新幹線無差別殺傷事件ルポ:小島一朗の実像

 

書籍情報
著者:インベカヲリ★
出版社:KADOKAWA
発行年:2021年
価格:1,870円
ジャンル: イベントルポルタージュ/現代社会論/犯罪心理/家族制度批判/ノンフィクション

著者のプロフィール
インベカヲリ★は1980年東京都生まれの写真家であり、イベントや社会問題に鋭く切り込むノンフィクション作家としても活躍している。短大卒業後、編集プロダクションや映像制作会社勤務を経て、2006年よりフリーで活動開始。年に発表した写真集『やっぱ月に帰るわ、私。』で木村伊兵衛写真賞興味深い最終候補となり、今後も創作活動を継続していきます。​

本書の特徴
この書籍は、東海道新幹線無差別殺傷事件の犯人・小島一朗が国家に「親代わり」を求め、刑務所を「理想の家庭」として執着した異常な動機に迫られる実録ルポである。機能不全と日本社会のセーフティネットの課題を浮き彫りにしている。法廷での万歳三唱、刑務所内で生存権を主張し続ける異常行動など、今まで明かされることのなかった真実に写真家としての独自視点から接近し、無差別殺人の「社会的背景」と「個人の心の闇」を両面から危惧した。

 

以下内容要約

 

家族制度の歪みと無差別殺人への道

インベカヲリ★の取材ルポが浮き彫りにするのは、一人の若者が社会への深刻な不適応を抱えながら、それでもなお国家や家庭に「親代わり」を求め続けた心理の、ある種の普遍性だ。2018年6月9日、東海道新幹線の車内で起こった無差別殺傷事件。当時22歳の小島一朗が男女3人を襲い、1人を殺害し、2人に重傷を負わせた。しかし この事件の本質は、犯人の心理に「理想の家庭の代償としての刑務所」があったという点にある。

 

2019年5月から12月にかけて計13回の面会を重ねた著者は、相手を知るためにはまずその人がそうして生きている事実を受け入れる必要があると考え、正論や解決策を提示せず、傾聴と受容の姿勢で小島と向き合った。約3年間の根気強い取材を通じて著者が明かすのは、表面的には「異常者」として片付けられがちな犯罪者の内面に存在する、どこか人間らしい心理の歪みである。

表層的な言葉の背後にあるもの

法廷で小島が述べた「むしゃくしゃしてやった」「誰でもよかった」というフレーズは、裁判記録を通じて広く知られることになった。ところが著者の取材によれば、この陳述は小島が本当に語りたかったことではなく、むしろ意図的に「憎むべき犯罪者」を演じるための戦略だったのだ。

 

小島が抱いていたのは「刑務所に入ることは子どもの頃からの夢である」という願望である。裁判の法廷では、この根本的な動機が言語化されることはなかった。彼が求めていたのは、親からの暴力と放置に満ちた家庭ではなく、法律によって被収容者の生存権が保障され、たとえ本人が食事を拒否しても強制的に生かされる場所としての刑務所だった。

 

3歳まで過ごした岡崎の実家では、親が無条件に彼の世話をする状態が「理想の家庭」として幻想化されていた。その後、父方の祖母から「お前は岡崎の子だ。岡崎に帰れ」と繰り返し言われ、姉との差別的な扱いを受けた経験が、この幻想をより強固にさせたのだ。共働きの両親は子育てに無関心で、とりわけ母親はホームレス支援に熱心だったが、自分の息子には十分な愛情を注ぐことができなかった。小島にとって家庭は「包丁家族」と呼ぶほど暴力と混沌に満ちた場所であり、居場所たり得なかったのである。

 

第四章では、小島が長野県でのホームレス生活中に「裏寝覚で餓死を試みた」という事実が記述されている。しかし興味深いことに、祖母との最後の電話を機に彼は食べることを再開した。砂糖入りのスポーツドリンク、やがてレトルトパック、カップ麺へと進む食事行為の再開は、その後の犯行への準備段階であった。著者の分析によれば、小島は自傷行為や絶食、そして殺人までもがすべて「愛情を求める行為」として一貫性を保っていたのだ。

社会との隔絶と「理解できなさ」の深み

第五章の象徴的なタイトル「アクリル板越しの作り笑顔」は、著者とインベカヲリ★の間に存在する根本的な隔絶を表している。面会時、アクリル板の向こうで小島が示した笑顔は、いかなる意図に基づいていたのか。著者はそれを掴みきることができなかった。小島は「模範囚を目指している」という定型的な発言をし、祖母の言葉の意味について何度も反復し、保護室への隔離を望むという矛盾した要求をした。

 

小島にとって、より厳格な監禁状態を求める矛盾は実は矛盾ではなく、むしろ一貫した心理を表していたのだ。刑務所という場において「国家が自分を生かす義務を負っている」という確実性こそが、彼にとって唯一の愛情表現だった。社会では誰も彼を必要とせず、家庭では親から拒否される。その中で、法律によって保障される「生存権」だけが、彼を「誰かの子ども」たらしめたのだ。

家族制度の根本的な歪みと社会的セーフティネット

第六章「家」では、小島が「いい子」として周囲に認識されていた虚像が、家庭内の深刻な歪みによって支えられていたことが明かされる。外見からは判別しえない不安や疎外感、孤立感が描き出される。経済的には安定し、母親は社会貢献活動に熱心で、外から見れば「立派な家庭」であった。しかし其の表面的な「普通さ」の背後で、子どもは居場所を失い、愛情を得られず、生存権すら脅かされていたのだ。

 

第七章「迷」では、小島本人と家族それぞれの言い分が食い違う様子が描かれる。家族間で「誰かが嘘をついている」という疑心暗鬼に陥り、小島が語る家族像と、家族が語る小島像のギャップが際立つ。著者の取材を通じて浮かぶのは、制度としての「家族」が本質的に解決不可能な矛盾を抱えているという現実だ。

 

第八章「裁」では、裁判が進むなかで事件の真実が十分に明かされないまま終わる様子が記されている。裁判では真実が語られず、犯行の本当の動機や背景は明かされないまま、事件は「理解不能な異常者の犯罪」として片付けられてしまう。小島の複雑な動機——祖母の言葉への執着、家族からの排除、刑務所への投影——といった要素は、法廷という場では十分に説明される機会を得ることができなかったのだ。

無差別殺人がもたらす問い

2008年以降の無差別殺人事件の犯人の多くが、前科前歴なし、両親が揃い、貧困家庭でもなく、表面的には「普通」の環境で育っている。小島の場合も、経済的に困窮していなかった。母親は「マザーテレサ」と呼ばれるほどホームレス支援に没頭していた。著者が指摘するのは、この根本的なギャップだ。表面的な「普通さ」が、実は最も深刻な家族機能不全を隠蔽しているのではないか、という問いである。

 

著者は小島を「民衆的な人間の心」を持つ存在として捉えている。異常性や特殊性に着目するのではなく、むしろ人間が愛情と承認を求める本質的な心理に、どこか避けがたい共通性があるのではないかという視点だ。ホームレス生活中に警察から「生存権はない」と言われた経験を持つ小島が、その後、自らの命を危険に晒すことで国家が本当に自分を生かしてくれるかを試し続ける行為は、法律と国家に対する愛の確認行為であり、「理想の家庭」を手に入れようとする歪んだ試みなのである

 

家族が機能不全に陥ったとき、社会はどのような安全ネットを提供できるのか。家庭で「生きる権利」を感じられないとき、誰がそれを保障するのか。著者の3年間の取材を通じて浮かぶのは、これまで答えが出ていない根本的な課題である。

祖国のために死ぬこと、カントロヴィッチ著、みすず書房

 

書籍情報

著者:エルンスト・カントロヴィッチ
訳者:甚野尚志
出版社:みすず書房
発行年:2025年11月12日
価格:4,620円
ジャンル:中世政治思想史、宗教思想史、ナショナリズム論、国家論、象徴儀礼研究

著者のプロフィール
エルンスト・カントロヴィッチ(エルンスト・ハートヴィッヒ・カントロヴィッチ、 1895年 - 1963年)はドイツ生まれのユダヤ系歴史学者。第一次世界大戦に志願兵として従軍し、攻撃は詩人シュテファン・ゲオルゲの影響下で歴史学に転向した。代表作は『皇帝フリードリヒ二世』と『王の二人の身体』。ナチ政権のユダヤ人追放に念し、1933年にフランクフルト大学教授を辞してアメリカへ亡命。バークレーおよびプリンストン高等研究所で活躍し、「政治神学」の分野を切り拓いた。宗教思想を基礎とした国家理論の歴史の研究で、20世紀の思想史に多大な貢献を残した。​

本書の特徴
『祖国のために死ぬこと』新装版』は、カントロヴィッチが自らの関心の核である「国家の神聖化」「祖国のための死」をめぐる挑戦に真正面から見つめだ代表的論文集。 中世後期のヨーロッパにおいて、キリスト教神学「神秘体」概念が王権および国家理論に転化された歴史の背景を全体で6本の論文から構成、「王の二人の身体」論と並ぶカンヴィッチ研究の重要な成果であり、国家儀礼やナショナリズムの宗教的側面への視座長期一冊。​

以下内容要約

 

国家の神聖化と個人の自己犠牲

個々の人間が、自分たちが属する国家という共同体のためにみずからの生命を投げ出すことが、いつから「名誉」や「聖性」を帯びるようになったのか。これは現代人にとっても決して他人事ではない問い掛けである。

 

