
書籍情報
著者:舩橋 真俊
出版社:祥伝社
発行年:2025年11月
価格:5,500円
ジャンル:生態学/環境科学/サステナビリティ/文明論/農業・食料生産/科学啓蒙書
著者のプロフィール
舩橋真俊は、ソニーコンピュータサイエンス研究所リサーチディレクター、京都大学特任教授として複雑系科学・生態系工学・持続可能な文明論を横断的に研究している。獣医師資格も持ち、生物学・数理科学・物理学の知見を融合しながら、「協生農法(Synecoculture™)」や「拡張生態系」の理論と現場実践を国際的に展開。西アフリカから都市型農地まで多様なフィールドを持ち、学術論文や実装実例などによって注目されている。
本書の特徴
本書は、人間活動が生態系の多様性や機能を自然状態を超えて拡張しうることを、理論・実践両面から論じる総合的な書物である。文明存続の土台である「表土」の生成から経済原理、生物多様性、社会制度設計まで幅広く射程を広げる。世界20カ国における実践成果を踏まえ、食糧・環境・経済・共生社会の未来像を具体的・エビデンスベースで提案。第一線の研究者・思想家の推薦も集めている。
以下内容要約
生態系という名の見えざる手
生命が誕生する場所には必ず生態系が生まれる。逆に言えば、生態系なしにはどんな生物も存続できない。この当たり前のようで見過ごされがちな事実を、舩橋真俊は696ページの大著『拡張生態系──生命から照らす人類・地球・科学の未来』で徹底的に掘り下げた。2025年11月に祥伝社から刊行されたこの本は、20カ国での実装実績を持つ「拡張生態系」の理論と実践を体系化した初の単著だ。
ソニーコンピュータサイエンス研究所リサーチディレクターであり、京都大学特任教授でもある舩橋は、生物学、数理科学、物理学を修めた獣医師という異色の経歴を持つ。その複雑系科学の知見を生態系マネジメントに応用した結果が、本書で展開される「協生農法」という革新的な農法だ。
従来、人類の経済発展と環境保全は「トレードオフの関係」にあるとされてきた。環境を守るためには経済成長を諦めるか、経済を優先すれば環境破壊は避けられない、という二者択一の図式である。しかし舩橋は、人間が積極的に介入することで自然回復以上の速度で生態系を回復させ、生物多様性を自然状態より高めることが可能だと主張する。
その証拠として提示されるのが、西アフリカのブルキナファソでの実証実験だ。砂漠化が進む500平方メートルの区画で、舩橋のチームは驚くべき成果を上げた。国民所得の20倍に当たる生産高を1年で達成し、砂漠化を逆転させたのである。これは単なる農業技術の改良ではない。生態系そのものを人間の手で拡張するという、文明の根幹に関わる試みだ。
表土という文明の土台
本書を貫く最も重要なメッセージは、表土こそが文明の基盤であるという認識だ。現代農業は耕起、施肥、農薬使用によって表土を破壊し、生態系を劣化させてきた。耕すことで土壌構造が壊れ、化学肥料によって微生物の多様性が失われ、農薬によって生態系のバランスが崩れる。この三つの行為が、実は農業の持続可能性を根底から脅かしてきた。
舩橋が提唱する「協生農法」は、無耕起、無施肥、無農薬という三つの「無」を基本原則とする。一見すると何もしないように見えるが、実際には多種多様な植物を混生、密生させることで、表土の自然な形成プロセスを人為的に加速し、生態系機能を高める。従来の農法が生態系を単純化することで生産性を上げようとしたのに対し、協生農法は生態系を複雑化することで生産性を上げる。
この発想の転換は、生理学的最適化から生態学的最適化へのシフトと言える。単一作物の収量を最大化するのではなく、生態系全体の機能を最大化する。その結果として、食料生産だけでなく、水質浄化、気候調節、生物多様性増進といった多面的な生態系サービスが同時に実現される。
養老孟司は本書について「拡張生態系という概念の導入で、生態系や種の多様性がより輪郭鮮明になり、行動しやすくなった」と評した。森田真生は「人間を圧倒的に超えたスケールの希望が描き出されている」と推薦する。両者とも、本書が単なる農業技術書ではなく、人類と地球の関係性を根本から問い直す思想書であることを理解している。
生物多様性が大切な理由
