書籍情報

著者:ウィンストン・ブラック
訳者:大貫俊夫(監訳)、内川勇太、成川岳大、仲田公輔、梶原洋一、白川太郎、三浦麻美、前田星、加賀沙亜羅(共訳)
出版社:平凡社
発行年:2021年4月
価格:定価3,520円
ジャンル:西洋史(中世ヨーロッパ史)、歴史・文化論

 

本書の特徴


誤解の多い中世ヨーロッパ像を検証
中世ヨーロッパに関する11の「フィクション(通念)」をとりあげ、実際の「ファクト」を豊富な一次史料とともに提示。

フィクションとファクトの対比
各章ごとに、広く信じられている誤解(フィクション)と、実際の歴史的実像(ファクト)を対比し解説。

一次史料を重視
著者は一次史料を根拠に、誤解がどのように生まれたのか、いつ頃誰によって広まったのかを丁寧に分析。

現代の中世イメージの形成過程も解説
中世のイメージがゲームやドラマ、歴史小説などのフィクションによって形作られてきた背景にも触れる。

 

以下内容抜粋

 

 

第1章「中世は暗黒時代だった」

はじめに

ウィンストン・ブラックの『中世ヨーロッパ:ファクトとフィクション』は、中世ヨーロッパを巡る11の俗説を丁寧に検証する、ちょっとした“歴史の誤解解消マシン”のような本です。第1章では、いわゆる「暗黒時代」という、中世ヨーロッパに対する最大級の誤解が取り上げられています。ブラックは、誤解がどこから生まれ、なぜ現代まで生き延びているのかを、一次史料をふんだんに使いながら明らかにしていきます。

「暗黒時代」概念の歴史的起源

ペトラルカの呪い

「暗黒時代」という言葉は、14世紀のイタリア人学者・詩人ペトラルカが発明したといっても過言ではありません。彼は、ローマ帝国崩壊後の時代を「知識の光が消えた時代」とみなし、自分たちの時代を「闇」と自虐的に呼びました。まるで、自らが歴史の谷間に落ちてしまったと思い込んだ、ちょっとした自己憐憫の産物です。

啓蒙主義の“ライトアップ”

18世紀の啓蒙主義者たちは、この「暗黒時代」イメージをさらに強化しました。彼らにとって中世は、理性や進歩の敵、つまり「迷信と教会の支配」の時代でした9。啓蒙主義者たちは、中世を「こんな時代はもういらない」とばかりに、過去を否定することで自分たちの時代を輝かせたかったのでしょう9

19世紀、歴史家の“後ろ向き”な視線

19世紀のフランス歴史家ジュール・ミシュレは、中世を「暗黒」と決めつけ、その終焉を“人類の進歩”として喜びました。彼は「ルネサンス」という言葉を流行らせ、中世を「時代の谷間」として位置づけました。まるで、中世を“歴史のブラックホール”にしようとしたかのようです。

実際の中世ヨーロッパの姿

修道院の知の守り人たち

「暗黒時代」といわれる時代でも、修道院は知識の灯台でした2425。修道士たちは古代の写本を熱心に写し、彩飾を施し、図書館を知識の貯蔵庫にしました。もしかしたら、中世の修道士たちは「このままでは人類の知識が消えてしまう!」と焦っていたのかもしれません。

カロリング・ルネサンスと大学の登場

シャルルマーニュによるカロリング・ルネサンスは、学問の復興運動でした26。彼は教育の重要性を認め、アルクインを中心とした学者たちがアーヘンで活躍しました26。その流れはやがて大学へとつながり、ヨーロッパ各地で新しい知の拠点が生まれました。

農業革命と商業ネットワーク

中世には農業技術の革新や商業ネットワークの発展もありました2812。モールドボード・プラウや作物輪作の導入で穀物生産が増え、都市や人口が成長しました28。ハンザ同盟のような商業連合も登場し、ヨーロッパ各地を結ぶ貿易網が形成されました12。まるで、中世は「暗黒」どころか、経済の“お祭り騒ぎ”だったのかもしれません。

誤解が生まれた背景

プロテスタントの“過去否定”

16~17世紀のプロテスタント改革期には、カトリック教会の腐敗を強調し、中世を「堕落の時代」と見なす傾向が強まりました。彼らは古代を「黄金時代」、中世を「闇の時代」と位置づけたのです。

近世の問題の“中世への投影”

実は、中世が「不潔」「魔女狩り」「宗教戦争」の時代とされているのは、むしろ近世(16~17世紀)に顕著だった現象です。近世の人々が「風呂に入らない」のは、医学的誤解が原因でした。中世は“濡れ衣”を着せられた、と言っても過言ではありません。

現代ポピュラーカルチャーの影響

映画やテレビ、小説などで中世が「暴力と後進性の時代」として描かれることも、誤解を助長しています。こうしたイメージは、学術的には否定されていても、一般社会ではまだ根強いのです。

一次史料による実証的アプローチ

ブラックの本の特徴は、一次史料を多用している点です。日記、手紙、家族記録、統計、演説、自伝など、多様な史料から中世の実像を浮かび上がらせます。このアプローチによって、「暗黒時代」という通念がいかに根拠に乏しいかが分かります。

現代中世史学の視点

現代の学者の多くは「暗黒時代」という用語を使いません。この言葉は誤解を招きやすく、不正確だからです7。中世は混乱と再編の時代でありつつも、知識や技術、社会制度の革新が進んだ時代でもありました。