カントロヴィッチが着眼したのは、この転換がけして自然発生的なものではなく、精密な神学的思考と法的構成に基づいていたという点だ。12~13世紀のヨーロッパにおいて、教会の独占していた聖性が、世俗的な王権へとしだいに拡張されていった過程こそが、近代ナショナリズムの宗教的根源をなしている

身体の隠喩が運ぶもの

聖パウロの書簡に由来する「神秘体(corpus mysticum)」という概念がある。教会は「キリストの体」に見立てられ、教皇を頭とし、信徒たちがその四肢として構想されていた。この比喩は単なる修辞的装飾ではなく、共同体の有機的一体性を確保するための神学的フレームワークだった。

 

12世紀以降、この比喩が世俗の国家へと転用される。国王が頭となり、臣民が四肢となる「政治的神秘体」の観念が成立したのだ。すると「全体の身体を守るためには、部分は犠牲にされねばならない」という医学的隠喩が、政治的正当化の論理として機能し始める。病んだ腕を切り落とすように、国家を脅かす者は除去されるべき存在となり、国防のために死ぬことは個人の死ではなく、永遠の共同体への献身として再解釈されるのだ。

殉教者から愛国者へ

初期キリスト教の殉教者たちは、迫害者に抵抗することなく、信仰を守るために生命を投げ出した。教会の初期思想では、この無抵抗の死こそが聖性を備えた行為だった。

 

ところが国教化されたキリスト教は帝国の国防という要請に直面する。4世紀のコンスタンティヌス帝の時代以降、戦士としての死もまた「聖なる行為」として位置づけ直される必要が生じたのだ。正面から敵と対峙し、武器を携えて倒れた兵士を、厳密には殉教者とは呼べないにもかかわらず、「祖国のための死」として神聖化する論理が構築されていく。宗教的熱情が戦闘へと転換される。

王権の二つの身体

カントロヴィッチの最も有名な理論である「王の二つの身体」は、この論理の法的完成形である。16世紀イングランドの法学者たちは、国王の「自然的身体」(肉体的、死すべき個人としての王)と「政治的身体」(法人格としての王権、永遠不変の国家)を峻別した。

 

この二元性により、「国王は死す、国王万歳」というスローガンが法的に正当化される。個別の君主がいかに老衰しようとも、王冠という制度は継続する。個人の死が共同体の永続性を損なわないという観念が、ここに完成した

 

国王の死とともに王冠は別の者へと受け継がれるが、「国王」という法的人格は中断することなく存続する。この法的フィクションが確立することで、世俗権力は宗教的権力から独立した正統性を獲得し、国家そのものが聖性を備える非人格的存在として構想されるようになったのだ。

ダンテが見た二つの太陽

中世のもう一つの重要な思想闘争を象徴するのが、ダンテ・アリギエーリの「二つの太陽」という比喩である。彼は教皇権と皇帝権を太陽と月に見立てることで、両者の関係を表現しようとした。

 

だが思想の展開とともに、ダンテはこの二元論的構図を批判し、世俗権力の独立性と完全性を主張する論理へと進む。13世紀から14世紀へかけてのこうした思想的転換は、やがて絶対主義的国家観へと結実していく。教皇の光によってのみ照らされていた世俗権力が、みずからも独立した光源を持つべきであるという主張は、近代主権国家の思想的な胚胎を意味していたのだ。

法学と神学の邂逅

中世後期の法学者たちが行ったのは、きわめて精妙な理論的操作である。教会法と古典ローマ法を結合させることで、王権から教皇権への従属性を切り離し、世俗権力をそれ自体として聖性を持つ独立的存在へと転換させた

 

「国王は正義の父にして子である」「国王は法の下にあり、また法を超越する」といった一見矛盾した法格言が多用されるが、これらはすべて、個人としての君主と制度としての王権の二重性を表現するためのものだった。こうした法的言説の蓄積により、世俗国家は神学的正当性を獲得し、単なる権力装置から聖なる法的制度へと変身したのである。

国家の秘密(arcana imperii)

「国家の秘密」という概念は、この思想的転変から生じた産物である。中世の宗教的思考では、神の意図は人間の理性では完全には把握できず、教会にのみそれが啓示されるとされた。この宗教的神秘性が、やがて国家の領域へと拡張される。

 

国家が持つべき秘密、その内部的決定プロセスが一般の国民から隠蔽されることが、神秘的で超越的な正当性へと結びつけられたのだ。近代国家の秘密主義も、その源泉を中世の神学的思考に遡ることができる

著者の生涯と問題意識

本書の問題意識を真に理解するには、著者エルンスト・カントロヴィッチ自身の人生に触れることが避けられない。1895年にドイツ領ポーゼン(現ポーランド)に生まれたユダヤ系知識人である彼は、第一次大戦に志願兵として参戦し、十字鉄章を授与された根っからの愛国者だった。

 

1920年代にはドイツロマン主義の詩人シュテファン・ゲオルゲの影響下で歴史学へ転向し、1927年に『皇帝フリードリヒ二世』という大著を発表する。ところが1933年のナチ政権奪取によってすべてが変わる。ユダヤ人公職追放令によりフランクフルト大学の教授職を失い、1938年の「水晶の夜」事件後、彼はアメリカへの亡命を余儀なくされた。

 

さらに1950年代の赤狩り時代、バークレー大学では共産主義シンパへの忠誠宣誓が求められ、それを拒否したカントロヴィッチはプリンストン高等研究所へ移されている。自らナショナリズムの熱烈な信奉者でありながら、そこから生まれた全体主義によって人生を破壊された知識人にとって、「祖国のために死ぬこと」の起源を問うことは、単なる学問的関心ではなく、深刻な自己省察であったはずだ

現代への射程

本書が現在もなお説得力を失わないのは、ナショナリズムの宗教性という問題が、むしろ現在進行形だからである。国家への献身が聖性を帯びる仕組み、個人の生命がいかにして公共的利益という名目で正当化される過程は、戦争に限定されない。パンデミックやテロ対策、経済制裁といった様々な場面で、「祖国」や「国益」という抽象的名目のもとに、個々の人間の権利や自由が制限される。

 

カントロヴィッチが13世紀の神学的思考形式をたどることで示すのは、こうした現象が決して新しくもなく、むしろ国家という存在の根本的な特性に由来しているということだ。身体の隠喩、永遠性の観念、二元的な権力構造――これらは国民国家の誕生以来、常に機能してきた論理である。

 

中世とは無関係だと思われた我々の近代的国家観が、実は中世の宗教的思考を継承しているという認識そのものが、現代の国家と個人の関係を批判的に考察するための不可欠な視点を提供するのである。

精神療法と右脳感情調整の科学

 

書籍情報
著者:アラン・N・ショア​​
訳者:小林隆児
出版社:遠見書房​​
発行年:2025年
価格:9,020円
ジャンル:臨床心理学/精神療法論/対人関係神経生物学/発達精神分析・愛着理論/トラウマ・解離研究​​

著者のプロフィール
アラン・N・ショアは、アメリカの臨床心理学者・神経心理学研究者であり、ロサンゼルスにあるUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)医学部精神医学・行動科学教室の臨床教員として、発達神経科学と精神療法実践を架橋してきた人物である。​​
そして彼は、乳児期の愛着関係と右脳発達に関する研究をもとに「調整理論(regulation theory)」を提唱し、感情調整の破綻を中核とする精神病理の起源と、その治療としての精神療法を統合的に説明する理論家として、多領域に影響を与えてきた。​​
さらに彼は、発達神経科学、精神医学、精神分析、発達心理学、愛着理論、トラウマ研究、臨床心理学、ソーシャルワークなど多分野に論文と著書を送り出し、「対人関係神経生物学」の主要な構築者の一人として国際的に高い評価を得ている。​​

本書の特徴
本書は、精神療法を「右脳どうしの情動コミュニケーションと感情調整を中核とする関係的プロセス」として再定義し、そのアート(治療技術)を発達神経科学・愛着理論・精神分析理論の統合のうえで科学的に説明しようとする野心的な大著である。​​
また本書は、乳児期の愛着と右脳発達、関係外傷と解離、感情調整とトラウマ、精神分析的自己心理学と神経科学の接点などを丁寧にレビューしながら、臨床場面でセラピストと患者のあいだに生じる「断裂と修復」のプロセスを、右脳レベルの相互調整として理論化している。​​
さらに本書は、古典的な精神分析概念や現代の精神療法技法を、右脳・左脳の機能差、暗黙的自己・顕在的自己、対人ストレス調整などの神経生物学的知見によって捉え直すことで、「精神療法という治療技術の科学」というタイトルにふさわしい、学際的な統合モデルを提示している。​​

 

以下内容要約

 

右脳と感情調整という新たな治療観

精神療法とは何をしているのか。従来の心理療法は「考え方を変える」「無意識を解釈する」といった言葉中心のアプローチを採用してきた。けれども、アラン・N・ショアが2025年に日本で翻訳出版された『精神療法という治療技術の科学』で提示するのは、まったく別の光景だ。

 

ショアによれば、精神療法の本質は言葉ではなく、セラピストとクライアントの右脳どうしが無意識に共鳴し合う情動のやりとりにある。感情を調整する能力が損なわれた人々に対して、治療者は言葉ではなく、表情やトーン、間の取り方といった非言語的な次元で働きかける。この主張は、心理臨床を「話す治療」から「共にいる治療」へと根本から変える試みと言える。