第1章「なぜ、生物多様性が大切なのか?」では、生態系の本質と多様性が生命活動や文明の継続の基盤となる理由が、最新の科学に基づいて説明される。生態系は単なる生物の集まりではなく、複雑な相互作用のネットワークだ。この認識が欠けていると、生物多様性の減少がもたらすリスクを正しく評価できない。
生物多様性は三つのレベルで構成される。遺伝子レベルの多様性、種レベルの多様性、生態系レベルの多様性である。現代の単一栽培農業は、この三つすべてのレベルで多様性を劇的に減少させてきた。遺伝的に均一な作物を、単一種で、生態系機能を無視して栽培する。これは短期的には効率的に見えるが、長期的には極めて脆弱なシステムだ。
舩橋の研究によれば、生態系の全球崩壊は2045年頃までに起こると科学者によって予測されている。農業がその最大の原因であり、土地の耕作と農薬の使用によって生物多様性が一定の閾値に達すると、負の連鎖が始まる。人間が何もしなくても生態系の崩壊が止まらなくなるという現象が起きるのだ。
この警告は決して大げさではない。現代農業は表土を破壊し続けており、表土の形成速度を上回る速度で表土を失っている地域が世界中に広がっている。文明が表土の上に成り立っている以上、表土の消失は文明の崩壊を意味する。歴史を振り返れば、多くの古代文明が土壌劣化によって衰退した事実がある。
人間による生態系の拡張
第2章「人間による生態系の拡張」では、現代社会がもたらす生態系の劣化を認めつつ、人間がポジティブに生態系を拡張できる実践的なアプローチが提案される。これは従来の環境保護思想とは根本的に異なる発想だ。
環境保護運動は長らく、人間の活動を制限することで自然を守ろうとしてきた。自然保護区を設定し、人間の立ち入りを禁止する。開発を規制し、経済活動を抑制する。しかし舩橋の拡張生態系という概念は、人間が積極的に介入することで、自然状態を超える生物多様性と生態系機能を実現しようとする。
協生農法の基本理念は、生態系の自己組織化能力を活用することにある。複雑系科学の原理を農業に応用し、多種多様な植物が高密度で混生、密生する環境を構築する。このとき重要なのは、人為的に定めた有用植物と自然発生する草木を共存させることだ。従来「雑草」と呼ばれて排除されてきた植物も、生態系の一員として機能を果たす。
この状態では、複数の植物種が異なる生態ニッチを占有し、相互に協力、共生しながら、全体として自己組織化された生態系が形成される。その結果、従来の農法が外部投入に依存していた機能が、生態系自体によって提供されるようになる。多様な植物種の根系が異なる深さで土壌を活用し、病害虫の自然抑制も、天敵と害虫の複雑な食物連鎖によって実現される。植物の遺残や根の浸出液、そして微生物による有機物の分解によって、窒素、リン、カリなどの養分が土壌内で循環する。
ブルキナファソでの実験は、この理論の正しさを劇的に証明した。2015年から2018年までの3年間、砂漠化が進む500平方メートルの区画に150種類の食用植物を導入した。最初の裸地から3年で食用植物に満ちた密林に変貌し、従来の慣行農法に比べて生産量は約50から200倍、経営的な収益性では約88倍に達した。衛星画像から確認された砂漠化の前兆を示すパッチ状の植生パターンが、高密度で多様な植生パターンへと逆転したのである。
気候変動への適応力
協生農法の重要な特徴の一つは、気候変動に対する高いレジリエンスだ。2024年にネイチャーグループの学術誌に発表された論文によると、気温や降水量などの気象パラメータの変動が大きいほど、協生農法における植物種多様性が増加する傾向が確認された。
従来の単一栽培では、不安定な気象条件は生産の減少を招く危険因子だった。しかし協生農法では、この変動性が複数の作物種の多様な応答を引き出し、結果として全体の生産を安定化させる。ある種が不作でも別の種が豊作となり、生態系全体としての生産性が維持される。これは金融におけるポートフォリオ理論と同じ原理だ。
研究では、協生農法での植物種の分布パターンがべき乗則に従うことが確認された。これは、一部の種が優占し、多くの種が低密度で存在するという自然状態の特性を反映している。べき乗則分布は、自然の自己組織化システムに特有の性質であり、協生農法が人工的でありながら自然の原理に沿っていることを示している。