 

ウィンストン・ブラックの第1章は、「中世=暗黒時代」という誤解が、実際の歴史ではなく後世の価値観や偏見によって作られたことを明らかにしています。中世ヨーロッパは、修道院での学問の蓄積、大学の設立、農業技術の革新、商業ネットワークの発展など、多くの進歩を遂げた時代でした。

 

この誤解の是正は、単なる学術的な関心事ではなく、現代社会が歴史をどう理解するかという重要な問題です。ブラックの本は、一次史料に基づく実証的アプローチの重要性を示し、歴史的神話に対する批判的思考の必要性を強調しています。

 

要点

  • 「暗黒時代」はペトラルカや啓蒙主義者、19世紀歴史家の価値観に基づく誤解であり、実際の中世は知識や技術、社会制度の革新が進んだ時代だった。

  • 修道院や大学、農業革命、商業ネットワークの発展など、中世ヨーロッパには多くの進歩があった。

  • 一次史料に基づく実証的な歴史研究が、誤解の解消と批判的思考の重要性を示している。

 

第2章 中世の人々は地球は平らだと思っていた

中世ヨーロッパの人々が「地球は平らだ」と信じていた、という話を聞いたことはあるだろうか。だが、これはまるで「猫が犬の言葉を理解している」と主張するようなもので、本当は現代に作られた“都市伝説”に過ぎない。この誤解は「地球平面説神話」と呼ばれ、20世紀前半に広く広まったが、歴史的事実とはまったく異なる。

古代ギリシャから中世へ:地球球体説の伝統

地球が丸いという考えは、古代ギリシャ時代にすでに確立されていた。ピタゴラスやその仲間たちが数学的な観点から球体説を提唱し、アリストテレスが月食や星座の変化などの観察から、科学的に地球が丸いことを証明した。エラトステネスは紀元前3世紀に地球の大きさまで計算し、現代の値とほぼ同じ結果を出している。この知識は中世ヨーロッパにもしっかり受け継がれ、7世紀の学者セビリャのイシドルスも著作の中で地球が「まるい」と明言している。

中世の知識人たちの証言

8世紀の修道士ベーダは『時間の計算』の中で、「地球が丸いからこそ昼と夜の長さが違う」と説明し、13世紀の天文学者ヨハネス・ド・サクロボスコも『天球論』で地球が球体であることを明確に記述している。この本はその後数世紀にわたって学生の教科書として使われた。トマス・アクィナスも『神学大全』で地球球体説を取り上げ、神の存在証明にまで話を広げている。14世紀のダンテ・アリギエーリの『神曲』にも、地球が球体であることが当然のように描かれている。

一般民衆にも浸透していた地球球体説

地球球体説は知識人だけでなく、一般の人々にもある程度浸透していた。13世紀のレーゲンスブルクのベルトルドゥスは説教の絵画で地球球体説を使い、説教を聞く会衆もそれを前提としていた。つまり、中世の人々がみんな「地球は平ら」と思っていたなんてことは、まったくの誤解だ。

神話の起源と拡散

「コロンブスが地球平面説を信じる人々に球体説を説いた」という物語は、19世紀のワシントン・アーヴィングによる脚色が元になっている。アーヴィングは歴史的文書を「退屈」と感じ、コロンブスを中世の迷信を打ち破る英雄として描くために物語を創作した。この話は現実とは何の関係もないが、なぜか広く信じられてしまった。

イギリスの歴史学協会も1945年に「地球が平らだとコロンブスの時代の教養人が信じていたという説は、歴史教育における最大の間違い」と明確に否定している。現代の科学史家たちも、この神話を一様に否定している。

実際の論争は地球の大きさ

コロンブスの時代に本当に議論されていたのは、地球の形ではなく地球の大きさとアジア東岸の位置だった。当時の天文学者は地球のサイズをほぼ正確に知っていたが、コロンブスは過小評価していたため、学者たちは彼の航海を「自殺行為」と考えていた。

結論:神話から事実へ

中世ヨーロッパにおいて「地球は平ら」という考えが主流だったというのは、完全な誤解だ。古代ギリシャから受け継がれた地球球体説は、中世を通じて知識人だけでなく一般の人々にも浸透していた。この神話は19世紀以降に作られ、広まったものであり、歴史的事実とはまったく異なる。

 

要点

  • 地球球体説は古代ギリシャから中世ヨーロッパまで受け継がれ、主流だった

  • 中世の知識人だけでなく、一般民衆にも地球が丸いことは知られていた

  • 「地球平面説神話」は近代以降に作られた誤解で、歴史的事実ではない

 

第3章 農民は風呂に入ったことがなく、腐った肉を食べていた

19世紀の中世観とその影響

ミシュレは「ルネサンス」という言葉を最初に使った歴史家として有名だ。彼の中世観は、暗黒時代という単純なイメージよりも、人間の生々しさや情熱、苦悩を重視するものだった。たとえば、ジャンヌ・ダルクを描くときも、彼女を瑞々しく賢い人物として描き、中世の人々のリアルな姿を浮き彫りにしている。

一方、ドレイパーは『宗教と科学の闘争史』で、中世を「教会の知的な夜」と表現した。彼は、キリスト教がギリシャ・ローマの学問を破壊したと主張し、宗教と科学の対立を強調した。でも、これは現代の科学史研究では完全に否定されている。今や「中世暗黒説」に立つ学者はいない。