右脳優位という発見

人間の脳は左右で異なる仕事を分担している。左脳は言語や論理を担当し、右脳は感情や身体感覚、他者の気持ちを読み取る直感的な理解を受け持つ。ショアが注目するのは、この右脳が乳児期から養育者との情動的なやりとりを通じて発達し、生涯にわたる感情調整の土台を作るという事実だ。

 

たとえば、赤ちゃんが泣いたとき、母親が穏やかに抱き上げて声をかけると、赤ちゃんの興奮した神経系は徐々に鎮まっていく。このとき母親の優しい声や温かい触れ方が、赤ちゃんの右脳に「安心できる」という情動記憶を刻み込む。逆に、泣いても無視され続けたり、怒鳴られたりする環境では、赤ちゃんの右脳は「世界は危険だ」という記憶を蓄積する。

 

生後2年間は右脳の成長スパートの時期であり、この時期の養育者との関係が、その後の人生における感情の扱い方を決定づける。つまり、心の健康は遺伝や性格だけでなく、初期の対人関係という経験によって脳に物理的に刻まれるのだ。

関係外傷が右脳を傷つける

ショアが第2章で論じるのは、虐待やネグレクト、情緒的無視といった「関係外傷」が、発達途上の右脳に深刻な影響を及ぼすというメカニズムだ。これらは一度きりの事件ではなく、養育者との継続的で予測不可能な有害なやりとりを指す。

 

たとえば、ある母親は機嫌がいいときには子どもを抱きしめるが、機嫌が悪いと些細なことで怒鳴りつける。子どもは「次に何が起こるか分からない」という不安定な環境に置かれ、右脳の感情調整回路は一貫したパターンを学習できない。その結果、成人後も対人関係で激しい感情の波に翻弄されたり、他者を信頼できなかったりする。

 

神経科学の研究では、こうした環境で育った子どもの脳画像に、右脳の前頭前野や島皮質の委縮、扁桃体と前頭皮質との結合の低下といった変化が確認されている。これは単なる「性格の問題」ではなく、脳の物理的な損傷なのだ。

 

ショアはさらに踏み込んで、自己愛パーソナリティ障害や境界性パーソナリティ障害といった従来「性格の偏り」とされてきた状態を、右脳の発達病理として再定義する。自己愛パーソナリティの人々は、幼少期に共感的な応答を受けられず、右脳の「内的羅針盤」が育たなかった。そのため外部からの評価に依存し、内面では自己の空洞感に苦しむ。境界性パーソナリティの人々は、予測不可能な養育環境で一貫した情動モデルを構築できず、対人接近時に激しい渇望と恐怖を同時に感じる。

解離という究極の防衛

第3章では、耐え難い苦痛に直面したとき、右脳が最後に取る手段として「解離」が論じられる。解離とは、意識をオフにすることで心理的・身体的な痛みを感じなくする神経生物学的な戦略だ。

 

たとえば、虐待を受けている最中の子どもは、身体は傷つけられていても、意識は「どこか別の場所」に飛んでいく。これは単なる心理的な逃避ではなく、右脳の前頭前野と扁桃体や脳幹との結合が切断され、情動情報が意識に統合されなくなるという脳の変化を伴う。

 

この防衛機制は、その場では子どもを守るが、長期的には感情調整の能力や対人関係に深刻な影響を残す。解離した感情は消えるのではなく、身体の奥深くに封印され、後に予期しない形で噴出したり、慢性的な空虚感や他者とのつながりの欠如として現れたりする。

精神療法は右脳どうしの共鳴

では、こうして損なわれた右脳の感情調整機能を、どう修復するのか。ショアの答えは明快だ。セラピストとクライアントの右脳どうしが、安全な関係性の中で共鳴し合うことで、新たな情動回路が形成される。

 

具体的な治療場面を想像してみよう。クライアントがトラウマ体験を語り始めると、呼吸が速くなり、視線が宙を彷徨い、声が震える。セラピストは言葉の内容だけでなく、これらの非言語的なサインを右脳で感知し、自分の身体にも緊張が生じることに気づく。

 

このとき、セラピストは穏やかで安定した声のトーン、落ち着いた姿勢、柔らかな視線を保ちながら、「今ここで、あなたと一緒にいる」というメッセージを非言語的に伝える。クライアントの過剰に興奮した神経系は、セラピストの安定した状態に同調し、徐々に鎮静化される。これが「右脳から右脳への調整」だ。

 

ショアは「感情耐性の窓」という概念を用いて、この微妙な調整作業を説明する。窓とは、過剰な興奮でも過度の麻痺でもない最適な覚醒範囲を指す。トラウマを抱えた人々は、この窓が極端に狭く、わずかな刺激で過覚醒や解離に陥る。セラピストの仕事は、クライアントの自律神経系の状態を繊細にモニターしながら、徐々に窓を広げていくことだ。

断裂と修復というサイクル

治療関係は常に順調ではない。むしろ、誤解や行き違い、怒りや恥といった「断裂」が避けがたく生じる。たとえば、幼少期に感情を無視され続けたクライアントが、セッション中に突然「私の話を聞いていないんですね」と怒りをぶつけてくる。

 

このとき、セラピストが防衛的にならず、この怒りを重要な情動情報として受け止め、「今、私があなたを無視しているように感じたのですね。それはとても辛い体験だったでしょう」と応答すると、何が起こるか。

 

クライアントは「感情を表現しても拒絶されない」「自分は大切にされる価値がある」という新しい情動的学習を獲得する。この「断裂と修復」の繰り返しこそが、幼少期に途絶した感情的絆の修復を成し遂げる治療メカニズムだと、ショアは考える。

 

実際の養育環境でも、完璧な親など存在しない。重要なのは、ミスマッチが起きても、それに気づいて修復する能力だ。赤ちゃんが泣いているのに、母親が疲れていて一時的に気づかないことはある。けれども、数分後に気づいて抱き上げ、「ごめんね、気づかなかった」と語りかければ、赤ちゃんは「関係は壊れても回復しうる」という安心感を右脳に刻む。

認知から情動への転換

ショアの主張は、従来の心理療法への根本的な批判を含んでいる。認知行動療法は「非合理的な思考を合理的な思考に置き換える」ことを重視してきた。精神分析は「無意識の葛藤を言語化して解釈する」ことを目指してきた。

 

けれども、深い治療的変化は、言葉や思考の次元ではなく、身体に基盤を持つ情動調整システムの再編成によって起こる、とショアは主張する。患者を理解すること以上に、患者と共にいること、患者の右脳の情動的主観的状態を体験し共有することが重要だ、と。

 

これは「話す治療」から「コミュニケートする治療」への転換とも言える。セラピストの専門性は、認知的解釈の巧みさではなく、自分自身の情動調律能力、身体感受性、自己調整力にある。そしてこの能力を維持するためには、セラピスト自身のケアが不可欠だ。

 

慢性的なストレスや燃え尽きにさらされた治療者は、右脳の感受性や共感能力が損なわれ、患者の強い感情に巻き込まれて機能不全に陥ったり、防衛的に距離を取りすぎたりする。スーパービジョンや自分自身の治療、身体的なセルフケアは、患者の変化を支える見えないインフラなのだ。

科学がアートに根拠を与える

ショアの試みは、精神療法という「アート」に神経科学という「サイエンス」の根拠を与えることだ。臨床家が長年経験的に大切だと感じてきた「共感」「場の空気」「タイミング」といった繊細な感覚は、右半球優位の情動処理、セラピストと患者の脳活動の同調、ストレス系の調整といった神経科学的なメカニズムとして説明できる。

 

これは単なる理論的な興味にとどまらない。神経科学が臨床的な直感を裏づけることで、治療者は自分の仕事により確信を持てるようになる。また、効果的な介入をより精緻に設計できるようになる。さらに、クライアントや社会に対して「精神療法とは何をしているのか」を説明しやすくなる。

 

ショアの「調整理論」は、発達神経科学、愛着理論、精神分析、トラウマ研究を統合する「対人関係神経生物学」という新たな学際領域を切り開いた。その射程は精神療法だけでなく、精神医学、社会福祉、教育、育児支援にまで及ぶ。

希望としての可塑性

この理論が提供する最も重要なメッセージは、希望だろう。幼少期の関係外傷によって右脳が損傷を受けたとしても、脳は本来、可塑的だ。適切な治療的関係、特に右脳どうしの共感的な相互作用によって、破損した回路は再構築できる。

 

ショアの言葉を借りれば、「あなたが日々行っている関わりは、脳の可塑性と感情調整の再編を通じて、人の生涯発達を作り変えている」。これは治療者にとって、責任であると同時に希望でもある。

 

スティルフェイス実験という有名な研究がある。母親が突然無表情になり、赤ちゃんの働きかけに一切反応しなくなると、赤ちゃんは最初は笑顔で注意を引こうとするが、やがて不安になり、身体を反らせ、叫び声を上げ、最終的には視線をそらし、泣き崩れる。

 

けれども、母親が通常の応答的な態度に戻ると、赤ちゃんは徐々に回復し、再び笑顔を見せる。この回復力こそが、人間に備わった修復の可能性を示している。精神療法は、この修復のプロセスを成人期に再現する試みなのだ。

おわりに

ショアの『精神療法という治療技術の科学』は、心とは何か、治癒とは何かという根源的な問いに、身体と情動を中心に据えた答えを提示する。それは、言語や認知を偏重してきた従来の心理学への挑戦であり、同時に、臨床家が経験的に知っていたことを神経科学が追認する試みでもある。

 

