書誌情報
著者:マーク・D・フェルドマン、チャールズ・V・フォード
訳者:沢木昇
出版社:原書房
発行年:1998年9月9日
価格:1,980円(本体1,800円+税)
ジャンル:心理学、社会問題、ノンフィクション
概要
病気でもないのに、病気を装う。普通に考えれば「なぜそんなことを?」と疑問が浮かぶが、そこには深刻な心理的背景が隠れている。本書は、虚偽性障害という特殊な精神疾患を、多角的に掘り下げたノンフィクションだ。
はじめに
虚偽性障害、別名ミュンヒハウゼン症候群。この病名を耳にしたとき、まず何を思い浮かべるだろうか。名前の響きだけで言えば、どこかヨーロッパの中世都市が出てきそうだが、実態はちょっと違う。病気やけがを「演じる」ことで、周囲からの注目や同情を引きつける精神疾患である。
目的は金銭や社会的地位ではない。そこがミソだ。むしろ、自らの身体を犠牲にしてまで「病人としての自分」を作り上げる。しかも、その演技力が尋常ではない。自傷行為から虚偽の病歴の創作まで、手段を選ばない。なぜそこまでして病気のふりをするのか。どうやら、この問題には深い心理的背景が絡んでいるらしい。
この本のテーマは「なぜ人は病気になりたがるのか」。その問いを軸に、虚偽性障害の実態や、それが引き起こす社会的・倫理的問題について掘り下げていく。そして、最終的には、患者への理解と支援のあり方にたどり着く。やや重たいテーマではあるが、案外「あるある」と感じる部分も多いかもしれない。
第一章「わたし癌なの」
まず登場するのは、がんを偽装する女性。いや、そもそも「がんを偽装」って何だ、というツッコミを入れたくなるが、これが本当にある。頭髪を自ら引き抜き、抗がん剤治療中に見せかける。そこまでするのか、と驚くが、これが虚偽性障害のリアルだ。
患者は、存在しない病気を訴えるだけでなく、既存の症状を極端に誇張することもある。頭髪を抜くだけならまだしも、検査結果を偽装する人までいるというのだから、演出力が尋常ではない。ここまで徹底して病人を「演じる」ことができるのは、もはや職人芸だ。
なぜそんなことをするのか。それは、病気である自分に同情が集まるから。注目される快感があるから。本人としては「病人の自分」が社会で機能していると感じられるのかもしれない。しかし、それが嘘とバレたとき、周囲の反応は冷たい。それでもやめられないのは、病気そのものよりも「病気である自分」というキャラクターへの執着が強いからだ。
第二章「やさしさを求めて」
虚偽性障害の根底には、愛情や承認欲求の欠如があるとされている。病気を装うことで、人々の優しさや関心を引き寄せようとする。冷静に考えれば、やっていることは嘘の塊だが、動機は意外と人間くさい。誰かに「大丈夫?」と声をかけられる瞬間、その人は自分が「存在している」と実感するのだろう。
たとえば、家庭内で孤立感を抱えて育った人が、病気を偽ることで注目を引き、寂しさを埋めようとするケースがある。あるいは、愛する人を失ったショックから、病人として生きることで「構ってほしい」という衝動を解消しようとする。どちらにしても、根っこにあるのは「認められたい」という気持ちだ。
第三章「自分の血を奪う吸血鬼」
虚偽性障害には、かなり自己破壊的なケースがある。たとえば、自分の血を抜き続ける人がいる。吸血鬼かと思うが、そうではない。彼らは、血を抜くことで「病気の証拠」を作り上げようとするのだ。
たとえば、血液検査で貧血を示すために、意図的に血を抜き続ける。結果、案の定、検査結果は異常を示し、周囲は「これは大変だ」と大騒ぎ。だが、それも患者の「演出」の一部に過ぎない。さらに深刻なのは、傷口をわざと不衛生にして感染症を引き起こすケースだ。衛生観念がどうとか言っている場合ではない。命をかけた「病気ごっこ」である。
なぜここまでやるのか。どうやら、そこには自己肯定感の低さが関係しているらしい。つまり、自分の価値を感じられないがゆえに、「病気であること」によって社会との接点を見出す。自己破壊的でありながらも、ある意味「生きるための手段」として機能しているわけだ。
第四章 転落―虚偽性障害に染まるプロセス
虚偽性障害が突発的に現れることは少ない。たいていは、徐々に「病人としての自分」に染まっていく。そのプロセスには、さまざまなきっかけがある。
たとえば、幼少期に重い病気を経験したり、家族が長期にわたって病気と闘っていたりするケースが多い。あるいは、精神的・身体的虐待のトラウマが背景にあることも少なくない。要するに、「病気が身近にあった環境」がトリガーになっている。
虚偽性障害の発症は、徐々に「病人としての自分」を受け入れる過程でもある。最初は小さな嘘から始まり、それがエスカレートし、ついには「病気の自分」以外の人格が薄れていく。結果、嘘をつくことが日常化し、最終的には「病人役」そのものがアイデンティティとなってしまう。
第五章 空想虚言症―途方もない嘘を演じる人々
虚偽性障害の一部には、「空想虚言症」と呼ばれるタイプもある。病気を装うだけでなく、経歴や体験談まで壮大に作り上げてしまうのだ。演出過剰な映画かと思うが、本人にとってはリアルそのもの。
「空想虚言症(パセウドロジア・ファンタスティカ)」とは、嘘が現実を侵食し、自分自身でも本当かどうかわからなくなる状態を指す。病気の演技だけでは飽き足らず、自分がスパイであるとか、超能力者だとか、途方もない話を信じ込んでしまうことがある。
背景にはやはり、自己評価の低さや社会からの孤立感がある。自分に価値が見いだせないからこそ、「自分とは違う自分」を作り上げて、その物語に埋没する。もはやフィクションとノンフィクションの境界が曖昧になり、嘘をついている自覚すら薄れていく。ある意味、これは「逃避の手段」としては機能しているのかもしれない。
第六章 発熱の演技
虚偽性障害の中でも「発熱を演じる」という手口がある。普通、発熱って自然に出るものだが、そこを「作り出す」と聞くと、なんだかマジシャンみたいだ。もちろん、体温を自在に操れる超能力者という話ではない。もっと現実的で、ある意味で原始的な方法を使う。
代表的なのが「体温計をこする」手法だ。摩擦熱を利用して体温を上げ、37度台後半を演出するという荒業である。これ、意外と知られているテクニックで、医療現場では「またか」とため息が出るらしい。ほかにも、血液や尿の検体をわざと操作し、異常値を示すケースもある。さらには、皮膚の下に細菌を注入して炎症を起こすという、本格的な「トリック」まで使われる。
病気を演じるといっても、ここまで来ると壮絶だ。医療知識を駆使して偽装工作を仕掛けるので、医療スタッフも簡単には見抜けない。検査結果が異常を示せば、「じゃあ入院だ」となるし、「精密検査もしよう」となる。当然、その分だけ医療リソースが食われる。最悪の場合、不要な治療や手術まで行われることもある。
第七章 華々しき症状
虚偽性障害の患者が「地味な症状」で満足することは少ない。むしろ、彼らは「華々しさ」を求めている。けいれん発作、筋力低下、四肢麻痺、急性腹症──医療ドラマならクライマックス級の症状を堂々と演じる。やけに派手だが、それが狙いなのだ。
これらの症状は、周囲の注目を一気に引きつける。特にけいれん発作などは、見る人を一発で心配させる力がある。医療者も「これは一大事だ」と構えるが、いざ検査してみると異常が見つからない。あれ、どうして?と首をかしげるが、患者は堂々としている。彼らにとって「注目されている」という事実が最優先であり、症状が実在するかどうかは重要ではない。
こうした演技は、単なる嘘ではなく「病人役」を真剣に生きている結果である。自分で傷をつけて出血させたり、既存の疾患をわざと悪化させて「ほら、大変だろ?」とアピールする。その心理の裏には、強い承認欲求や自己肯定感の低さがある。誰もが「あの人、大変そうだ」と感じてくれる限り、彼らの「物語」は続くのだ。
第八章 眠ったまま死ねたら
虚偽性障害の行き着く先には、命にかかわる危険が潜んでいる。注目を浴びるために症状を作り出しているうちに、いつしかその行為がエスカレートし、結果として死を招くケースがある。
たとえば、睡眠薬を過剰摂取して「眠るように死にたい」と願うことがある。虚偽性障害の患者は、注目や同情を得たい気持ちが高じて、自傷や薬物乱用が日常化する。そうしているうちに、自分が本当に死ぬかもしれないという実感が薄れていくのだ。
根底にあるのは、深い孤独感と絶望感だ。虚偽性障害がただの「嘘つき病」ではない理由はここにある。死を「演じる」ことでしか、生きている自分を確認できない。もはや病気ではなく、存在証明の手段に近い。
第九章 ぬれぎぬ
虚偽性障害と誤診の問題には、思わぬ落とし穴が潜んでいる。虚偽性障害は「病気を装う」精神疾患だが、実際には患者が本当に病気なのに、「嘘をついている」と誤解されるケースがある。逆に、本当に病気でない人が「虚偽性障害」と診断される場合もある。こうなると、患者本人にとってはたまったものではない。
たとえば、慢性的な痛みを訴える患者が、「またか」と医療者にスルーされ、「虚偽性障害」とレッテルを貼られるケースがある。しかし、実際には難病が原因であったりして、後になって誤診が発覚すると、対応した医療者も頭を抱える。まさに「ぬれぎぬ」だ。
一方で、患者が本当に「嘘」をついている場合もあるため、医療者としても警戒が必要だ。だが、病気であるにもかかわらず「詐欺だ」と決めつけられるのは冤罪そのもの。特に医療現場や裁判の場では、「虚偽性障害」と判断されることで、人権や社会的信用が失われる危険性がある。
医療者の側でも、「こんなに症状がバラバラなわけがない」と思いながらも、実際には原因が不明なケースが多く、安易に「虚偽性障害」と決めつけるのはリスクが高い。問題は「医学的知見の不足」と「検査結果への過信」だ。確かに異常が見つからなければ、「嘘では?」と疑いたくなるが、そこで判断を急ぐと、後々取り返しがつかなくなる。
第十章 かくれた動機
虚偽性障害を理解するには、表面的な「嘘」に振り回されないことが大事だ。嘘をつくのは、単なる利益目的ではない。むしろ、その背後には複雑な心理が隠れている。
患者が病気を演じるのは、周囲からの注目や同情を得たいからだ。これを「かまってちゃん」と片付けるのは短絡的すぎる。DSM-5の診断基準では、外的な報酬がないにもかかわらず症状を作り出すことが特徴とされている。つまり、本人にも「なんでこんなことしているのか」がよく分かっていないケースが多い。
たとえば、幼少期に十分な愛情を受けられなかった人が、「病気であれば構ってもらえる」と学習してしまう場合がある。また、社会的孤立や過去のトラウマが影響し、「病気として存在すること」が自己肯定感につながる。本人にとっては「病気でいること」がアイデンティティになっているのだ。
ただ、これを「かまってアピール」と決めつけると、本質を見誤る。そもそも虚偽性障害の患者は、演じているうちに「本当に病気なのでは?」と自分でも思い込むことがある。自分で演じた嘘に、自分が飲み込まれていくというパラドックスがそこにはある。
第十一章 狂気を装う人々
虚偽性障害には「狂気を装う」という形もある。うつ病や統合失調症、解離性障害など、あらゆる精神疾患を「演じる」患者がいる。ここで厄介なのは、「本当に精神疾患があるのか」「それとも演技なのか」を見分けることが難しい点だ。
たとえば、解離性障害(DID)を演じている場合、本人すら「これが本当の自分なのか」と混乱することがある。無意識に症状を出している場合もあれば、意図的に演じている場合もある。その境界が曖昧なため、医療者も対応に苦慮する。
特に虚偽性障害と詐病を見分けるのは至難の業だ。詐病は「利益目的」であり、虚偽性障害は「注目目的」。しかし、実際にはその区別がつかないケースが多い。精神疾患の症状そのものを装うことで、現実と虚構の境界が崩壊していく。患者自身が「自分が嘘をついている」と認識できないケースもあり、その演技があまりに自然すぎて、周囲すら気づかないこともある。