 

入浴習慣の実態:史料に基づく検証

中世ヨーロッパには、実は風呂屋がたくさんあった。農村でも川べりに木桶を使った温浴や蒸し風呂が一般的で、都市にはたくさんの公衆浴場があった。ヨーロッパ北部では「土曜沐浴」といって、週に一度、汗と垢を流す習慣もあった。つまり、中世の人々は、現代の私たちと同じように、清潔さをある程度意識していたのだ。

もちろん、貴族と農民の間には衛生習慣の差はあった。でも、農民がまったく不潔だったわけではない。白いリネンの下着を着替えたり、手や顔を洗ったり、歯磨きも日常的に行われていた。ただ、キリスト教の影響で裸を見せるのは恥ずかしいこととされ、ペストの流行で公衆浴場が閉鎖されるなど、時代や地域によって変化はあった。

 

食生活と食品保存の真実

中世の農民は、肉や魚、乳製品、果物、野菜を食べていた。貴重な肉は塩漬けにして保存され、無駄なく食べられた。都市では、毎日新鮮な肉が屠殺されて販売され、古い肉はすぐに売り切るルールがあった。「スパイスで腐った肉の味を隠していた」というのは、まったくの都市伝説だ。スパイスは高価だったので、貧しい人が買えるはずもなく、そもそも腐った肉を食べる必要もなかった。

肉の保存には塩が最も効果的で、スパイスは風味付けや薬用として使われていた。修道院でも、肉や魚は塩漬けや乾燥、燻製にして保存していた。スパイスは、消化を助けるハーブや薬として重宝されていた。

 

現代史学における中世暗黒説の否定

今や「中世暗黒説」は完全に否定されている。バターフィールドなどの歴史家が、19世紀的な偏見を指摘し、中世はヨーロッパが近代へ向けて準備した重要な時代だと評価している。ミシュレのように、中世を人間味あふれる時代として描いた歴史家の見方は、現代の研究とよく合致している。
 

要点

  • 中世ヨーロッパの農民は風呂に入っていたし、清潔さも意識していた。不潔というイメージは19世紀の歴史観に由来する誤解だ。

  • 腐った肉を食べていたというのも都市伝説。新鮮な肉や保存食が普通で、スパイスは高価だったので腐った肉を隠すために使われていなかった。

  • 中世は暗黒時代ではなく、現代への準備期間として重要な時代だった。現代の歴史学では、中世の多様な姿が再評価されている。

 

第4章 人々は紀元千年を恐れていた

中世ヨーロッパの千年王国論神話:ファクトとフィクション

西暦1000年、ヨーロッパ中の人々が世界の終わりを恐れてパニックに陥ったなんて、昔からよく聞く話だ。でも、実はこれ、かなりの誇張だったりする。現代の歴史研究によれば、この「千年の恐怖」は、歴史学者の想像力がちょっと暴走した結果かもしれない。

千年王国論の理論的背景

『ヨハネ黙示録』には「キリストが再臨して1000年間支配する」と書いてある。でも、この1000年が本当にいつか、どうやって計算するか、みんなバラバラだった。古代ユダヤ教の救世主待望から始まって、キリスト教徒もいろいろな解釈をした。大きく分けて「前千年王国説」「後千年王国説」「無千年王国説」なんてのがあって、要するにみんな、自分なりに納得できる終末論を持っていたわけだ。

主要人物とその役割

ラウール・グラベールという11世紀の修道士は、西暦1000年前後の出来事を記録した。彼の記述は「千年の恐怖」説の根拠とされたけど、現代の研究では「え? そこまで騒いだかな?」と疑問がついている。一方、フリールのアボという院長は「1000年に世界が終わるなんて、計算間違いだよ」とハッキリ否定。教会も「そんな予言はやめときなさい」と注意していた。

16世紀になると、バロニウスという枢機卿が「1001年が世界の終わりだ!」と書いた。でも、彼は後世の史料を使って書いたので、ちょっと怪しい。19世紀にはマッケイというジャーナリストが「みんなバカ騒ぎしてたんだよ」と書いたけど、これも物語性重視。20世紀になると「そんな証拠ないよ」と歴史学者たちもようやく気づいた。

神話の形成過程

そもそも、1500年頃にトリテミウスという修道院長が言い出したのが最初らしいけど、実際に広まったのはバロニウスの本から。19世紀に入ると、ロマン主義の歴史家たちが「みんなパニックだった!」と劇的に描いた。でも、パリ・コミューン以降、みんな「本当かな?」と疑い始めた。20世紀になると「証拠なんてない」と結論づけられた。

実際の状況:史料に見る西暦1000年

教会は5世紀のアウグスティヌス以来「終末の日付なんて計算するな」と言っていた。一部の説教師や民衆は終末論にわくわくしたけど、教会はちゃんと「落ち着け」と抑えていた。結局、ヨーロッパ全体が恐怖に包まれたなんて話は、後世の創作だった。

 

今や「千年の恐怖」は「歴史の授業でちょっと面白くするための小ネタ」くらいの扱い。ボストン大学の教授なんかは「ちょっと見直そうよ」と言ってるけど、みんな「証拠ないし」とスルー。神話が長く信じられてきた理由は、史料の誤解や先入観、物語の面白さ、そして文献学の不備。つまり、みんな「面白い話が好き」なだけ。

