宮下文書」の最大の特徴は、登場する神々は、神話的な存在ではなく、全て実在の人物として描かれている点です。

さて、はるか昔、天地開びゃくの時まで話は遡ります。

原初の神々は、まず蓬莱山上に噴火と共に出現し、世界に散っていったと言います。

中国に降臨し、そこに住み着いた神々の子孫に、農作比古神(高皇産霊神タカミムスビノカミ)がいました。

この神は別名「神農」といい、古代中国の伝説的皇帝でもあり、現在でも中国人の間では農業・医薬の神として信仰されています。

「神農」は、そこから東海のはるか彼方に、世にも美しい形をした「蓬莱山」があると耳にし、まず、御子である「国常立尊」にその地を捜し出すよう言いました。

ところが、いつまで待っても息子は帰って来ません。

それもそのはず、彼は日本列島にたどり着き、そこを気に入り、現在の淡路島に定住してしまっていました。

そうとは知らぬ「神農」は、もう一人の息子「国狭槌尊」を連れて、自ら日本列島を目指すことにしたのです。

それは、眷属700人を従える大船団でした。

「神農」は、朝鮮半島を経由すると、まず対馬に、そして佐渡島・能登半島に上陸しました。

そこから陸路で飛騨山中に至った時に、はるか遠くに美しくそびえる蓬莱山を発見したのです。

彼らはその位置を確認すると、再び船を出し、北九州から瀬戸内海、紀伊半島を回り駿河湾にたどり着いたのでした。

(飛騨から陸路で行った方が早かったんじゃね?(笑))

そして蓬莱山、すなわち富士山に到着した「神農」は、その北麓を都と定め、「家基津(かきつ)」と命名したのです。

その富士山北東あたりを、「阿祖谷」または「阿祖原」と呼び「高天原」として「富士王朝」を築いていくのです。

だいぶ経ってから兄の「国常立尊」も富士山を捜し当て弟たちと再会するも、父の「神農」は既に亡くなっていたそうです。

その後ふたりは、富士高天原の「阿祖谷」の都を中心に、日本を平定・統治していきます。

やがて、「国常立尊」の娘・イザナミノミコトと、「国狭槌尊」の息子・イザナギノミコトは夫婦となります。

この夫婦の間に生まれたのが「天照大御神」です。

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両親の没後、天照大御神は阿祖谷に壮大な神殿を造営し、これを「阿祖山太神宮(あそやまだいじんぐう)」と名づけました。

ここが日本最古の神社となり、即位式を行う時は、必ず「阿祖山太神宮」の主祭殿で挙げるよう定められたのです。

また、諸国の賊を平らげたスサノオノミコトから、剣・鏡・宝珠の「三品の大御宝」を献じられた天照大御神は、これを箱に納めて「阿祖山太神宮」の神殿に奉りました。

以後、「天つ日嗣」の大御位に就く際には、神殿においてこの「三品の大御宝」を拝し、捧げ持つことを典礼として定めたのです。

この「三品の大御宝」が後の「三種の神器」に当たるのは間違いありません。

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天照大御神の没後、中国の大軍が度々九州に攻めてくるようになりました。

その為、4代のウガヤフキアエズの時代に、富士王朝の都を九州の高千穂に遷すことになりました。

これにより、九州の新都のことを「神都」、富士山麓高天原の旧都のことを「天都」と呼ぶようになります。

この時代から「宮下文書」では、大御位に就いた神は「神皇」とされ、神武天皇以降の「人皇」と区別しています。

そして、前述したように「ウガヤフキアエズ王朝」は長期にわたり繁栄するのですが、それでも「神皇」の即位式の際には、伝統に従い、「阿祖山太神宮」の祭壇の前で行われました。

しかし、政治の中心は高千穂に移った為、いつの頃からか、次第に富士高天原からは活気が失われて行ったのです。

そして、ついに第51代ウガヤフキアエズの時、大規模な反乱が起き、本州各地はたちまち反乱軍に占領されてしまったのです。

そこで、「神皇」は皇子らと共に九州から討伐に向かうのですが、伊勢の地で病死。

代わりに皇子の「佐野王命」がその窮地を救い、賊軍を討ち滅ぼします。

勝利を収めた「佐野王命」は、大和の橿原に宮を築き、天皇に即位しました。

これが「神武天皇」なのです。

初代「神武天皇」から第7代「孝霊天皇」まで、富士高天原から神使を招いて即位式が行われるようになりました。

しかし以後、その慣例もなくなり、富士高天原は急速に寂れていくのでした。

そしてついに、第10代「崇神天皇」の時代には、「阿祖山太神宮」に納められていた「三品の大御宝」も大和に渡され、富士高天原は完全に権威を喪失してしまうのでした。

さらにとどめを刺したのは、平安時代初めの延暦19年(800)に起きた富士山大噴火でした。

一週間も続いた大噴火の噴石と溶岩流や火山灰によって、「阿祖山太神宮」は跡形もなく消滅してしまいました。

こうして、富士北麓に栄えた超古代王朝の痕跡は、完全に地上から抹消されてしまったのです。

一方、富士山の大噴火後、「阿祖山太神宮」の神霊を勧請して建立されたのが現在の「富士山本宮浅間大社」なのです。

以後、「阿祖山太神宮」と入れ替わるようにして隆盛していきます。

つまり、富士山を神として祀る全国の浅間神社のルーツは「阿祖山太神宮」だったのです。

さらに興味深いことが「宮下文書」には書かれています。

「宮下文書」をまとめたのは、前述したように徐福なのですが、徐福は「神農」の末裔だというのです。

そしてまた「神農」の父親は、あの「伏羲(ふっき)」である、と。

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「伏羲」は、創生神話において、人類の始祖とされ伝説上の帝王のような存在です。

その息子である「神農」やその末裔の「徐福」が相次ぎ日本の富士山の麓にやって来た事は、守るべき大きな歴史だと感じます。

また、飛鳥昭雄さんによると、徐福は物部氏の祖ニギハヤヒ命であると言うのです。

そして、徐福の子孫は秦氏ではなく、秦氏が国譲りを受ける前の物部氏であり、徐福の集団こそが物部氏だったと。

秦の始皇帝も徐福も漢民族ではなく、ともにユダヤで預言を信じる同族だった可能性が出てきているそうです。

何だか本当にすごいお話です。

これらが真実の日本の歴史だったとするならば、このまま溶岩の下に眠らせておくのはもったいない事です。

そして、「不二阿祖山太神宮」を復興させる事こそが、国常立尊をはじめ、ニギハヤヒや様々な神々の復活に繋がります。

富士山を中心とした日本や世界の平和の為に、これまで隠されてきた神々を敬う気持ちが重要だと感じます。

また、飛鳥さんによると、この富士王朝の存在は、卑弥呼子の墓の可能性のある沼津の「高尾山古墳」とも関係してくるとの事。

何故か私は、飛鳥さんをはじめ、これらにどっぷり関わっているのが不思議です。

なので、次回それについて少し書いておこうと思います。

続きます。。