日本でも実装例がある。神奈川県大磯町での実験では、砂利が敷かれた駐車場のような不毛の土地が、協生農法の導入により10年で豊かな混生生態系に変化した。この事例は、人間の介入が環境再生の起点となることを象徴している。都市部でも応用可能であり、六本木ヒルズ屋上での都市型実証実験が進められている。
拡張生態系というパラダイム
第4章「拡張生態系というパラダイム」は、協生農法という個別の農業技術を超えて、人類の未来に関わる根本的なパラダイムシフトを論じる。拡張生態系とは、失われつつある生態系を再生するだけでなく、人間の積極的な介入によって生物多様性を高め、自然状態を超えた機能を実現する概念だ。
これは従来の環境保護思想と根本的に異なる。生物多様性を維持するという受動的な姿勢ではなく、人間の知性と行動力によって自然を超える多様性を実現するという積極的な姿勢である。地球における人類の役割を根本から再定義する試みと言える。
2045年頃までに起こる可能性があるとされる生態系の全球崩壊というシナリオに対して、拡張生態系はソリューションを提供する。舩橋は、この危機を回避するためには、人類が自然を搾取する存在から生態系構築の要となる存在へと転換する必要があると主張する。人間は生態系の破壊者ではなく、生態系の拡張者になれる、というのが本書の希望に満ちたメッセージだ。
拡張生態系のパラダイムを実現するには、社会構造の変革が必要になる。従来の経済システムは人間の利益を最大化することを中心として設計されてきた。自然は資源として搾取の対象であり、環境保全はコストとして認識されてきた。この構造を転換するために、舩橋は「自然社会共通資本」という新しい経済概念を提示する。
これは経済学者の宇沢弘文が提唱した「社会的共通資本」を、自然資本の再生産過程まで拡張したものだ。従来は自然資本と社会資本が別々に論じられてきたが、拡張生態系の視点では、人間の経済活動が自然資本を再生産する仕組みに組み込まれる。経済活動と自然資本の再生産を両立させる新たな文明装置の構想である。
社会実装への道筋
第5章「拡張生態系の社会実装に向けて」では、産業、都市、教育、政策など実社会での応用とスケールアップ、制度設計の論点が扱われる。拡張生態系は農業だけでなく、都市開発、ヘルスケア、教育など複数の領域に展開可能だ。
都市緑地が拡張生態系に基づいて設計されれば、景観的な価値だけでなく、大気浄化、気候緩和、生物多様性の拠点の提供、さらには精神的な健康への貢献など、多面的な生態系サービスを同時に実現できる。六本木ヒルズでの実証実験は、都市における拡張生態系の可能性を示している。
医療とヘルスケアの分野でも、拡張生態系に基づいて生産された栄養価の高い食品が、慢性疾患の予防と治療に貢献する可能性がある。協生農法で育った作物は、えぐみや苦味が少なく、従来は生で食べられなかった野菜が食べられるようになる。長期的な健康維持に関連する栄養素が多く含まれることも確認されている。
国際展開も進んでいる。協生農法および拡張生態系の考え方は、国連環境計画やJICA(国際協力機構)のような公的機関によって採用されている。2025年から5年間、ソニー銀行がJICAに毎年1000万円を寄付し、開発途上国での協生農法導入支援を行う予定だ。20カ国以上で実装が予定されており、アフリカではアフリカ農業シネコカルチャー研究・研修センターが設立され、セネガル、カメルーンなどで拡大実装が進められている。
人間と自然の新たな関わり
第6章「人間と自然の新たな関わり」では、人間活動の再定義、自然との協働的発展、文明の再設計に向けた哲学的、倫理的視座が展開される。従来の自然支配型文明から、協働、共生に基盤を置くパラダイム変革が論じられる。
人類史を振り返れば、文明の発展は生態系からの乖離の過程だった。農業革命によって人間は自然の制約から解放されたが、同時に生態系の一部であることを忘れた。工業革命によって生産力は飛躍的に向上したが、環境への負荷も増大した。現代文明は生態系の再生産能力を超える速度で資源を消費し、廃棄物を排出している。
拡張生態系のパラダイムは、この流れを反転させる。人間が再び生態系との相互作用の中に自らを再統合することを目指す。ただし、これは原始時代への回帰ではない。科学技術と生態系の知見を統合し、自然状態を超える生物多様性と生態系機能を実現する前進である。
