幾星霜遥かのブログ

幾星霜遥かのブログ

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昔、生きる道を求め、統一教会で20年近く活動し、合同結婚式にも参加しましたが、解答を得ることができず、さらに探し続けて生きてきました。気がつくと、もう半世紀の時が過ぎようとしています。今、ふとしたきっかけで、後輩たちの生き様の中に自らの姿、心が映し出され、かつての同輩の子どもたちのうちに、自らの煩悶が一層凝縮されているのを見るようになりました。
そして、この時代に生きるすべての人々が、いずれの道を歩いているとしても、今日では同じ地平に立っており、人類がこれから超えていくべき、逃れられない共通の命題を抱えて、同じ時を刻んでいるように思えてなりません。
私にこれといって、提言も、解答もある訳ではありませんが、神を信じている人も、無神論に生きている人も、自分の言動とその結果については、自分自身が第一の責任者であることを回避する手立ては、もはやどこにもないことは確信できるようになりました。
自分自身の人生を決めるのは、神でもなく、親でもなく、教師でもなく、社会でもない。
自分の主人は自分であり、喜ぶことも、悲しむことも、苦しむことも、幸せであることも、すべての始まりは自分自身であるということが、今の私の立ち位置です。
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◎本日の後記

 

やっと、当初のテーマに戻ってきました。

 

UCの外的側面は目に見えますし、社会的な価値判断もつきやすいため、(元さん、UC外部の人々に限らず)数多くのブログで取り上げられています。しかし、内的側面、特に心に関わることになると、主として言葉を媒介とするブログでは、共通認識を持つことも、共感を得ることも容易ではないためか、テーマとして扱っているブログは多くは見かけません。それに外的なことは、自分を観察者――推理小説では決して犯人ではない、主人公の役割。卑俗な表現で近いのは“岡目八目”――の立場に置くことによって、直接の当事者としての責めを受けることを避けて表現することが可能です。これに対して内的な出来事や思いを伝えるためには自分が当事者であり、経験者であることの表明を避けては不可能です。人間、中身を見せることほど怖いものはありませんから…。

 

ところが、――私の主観ですが――元さんのブログのうち、男性ブログ主のものは外的テーマが多いのに対して、女性ブログ主はご自分の思いについて書かれていることが多いと見受けられます。

 

――ちゃぬさんのブログ「ちゃぬの裏韓国日記」はその資料収集力といい、分析力といい男性を凌ぐものがありますが、それでもただ評論家のように批評されているのではなく、「真実を知りたい(確かブログで述べられていました)」というご自分の思いが貫かれていますし、その記事の端々に気持ちが表わされています――

 

これはどういうことなのでしょう。

一面は、キラリ☆さんのブログが縁で、私もこのアメブロでブログを立ち上げました。そのため女性の元さんのブログに触れる機会が多く、そのような印象を持ったのかも知れません。

そうかも知れませんが、UC信仰は女性の方により深い心の傷を負わせてしまったため、女性の元さんに心をテーマにしたブログが多くなるのではないか、と私には思えるのです。

どうでしょうか。

もちろん政治経済などの外的社会的事象により関心の強い男性一般の傾向と、家庭や生活、子育てに日々時間を取られている女性一般の傾向との違いであるという見方も当然あるでしょうし、単に性差に過ぎないというとらえ方もあるでしょう。

 

まあ、異論、反論いくらでも出て来るでしょうが、ここのところは私の独断ということでスルーをお願いします。

 

いずれにせよ、女性の皆さん、本当に自分の気持ちに素直で率直ですね。

 

私もこれから内的テーマで書き進めるにあたり、良い刺激にさせていただきます。

 

なお、外的活動の記事においては特にブログのタイトルは決めていませんでしたが、これからはテーマ自体が見え辛いものになりますので、何について話しているかできるだけ分かりやすいように、タイトルを付けることにしました。

今回のタイトルは「目覚めの記」としましたが、これはご推察のとおり、キラリ☆さんのブログ「目が覚めたら・・・・」に敬意を表して付けさせていただきました。

 

なんといっても、現役の時からブログを立ち上げ、UCからの「脱」の実況投稿を続け、本当にそれを実行されたのは、驚異でした。だって宣言はしたものの失敗したら大変です。やっぱり「脱」はできませんでした、とは発表できませんしね。実際、多くのブログ主が道半ばでいつの間にか消えて終わっています。

しかし、キラリ☆さんは夫婦揃ってリアルタイムで状況報告をしながらUCを卒業されていかれました。私がブログを拝読したのはもう元さんになられた時期ではありましたが、過去を整理したものではなく、過程の実記であったためとても生々しく、読ませていただいているその時が戦いの真っ最中であるかのように感じていました。だからこそ、共感、共鳴も強かったのだと思います。

そしてまた、現在進行形での実戦記は、「脱」UCの優れたマニュアルにもなっています。

キラリ☆さんには「脱」UCに止まらず、そこからのさらなる「気づき」の道をvividに表現されていかれることを期待しています。

 

私のブログの今後の展開の中で、主として目覚めに至る経緯をお話するときはタイトルを「目覚めの記」とします。そして、より深い話や特定の主題を語りたいときは、それぞれにタイトルを付けることにしました。

 

今回も読みにくい分割ブログをここまで読み終えていただき、ありがとうございました。