右脳と感情調整という視点は、精神療法を「物語を語り直す対話」から、「関係の中で右脳が変化する経験」として理解し直す道を開く。それは専門家だけでなく、親や教育者、すべての対人援助職にとって、人間の心の発達と回復を理解する新たな枠組みを提供してくれるだろう。

拡張生態系 人類 地球 科学の未来

 

書籍情報

著者:舩橋 真俊
出版社:祥伝社
発行年:2025年11月
価格:5,500円
ジャンル:生態学/環境科学/サステナビリティ/文明論/農業・食料生産/科学啓蒙書

著者のプロフィール
舩橋真俊は、ソニーコンピュータサイエンス研究所リサーチディレクター、京都大学特任教授として複雑系科学・生態系工学・持続可能な文明論を横断的に研究している。獣医師資格も持ち、生物学・数理科学・物理学の知見を融合しながら、「協生農法(Synecoculture™)」や「拡張生態系」の理論と現場実践を国際的に展開。西アフリカから都市型農地まで多様なフィールドを持ち、学術論文や実装実例などによって注目されている。​

本書の特徴
本書は、人間活動が生態系の多様性や機能を自然状態を超えて拡張しうることを、理論・実践両面から論じる総合的な書物である。文明存続の土台である「表土」の生成から経済原理、生物多様性、社会制度設計まで幅広く射程を広げる。世界20カ国における実践成果を踏まえ、食糧・環境・経済・共生社会の未来像を具体的・エビデンスベースで提案。第一線の研究者・思想家の推薦も集めている。​

 

以下内容要約

 

生態系という名の見えざる手

生命が誕生する場所には必ず生態系が生まれる。逆に言えば、生態系なしにはどんな生物も存続できない。この当たり前のようで見過ごされがちな事実を、舩橋真俊は696ページの大著『拡張生態系──生命から照らす人類・地球・科学の未来』で徹底的に掘り下げた。2025年11月に祥伝社から刊行されたこの本は、20カ国での実装実績を持つ「拡張生態系」の理論と実践を体系化した初の単著だ。

 

ソニーコンピュータサイエンス研究所リサーチディレクターであり、京都大学特任教授でもある舩橋は、生物学、数理科学、物理学を修めた獣医師という異色の経歴を持つ。その複雑系科学の知見を生態系マネジメントに応用した結果が、本書で展開される「協生農法」という革新的な農法だ。

 

従来、人類の経済発展と環境保全は「トレードオフの関係」にあるとされてきた。環境を守るためには経済成長を諦めるか、経済を優先すれば環境破壊は避けられない、という二者択一の図式である。しかし舩橋は、人間が積極的に介入することで自然回復以上の速度で生態系を回復させ、生物多様性を自然状態より高めることが可能だと主張する。

 

その証拠として提示されるのが、西アフリカのブルキナファソでの実証実験だ。砂漠化が進む500平方メートルの区画で、舩橋のチームは驚くべき成果を上げた。国民所得の20倍に当たる生産高を1年で達成し、砂漠化を逆転させたのである。これは単なる農業技術の改良ではない。生態系そのものを人間の手で拡張するという、文明の根幹に関わる試みだ。

表土という文明の土台

本書を貫く最も重要なメッセージは、表土こそが文明の基盤であるという認識だ。現代農業は耕起、施肥、農薬使用によって表土を破壊し、生態系を劣化させてきた。耕すことで土壌構造が壊れ、化学肥料によって微生物の多様性が失われ、農薬によって生態系のバランスが崩れる。この三つの行為が、実は農業の持続可能性を根底から脅かしてきた。

 

舩橋が提唱する「協生農法」は、無耕起、無施肥、無農薬という三つの「無」を基本原則とする。一見すると何もしないように見えるが、実際には多種多様な植物を混生、密生させることで、表土の自然な形成プロセスを人為的に加速し、生態系機能を高める。従来の農法が生態系を単純化することで生産性を上げようとしたのに対し、協生農法は生態系を複雑化することで生産性を上げる。

 

この発想の転換は、生理学的最適化から生態学的最適化へのシフトと言える。単一作物の収量を最大化するのではなく、生態系全体の機能を最大化する。その結果として、食料生産だけでなく、水質浄化、気候調節、生物多様性増進といった多面的な生態系サービスが同時に実現される。

 

養老孟司は本書について「拡張生態系という概念の導入で、生態系や種の多様性がより輪郭鮮明になり、行動しやすくなった」と評した。森田真生は「人間を圧倒的に超えたスケールの希望が描き出されている」と推薦する。両者とも、本書が単なる農業技術書ではなく、人類と地球の関係性を根本から問い直す思想書であることを理解している。

生物多様性が大切な理由

第1章「なぜ、生物多様性が大切なのか?」では、生態系の本質と多様性が生命活動や文明の継続の基盤となる理由が、最新の科学に基づいて説明される。生態系は単なる生物の集まりではなく、複雑な相互作用のネットワークだ。この認識が欠けていると、生物多様性の減少がもたらすリスクを正しく評価できない。

 

生物多様性は三つのレベルで構成される。遺伝子レベルの多様性、種レベルの多様性、生態系レベルの多様性である。現代の単一栽培農業は、この三つすべてのレベルで多様性を劇的に減少させてきた。遺伝的に均一な作物を、単一種で、生態系機能を無視して栽培する。これは短期的には効率的に見えるが、長期的には極めて脆弱なシステムだ。

 

舩橋の研究によれば、生態系の全球崩壊は2045年頃までに起こると科学者によって予測されている。農業がその最大の原因であり、土地の耕作と農薬の使用によって生物多様性が一定の閾値に達すると、負の連鎖が始まる。人間が何もしなくても生態系の崩壊が止まらなくなるという現象が起きるのだ。

 

この警告は決して大げさではない。現代農業は表土を破壊し続けており、表土の形成速度を上回る速度で表土を失っている地域が世界中に広がっている。文明が表土の上に成り立っている以上、表土の消失は文明の崩壊を意味する。歴史を振り返れば、多くの古代文明が土壌劣化によって衰退した事実がある。

人間による生態系の拡張

第2章「人間による生態系の拡張」では、現代社会がもたらす生態系の劣化を認めつつ、人間がポジティブに生態系を拡張できる実践的なアプローチが提案される。これは従来の環境保護思想とは根本的に異なる発想だ。

 

環境保護運動は長らく、人間の活動を制限することで自然を守ろうとしてきた。自然保護区を設定し、人間の立ち入りを禁止する。開発を規制し、経済活動を抑制する。しかし舩橋の拡張生態系という概念は、人間が積極的に介入することで、自然状態を超える生物多様性と生態系機能を実現しようとする。

 

協生農法の基本理念は、生態系の自己組織化能力を活用することにある。複雑系科学の原理を農業に応用し、多種多様な植物が高密度で混生、密生する環境を構築する。このとき重要なのは、人為的に定めた有用植物と自然発生する草木を共存させることだ。従来「雑草」と呼ばれて排除されてきた植物も、生態系の一員として機能を果たす。

 

この状態では、複数の植物種が異なる生態ニッチを占有し、相互に協力、共生しながら、全体として自己組織化された生態系が形成される。その結果、従来の農法が外部投入に依存していた機能が、生態系自体によって提供されるようになる。多様な植物種の根系が異なる深さで土壌を活用し、病害虫の自然抑制も、天敵と害虫の複雑な食物連鎖によって実現される。植物の遺残や根の浸出液、そして微生物による有機物の分解によって、窒素、リン、カリなどの養分が土壌内で循環する。

 

ブルキナファソでの実験は、この理論の正しさを劇的に証明した。2015年から2018年までの3年間、砂漠化が進む500平方メートルの区画に150種類の食用植物を導入した。最初の裸地から3年で食用植物に満ちた密林に変貌し、従来の慣行農法に比べて生産量は約50から200倍、経営的な収益性では約88倍に達した。衛星画像から確認された砂漠化の前兆を示すパッチ状の植生パターンが、高密度で多様な植生パターンへと逆転したのである。

気候変動への適応力

協生農法の重要な特徴の一つは、気候変動に対する高いレジリエンスだ。2024年にネイチャーグループの学術誌に発表された論文によると、気温や降水量などの気象パラメータの変動が大きいほど、協生農法における植物種多様性が増加する傾向が確認された。

 

従来の単一栽培では、不安定な気象条件は生産の減少を招く危険因子だった。しかし協生農法では、この変動性が複数の作物種の多様な応答を引き出し、結果として全体の生産を安定化させる。ある種が不作でも別の種が豊作となり、生態系全体としての生産性が維持される。これは金融におけるポートフォリオ理論と同じ原理だ。

 

研究では、協生農法での植物種の分布パターンがべき乗則に従うことが確認された。これは、一部の種が優占し、多くの種が低密度で存在するという自然状態の特性を反映している。べき乗則分布は、自然の自己組織化システムに特有の性質であり、協生農法が人工的でありながら自然の原理に沿っていることを示している。

 

日本でも実装例がある。神奈川県大磯町での実験では、砂利が敷かれた駐車場のような不毛の土地が、協生農法の導入により10年で豊かな混生生態系に変化した。この事例は、人間の介入が環境再生の起点となることを象徴している。都市部でも応用可能であり、六本木ヒルズ屋上での都市型実証実験が進められている。

拡張生態系というパラダイム

第4章「拡張生態系というパラダイム」は、協生農法という個別の農業技術を超えて、人類の未来に関わる根本的なパラダイムシフトを論じる。拡張生態系とは、失われつつある生態系を再生するだけでなく、人間の積極的な介入によって生物多様性を高め、自然状態を超えた機能を実現する概念だ。

