旅行です。姫路に行くことになりました。

 

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上記とは関係ないけれども、

昨日、絵のレッスンに行って気がついたことの備忘録を以下につけておくことにする。

 

4月から週1回でプレゼンスキルのワークショップに隔週で出て先週で一応終わった。

受講してみたら

シェイクスピア(「ジュリアス・シーザー」「ハムレット」)を題材にしたドラマレッスンをおこなうという内容だった。

講師の人が定年後の人だっただけあって

昭和バブルのガキ大将が無茶ぶりを強いるみたいなスタイルで

(エロ・暴力・ナンセンスなテイストをハイテンションで入れていくと評価されるみたいな)

この令和のご時世には、どの角度から見てもハラだろうという感じでかなり疲れた。

受講者の人も、演劇をしたこともない素人がプレゼンスキルを習いに来たのに、

SMの女王とか女子プロレスラーなどの役を振られて

(自分はお笑いの芸能人だった)

結局、このドラマレッスンがプレゼンの何に役立つのか?が釈然としないまま、

前回の最終回はそれぞれが宴会芸のような一発芸を準備して終わるという閉じ方であった。

 

さて、以上のプレゼンワークショップの話は前提としての前ふりで

つぎに、昨日の絵のレッスンの話に移ることにする。

 

絵は2017年の暮れに習いはじめ、現在で1年半くらいになる。

経験がないうえに描きたい対象も方法もあったわけではないので

とりあえず初歩らしいからということで鉛筆デッサンで静物を描いている。

先生は芸大で油絵をなさった先生なので

延長線上には油絵があるのかなというぼんやりとした展望はあるが

お教室自体はさまざまな方法で描く生徒さんが来て、思い思いに描いている。

 

おかげさまで、絵を描くことへの抵抗感は減ってきたが

(習いはじめたのは、子どものときからの苦手感を払拭したかった

というより

絵を描くとはどういうことなのか食わず嫌いで大人になり

本当はどういうものなのか知りたかった、という動機からだったので

対象と画用紙を見比べながら途方に暮れる状態からのスタートとなっている)

いまだに自発的に何かを描きたいという感じが分からない。

とりあえず、準備してもらった静物を順番に描いて鉛筆に慣れている

というのが現在の状況である。

 

そこで、先生にさまざまな質問をする。

昨日した質問のはじまりは

「美術の美はaestheticとどのような関係にあるんですか?」

である。

かなり無茶ぶりな表現で先生に申し訳ないと思うのだけど

この先生にはこの表現が通じる。正直、この点が今のお教室に通っている理由だ。

先生は答えた。

美術はいわゆる「美しいもの」が至上かというとそうでもない。

それはデュシャンの「泉」を見ても明らかである、

セザンヌは対象物は〇×△に分解して描くことができることを示すため

画面を描きこむことはしなかった、

モネは時間も含めた4次元を画面の蓮に表現した。

 

では何が描かれるべきなのか?

それは、視覚にごまかされない、そう見えるべきものである、ということらしい。

 

ここで自分は

「それは世界観なのか?概念なのか?個人的な印象なのか?」とか質問をするのだけど

要するに

「見え方というのは、このような根拠により、このように見える、ことを証明する」という

媒体が描かれるらしい。

大家には仮説があって、それを補強する感じで追究するのが作品として生み出されるらしい。

 

ならば、自分は何をどんな手段でどのように描けばよいのか?

と、おおもとの質問に戻るとそれはまったく直接的な回答にならない。

描けるようにならないと、仮説は生まれないし、

仮説が生まれるに至るまでは何かを何らかの手段でとりあえず描かなければならない。

 

今は「流木」と「中身の入った瓶」のモチーフを描いていて

話をしながら、自分はこれはどのように見ているのか?と自問する。

そんなことを考えても、「流木」は「流木」だし、「瓶」は「瓶」で

それを普通に紙に描くのだって相当たいへんだ。

 

ここから先が、気がついたことの話になるのだけれど、

 

おそらく、それでも自分が事物を見る癖とか傾向のようなものはあるはずだろう、と考えた。

実際、物理的に自分は目が悪いので、

靄のかかったような景色はそれだけでも人と異なるだろう、と。

ほかにもたぶん、とがったところに目を向けやすいとか、正確に見ようと苦心するとか、

さまざまに異なるだろう、と。

(正確の度合いでさえ、人によってかなり差があるのは日常で分かっている)

 

でも実際のところ、自分がどのような見る癖を持っているのかは自覚的になれていない。

というか、そもそも気がつきようがない。

肉体的には、自分の目でしか世界を見ることはできないから。

だが、それができた人が前述の芸術家たちなのではないか。

 

ここで、前ふりのプレゼンワークショップの話に言及する。

 

ワークショップでは、講師は

「自分の個性を客観視して、それを脚色するかたちで演ずる」と説明した。

プレゼンは自分を表現したときにもっとも説得力をもつが、素のままではいけない。

本当の自分に一枚薄皮をのせて、相手に提示する。

 

ワークショップで教えられたのは「表現とはなにか」であり、

それは絵における「表現」でも同じであった。

 

自分はこのような(機械的な)特質を持つから、このように見えるはずであり、実際に見えている、という

ロジックの体現で

この場合の「特質」は、主観的なものではなく、

客観的な根拠を具えた説明可能なものなのである。

その意味において、文字による作品(論文)、数字による作品(式)と形態は異なれど

同義なのである。

 

というか、世界で自分を「表現する」というのは、

ロジックを世にいかなる手段によってかで表すことなのである(仮説)。

 

という結論に至った。これが、昨日、絵のレッスンで気がついたこと。

 

では、何を描けばよいのかという質問に立ちかえると

とりあえず「何を自分は見ているのか」を自己観察をして

特徴を把握しようとすることから始めることかなと考えた。

 

そういえば、

文章のお教室で生徒さんに前の週のフォトをとってこさせて

題材を考えるという記事を読んだことがある。

なるほど、そうか。

 

というわけで、その方向でもう少し続けてみて、

またなにか気がついたらまとめてみたいと思います。

 

文章もフリースタイルでロジックもへったくれもありませんが

思うことが伝わればさいわいです、。