書籍情報
著者:キース・サイファート
訳者:熊谷玲美
出版社:白揚社
発行年:2024年
価格:3,080円
ジャンル:自然科学、菌類学、一般向けの生物・生態関連書籍
著者のプロフィール
キース・サイファートは、菌類学者として40年以上にわたり五大陸で菌類の研究を行い、多様なフィールドで微生物やマイコトキシンに関する実績を積んできました。カナダ農業・農産食料省で農地や森林、食品、屋内環境における菌類の調査や、マイコトキシン抑制・動植物疾病の研究に長年携わり、カールトン大学の教授も務めています。
本書の特徴
本書は、キノコやカビ、酵母、地衣類などのミクロな菌類が森、家庭、人体など多様な環境でどのように存在し機能しているかを、豊富な雑学や事例を交えながら平易な言葉で解説しています。菌類が植物や昆虫との共生、農業や発酵、病原体としての脅威、人類の暮らしに与える恩恵や影響についても幅広く紹介し、身近な菌類の世界を総合的に知ることができる入門書となっています。
以下内容要約
見えない王国の発見
土の一握りの中に、日本列島ほどの長さに及ぶ菌糸が広がっている。これほど広大なネットワークが、いま私たちの足元で機能しているという事実は、地球という惑星の意外な構造を物語っている。オレゴン州の森では、9.3平方キロメートルという広大な面積に、樹齢8650年に達するナラタケのコロニーが存在し、このコロニーは地球上で最も大きな生物として認識されている。キース・サイファートは、カールトン大学教授として、40年以上にわたり、五大陸での菌類研究を通じて、この見えない世界の役割を明かしてきた。カナダ農業・農産食料省研究所での研究では、森林・農場・食品・屋内環境における菌類の生態と応用を横断的に調査し、マイコトキシン阻害および動植物病の研究にも従事してきた。
2024年に白揚社から日本語版が刊行された『菌類の隠れた王国』は、単なる科学的知識の羅列ではなく、人間と地球の関係性を根本的に問い直す一冊である。原著の英語版はグレイストーン・ブックスから刊行され、国際的な流通を見せており、翻訳者の熊谷玲美は科学ノンフィクション専門の翻訳家として、著者の考えを正確に日本語化することに力を注いだ。序文を寄稿したロブ・ダンはノースカロライナ州立大学応用生態学部門の教授であり、菌類学や微生物生態に関する著作『Never Home Alone』の著者でもあり、その序文では「菌類なくして未来なし」という強い主張が展開されている。
森の地下に広がる生命のネットワーク
樹木が周囲の仲間と情報を交わし、衰弱した木に栄養を送り、虫害の警告を相互に伝える。こうした樹木間の通信は、インターネットになぞらえて「ウッド・ワイド・ウェブ」と呼ばれている。その通信線路は、菌糸という微細な糸状物質であり、菌根菌という特殊な真菌が、樹木の根に寄生し、同時に樹木に栄養を提供することで成立している。1997年、カナダの森林生態学者スザンヌ・シマードが実施した実験において、放射性同位体でラベルされた炭素が、ある樹木から別の樹木に菌糸ネットワークを通じて移動することが追跡され、このネットワーク理論の科学的根拠が確立された。
森の生態系は、このような共生関係の上に成り立っている。光合成で生まれた糖を樹木が菌に与え、菌は土壌深くまで根を伸ばして、水や栄養分を探し出す。樹木と菌は互いを必要とする関係であり、一方が欠けても成立しない相利共生だ。森林の92パーセントの樹木が菌根菌との共生を行っており、この共生関係は4億年以上前の植物の陸上進出時代にまで遡ることができる。菌がなければ、植物は大陸への上陸すら不可能だったのである。
菌根菌には主に二つのタイプが存在する。外生菌根菌は根の表面を覆い、根細胞間に入り込むタイプであり、松やトウヒ、ブナ、ナラといった樹種と共生している。内生菌根菌、いわゆるアーバスキュラー菌根菌は、根細胞内に樹枝状の構造を形成し、栄養交換の表面積を劇的に増加させる。約80パーセントの植物種が内生菌根菌との共生を行っており、特に広葉樹や草本植物にとってこの関係は不可欠である。菌根菌の菌糸は土壌中の微小孔隙に入り込み、樹木単独の根毛では到達できない領域に達し、セルロース分解酵素やその他の酵素を分泌して有機物を分解し、リン酸塩を遊離させ、樹木が利用可能な形に変換する。同時に、根細胞内に樹状構造を形成し、栄養物質の交換表面を最大化する。
シマードの研究により、いくつかの重要な知見が明らかになった。老齢で大きな樹木が「母樹」と呼ばれ、ネットワークの中心的存在となり、周囲の若木や衰弱した樹木に炭素を分配することが確認された。樹木が虫害に遭ったとき、隣接する樹木がこの情報を受け取り、防御物質であるタンニンなどを事前に生成することも実証されている。さらに、一本の足跡の下には、数百マイルに及ぶ菌糸ネットワークが埋設されており、これは根だけの数百倍から数千倍の表面積を有している。森の地下では、樹木間での栄養循環に留まらず、情報の伝達が行われており、この通信システムはティースプーン一杯の土の中に日本列島の長さ以上に敵対する菌糸が存在するという規模で、生態系全体の健全性を支えている。
農業を支える目に見えない力
農業もまた、菌類の恩恵を受けている。作物の根に共生する菌根菌は、旱魃やストレス下における水とリン酸塩の吸収を大幅に向上させ、農作物の生産性を高める。これまで人間は、土壌を深く耕し、化学肥料を大量投入することで生産を増やしてきたが、この過程で土壌微生物の多様性が急速に失われつつある。モノカルチャーと農薬多用により、土壌の菌類多様性が急速に失われ、農業の持続可能性が脅かされている。
一方で、特定の菌類がもたらす危機も存在する。アスペルギルス属のカビが産生するアフラトキシンは、肝臓がんの主要な原因物質である。トウモロコシやピーナッツ、ナッツ類、スパイス、乾燥果実に感染した場合、その毒性は極めて強力であり、年間数十億ドルの農業損失をもたらしている。アフラトキシンはB1型が特に危険で、家畜が汚染飼料を摂取するとアフラトキシンM1に変換され、牛乳を汚染するため、小児への暴露リスクも高い。FAOによれば、農業分野での生物的防除として、アフラトキシン非産生株の排除戦略が有効性を示しており、この毒素による脅威は単に作物に限定されるものではない。
中世ヨーロッパでは、麦角菌がライ麦や大麦などの穀物に寄生し、「麦角」と呼ばれる硬くて暗い菌核を形成した。この麦角に含まれるアルカロイド系物質がアルゴット毒素として機能し、大量摂取時にはエルゴチズム、いわゆる「聖アンテロの火」と呼ばれた症状をもたらした。その症状は手足の壊疽、痙攣、そして幻覚などの神経症状を含み、中世社会において大規模な健康被害をもたらしたのである。
生物的防除の可能性も存在している。ボーベリア属菌などの昆虫病原菌や、ノゼマ属菌などの微細胞子虫を使った農業害虫防除の実例がある。これらの菌類は、害虫に対して特異的に作用し、化学農薬よりも環境負荷が低く、持続可能な農業への転換を可能にしている。サイファートは、このような菌類の応用が、農業の未来を大きく変える可能性を指摘している。
人間の文化と食の源
醤油、味噌、清酒、焼酎。日本の食文化を支える発酵食品の歴史は、コウジカビという単一の菌類の「家畜化」とともに始まった。3000年から2000年前の中国に起源し、平安・室町時代の日本で商業化されたこの菌は、デンプンやタンパク質を分解する酵素を産生することで、複雑な食品製造プロセスを可能にした。アスペルギルス・オリゼという学名を持つコウジカビは、固体発酵という特殊な条件下で、グルコネオジェネシスと呼ばれる糖質の異化経路が活性化し、アミラーゼやプロテアーゼなどの加水分解酵素が高レベルで発現することが遺伝子解析により明らかになっている。これらの酵素は、原料のデンプンやタンパク質を分子レベルで分解し、後段の酵母やバクテリアの発酵に栄養基質を提供する。
日本文化における菌類利用は、世界的に見ても稀有な存在である。コウジ発酵文化は、ビール酵母やパン酵母と並んで「家畜化」された菌類の代表例であり、ビール、チーズ、醬油、味噌、納豆、チョコレートなど人類の食文化全体を支えている。納豆菌である枯草菌は、大豆を発酵させることで、ビタミンK2や納豆キナーゼなどの健康機能成分を生成し、日本の伝統食として数千年の歴史を持つ。
医学の領域でも、菌類は人類の生存を支える要となっている。ペニシリンの発見から、臓器移植を可能にしたシクロスポリン、さらには多くの抗菌薬が菌類由来である。ペニシリンはペニシリウム属カビから1928年に発見され、医療革命の推進力となり、感染症による死亡率を劇的に低下させた。シクロスポリンは菌類由来の免疫抑制剤として、臓器移植を可能にする医学的ブレークスルーをもたらした。これらの医薬品なくして、現代医療は成立しない。年間100万人以上が真菌感染症で死亡する一方で、菌類由来の医薬品は数十億人の生命を救ってきたという二面性が、菌類と人類の関係の複雑さを物語っている。
制御された条件下での菌類による分解は、堆肥化技術として機能し、有機物の資源循環を実現する。ハニーファンガス、すなわちアルミラリア属のように腐朽菌として機能する菌類は、木質素やセルロース、リグニンなどの難分解物質を分解することで、炭素循環を推進し、土壌の肥沃度を維持し、新たな植生の根盤を整える。このプロセスなくしては、森林生態系の持続的な再生は不可能である。
家の中に潜む見えない生態系
キッチンや浴室の隅に黒いシミが現れるのは、カビが繁殖している証拠だ。湿度60パーセント以上の環境では、アスペルギルス・ヤスタキボトリスなどの黒カビが急速に増殖し、マイコトキシンという毒素を放出する。これが空気中に漂い、吸入されると喘息やアレルギー反応を引き起こし、神経障害や免疫抑制をもたらす。屋内環境は、いうなれば人間の健康と菌類の戦場なのだ。
木材が製材された直後、オフィオストマ属などの青変菌が樹皮の隙間や断面から侵入し、材が乾燥するまでの期間に深く浸透する。この菌は材の強度には影響を与えないが、見栄えを損ない、商品価値を著しく低下させる。屋内で使用される建材とカビの相互作用は、単なる美観の問題ではなく、建物の劣化と居住者の健康に直結する問題である。
空気中に放出されたマイコトキシン、すなわちカビ毒の吸入は、喘息、アレルギー反応、神経障害、免疫抑制などを引き起こすことが報告されている。特に高齢者や免疫不全患者は脆弱性が高くなり、深刻な健康被害に至る可能性がある。キッチンや浴室における制御されていないカビの繁殖は、微量のマイコトキシン暴露を継続的にもたらし、慢性的な健康被害へと発展することもある。頭痛、集中困難、認知障害といった症状は、カビ毒暴露による神経系への直接的な影響として観察されている。
サイファートの研究では、屋内環境における菌類生態が、意外なほど複雑で多様であることが明かされている。家の中には、居住者が認識していない多くの菌類が存在し、これらが空気質と健康に微妙なバランスをもたらしている。建材との相互作用、湿度管理、通風系統の設計はすべて、屋内菌類の増殖を左右する要因となる。見落とされがちな屋内の菌類生態を理解することは、健康で持続可能な住環境の構築に不可欠なのである。
身体の中の微生物群集
腸内にはカンジダ・アルビカンスを含む多くの真菌が住み着いている。健康状態では、腸内細菌が代謝産物を産生し、これらの真菌の過剰増殖を抑制している。人の体を、宿主生物と宿主に共生する微生物を統合的に認識する「ホロビオント」という概念が示すように、人間は単一の生物ではなく、無数の微生物との共生体なのだ。
広域スペクトラム抗生物質投与により腸内菌が阻害されると、これまで細菌が産生していた「ペプチドグリカン嵐」と呼ばれるものが大幅に低下し、カンジダが菌糸体型に変化する。この形態変化は、カンジダの病原性を大幅に高め、全身感染、すなわちカンジダ血症へと進む引き金となる。実験的には、特定の細菌コンソーシアムがカンジダ侵攻を完全に防御できることが示されており、マイコバイオーム制御が新しい治療戦略として注目を集めている。
皮膚表面も多くの常在真菌を保有しており、フケ形成や皮膚炎と関連している。足白癬、いわゆる水虫は、皮膚常在真菌が過度に増殖した状態であり、これも人体と菌類のバランスが崩れた結果である。肺においても、通常は無症状の肺常在真菌が、エイズ患者などの免疫不全状態では進行性肺感染症を引き起こす。クリプトコッカスやアスペルギルスなどの環境中に一般的に存在する菌類が、免疫が機能しない状態では致命的な病原体へと変貌する。
年間100万人以上が真菌感染症で死亡し、その多くは免疫不全患者である。HIV感染者、がん患者、臓器移植患者、あるいは重症の肺炎患者などが真菌感染症の高リスク群である。人体におけるマイコバイオームの理解は、これまで軽視されてきた分野であり、今後の医療における重要な研究領域となりつつある。
生態系の危機と菌類の脅威
北米の栗枯死病は、20世紀初頭にアジアから持ち込まれたクリプトネクトリア・パラシティカというカビが樹皮に感染し、わずか50年で約35から40億本のアメリカヤマグルミを枯死させた劇的な事例だ。この菌は樹皮に小葉状菌糸体ファンと呼ばれる淡褐色の菌糸の集合体を形成し、樹皮の変色や陥没したカンカー、すなわち病斑が特徴である。木が自ら形成する防御組織を毒素と細胞壁分解酵素で突破して進行することで、感染は遂に広がり、かつては北米の主要な樹種であったアメリカヤマグルミは、ほぼ絶滅の危機に瀕した。
トウヒ樹皮ビートルに共生する菌が、ユーラシアから持ち込まれた場合、樹皮の揮発成分を変化させ、ビートルの群体攻撃を誘発する。この複合感染により、数百万ヘクタールのトウヒ林が壊滅的な被害を受けた。
両生類を襲う水生菌類バトラキオキトリウム・デンドロバティディスは、世界中で数百種のカエルを絶滅させ、「カエル・アポカリプス」と呼ばれている。この現象は、人間による菌の拡大への寄与も問題となっており、グローバル化した物流と人間の活動が、地球上に存在しなかった形で菌類を拡散させている。ジャガイモ疫病を引き起こしたフィトフトラ・インフェスタンスは、1845年から1846年のアイルランド飢饉において、数百万人の餓死と200万人の移民をもたらした。この歴史的災厄は、単一の菌類が社会全体に及ぼす影響の大きさを象徴している。
現在、コーヒー生産危機も細菌類が原因である。コーヒーの葉さび病を引き起こす菌類が、温暖化による気温上昇とともに栽培地域を拡大させ、世界的なコーヒー供給に脅威をもたらしている。年間100万人以上が真菌感染症で死亡し、マイコトキシンによる肝臓がんの発症、そして生態系全体の攪乱が同時進行している。人間の活動が、これまで地球上に存在しなかった形で菌類を拡散させ、生態系を劇的に変えているのである。
共生のバランスが整う未来へ
人類は長らく、世界を支配する存在だと考えてきた。しかし、サイファートが示すのは、人間もまた地球という生命体の一部に過ぎないという根本的な認識である。菌根菌ネットワークが失われれば、樹木は孤立し、病害や環境ストレスへの耐性は激減する。森が機能を失い、農業が危機に瀕し、人体の微生物バランスが崩れるとき、病気になったり機能不全になったりするというのが、生態学的現実である。
マイコテクノロジー、すなわち菌類を活用した技術による解決策は多岐にわたっている。プラスチック分解菌の開発により、環境汚染の解決が期待されている。有機酸生産、バイオ燃料開発、バイオレメディエーション(土壌や水の汚染修復)、代替タンパク食品の開発など、菌類の代謝能力を活用した技術が進行中である。特に、菌類由来のバイオマテリアルは、石油化学製品の代替物として急速に発展しており、持続可能な社会設計の鍵となりつつある。
しかし、これらの技術が機能するためには、人間が菌類との関係を根本的に見直す必要がある。「ワンヘルス」という概念が示唆するとおり、人間、動物、生態系の健康は不可分である。菌類を理解し、尊重することは、単なる科学知識の獲得ではなく、持続可能な社会設計そのものなのだ。本書の最終章「高さ一万メートル、菌類と地球の持続可能性」では、菌類に対する人類の姿勢の根本的転換が不可欠であることが強調されている。
サイファート自身は、「菌類に対する私の姿勢を見直すことは、行動を変えるために重要である。もっと多くの人が、菌類という微小サイズの存在に興味を持つようになってほしい」と述べている。この呼びかけは、本質的な科学的啓蒙ではなく、人類の継続基盤の再検討を促すメッセージである。見えない王国との共生を選ぶか、それとも破局へ向かうか。その選択は、すでに私たちの手の中にある。地球規模での気候変動、資源枯渇、生態系の劣化という現実の前では、菌類という微小な存在への理解が、人類の未来そのものを左右するのだ。