 

これは従来の環境保護思想と根本的に異なる。生物多様性を維持するという受動的な姿勢ではなく、人間の知性と行動力によって自然を超える多様性を実現するという積極的な姿勢である。地球における人類の役割を根本から再定義する試みと言える。

 

2045年頃までに起こる可能性があるとされる生態系の全球崩壊というシナリオに対して、拡張生態系はソリューションを提供する。舩橋は、この危機を回避するためには、人類が自然を搾取する存在から生態系構築の要となる存在へと転換する必要があると主張する。人間は生態系の破壊者ではなく、生態系の拡張者になれる、というのが本書の希望に満ちたメッセージだ。

 

拡張生態系のパラダイムを実現するには、社会構造の変革が必要になる。従来の経済システムは人間の利益を最大化することを中心として設計されてきた。自然は資源として搾取の対象であり、環境保全はコストとして認識されてきた。この構造を転換するために、舩橋は「自然社会共通資本」という新しい経済概念を提示する。

 

これは経済学者の宇沢弘文が提唱した「社会的共通資本」を、自然資本の再生産過程まで拡張したものだ。従来は自然資本と社会資本が別々に論じられてきたが、拡張生態系の視点では、人間の経済活動が自然資本を再生産する仕組みに組み込まれる。経済活動と自然資本の再生産を両立させる新たな文明装置の構想である。

社会実装への道筋

第5章「拡張生態系の社会実装に向けて」では、産業、都市、教育、政策など実社会での応用とスケールアップ、制度設計の論点が扱われる。拡張生態系は農業だけでなく、都市開発、ヘルスケア、教育など複数の領域に展開可能だ。

 

都市緑地が拡張生態系に基づいて設計されれば、景観的な価値だけでなく、大気浄化、気候緩和、生物多様性の拠点の提供、さらには精神的な健康への貢献など、多面的な生態系サービスを同時に実現できる。六本木ヒルズでの実証実験は、都市における拡張生態系の可能性を示している。

 

医療とヘルスケアの分野でも、拡張生態系に基づいて生産された栄養価の高い食品が、慢性疾患の予防と治療に貢献する可能性がある。協生農法で育った作物は、えぐみや苦味が少なく、従来は生で食べられなかった野菜が食べられるようになる。長期的な健康維持に関連する栄養素が多く含まれることも確認されている。

 

国際展開も進んでいる。協生農法および拡張生態系の考え方は、国連環境計画やJICA(国際協力機構)のような公的機関によって採用されている。2025年から5年間、ソニー銀行がJICAに毎年1000万円を寄付し、開発途上国での協生農法導入支援を行う予定だ。20カ国以上で実装が予定されており、アフリカではアフリカ農業シネコカルチャー研究・研修センターが設立され、セネガル、カメルーンなどで拡大実装が進められている。

人間と自然の新たな関わり

第6章「人間と自然の新たな関わり」では、人間活動の再定義、自然との協働的発展、文明の再設計に向けた哲学的、倫理的視座が展開される。従来の自然支配型文明から、協働、共生に基盤を置くパラダイム変革が論じられる。

 

人類史を振り返れば、文明の発展は生態系からの乖離の過程だった。農業革命によって人間は自然の制約から解放されたが、同時に生態系の一部であることを忘れた。工業革命によって生産力は飛躍的に向上したが、環境への負荷も増大した。現代文明は生態系の再生産能力を超える速度で資源を消費し、廃棄物を排出している。

 

拡張生態系のパラダイムは、この流れを反転させる。人間が再び生態系との相互作用の中に自らを再統合することを目指す。ただし、これは原始時代への回帰ではない。科学技術と生態系の知見を統合し、自然状態を超える生物多様性と生態系機能を実現する前進である。

 

技術と自然の融合による新しい自然理解も重要だ。ICTやAIなどのテクノロジーを用いて、生態系に関する知見やデータを集積し、人間と自然の相互拡張を科学的にサポートする。衛星リモートセンシング、機械学習、IoTといった最先端技術が、気候問題と生態系管理に応用される。

コンピュータサイエンスと気候変動

補論1「コンピュータサイエンスから見た気候変動」では、データ科学とAI、情報技術が気候問題と生態系管理にどのように応用されるかが解説される。衛星画像を機械学習で解析し、森林破壊、土地利用の変化、生物多様性の動態を高精度で監視する手法が実用化されている。

 

具体例として、セレンゲティ-マラ生態系でのシマウマとヌーの群れ検出がある。38から50センチメートル解像度の衛星画像を用いた深層学習モデルで、50万頭近い個体を84.75パーセントの精度で自動検出した。これにより、広大な地域の生態系動態をリアルタイムで把握できるようになった。

 

気候シミュレーションモデルも進化している。統合気候-生態系モデルは、気候要素、生物種の分布、物質循環、作物成長、人間活動を同時にシミュレートする。全球を1度程度に分割してリアルタイムの気候、生態系、社会相互作用を計算するシステムが開発されている。

 

最新の気候特化型AIも登場した。膨大な気候データで学習した汎用AIに気候学知識を付加することで、気候の専門家AIを構築する。このAIが、地域別、企業別の具体的な温暖化対策を科学的データに基づいて自動提案する仕組みだ。気温や降水量の将来予測データなどからデータベースを検索し、適応策案を生成する。

 

説明可能なAIによる生態系管理も重要だ。透明性のあるAIによる生態系適応戦略として、早期警戒システムが衛星データ、センサーデータ、生態系調査から生態系の微妙な変化を検出する。各生態系の固有条件に合わせた気候適応計画の自動生成、水や栄養塩などの資源配分を生態学原理と気候シナリオから最適化する機能も開発されている。

自然状態の生命科学へ

終章「自然状態の生命科学に向けて」は、生態学、生命科学、文明論を統合した学際的な視点から、人類と生態系の未来を構想する。舩橋は「自然状態」という概念を軸に、生命科学がいかに社会と文明の設計に寄与するべきかを論じる。

 

本章の根底にあるのは、生態系とはモノではなく相互作用する関係性であるという認識だ。有象無象の種が相互作用することで、それぞれが生命活動を営み、互いの進化が促される仕組みが、目的もなくただ相互作用の中で最適解を生み出す見えざる手として機能している。

 

第1章から第6章までで構築された拡張生態系概念の総括として、本章では人新世における人間活動の質的転換を提示する。単なる生物多様性の維持ではなく、人間の力で自然を超えた多様性を実現させることが、現代文明の持続可能性の鍵となるという主張が貫かれる。

 

編集者の岩佐文夫によれば、本書制作に5年を要した。論文から一般向け書籍への翻訳過程で、舩橋は柔軟に構成を修正し、初歩的な概念説明を追加することで、生物多様性という複雑な議題を普遍的に理解可能にした。このプロセス自体が、科学と社会の新しい関わり方を体現している。

 

舩橋真俊の学術的基盤は多数の論文に遡る。2018年のネイチャー論文で拡張生態系の基本理論を提示し、2017年のエントロピー誌にオープンシステム科学の方法論を構築した。2024年にネイチャーグループの学術誌に発表された論文では、生物多様性の高い農業生態系のべき乗則生産性が土地回復と気候回復力をサポートすることを実証した。

 

本書は、生物学、生態学、複雑系物理学、経済学、社会学といった複数の学問領域を統合する総合的な試みである。5年の企画、執筆期間を経て完成した700ページを超す大著は、単なる技術論述ではなく、人類が自然状態の生命科学を基盤に文明を再設計する時代への転機を描いている。

 

データ科学とICTが生態系管理を民主化、最適化する一方で、それを支える倫理観は生態系との関係性の根本的な転換にある。人類は生態系から生まれ、生態系の中で生きている。この本質的な関係性を認識したとき、環境保全は自然を守ることではなく、生態系とともに自分たちも成長させていくという前向きなビジョンへと変わる。それが舩橋の最終的なメッセージである。

母と娘の母娘関係を象徴するコップ

 

書籍情報

著者:齊藤 彩
出版社:講談社
発行年:2022年12月16日
価格:税込1,980円
ジャンル:現代日本社会・家庭問題・教育虐待・犯罪ノンフィクション・司法事件ルポ​

著者のプロフィール
齊藤彩は1995年東京都生まれ。北海道大学理学部地球惑星科学科を卒業後、共同通信社に入社した。新潟支局を経て大阪支社編集局社会部で司法担当記者として活動し、数々の刑事事件や裁判の最前線を取材した経験を持つ。2021年末に共同通信を退職、その後本作が初の単著として出版された。事件取材の客観性と、現場への丹念な足を踏み入れる姿勢、多くの手紙による加害者との直接的なコミュニケーションを重視する記者魂が結集した一冊となっている。​

本書の特徴
本書は、母娘間の教育虐待と支配、社会的な孤立による密室的な家庭の崩壊を徹底的に描いたノンフィクションであり、滋賀県で実際に起こった母親殺害事件を、加害者である娘と著者による獄中往復書簡、公判記録、関係者への取材により多角的に掘り下げている。母と娘の濃密すぎる同居生活、多大な期待と暴力、そして“棄権できないレース”としての受験地獄が、心理面と社会的背景の双方から記録される。加害者・被害者の両視点を徹底的に調査した姿勢が、事件の単なる表層ではなく、現代日本の家族・教育問題を照射している点が特徴となっている。また実際のLINEや手紙、母親の教育方針の詳細も明記されるため、家庭内で潜在化しやすい“教育虐待”の深刻さをリアルに伝えている。​