 

歴史の「事実」と「解釈」を分けるのは、脳の記憶みたいに難しい。でも、ここが面白いところ。私たちも、自分の記憶や思い込みを疑ってみると、意外と新しい発見があるかもしれない。

 

要点

  • 「千年の恐怖」は後世の創作や誤解が積み重なった神話で、実際はヨーロッパ全体がパニックになったわけではない。

  • 教会や知識人たちは終末論を冷静に受け止め、むしろ「落ち着け」と注意していた。

  • 歴史は「事実」と「解釈」を区別することが大事。面白い話には、ちょっと疑いの目を向けてみてもいい。

 

第5章 中世の戦争は馬に乗った騎士が戦っていた

サー・ウォルター・スコットの『アイヴァンホー』が描いた中世ヨーロッパは、まるで騎士だけが戦場を駆け回る世界のようだ。馬上槍試合や一騎打ちが華々しく繰り広げられ、読者は中世の戦争を「騎士のためのショー」みたいに思いがち。でも、現実の中世戦争は、そんな一面的なものではなかった。騎士は確かにカッコいいけど、彼らだけでは戦争は成り立たない。歩兵や傭兵も、もっと大きな役割を果たしていたのだ。

 

サー・ウォルター・スコットの『アイヴァンホー』が創り出した中世像とその影響

『アイヴァンホー』は、中世騎士道の精神や行動倫理を理想化して描いた。騎士たちはみな、名誉や忠誠心に満ち、馬上で槍を構えて戦う。ロンドンで上演された演劇や、1839年のエグリントン・トーナメントなど、実際にみんなが騎士ごっこをしたくなるほどの影響力があった。でも、スコット自身も認めている通り、この小説はフィクション。ノルマン人とサクソン人の対立も、時代錯誤的な演出だ。現実の中世戦争は、もっと複雑で、もっと泥臭いものだった。

 

実際の中世軍隊構成:数値的証拠

中世の軍隊で、歩兵は騎士よりもずっと多かった。アジャンクールの戦いでは、イングランド軍は約1,500名の騎士に対して7,000名の長弓兵。騎士1人に対して歩兵が5人くらいいた計算だ。クレシーの戦いでは、イングランド軍は約4,000名の騎士と10,000名の長弓兵。弓兵だけで軍隊の大半を占めていた。つまり、戦場の主役は騎士ではなく、歩兵だったのだ。

 

武器技術の進歩と戦術の変化

中世の武器や防具はどんどん進化した。騎士が使ったカイト・シールド(凧型盾)やプレートアーマー(板金鎧)は、ノルマン人が持ち込んだ技術が発展したものだ。騎士の甲冑が進化するにつれて、それに対抗する武器も進化した。14世紀以降は、封建的主従関係が崩れ、給料をもらう傭兵が増えた。騎士も下馬して歩兵として戦うことが多くなり、戦争のあり方自体が大きく変わっていった。

 

武器と防具の実際:技術史的観点

『アイヴァンホー』の世界では、騎士は剣と盾で戦うイメージが強い。でも、現実の中世では、弓やクロスボウ、長槍、パイクなど、様々な武器が発達していた。防具も、プレートアーマーが全身を覆うほど進化し、戦場での生存率が大きく上がった。でも、火器の登場で、甲冑も意味がなくなり、16世紀には騎士の時代は終わってしまう。

 

歩兵と傭兵の戦術的重要性の再評価
 

スイス傭兵は、長い槍(パイク)で騎兵を倒す新しい戦術を開発し、戦場の主役になった。ドイツのランツクネヒトも、派手な服装と長い槍で有名だ。弓兵は、単なる遠距離攻撃兵ではなく、敵の陣列を崩し、騎兵の突撃を助ける重要な役割を果たしていた。歩兵が陣列を乱したところに、騎士が突撃する。これが中世後期の戦いの基本パターンだった。

 

中世戦争の社会的背景

『アイヴァンホー』が描く騎士道精神とは違い、実際の中世軍事組織は複雑な社会経済システムに支えられていた。騎士と農民兵の間には、装備や訓練、戦術の差が大きく、ジャックリーの乱では、40人の騎士が9,000人の農民を一晩で壊滅させたという記録もある。単なる個人的な勇気や騎士道精神だけでは説明できない、構造的な格差があった。

 

傭兵制度の発達も、封建的主従関係が崩れた結果だ。ジェノヴァのクロスボウ兵は、海戦や陸戦で重宝され、ヨーロッパ中で雇われた。彼らは単なるクロスボウ兵ではなく、重装突撃部隊としても活躍した。

 

中世ヨーロッパの戦争は、騎士だけのものではなかった。歩兵や傭兵、弓兵がそれぞれの専門技能を活かして協力し合う、多面的で戦術的に洗練された軍事システムだった。『アイヴァンホー』のようなフィクションが歴史認識に大きな影響を与えたことは間違いない。でも、実証的な軍事史研究を通じて、我々は歴史の真の姿に近づくことができる。

 

要点

  • 中世の戦争は騎士だけのものではなく、歩兵や傭兵も重要な役割を果たしていた。歩兵は軍隊の大部分を占めていた。

  • 武器や防具、戦術は時代とともに進化し、火器の登場で騎士の時代は終わった。

  • フィクションが歴史認識に与える影響は大きいが、実証的な研究を通じて、中世戦争の真の姿を理解することができる。

 

第6章 中世の教会は科学を抑圧していた?