狂気を「装う」と言っても、それは単なる「ふり」ではなく、患者にとっては「生きるための役割」だ。そのため、周囲が「嘘だ」と断じてしまうと、本人の中で「自分の存在価値」が否定されたように感じてしまう。
第十二章 虚偽性障害が児童虐待になるとき
虚偽性障害が他者を巻き込むと、問題は一気に深刻化する。その代表例が「代理によるミュンヒハウゼン症候群(MSBP)」だ。名前だけ聞くと難しそうだが、要するに「自分じゃなくて他人を病気に見せる」という厄介なパターンである。特に問題となるのは、加害者が自分の子どもをターゲットにするケースだ。
MSBPの加害者は、主に母親などの養育者が多い。なぜ母親なのかというと、やはり「献身的な親」というイメージが関係している。例えば、子どもが重病であるかのように訴え、熱心に看病をする。医療者も「こんなに頑張っている親が嘘をつくはずがない」と思ってしまう。だが、その熱意がやたら過剰だったり、症状が妙に劇的だったりすると、そこにMSBPの影が見え隠れする。
特に深刻なのは、症状を「作り出す」ケースだ。たとえば、子どもに薬を飲ませて意図的に具合を悪くしたり、皮膚に刺激物を塗ってかぶれさせたり。最悪の場合、窒息させるなどして、命の危険を引き起こすこともある。これが「子どものため」と言い張られると、周囲は何が本当なのか分からなくなる。
医療者側から見ると、これほど厄介なものはない。症状の原因が特定できず、でも親が熱心だから「もしかして本当に病気?」と思ってしまう。実際、医者がMSBPを疑うと、「どうしてそんなひどいことを言うんですか!」と怒られるケースもあるという。加害者は常に「良き母」を演じているため、周囲にはその悪意が見えにくい。
第十三章 犠牲者たち
虚偽性障害がもたらす被害は、患者本人だけにとどまらない。MSBPの場合、その犠牲者は当然ながら子どもだが、影響はもっと広範囲に及ぶ。
まず、子ども自身が甚大な被害を受ける。不必要な検査や治療を何度も受けさせられ、場合によっては体に傷を負ったり、薬物の影響で健康を損なうこともある。医療機関を転々とさせられ、「自分は本当に病気なのか?」と混乱しながら育つ。その結果、成長後も精神的なトラウマを引きずり、自分の健康状態を疑い続けるケースが多い。
そして、その周囲の家族もまた犠牲者だ。特に父親や親戚は、「なんでこんなに病気ばかり?」と不信感を募らせる。時には「お前の管理が悪い」と非難され、家庭内がぎくしゃくする。子どもの症状が「治らない」ために家庭が疲弊し、家族関係が崩壊することもある。
さらに、医療者自身も精神的な負担を抱える。「熱心な親を疑っていいのか?」というジレンマに加え、治療を続けても効果が出ない苛立ちや罪悪感に苛まれる。後になってMSBPが発覚すると、「見抜けなかった自分が悪いのか」と自己否定に陥るケースも少なくない。
社会全体にとっても大きな課題だ。MSBPを疑うだけで、「虐待親」としてのレッテルを貼るリスクがあり、児童相談所や警察も慎重にならざるを得ない。だが、その慎重さが仇となり、子どもが危険にさらされ続けるという皮肉な構造がある。
第十四章 法律と倫理――議論うずまくところ
虚偽性障害をめぐる法律と倫理の問題は、かなりややこしい。そもそも、虚偽性障害(ミュンヒハウゼン症候群)は、他者からの注目や同情を得たいがために病気を装う精神疾患だ。金銭的な利益を求める詐病とは違う。ここで問題になるのは、「嘘をついている」と断じたとき、その嘘が本当に「虚偽性障害」なのか、それとも単なる詐欺なのか、という線引きが極めて曖昧な点だ。
法的な側面で言えば、虚偽性障害が他者に向けられた場合、たとえば子どもを巻き込んだ「代理による虚偽性障害(MSBP)」になると、話が一気に重たくなる。子どもが不必要な検査や治療を受けさせられ、最悪の場合、生命の危険すら生じる。これが発覚すれば、傷害罪や児童虐待として法的責任が問われることになる。だが、これが「親の愛情」という名のもとに行われるため、発見が難しい。