以下内容要約

 

教育という名の支配がもたらしたもの

2018年に滋賀県で起きた母親殺害事件を追ったこの本は、単なる犯罪ルポルタージュではない。齊藤彩が描き出したのは、母娘関係という最も親密であるべき絆が、いかにして牢獄へと変わっていくかという過程だった。31歳の娘・あかりが、58歳の母・妙子を殺害するまでの軌跡には、現代社会が抱える教育の病理が凝縮されている。

呪縛の始まり

齊藤彩は元共同通信社の司法記者として、この事件の公判を取材した。そこで見たあかりの姿に、自分自身の影を重ねたという。拘置所での面会、膨大な往復書簡を通じて、齊藤彩は事件の核心へと迫っていく。母親は幼い頃からあかりに医師になることを強要し、テストで満点を取れなければ「バカ」「死ね」という罵倒を浴びせた。熱湯をかける、偏差値の差だけ鉄パイプで殴るといった暴力も日常だった。

 

あかりの人生には、母親の承認以外の目標が存在しなかった。進路も交友関係も日常生活のすべてが監視され、家出を試みれば探偵を雇って連れ戻される徹底ぶりだった。9年間の浪人生活を経て、医学部合格という夢は遠のいていく。それでも母親は周囲に「娘は合格した」と虚偽を伝え続けた。現実と嘘の乖離が深まるにつれ、母娘は社会から孤立していった。

モンスターを倒した日

2018年1月20日未明、あかりは母親のマッサージ中に、孫の手に包丁を固定した凶器で母親の首を複数回刺した。犯行直後、あかりはTwitterに「モンスターを倒した。これで一安心だ」と投稿した。この18文字には、30年以上続いた支配からの解放感が滲んでいた。しかし一審で殺人を否認していたあかりは、二審の大阪高裁で一転して犯行を認め、大粒の涙をこぼした。

 

この変化は偶然ではなかった。獄中で多くの「母」や同囚との対話を重ね、別居していた父親との接見を通じて、あかりは自分が置かれていた状況を客観視できるようになった。あかり自身も「いずれ、私か母のどちらかが死ななければ終わらなかった」と述べている。控訴審で裁判長が「罪を償い終えた後は、豊かな人生を歩んでください」と告げたとき、あかりはようやく自分自身の人生を生きることを許された。

母もまた呪縛の中にいた

齊藤彩は母・妙子の生い立ちにも目を向ける。妙子もまた複雑な家庭環境で育ち、親からの愛情を十分に受けられなかった。高度成長期終盤に生まれ育ち、女性が社会で活躍し始めた時代に、自分が叶えられなかった夢を娘に託そうとした。妙子があかりに吐いた「お前は何をやってもだめ、生きる価値がない」という暴言は、本当は自分に向けられるべき言葉だったのかもしれない。

 

齊藤彩自身も、母親の期待と自分の意思が一致しないという点で、あかりと似た経験をしていたと明かす。だからこそ、この事件を「他人事」として片付けることができなかった。教育を巡る親子の確執は、決して特殊な家庭だけの問題ではない。学歴社会である日本では、多くの親が子どもに過剰な期待を寄せ、それが知らず知らずのうちに支配へと変わっていく。

家族という密室

本書が提起するもう一つの問題は、家族内の虐待に外部が介入することの困難さだ。あかりには父親がおり、経済的支援も行っていたが、母娘の関係に踏み込むことはできなかった。高校時代の友人たちは、あかりの体に傷があることに気づき、成績表の改ざんまで手伝おうとしたが、結局救うことはできなかった。家庭という密室で起こる虐待は外部から見えにくく、被害者自身も「これが普通だ」と思い込んでしまう。

 

20年以上前に別居した父親が実質的に母娘関係に介入できなかったこと、周囲の人々も「教育熱心な母親」という表面的な理解にとどまり、深刻な虐待の実態を見抜けなかったことが、事件を防げなかった一因となった。社会学者の分析によれば、母娘関係は父息子関係とは異なり、社会的介入の機会が少ない。家族問題への社会的介入の難しさは、密室化した家庭内での虐待を外部から発見・対処することが極めて困難であることを物語っている。

世間という名の母

本書を読んだ批評家たちは、娘たちにとって「世間」とは実は「母」そのものではないかと指摘する。母親たちは娘に「それは世間が許さない」と唱えるが、実際に娘を縛り、追い詰めるのは世間ではなく母自身だ。この構図は、多くの母娘関係に共通する普遍的な問題を浮き彫りにしている。

 

母親は娘に対して繰り返し「許さない」という言葉を使った。医学部に入学できないこと、助産師コースに落ちたこと、門限を破ったことなど、あらゆる行為を「許さない」と断罪し続けた。そして驚くべきことに、あかりは母を殺害した後でさえ、「私の行為は決して母から許されない」と述べている。30年近くにわたって刷り込まれた「母の許可なしに生きられない心理」は、物理的な死を超えてなお娘を縛り続けた。

懲役15年という解放

一審は懲役16年、二審は懲役15年という判決が下された。皮肉なことに、この刑務所という「本物の牢獄」が、あかりにとっては母という「牢獄」からの解放をもたらした。獄中であかりは、多くの「母」や同囚との対話を重ね、父親との接見を通じて、自分の人生を取り戻していく。刑務所での服役生活は、初めて自分自身と向き合う時間となった。

 

齊藤彩は本書の最後で、あかりが刑務所で自分の人生を取り戻し、平穏に生きられることを願う言葉で締めくくっている。贖罪と再生の可能性を問いかける静かな結末だ。著者自身も、事件取材後に通信社を辞め、自分の心が望む人生を歩み始めた。この決断は、本書のメッセージを体現するものでもあった。

黄色いコップが象徴するもの

日常に潜む母娘の力関係を象徴するエピソードとして、「黄色いコップ」の場面がある。些細なコップの選び方や使い方で、母親のルールに従わないと罵倒や差別的な扱いを受ける。一見些細な日常のやりとりの裏に、母親から娘への支配や統制の構造があることが示される。娘は母の機嫌や価値観に合わせて行動することを強いられ、自分らしさや主体性が徐々に失われていく。

 

こうした日常の積み重ねが、あかりの人格や自己肯定感を破壊していった。母親からの過剰な圧力だけでなく、身体的な暴力も記録されており、あかりが「逃げ場のない閉塞感」の中で心身共に追い詰められる様子が克明に描かれている。

普遍的な問題としての教育虐待

本書は発行部数9万3千部を超える異例のヒット作となり、読者からは「人ごとではない」「自分にも当事者性がある」という共感の声が多数寄せられた。学歴社会である韓国からも多くのコメントが届き、類似の事件が韓国でも発生していたことが明らかになった。第45回講談社本田靖春ノンフィクション賞の最終候補に選ばれ、2025年にはマンガ化もされている。

 

齊藤彩が問い続けるのは、「何が人を加害者たらしめるのか」という根本的な問いだ。加害者の視点に立って事件と向き合うことで、再発防止や教訓を引き出そうとする姿勢が、本書の意義となっている。淡々とした文体でバイアスのない記述が特徴であり、あかり自身の手記が多数引用されることで、聡明で文才のある一人の若者が悲劇に至る過程がより痛切に伝わる構成となっている。

良かれと思っての暴力性

齊藤彩は自らのインタビューで、「私の母もこの事件の母親と似たところがあって。『良かれと思って』子どもにさまざまな助言をするタイプなんです」と語っている。この指摘は極めて重要だ。本書は加害者としての母親を単に悪として描くのではなく、「娘の幸せを思い、地位の高い女性になってほしい」という親心が、どのようにして極端な支配と虐待へと転化していったのかを問い続ける。多くの親が抱き得る心理の延長線上に、この事件があることの恐ろしさが、本書の核心的なメッセージなのだ。

 

母親は自分自身が成し遂げられなかった夢や社会的地位への執着から、娘に「医学部合格」という目標を押し付けた。娘の意思よりも母の望みが優先され、受験勉強のプレッシャーや母の厳しい監督により、あかりは逃げ場を失った。母娘関係が受験というフィルターを通じてさらに歪み、娘が精神的に極限まで追い詰められていく。

二度目の囚人として

終章では、あかりが「二度目の囚人」として服役生活を送る姿が描かれる。家庭という牢獄から刑務所という牢獄へ。しかし今度は、物理的な自由を失いながらも、精神的な再生の可能性に気づいていく。父との再会と贖罪への思いを深め、家族への愛憎や和解の難しさが複雑に絡み合う。刑務所での発達や気づき、払罪と願いに至る心情が綴られる。

 

外的な自由を失った場所で、初めて内的な自由を得る。この逆説が、本書の最も印象的なメッセージとなっている。あかりは刑務所で、家族という呪縛から解放され、ようやく自分自身の人生を歩み始めることができた。

 

本書は、家族を持つすべての人間にとって必読の書となっている。親子関係における愛情と支配の境界線、教育という名目での暴力、そして家族という密室で起こる悲劇をどう防ぐかという、現代社会が直面する重要な課題を提起しているからだ。学歴信仰、子ども中心主義、母親への過度な育児責任の押し付けといった日本社会の構造的問題が、一つの家族の悲劇として結実した。そしてそれは、決して「特殊な事例」ではない。

エチオピアの酒を主食とする人々の画像

 

 

書籍情報

著者:高野秀行​
出版社:本の雑誌社​
発行年:2025年
価格:1,980円
ジャンル:ノンフィクション/旅行記・フィールドワーク/文化人類学・食文化/アフリカ地域研究​