中世ヨーロッパの教会が科学を抑圧していたというイメージは、現代でも根強い。でも実際は、この通説は19世紀以降に作られた歴史神話に過ぎない。現代の歴史研究によれば、中世の教会は科学の発展を阻害したどころか、むしろ積極的に推進する役割を果たしていたことが明らかになっている。科学と宗教は、まるで水と油のように対立していると思われがちだが、中世の教会には、科学が文字通り「刻まれて」いたのだ。

 

中世教会の科学への貢献

中世ヨーロッパの大学は、教会の支援のもとで設立された。ボローニャ大学やパリ大学といった世界初の大学では、神学だけでなく法学、医学、数学といった学問も教えられていた。特に「自由七科」と呼ばれる体系的な学問が重視され、数学や天文学も必修だった。これが後の近代科学の基盤となった。スコラ神学者たちは、理性と信仰の調和を追求し、数学や実験科学の先駆者も輩出した。ロバート・グロステストやロジャー・ベーコン、アルベルトゥス・マグヌスといった人物は、ガリレオやニュートンの先駆けとも言える存在だ。

 

「科学と宗教の対立」神話の形成過程

「科学と宗教は対立する」というイメージは、主に17世紀以降の理神論者や19世紀の歴史家たちによって作られたものだ。たとえば、ジョン・ウィリアム・ドレイパーの『宗教と科学の闘争史』やアンドリュー・ディクソン・ホワイトの著作は、中世を「教会による科学の暗黒時代」と描いた。しかし、実際には教会は科学的探究を積極的に支援し、大学や修道院が研究の中心だった。ガリレオ事件も、単なる科学と宗教の対立ではなく、政治的・社会的な複雑な背景があったことが近年の研究で明らかになっている。

 

ガリレオ事件の再検討

ガリレオ・ガリレイが地動説を唱えて教会から有罪判決を受けたことは有名だが、この事件も単純な「科学 vs 宗教」ではなかった。ガリレオ自身は敬虔なキリスト教徒であり、宇宙を「第二の聖書」として探究していた。裁判の背景には、教会内部の政治的思惑や聖書解釈をめぐる論争が絡んでいた。現代では、ガリレオの名誉回復も行われ、科学と信仰は本質的に対立しないという認識が広まっている。

 

20世紀末以降、中世ヨーロッパが「科学の暗黒時代」ではなかったことが明らかになった。技術革新も継続し、農業や建築、医学の分野で大きな進歩があった。教会は天文学的観測や暦の作成にも積極的に関わり、宗教と科学は相互に影響し合っていた。現代の多くの科学者も宗教的信仰を持ちながら研究に従事しており、「科学対宗教」という二項対立は現実を正確に反映していない。

 

要点

  • 中世の教会は科学を抑圧したのではなく、学問の発展を積極的に支援していた。
  • 「科学と宗教の対立」というイメージは、主に19世紀以降の歴史家によって作られた神話であり、実際には両者は密接に関係していた。
  • ガリレオ事件も単純な対立ではなく、複雑な背景を持つ個別の出来事だった。現代では科学と信仰は本質的に対立しないと再評価されている。

 

第7章「子ども十字軍」の神話と現実

中世ヨーロッパの「子ども十字軍」は、まるで壮大な悲劇の物語として語られてきた。1212年、フランスとドイツで神の啓示を受けた少年たち、エティエンヌとニコラウスが数千人、数万人の子どもたちを率いて聖地エルサレムを目指し、多くの者が犠牲になった――そんな話は、映画や小説にもなりやすい。でも、現代の中世史研究は、この物語の多くがフィクションであることを明らかにしている。実は、歴史は物語ほど単純ではないのだ。

 

「子ども十字軍」神話の概要

伝統的な物語では、1212年に神の啓示を受けた少年たちが子どもたちを集め、聖地奪還のために旅立った。彼らは海が割れる奇跡を信じて地中海に向かい、実際には奇跡は起こらず、多くの子どもたちが病気や飢餓、難破事故で命を落とし、一部は奴隷として売り飛ばされたとされる。

しかし、この物語は後世の創作や脚色がかなり混ざっている。現代の研究によれば、参加者の多くは文字通りの「子ども」ではなく、貧しい庶民や若い成人も含まれていた。ラテン語の「pueri」(少年・子ども)という言葉は、社会的地位の低い人々を指す蔑称としても使われていた。つまり、これは組織的な十字軍ではなく、宗教的熱狂に駆られた民衆運動の一種だった。

 

神話創造の主要人物

19世紀アメリカの聖公会牧師ジョージ・ザブリスキ・グレイは、子ども十字軍を教皇が企画した陰謀と描いたが、この見解は中世の史料には一切現れない。イギリスの歴史家スティーヴン・ランシマンは、伝統的な物語を詳細に記述したが、後にその記述の問題点が指摘されている。現代アメリカの中世史家トマス・F・マッデンは、十字軍の神話と現実の区別に重要な役割を果たしている。

 

一次史料の検討

マールバッハ年代記やケルン王立年代記などの史料には、1212年に少年たちが十字架を背負って出発したという記録がある。しかし、そこには後世の脚色が疑われる部分も多く、参加者の年齢や身分も多様だった。『黄金伝説』などの聖人伝集にも、子ども十字軍に関する直接的な記述は見当たらない。

 

神話形成の歴史的背景

19世紀の英米プロテスタントによる反カトリック的な史観や、啓蒙主義思想による中世への偏見が、子ども十字軍神話の形成に大きく影響した。中世を「暗黒時代」として描くことで、近代の進歩を強調しようとする動きもあった。フランスの歴史家ジュール・ミシュレなども、劇的な中世像の創造に貢献した。

 

現代的研究成果

ゲイリー・ディクソンの研究によれば、13世紀の同時代史料を徹底的に検証した結果、子ども十字軍の大部分が後世の創作であることが明らかになった。ペーター・ラーツも、「pueri」が必ずしも子どもを意味しないことを指摘している。つまり、1212年に実際に起こったのは、宗教的熱狂に駆られた民衆運動であり、参加者の多くは文字通りの子どもではなかった。

 

現代の中世史研究により、「子ども十字軍」として知られる物語の大部分が19世紀以降の創作であることが明らかになっている。1212年に実際に起こった出来事は、宗教的熱狂に駆られた民衆運動であり、参加者の多くは文字通りの子どもではなかった。

 

この事例は、歴史的事実がいかに後世の政治的・宗教的意図によって歪曲され得るかを示す重要な教訓となっている。中世ヨーロッパに対する正確な理解のためには、一次史料に基づく客観的な分析と、後世に形成された神話や偏見からの解放が不可欠だ。

要点

  • 子ども十字軍の物語は、19世紀以降の著述家たちによって創作された神話の側面が大きい。
  • 実際の参加者は文字通りの子どもではなく、貧しい庶民や若い成人も含まれていた。
  • 歴史的事実は、後世の政治的・宗教的意図によって歪曲されやすい。一次史料に基づく客観的な分析が重要。

 

第8章 ヨハンナという名の女教皇がいた

中世ヨーロッパの歴史には「女教皇ヨハンナ」という、まるで小説のような伝説がある。855年から858年まで在位したとされる女性教皇――こんなキャラクターが本当にいたら、歴史はもっと面白いだろう。でも、残念ながら現代の歴史研究では、彼女は創作上の人物と考えられている。それでも、なぜこんな伝説が何世紀にもわたって語り継がれてきたのか、そこには私たちの脳が求める「物語の力」が隠されている。
 

女教皇ヨハンナの伝説の概要

 

伝説によれば、ヨハンナはドイツのマインツ生まれ。愛人の男性の服を着てアテネに渡り、並外れた学識を身につけた。その後ローマで自由七科を教え、その名声が教皇選出へとつながり、ついに教皇の座に就く。しかし在職中に妊娠し、行列の最中に出産して女性であることが発覚、悲劇的な最期を迎えた――そんなストーリーだ。

 

伝説の歴史的展開


この伝説が史料上に初めて登場するのは13世紀半ば。フランスの修道院の年代記や、ポーランドの年代記作家オパヴァのマルティンが詳しく記述している。中世からルネサンスにかけて、女教皇の話は広く伝えられ、教会自体も一時はその存在を認めていたほど。教皇たちは、ヨハンナが出産したとされる場所を避けて通行する慣習まで生まれたという。

 

史実性の検討と批判

現代の歴史学者は、女教皇ヨハンナを創作上の人物と見なしている。理由は明白だ。9世紀の教皇たちの在位期間は史料でしっかり裏付けられており、ヨハンナが在位したとされる時期に空位は存在しない。バチカンや他の地域の史料にも彼女に関する記録はない。また、後世の年代記に脚注として付け加えられているだけだ。

18世紀、プロテスタントの歴史家ダヴィッド・ブロンデルが初めてその非実在を学術的に論証した。現代では、彼女が実在したと信じる歴史家はいない。
 

伝説が果たした社会的役割

女教皇ヨハンナの伝説は、ただの面白おかしい物語ではない。宗教改革の時代には、プロテスタントが教会の堕落や使徒継承の不確かさを証明する材料として利用した。また、女性の罪深さを強調したり、教会批判の象徴として、さらには抑圧された時代のヒロインとしてフェミニストにも利用されてきた。

この伝説は、ローマの風刺的伝統から生まれた可能性が高い。つまり、権力や制度を茶化し、批判するための寓話だったのだ。教皇という高位に登っても、死すべき運命や本能的な欲望からは逃れられない――そんな人間らしさを風刺する物語として機能した。
 

伝説の本質とその意義

女教皇ヨハンナの伝説は、中世ヨーロッパにおけるファクトとフィクションの境界を曖昧にさせる典型例だ。史実としては確認できないが、各時代の人々が抱える宗教的、政治的、社会的な問題に対する一種の回答として機能してきた。
 

要点

  • 女教皇ヨハンナは創作上の人物であり、実在の証拠はない。

  • 伝説は13世紀以降に広まり、宗教改革や教会批判、フェミニズムなどさまざまな立場から利用されてきた。

  • この伝説は、人々が歴史や社会の問題を物語として受け止め、必要に応じて意味を変えてきたことを示している。

 

第9章 中世の医学は迷信にすぎなかった

中世ヨーロッパの医学は「迷信だらけ」というイメージが強いが、実際はそう単純ではない。古代ギリシャ・ローマの知識、イスラム世界からの進歩、そして実践経験を組み合わせた、かなりシステマティックな医学システムが存在していた。現代医学のルーツは、意外にも中世ヨーロッパにしっかりと根を張っている。

 

理論的基盤:四体液説と自然主義的アプローチ

四体液説は、血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁のバランスで健康や病気を説明する理論だ。これを迷信と片づけるのは早計で、現代の個人化医療や予防医学の先駆けとも言える。医師たちは、患者ごとに体質や症状を見極め、食事や生活習慣の指導も重視した。病気の原因を自然現象として捉える姿勢も、現代医学と共通する点だ。

 

実践的な医学技術

中世の外科医は、現代から見れば原始的に映るが、当時としては高度な技術を持っていた。頭蓋骨に穴を開ける穿頭術や、焼灼による止血、ワインで傷口を洗い卵白で保護する創傷処置など、実用的で効果的な治療法が開発された。13世紀ごろには床屋が外科手術を担当し、実践経験を重ねて専門性を高めていった。大学教育とも連携し、理論と実践の両方が重視されていた。

 

診断技術の発展

中世の医師は尿検査(ウロスコピー)を体系化し、尿の色や匂い、味を20ものカテゴリーに分類して診断に役立てた。糖尿病患者の尿が甘いことを発見し、「mellitus(蜜のように甘い)」という用語も生まれた。直接的な身体検査が難しい時代に、尿検査は客観的な診断方法として重宝された。

 

医学教育の制度化

中世後期には医学教育が制度化され、サレルノ医学校やパリ大学、ボローニャ大学などで体系的な教育が行われた。1315年にはボローニャ大学で初の人体解剖が行われ、解剖学教育の先駆けとなった。解剖は、理髪外科医、指示者、講師の分業制で進められ、動物と人体の比較解剖も行われた。

 

イスラム医学からの影響

中世ヨーロッパの医学は、イスラム世界からの知識に大きく依存していた。アヴィセンナの『医学典範』はヨーロッパの医学教育の基礎となり、800種類以上の薬物が記載された。13世紀にはアラビア語から医学書が翻訳され、観察と実験を重視する科学的方法論も導入された。

 

修道院の医療制度

修道院は重要な医療機関として機能し、イングランドとウェールズには約1,200もの「病院」が教会によって運営されていた。修道院の図書館では古代の医学書が保存され、知識の継承が図られた。四体液説に基づく瀉血や薬草療法も体系的に実施された。

 

ヒルデガルト・フォン・ビンゲンの貢献

12世紀の修道院長ヒルデガルト・フォン・ビンゲンは、薬草学で科学的なアプローチを示した。植物の薬効を季節や調理法と関連付けて整理し、具体的な処方や食事療法も提案した。スペルト小麦を推奨するなど、栄養学的な視点も持っていた。

 

薬学の発展

中世後期には薬剤師の前身となる専門職が発達し、薬草の専門家が医師に原料を供給した。薬物の調製や品質管理に関する技術も進歩し、アヴィセンナの『医学典範』に記載された薬物の中には、現代でも使われているものが多い。

結論

中世ヨーロッパの医学は、現代から見れば限界も多かったが、決して迷信だけの世界ではなかった。四体液説や体系的な診断、実践的な外科技術、制度化された医学教育、イスラム医学からの知識導入など、多くの科学的要素を含んでいた。中世の医学者たちは、利用可能な知識と技術の範囲内で、病気の自然的原因を追求し、経験に基づく治療法を発展させた。その努力が、ルネサンス期の医学発展の基盤となり、現代医学への道筋を築いたのだ。

 

要点

  • 中世ヨーロッパの医学は迷信にすぎず、科学的実践や知識の体系化が進んでいた。

  • イスラム世界からの医学知識や、実践的な外科技術、診断法、医学教育の制度化など、現代医学の基礎が築かれた。

  • 修道院や薬草専門家の存在、ヒルデガルト・フォン・ビンゲンの科学的アプローチなど、多様な医療システムが発展していた。

 

第10章 中世の人々は魔女を信じ、火あぶりにした

中世ヨーロッパの魔女信仰と魔女狩りについて、現代の私たちは「中世=魔女狩りの時代」とつい思いがちだが、実はこれは大きな誤解だ。火あぶりや大規模な迫害が行われたのは主に近世初期であり、中世の教会はむしろ魔術や魔女に対して懐疑的だった。この章では、魔女狩りの時代背景と、中世における魔女信仰の実態を検証してみたい。

 

魔女狩りの時代区分:中世vs近世初期

魔女狩りが実際に大規模に行われたのは、15世紀後半から18世紀にかけての近世初期だ。記録に残る最初の大規模な魔女裁判は15世紀前半に起こったが、最盛期は16世紀後半から17世紀前半、特に1560年から1630年の「小氷期」と呼ばれる寒冷な時期と重なる。魔女狩りは18世紀後半まで続き、その後終息した。つまり、「中世の魔女狩り」というイメージは、実際には近世の現象を中世に重ねた誤解なのだ。

 

中世における魔女・魔術への教会の態度

中世初期から中期にかけて、キリスト教会は魔術や魔女に対して比較的懐疑的な立場をとっていた。10世紀初頭の教会文書では、「魔女の集団が夜空を飛ぶ」といった話は妄想とされ、実際にはなかったと主張されていた。ブルカルドゥスの『教令集』でも、民間信仰の「ディアーナの騎行」は迷信であり幻影だとされていた。カール大帝時代の法令でも、異教的な宗教実践に対する処罰はあったが、後の魔女狩りとは性質が異なっていた。