また、虚偽性障害患者が不必要な医療を受けた結果、医療費が無駄に使われ、医療リソースを圧迫するケースもある。医者としても「病気を疑うべきか」「患者を信じるべきか」と板挟みにされる。その一方で、もし「嘘」と決めつけてしまい、本当の病気を見逃していたら、それこそ医療ミスだ。要するに、患者の言うことをどこまで信じるべきかが、現場では常に問題となる。
倫理的にも複雑だ。嘘をつかれていると感じた医療者は、当然「だまされた」という感情が湧き上がる。それでも、「虚偽性障害」という診断名がついた瞬間、医者としては「この人は病気だ」と捉え直さなければならない。しかし、現実にはその感情がすぐには切り替わらない。信頼関係が損なわれた状態で、どう支援するかというジレンマがつきまとう。
第十五章 発見、対決、治療
虚偽性障害を発見するのは難しい。なぜなら、患者自身が医療知識を駆使して病気を「作り出す」からだ。医療ドラマの「名探偵ドクター」でも登場しそうな場面が、現実では結構起きている。
たとえば、患者がやけに医療用語に詳しく、症状について語るとき、ちょっと警戒が必要だ。詳しく尋ねていくと、妙に説明が曖昧だったり、話が二転三転する。あるいは、「その病気じゃない」と否定されると、次から次へと新しい症状を訴える。さらに病院を転々とする「ドクターショッピング」もよくあるパターンだ。症状を聞きながら、「これ、昨日の話と違うぞ?」と違和感を覚えたら、ちょっと冷静に観察する必要がある。
治療法としては、精神療法が中心になる。特に、支持的精神療法や認知行動療法が一定の効果を持つとされている。重要なのは、まず患者との信頼関係を築くことだ。「嘘をつくな」と頭ごなしに叱っても逆効果で、むしろ「なぜその病気を演じたいのか」を共有するところから始める。
ただし、本人が治療を拒否することも多く、病院を次々に変えるケースもある。そこで必要になるのが、医療、福祉、心理の多職種連携だ。患者の行動パターンを追いかけながら、支援体制をどう作るかがポイントとなる。
まとめ
虚偽性障害(ミュンヒハウゼン症候群)は、「病気を演じることで注目を集めたい」という欲求が暴走した結果として現れる精神疾患だ。単なる「嘘つき」や「仮病」とは異なり、「患者であること」そのものが目的になっている。ここがややこしい。普通、病気は治したいと思うものだが、虚偽性障害の患者にとっては、むしろ「病気であること」が唯一の居場所になってしまうのだ。
この現象を理解するには、現代社会が抱える孤独感や、誰かに認められたいという承認欲求が背景にあることを見逃せない。特に、幼少期に十分な愛情を受けられなかった人や、社会的孤立を感じている人に多いとされている。注目を浴びたい気持ちが、病気という形で極端に表出してしまう。要するに、「愛されたい」という願いが暴走して「病人」という役割を手に入れてしまったのだ。
しかし、問題はそれだけでは終わらない。患者が巻き込むのは自分だけではない。家族や医療者、そして社会全体がその「演技」に振り回される。特に代理ミュンヒハウゼン症候群(MSBP)の場合、無関係な子どもが被害者となり、最悪の場合、命を落とすリスクもある。医療現場では、治療方針が右往左往し、リソースが無駄に使われることもしばしば。医者は「またか」とため息をつきつつも、「本当に病気かもしれない」と悩む。そのジレンマが、虚偽性障害のやっかいさをさらに加速させる。
法律や倫理の問題も絡むため、単に「嘘をやめろ」と言って終わる話ではない。特に法的対応が求められるケースでは、患者の行動が「病気だから許される」のか、それとも「社会的に許されない行為」なのか、その線引きが極めて難しい。病気であっても他者に危害を加えた場合、どう扱うべきか。裁判や福祉の現場でも頭を悩ませるテーマだ。
結局、虚偽性障害を「ただの嘘」として扱うと、問題の本質を見誤る。むしろ、そこには深い心理的背景があり、本人も「なぜこうしているのか分からない」というケースが多い。社会としては、その「嘘」に隠された叫びをどう受け止めるかが問われている。