著者のプロフィール
高野秀行は1966年東京都生まれのノンフィクション作家で、早稲田大学探検部出身、『幻獣ムベンベを追え』でデビュー後、辺境取材を軸に独自の紀行・文明視点を発表してきた。ション賞・梅衿忠夫賞を受賞、『イラク水滸伝』で植村直己冒険賞・Bunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞するなど受賞歴多数で、「誰も行かないところへ行く、誰もやらないことをする、誰も書かない本を書く」をモットーとしている。​

本書の特徴
本書は、エチオピア南部の「酒を主食とする民族」の現実と実態を、テレビ取材の現場経験と最新の学術知見を横断させて検証する点が最大の特徴である。自分の体験と現地の生活世界を重ね、娯楽性の高い筆致で文化人類学的テーマを一般読者に開かれた構成となっている。​

 

以下内容要約

 

酒を主食とする民族の秘密

世界のどこかに、朝から晩まで酒を飲んで生きている民族がいる。正確には、酒こそが主食で、固形物はほとんど口にしない。そんな馬鹿げた話があるわけない——そう思うのが常識だろう。だが、エチオピア南部のデラシャという民族は、本当にそういう生活を送っていた。高野秀行は、学術書のなかでその存在を知り、自分の目で確かめるため、テレビクルーと共に現地へと向かった。

緑色の濁り酒パルショータ

デラシャの人々が毎日飲んでいるのは、パルショータと呼ばれる緑色の濁り酒だ。モロコシとトウモロコシを主原料とし、三ヶ月以上かけて乳酸発酵させる。完成品のアルコール度数は三から四パーセント程度。ビールより少し弱いくらいだが、成人男性が一日に飲む量は約五リットルにも達する。これは子どもや妊婦、病人も含めて、村の全員が日常的に口にする飲み物だ。

 

発酵の過程で、モロコシやトウモロコシに不足していた必須アミノ酸、特にリジンが微生物によって生成される。その結果、原料のアミノ酸スコアは三十五から三十七パーセントだったものが、パルショータでは四十九から五十一パーセントまで上昇する。つまり、ただの穀物粥ではなく、発酵という技術によって栄養価を高めた「完全食」に近い存在なのだ。

 

新潟大学の砂野唯助教の研究によれば、パルショータ百グラムあたりの熱量は六十八から百九キロカロリー。一日に四から六キロ摂取すれば、成人に必要なカロリーは充足される。さらに、タンパク質やリジンも含まれており、固形物をほとんど食べなくても栄養失調にならない理由がここにある。

毎日五リットル飲んでも健康

常識的に考えれば、毎日五リットルの酒を飲み続ける生活は、肝臓疾患や高血圧、糖尿病を引き起こすはずだ。だが、現地の医師によれば、デラシャの人々にはそうした病気がむしろ少ない。周辺の民族と比べても、健康状態は良好だという。

 

現地出身の医師アベラ博士は、自らを「生まれる前から酒を飲んでいた」と表現した。妊婦が日常的にパルショータを飲むことで、胎児の段階からアルコールに曝露されるが、それでも健康被害は報告されていない。ただし、高野が指摘するように、これは「自然な形で酒を飲んでいる限り」という条件つきだ。もし蒸留酒のような高濃度アルコールを一気に摂取すれば、話は別だろう。

 

デラシャの生活様式において、パルショータは嗜好品ではなく、厳しい自然環境に適応するための合理的な栄養摂取システムとして機能している。固形物を噛んで飲み込むよりも、液体で栄養を摂る方が、消化吸収の効率が高い。さらに、発酵によって保存性も高まる。彼らの酒食文化は、単なる伝統や習慣ではなく、生存のための知恵なのだ。

段階的慣らしとコンソの比較

高野たちは、いきなりデラシャへ向かったわけではない。まず、似たような酒食文化を持つコンソという民族の村で身体を慣らす作戦をとった。コンソの人々もチャガという酒を飲むが、一日の摂取量は約二リットルで、ソルガムの団子などの固形物も一緒に食べる。デラシャと比べれば、まだ「普通の食生活」に近い。

 

コンソでは、十人以上がグループを組んで順番に醸造作業を分担する仕組みがある。各家庭の負担を軽減し、安定的に酒を供給するための共同体のシステムだ。一方、デラシャでは、個々の家庭が保存性の高いパルショータを大量に仕込み、日々の醸造作業を簡略化している。この違いは、栽培作物、農法、生活様式、社会関係、味覚など、多角的な要因に影響されている。

「やらせ」との対峙

取材には、もう一つの大きなテーマがあった。それは、フィールドワークにおける「真実」の問題だ。高野たちが最初に案内されたのは、観光客向けに整えられた高級キャンプ地で、そこで見せられた「伝統生活」は、明らかに演出されたものだった。

 

興味深いのは、「クレイジージャーニー」という番組自体が、過去にやらせ問題で放送休止に追い込まれた経緯を持つことだ。今度は、取材する側ではなく、取材される側がやらせを仕掛けてきた。高野は、東京の制作スタッフと現地住民が同じ動機を持っていると喝破する。前者には「良い番組を作りたい」という欲求と「良い番組にならなければ」というプレッシャーがあり、後者には「観光客に良い印象を与えたい」という期待がある。

 

調査者の期待が、被調査者にプレッシャーを与え、本来の「真実」が歪められてしまう。これは、あらゆるフィールドワークが抱える構造的な困難だ。高野は、この問題に真正面から向き合いながら、「ホンモノの家族」を見つけ出し、彼らの日常に密着していく。

波乱の幕開け

物語は、成田空港でのビザトラブルから始まる。現地コーディネーターの不手際で、出国できなくなった高野は、「今日エチオピアに行けないなら、別のエチオピアへ行こう」と発想を転換し、葛飾のエチオピア料理店へ向かった。そこでエチオピアの主食インジェラを食べたところ、なんとアレルギー反応を起こし、救急搬送される羽目になった。

 

この波瀾万丈の幕開けは、本書全体のトーンを象徴している。綿密な準備よりも、現場での即興と対応力が試される辺境取材の実態が、抱腹絶倒の筆致で描かれるのだ。

専門家たちの評価

臨床心理士で作家の東畑開人は、本書を「笑えるのに深い」と評した。「酒とは何か」という問いが、「人間とは何か」「近代とは何か」という問いと同じ重みを持つ点を強調する。砂野唯の原著『酒を食べる』は、第二十六回高島賞を受賞しており、「民族的な知識や技術の合理性を自然科学的手法で検証する姿勢」が高く評価された。高野の本書は、この学術研究を一般読者向けの「体験記」として再構成することで、科学的知見と文化人類学的洞察を融合させた稀有な作品となっている。

 

大阪大学名誉教授の仲野徹は、「誰か冒険心あふれる医師が赴任して、本格的な疫学調査とかやってくれないかな。行けば酒は一日中飲めるんやし、楽しいと思うけどなぁ」と、医学的興味の視点から本書を推した。

文明の価値観を問い直す

本書は、単なる旅行記を超えて、現代文明のあり方を問い直す視点を持っている。我々が「正常」「豊か」と呼ぶものは、実は特定の文化的・科学的な価値観から見た一つの判断に過ぎない。デラシャの人々は、自然環境が厳しいなかで独自の合理的なシステムを構築し、健康に暮らしている。彼らの生活を「異常」や「遅れている」と見なすのは、近代的な価値観の押しつけでしかない。

高野秀行の方法論は独特だ。彼は「誰も行かないところへ行く、誰もやらないことをし、誰も書かない本を書く」をポリシーとしているが、これは意図的な冒険ではない。「人が行かないのには理由がある。それはリスクが高いということ。だから、僕の行動は結果として冒険的になってしまう」と本人は語る。

 

彼の取材方法は「徘徊」と呼ばれる。混沌とした場では、型通りのインタビューをしても本質は得られない。むしろ、あてもなく歩き回り、偶然の出会いを積み重ねることで、真実に近づくことができる。これは、文化人類学のフィールドワークの基本であり、奥義でもある。東畑開人も「カウンセリングと同じくらい真剣な姿勢でフィールドワークをしている」と指摘する。

多様な文化の存在を知る

『酒を主食とする人々』が示す最も重要なメッセージは、多様な文化の存在を知り、理解することの面白さと重要性だ。高野は、この驚くべき世界を「面白おかしく」描きながら、人間とは何か、文化とは何か、健康とは何かという根本的な問いを投げかける。

落合陽一 魔法の世紀 書籍

 

書籍情報
著者:落合陽一
出版社:PLANETS/第二次惑星開発委員会
発行年:2015年
価格:1,760円
ジャンル:情報学/メディアアート/現代思想/テクノロジー論/人間・機械インターフェース/社会デジタル論

著者のプロフィール
落合陽一は、メディアアーティスト、筑波大学準教授であり、ネイデジタルチャー(人間と機械、現実と仮想が融合する自然観)という独自のコンセプトを提案する研究者です。 1987年生まれ、東京大学大学院の博士課程を修了し、プラズマや音波による物質浮遊などを開発し、科学技術とアート双方の領域で国際的な評価を受けています。​

本書の特徴
本書『魔法の世紀』は、20世紀の「映像の世紀」から、21世紀の「魔法の世紀」へのパラダイムシフトを論じます。コンピュータ技術情報による環境の進化を、「魔法」として捉え、その⼒が人間の認知と創造性、社技術と芸術、現実と仮想構、人工と自然を横断しながら、未来の社会像や人間中心主義を乗り越えた新しい価値観について語られる点が特徴です。​

