金子みすずさんのドラマ見ちゃった | misaのブログ

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遊びに来てくださって ありがとうございます!

本当は見るつもりはなかったんだけど、両親がそれぞれの部屋で見ていたので、どれどれと私も自室でつけて見てみたら、とうとう最後までやめられなくなってしまいました。

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http://mainichi.jp/mantan/news/20120709dyo00m200037000c.html

(おいおい、一家で同じ番組を3人別々で見てたんかい。)

やっばー、今日の記事、なあ~んにも用意してません(汗)

てことで今夜は、金子みすずさんのご紹介をしておこうと思います。

私の本名をご存じの方は分かるでしょうが、とっても親近感のあるお名前なんですよね。

でも、これまで彼女の事、何にも知りませんでした。

今日のTBSのドラマを見てからWikipediaを見てみたら、ドラマ通りの事が書かれてました。

本当にこんな大変な人生だったのですね。

Wikipediaから転載します。

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金子 みすゞ(1903年4月11日 ~ 1930年3月10日)

大正時代末期から昭和時代初期にかけて活躍した童謡詩人。本名、金子テル(かねこ テル)。

大正末期から昭和初期にかけて、26歳の若さでこの世を去るまでに512編もの詩を綴ったとされる。

1923年(大正12年)9月に『童話』『婦人倶楽部』『婦人画報』『金の星』の4誌に一斉に詩が掲載され、西條八十からは若き童謡詩人の中の巨星と賞賛された。

山口県大津郡仙崎村(現・長門市仙崎)出身。

郡立大津高等女学校(現・山口県立大津緑洋高等学校)卒業。

父・庄之助は、妻(みすゞの母)の妹の嫁ぎ先である下関の書店・上山文英堂の清国営口支店長だったが、1906年(明治39年)2月10日、みすゞが3歳のときに清国で不慮の死をとげる。

劇団若草の創始者である上山雅輔(本名:上山正祐)は彼女の実弟であるが、幼くして母の妹(みすゞにとっては叔母)の嫁ぎ先である上山家に養子に出されている。

叔母の死後、雅輔の養父・上山松蔵とみすゞの母が再婚したため、みすゞも下関に移り住む。

同時に、みすゞと雅輔は実の姉弟でありつつ、義理の姉弟の関係となる。

1926年(大正15年)、叔父松蔵の経営する上山文英堂の番頭格の男性・宮本啓喜と結婚し、娘を1人もうける。

しかし、夫は正祐との不仲から、次第に叔父に冷遇されるようになり、女性問題を原因に上山文英堂を追われることとなる。

みすゞは夫に従ったものの、自暴自棄になった夫の放蕩は収まらず、後ろめたさからかみすゞに詩の投稿、詩人仲間との文通を禁じた。

さらにみすゞに淋病を感染させるなどした事から1930年(昭和5年)2月に正式な離婚が決まった(手続き上は成立していない)。

みすゞは、せめて娘を手元で育てたいと要求し、夫も一度は受け入れたが、すぐに考えを翻し、娘の親権を強硬に要求。

夫への抵抗心から同年3月10日、みすゞは、娘を自分の母に託すことを懇願する遺書を遺し服毒自殺、26年の短い生涯を閉じた。

<転載終わり>

ほのぼのとした詩しか知らなかったので、こんな波乱万丈な人生を送っていたとは驚きました。

ドラマを見て良かったです。

私と小鳥と鈴と

  私が両手をひろげても、
  お空はちっとも飛べないが、
  飛べる小鳥は私のように、
  地面を速く走れない。

  私が体をゆすっても、
  きれいな音はでないけど、
  あの鳴る鈴は私のように、
  たくさんな唄は知らないよ。

  鈴と、小鳥と、それから私、
  みんなちがって、みんないい。


星とたんぽぽ

 青いお空のそこふかく、
 海の小石のそのように
 夜がくるまでしずんでる、
 昼のお星はめにみえぬ。
    見えぬけれどもあるんだよ、
    見えぬものでもあるんだよ。

 ちってすがれたたんぽぽの、
 かわらのすきに、だァまって、
 春のくるまでかくれてる、
 つよいその根はめにみえぬ。
    見えぬけれどもあるんだよ、
    見えぬものでもあるんだよ。


たくさんのあったかい詩を作ってくれてありがとう、みすずさん。