書籍情報
著者:香川雅信
発行者:吉川弘文館
発行年:2024年8月21日
価格:1,980円
ジャンル:日本史・文化史・民俗学・妖怪研究・江戸時代文芸・俳諧史

著者プロフィール
香川雅信は1969年、香川県生まれ。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程を単位取得退学後、総合研究大学院大学文化科学研究科(国際日本文化研究センター)にて博士号(学術)を取得。 「日本初の『妖怪博士』の称号を持つほど、妖怪研究の第一人者であり、日本文化・社会における妖怪の役割を学問的に探求している。 『日本妖怪史』などがある。

本書の特徴
本書は、江戸時代に爆発的に増加した妖怪たちに着目し、その現象を「俳諧(はいかい)」の文芸運動や俳人たちとネットワーク結び付けて読んでいる歴史文化論です。
本書では、髪切虫や雪女、怪火などの具体例をもとに、「妖怪名づけ」の裏には人々の日常化された怪異への感覚と、俳諧をじっくりと遊び心にあったことを重視しています。人の情報によって怪談・奇談が蓄積・流通し、「妖怪爆発」とも大きく増殖の謎を解明します。。

 

以下内容解説

1 妖怪の「カンブリア爆発」―プロローグ

かつて古代から中世にかけて、怪異は「鬼」「神」「狐」「木魂」「もののけ」といった限られた呼び名しか持たず、見かけると国家の動揺を告げる役割を担っていた。

 

徳川家康の合理主義はこの定義を根本から覆し、怪異を凶兆ではなく好奇心の対象に変えてしまう。これをきっかけに江戸時代には新たな妖怪名が二百以上も誕生し、まるで海底から一斉に生物が姿を現すあのカンブリア爆発のように、妖怪の名づけが爆発的に進んだ。俳諧の世界では、俳人たちがお互いに句を通して妖怪の名を速達便のように次々と全国に送り出し、その流れは川となり大河となって広がっていった。

2 古代・中世の妖怪の名づけ

古い文献では「鬼」は「隠(おん)」に由来し、荒々しい霊力の象徴として語られる。「神」は八百万の存在の一部として、不吉な出来事を演出する役目を担った。「狐」は妖術を操る化け物、「木魂」は森の精霊、「もののけ」は病を呼ぶ幽霊と、それぞれの呼称が定められたものの、個別の名前はほとんど付与されず、見る者に危険を知らしめる国家の警告ランプのように機能していた。

3 鬼魅の名は―妖怪と俳諧ネットワーク

十七世紀の江戸では俳諧が黄金期を迎え、「髪切虫」や「雪女」といった名称が季節の言葉として俳句に取り込まれた。松江重頼の『毛吹草』や北村季吟の『増山井』に収められた冬の句が一端を担い、山岡元隣が編んだ『古今百物語評判』は、怪談会の場をまるで録音テープのように再現し、俳人同士のネットワークが妖怪命名のエンジンであることを証明した。「姥が火」と呼ばれた怪火は河内の山里でひそかに燃え上がっただけでなく、その噂が俳人の句稿を経て東西に轟き、焚き火のように人々の想像力をかき立てた。

4 増殖する妖怪

十八世紀に入ると地方の怪談集が次々と刊行され、『三州奇談』や『摂陽群談』には生首茸や妬気成霊、怪火が合わせて十余種にもおよぶリストと和歌が収められた。

 

これらはもはや凶兆ではなく、観光案内のマップに載る人気スポットのように人々の話題をさらい、見物ネタとして楽しむ存在に変わる。俳諧ネットワーク、印刷文化の発展、本草学や地理志学の隆盛、浮世絵妖怪図鑑の大ヒット――この四つの歯車が絡み合い、妖怪の名づけは指数関数的に加速。まるでどこかの工場で名札を次々と生産するラインのように、新顔が続々と世に送り出された。

5 「怪異」のゆくえ

やがて幕府の統制と合理的政策は怪異から「毒」を抜き、その存在をただそこにあるものへと変えてしまう。

 

十九世紀の瓦版では「件」「神社姫」「アマビコ」と名乗る妖怪たちが自らのプロモーションに乗り出し、自画像を版木に彫らせて配るというメディア戦略を展開。鳥山石燕の『画図百鬼夜行』が示した視覚テンプレートは、浮世絵や芝居、落語の演目で妖怪をトップスターへと押し上げた。彼らはもはや怖がられる存在ではなく、隣に住むちょっと気まぐれなキャラクターとして親しまれるようになった。

6 忘れられたデータベース―エピローグ

江戸の俳諧ネットワークは、旅する俳人が口伝を集め、宿場や茶屋で情報交換し、句会で命名のプロセスを共有する分散型の妖怪データベースだった。そこには「誰が・いつ・どこで」名づけたかというメタデータが息づき、後世の博物学や民俗学研究へとバトンを渡した。このシステムはまるで現代のSNSやウィキペディアを先取りしたかのような共同創造モデルであり、情報の民主化と拡散力の強さを示す見事な実例である。