以下内容要約

 

映像の世紀から魔法の世紀へ

20世紀は映像によって世界が変わった時代だった。リュミエール兄弟のシネマトグラフが人々をスクリーンの前に集め、同じイメージを共有することで社会が動いた。けれども21世紀は、その仕組みが根本から変わる。コンピュータが環境に溶け込み、技術の仕組みが見えなくなる。その結果、技術はまるで魔法のように感じられるようになる。

 

落合は、この転換を「映像の世紀」から「魔法の世紀」への移行だと表現する。映像技術が画面の中に現実を閉じ込めたのに対し、計算機技術は現実そのものを書き換える力を持つ。バーチャルとリアル、仮想と物理の境界が消えていく過程で、新しい自然観が生まれる。それが「デジタルネイチャー」という概念だ。

 

芸術と科学が再び融合する時代でもある。産業革命以降、人間の精神を扱う「リベラルアーツ」と自然を機械的に扱う「メカニカルアーツ」は分離していた。しかしコンピュータによって、この両者が再び一つになろうとしている。知的好奇心と持続可能な希望を実現する世界観が、ここから開かれていく。

コンピュータという環境の誕生

第二次世界大戦末期に誕生したコンピュータは、当初は暗号解読や弾道計算に使われる巨大な機械だった。クロード・シャノンが23歳で発表した論文が、この分野の基礎を築いた。彼は0と1のブール代数を電気回路で計算できることを示し、「コンピュータにおけるアインシュタイン」と呼ばれるようになった。

 

1960年代、アイバン・サザランドという研究者が登場する。彼が提唱した「究極のディスプレイ」という概念は、今日の拡張現実技術の原点となった。サザランドはこう語った。「究極のディスプレイは、コンピュータが物の存在をコントロールできる部屋になる。椅子を表示すれば座れるし、弾丸を表示すれば命を奪う。そのようなディスプレイができれば、アリスが歩いていたような不思議の国を実現できるだろう」

 

この言葉は、コンピュータが単なる計算機械ではなく、物理世界を制御する装置になる未来を予見していた。サザランドの弟子たちは、それぞれの分野でこのビジョンを実現していく。アラン・ケイはパーソナルコンピュータの概念を確立し、ジェームズ・クラークはシリコングラフィックスとネットスケープを創業した。ジョン・ワーノックはアドビを立ち上げ、エド・キャットムルはピクサーでCGアニメーションの基礎を作った。

 

1991年、マーク・ワイザーが「ユビキタス・コンピューティング」という概念を発表する。発達した無線網があれば、どんなものもデジタルとアナログの区別なくコミュニケーションするようになる。コンピュータが生活環境の一部に溶け込むことで、初めて真のユビキタスが実現する。こうして、コンピュータは「モノ」から「環境」へと進化していった。

メタから直接体験へ

20世紀の芸術は、メタ的な問いかけに満ちていた。マルセル・デュシャンが男性用便器を横に倒して『泉』という作品にしたとき、彼は「何を芸術とするかを問うのが芸術である」という禅問答を始めた。ジョン・ケージの『4分33秒』は、演奏者が4分33秒間何も演奏しないことで、「音楽とは何か」を問いかけた。ナム・ジュン・パイクは、ビデオモニターを使って「イメージと物質の間にもう一つ新しいイメージを挟み込む」メタ的な表現を追求した。

 

これらは「敗北のゲーム」と呼ばれる。意味の相対化と問いかけの連鎖によって、芸術は自己言及的な迷路に入り込んでいった。

しかし21世紀、計算機の力によって新しいルールが生まれる。それが「原理のゲーム」だ。メタ的な問いかけではなく、「すごい」「美しい」といった感覚に直接訴えかける表現が可能になる。計算パワーを使って人の感覚を直撃することができるようになったのだ。

 

落合自身の作品がこの転換を体現している。 超音波を使って小さな物体を空中に浮遊させる「ピクシーダスト」、シャボン膜に超音波を当てて光を乱反射させる「コロイドディスプレイ」、フェムト秒レーザーで空中にプラズマを発生させて触れることのできる立体映像を作る「フェアリーライト」。これらは技術の原理を直接体験に変換する試みだ。

 

エジソンのキネトスコープも、同じ意味でメディアアート作品だったと落合は指摘する。概念や意味ではなく、人間の知覚体験を拡張するメディアとして捉えられる。計算機が物質世界をプログラムできる時代において、芸術は物質と情報、空間と時間を横断する表現の場へと進化していく。

場としての計算機

従来、コンピュータは箱の中にある「モノ」だった。しかし21世紀のコンピュータは、環境そのものになる。音、電磁気、光、アルゴリズム。これらすべてがコンピュータ上では等価になり、統一言語で記述される。

 

物理学における「場」という概念が、ここで重要な意味を持つ。電磁気学では、空間のあらゆる点に電場や磁場が存在し、それが相互に作用する。同じように、コンピュータは空間全体を記述し制御する「場」として機能するようになる。これが「コンピューテーショナル・フィールド」という考え方だ。

 

人間の感覚器の限界をはるかに超えたテクノロジーが、物体と情報を統合した場を構築する。磁気浮遊、空中ディスプレイ、触覚映像。これらは人間の知覚の限界を超えた新たな感覚体験を生み出す。生命現象や物理現象も場として記述され、アートは新しい次元に到達する。

 

建築家のザハ・ハディドやフランク・ゲーリーが設計した自由曲面の建物は、コンピュータによる構造計算があって初めて実現可能になった。人間の認知と情報環境が一体化することで、新しい自然が生まれる。それが魔法の世紀の本質だ。

デジタルネイチャーという自然観

有史以来、人間は脳内のイメージと物質世界の間にギャップを抱えてきた。洞窟の壁に牛や狩猟の様子を描いた古代人も、この問題に直面していた。絵画、文字、映像。さまざまなメディアが、このギャップを埋めるために発展してきた。

 

20世紀は「二次元イメージの共有」の時代だった。活版印刷が宗教改革を引き起こし、映像が社会を根本から変えた。エジソンのキネトスコープ、リュミエール兄弟のシネマトグラフによって、時間と空間が二次元平面に落とし込まれ、イメージが大衆で共有されるようになった。

 

しかし21世紀、このパラダイムが転換する。約500年続いた枠組みが変わり、イメージと物質のギャップが解消される時代が来る。 それが「デジタルネイチャー」という新しい自然観だ。

 

デジタルネイチャーとは、物質、精神、身体、波動、あらゆるものをコンピュータの視座で統一的に記述していく計算機的自然観のことだ。従来の「自然」という概念を根本から拡張し、デジタル技術が浸透した社会や環境そのものを「新しい自然」として捉える。人間とコンピュータの区別がなくなり、それらが一体として存在する世界が現れる。

 

落合の作品「フェアリーライト」は、この理論の実践例だ。フェムト秒レーザーで空中にプラズマを発生させ、三次元的なイメージを描き出す。イメージのように現れながら、物質のように振る舞う。触ることができるホログラム的な体験を提供する。デジタルデータから直接、現実空間に干渉する。

 

六本木ヒルズの展望台での作品では、地平線という「人間の概念上の線」の上に大きなディスプレイで線を引いたり蝶を飛ばしたりした。ここでは「量は質を変える」という原理が示されている。高い光量のディスプレイにデータを重ねることで、身体性のレベルでデータと直接対話することが可能になる。

体験と価値観の問い直し

デジタルネイチャーの世界では、あらゆるものが記述され計測される「超自然」の環境が現れる。従来は不可能だった表現や体験が、デジタル技術によって日常化する。ここでいう「超自然」とは、従来の自然法則を超えた現象が当たり前になることを意味している。

 

この変化は、根本的な問い直しを迫る。「なぜそれが価値があるのか」という意味の問い直し。「体験とは何か」という体験の定義の変容。既存のルールや価値観が大きく揺らぐ可能性。

 

データやプログラムが「新しい生態系」の一部として振る舞う環境では、人は自分自身も含めたすべてを「情報」として捉える意識変革が必要になる。人間中心主義から脱却し、人間もコンピュータも、ともにこの「計算機自然」の中に組み込まれた存在として再定義される。

 

荘子の「胡蝶の夢」が、ここで新しい意味を持つ。荘周が夢の中で蝶になったのか、蝶が夢の中で荘周になったのか。デジタルネイチャーの世界では、現実と仮想の区別がつかなくなる。どちらが「本物」でどちらが「偽物」かという問いそのものが無意味になる。

日本的な美意識との接続

落合は、西洋哲学と東洋哲学の自然観の違いにも触れている。西洋では自然と人工物を明確に区別する傾向があるが、東洋、特に日本では、両者を連続的に捉える思考がある。計算機を「自然の一部として取り込む新しい自然観」は、実は日本的な思考と親和性が高い。

 

日本人研究者の貢献も大きい。MITメディアラボの石井裕は、「タンジブル・ビッツ」という概念を提唱した。形のないデジタル情報を手で触れることができるように有形化する研究だ。この研究は、コンピュータサイエンスの領域を超えて、メディアやアートの領域にまで影響を与えている。

 

暦本純一も、日本のユビキタス・コンピューティング研究の先駆者として知られる。コンピュータが環境として進化し、人間の思考プロセス自体が変化していく様子を、彼らは実践的に示してきた。

原理のゲームと敗北のゲームの両立

興味深いのは、落合が「原理のゲーム」と「敗北のