通説と異なる古代史とは? | 荒丸の通説と異なる古代史

荒丸の通説と異なる古代史

拙著「いにしえの散歩道」に書き残したこと、新たに考えたこと、話題を思い付いた経緯などを追記するブログです。

 拙著「いにしえの散歩道」において、大和地域が文化度の低い場所で、日本史の表舞台に登場するきっかけは継体天皇の大和進出だとする仮説を論じた。

 世間に流布されている通説では、五世紀に宋書に書かれた「倭の五王」は天皇に対応し、倭王武は雄略天皇だとする考えが一般的だ。 さらに二世紀遡って「魏志倭人伝」の邪馬台国の時代だ。 邪馬台国は近畿にあった、いや北九州だと騒がしい。

 近畿説を採る者は最近巻向遺跡で発掘された巨大建造物の遺構を卑弥呼の王宮だと勢いづいている。 それに対し九州説を採る者はその遺構をヤマト王権の存在を証明するものだとし、九州と大和に王権が併存したとする折衷案を考え出した。

 これらの通説が戦後八十年近く研究されても、確たる日本の古代像に近づけない元凶は何か? それは「倭の五王=天皇」説だ。 この説の誤りが五世紀以前の日本史を迷走させている。 この説の論証が不完全だとする在野の歴史研究者は多いが、歴史学者はこの説に固執している。

 そもそも「倭の五王=天皇」説は戦前皇国史観一色の時代の産物である。 我が国において「王」と呼べる人は天皇以外あり得ない。 だからなんとか「倭の五王」を天皇と結び付ける理由を考え、「親子・兄弟関係が似ている」だの、「武の一字が雄略天皇の和名と一致する」など苦肉の論証を行った。

 戦後自由な発想で事象を考察できる時代になっても、歴史学者は戦前のお偉い大先生の見解を再吟味することなく踏襲したのだった。 これにより古代は靄に包まれた不透明な視界に閉ざされてきた。

 拙著では「倭の五王=天皇」説を支える項目の多くに反論を加え、彼らが九州の豪族だと結論付けた。 ここでその詳細を述べることは控えるが、一つだけ反論を示したい。 それは漢字利用の熟練度の違いである。

 倭王武の上表文が宋書に転載されていることを考慮すると、五世紀における漢文の完成度の高さを伺い知ることができる。 また六国諸軍事・安東大将軍位を求めたということは、宋の軍制を熟知し、その位階の文字面を十分理解していたと考えてよいだろう。

 ところが大和地域において、八世紀の「記紀」に載せられた歌を見ると、倭語(古代の大和言葉)の一音毎に漢字一文字を表音記号として用いていることがわかる。 また「日本書紀」では表意漢字の意味を、訓読みの注釈(訓注)を付けて説明している。

 この漢字の理解度の差違は、北九州と大和地域が異なる漢字文化レベルにあることを物語っている。 このような事実を無視する珍説「倭の五王=天皇」にいつまでしがみついているのだろう。 この説の再検討がない限り古代史の迷走状態は続く。