 

中世の民間信仰と魔術的実践

中世の民衆の間では、キリスト教化が進んでも古い異教的伝統が残っていた。魔術は主に病気の治療や害悪からの保護、農作物の豊作祈願など、実用的な目的で行われていた。教会はこうした民間信仰を急激に排除するのではなく、段階的にキリスト教化を進める政策をとっていた。

 

『魔女に与える鉄槌』の影響と背景

1486年に異端審問官ハインリヒ・クラーマーが著した『魔女に与える鉄槌』は、後の魔女狩りに決定的な影響を与えた。この書物は魔女の存在を強く主張し、魔女発見の手順や証明方法を記述している。しかし、当時はクラーマーを信用しない声も多く、教会からの反発を受けて被疑者が釈放されることもあった。

 

ダン・ブラウン『ダ・ヴィンチ・コード』の誤謬

 

『ダ・ヴィンチ・コード』では「教会が500万人の女性を火刑台に送った」と記述されているが、これはまったく根拠のない数字だ。実際の犠牲者数は全ヨーロッパで推定4万人から6万人とされ、これまで900万人という数字も挙げられたことがあるが、いずれも根拠がない。フィクションが与える影響は大きく、魔女狩りについての誤解も広まってしまった。

 

魔女狩りの社会的背景

魔女狩りが最も激しかった時期は、悪天候による凶作や飢饉が続いた「小氷期」と重なる。人々は災厄の原因を魔女の妖術に帰し、疑心暗鬼に陥った。また、16世紀の宗教改革以降、新旧両派がそれぞれ敵対する宗派を魔女として告発するようになり、魔女狩りは激化した。魔女裁判や魔女狩りはカトリック教会だけでなく、プロテスタント側も盛んに行った。

 

要点

  • 魔女狩りの最盛期は近世初期(16-17世紀)であり、中世ではない。

  • 中世の教会は魔術や魔女に対して比較的寛容だったが、近世に至り魔女概念が変化した。

  • 社会的背景(気候変動、宗教改革、社会不安)が魔女狩りの拡大を後押しした。

 

第11章 ペスト医師のマスクと「バラのまわりを輪になって」は黒死病から生まれた

ペスト医師の鳥のクチバシ型マスクの真実

ペスト医師の象徴的なマスクは、まるで中世の黒死病の時代に使われていたかのように語られるが、実際には17世紀になってようやく登場した。1619年にフランスの医師シャルル・ド・ロルムが考案したこの衣装は、黒死病の大流行から約270年も後の発明だった。つまり、中世の黒死病とこのマスクは直接関係がない。

 

衣装は、革製の帽子、ガラス製の目覆いと長いクチバシ型マスク、全身を覆うワックスコーティングのガウン、手袋、ブーツ、そして患者に触れずに診察するための木の杖で構成されていた。クチバシの中には香料やハーブが詰められ、当時の「瘴気説」に基づいて「悪い空気」から身を守ると考えられていた。しかし、中世や黒死病の時代にこの種のマスクが使われたという証拠は一切ない。現存する証拠はすべて17世紀以降のイタリアやフランスのものだ。

 

童謡「バラのまわりを輪になって」の神話

私はこの書籍で初めて知ったのだが、「バラのまわりを輪になって」という童謡が黒死病や大疫病と関係しているという説も広まっている。この説によると、「バラの輪」は皮膚の発疹、「ポケット一杯の花束」は病気を防ぐハーブ、「ハクション」はくしゃみの症状、「みんな倒れる」は死を意味するという。しかし、民俗学者たちはこの解釈を否定している。

 

童謡が英語圏で文献に初めて登場したのは1881年で、ヨーロッパ大陸ではもっと早くから多くのバリエーションが存在していた。童謡とペストを結びつける解釈が初めて現れたのは1949年で、それ以前の民俗学者たちはこの説について一切言及していない。童謡の本当の起源は18世紀のドイツの子供の遊び歌と考えられており、「倒れる」のも一時的な動作で、死を意味しない版も多い。

神話が生まれる背景

ペスト医師のマスクや童謡の「恐ろしい」解釈は、中世ヨーロッパに対する現代人の誤解の一部だ。多くの人がイメージする「暗黒時代」や「不潔な生活」「科学への敵対」といった中世像は、実際には近世以降に作られた偏見や創作に基づいている。18~19世紀の学者や作家が、自分たちの時代を優位に見せるために中世を意図的に暗く描いたことが、こうした神話の源となっている。

 

要点

  • ペスト医師の鳥のクチバシ型マスクは17世紀の発明であり、中世の黒死病とは無関係。
  • 「バラのまわりを輪になって」のペスト解釈は20世紀に作られた神話であり、童謡の起源は子供の遊び歌。
  • 中世ヨーロッパのイメージは、現代人の思い込みや後世の創作によって大きく歪められている。

 

まとめ

『中世ヨーロッパ:ファクトとフィクション』は、現代に広く知られる中世ヨーロッパ像の多くが誤解や誇張、後世の創作によるものであることを、一次史料に基づいて丁寧に検証した書籍です。各章ではフィクション(誤解)とファクト(史実)が対比され、なぜそのようなイメージが作られたのか、実際にはどうだったのかが明らかにされています。歴史好きや中世ヨーロッパに興味を持つ方、また歴史小説やゲームなどで中世イメージに触れる方にとって、中世の実像を知るための格好の一冊です。