技術と自然の融合による新しい自然理解も重要だ。ICTやAIなどのテクノロジーを用いて、生態系に関する知見やデータを集積し、人間と自然の相互拡張を科学的にサポートする。衛星リモートセンシング、機械学習、IoTといった最先端技術が、気候問題と生態系管理に応用される。
コンピュータサイエンスと気候変動
補論1「コンピュータサイエンスから見た気候変動」では、データ科学とAI、情報技術が気候問題と生態系管理にどのように応用されるかが解説される。衛星画像を機械学習で解析し、森林破壊、土地利用の変化、生物多様性の動態を高精度で監視する手法が実用化されている。
具体例として、セレンゲティ-マラ生態系でのシマウマとヌーの群れ検出がある。38から50センチメートル解像度の衛星画像を用いた深層学習モデルで、50万頭近い個体を84.75パーセントの精度で自動検出した。これにより、広大な地域の生態系動態をリアルタイムで把握できるようになった。
気候シミュレーションモデルも進化している。統合気候-生態系モデルは、気候要素、生物種の分布、物質循環、作物成長、人間活動を同時にシミュレートする。全球を1度程度に分割してリアルタイムの気候、生態系、社会相互作用を計算するシステムが開発されている。
最新の気候特化型AIも登場した。膨大な気候データで学習した汎用AIに気候学知識を付加することで、気候の専門家AIを構築する。このAIが、地域別、企業別の具体的な温暖化対策を科学的データに基づいて自動提案する仕組みだ。気温や降水量の将来予測データなどからデータベースを検索し、適応策案を生成する。
説明可能なAIによる生態系管理も重要だ。透明性のあるAIによる生態系適応戦略として、早期警戒システムが衛星データ、センサーデータ、生態系調査から生態系の微妙な変化を検出する。各生態系の固有条件に合わせた気候適応計画の自動生成、水や栄養塩などの資源配分を生態学原理と気候シナリオから最適化する機能も開発されている。
自然状態の生命科学へ
終章「自然状態の生命科学に向けて」は、生態学、生命科学、文明論を統合した学際的な視点から、人類と生態系の未来を構想する。舩橋は「自然状態」という概念を軸に、生命科学がいかに社会と文明の設計に寄与するべきかを論じる。
本章の根底にあるのは、生態系とはモノではなく相互作用する関係性であるという認識だ。有象無象の種が相互作用することで、それぞれが生命活動を営み、互いの進化が促される仕組みが、目的もなくただ相互作用の中で最適解を生み出す見えざる手として機能している。
第1章から第6章までで構築された拡張生態系概念の総括として、本章では人新世における人間活動の質的転換を提示する。単なる生物多様性の維持ではなく、人間の力で自然を超えた多様性を実現させることが、現代文明の持続可能性の鍵となるという主張が貫かれる。
編集者の岩佐文夫によれば、本書制作に5年を要した。論文から一般向け書籍への翻訳過程で、舩橋は柔軟に構成を修正し、初歩的な概念説明を追加することで、生物多様性という複雑な議題を普遍的に理解可能にした。このプロセス自体が、科学と社会の新しい関わり方を体現している。
舩橋真俊の学術的基盤は多数の論文に遡る。2018年のネイチャー論文で拡張生態系の基本理論を提示し、2017年のエントロピー誌にオープンシステム科学の方法論を構築した。2024年にネイチャーグループの学術誌に発表された論文では、生物多様性の高い農業生態系のべき乗則生産性が土地回復と気候回復力をサポートすることを実証した。
本書は、生物学、生態学、複雑系物理学、経済学、社会学といった複数の学問領域を統合する総合的な試みである。5年の企画、執筆期間を経て完成した700ページを超す大著は、単なる技術論述ではなく、人類が自然状態の生命科学を基盤に文明を再設計する時代への転機を描いている。
データ科学とICTが生態系管理を民主化、最適化する一方で、それを支える倫理観は生態系との関係性の根本的な転換にある。人類は生態系から生まれ、生態系の中で生きている。この本質的な関係性を認識したとき、環境保全は自然を守ることではなく、生態系とともに自分たちも成長させていくという前向きなビジョンへと変わる。それが舩橋の最終的なメッセージである。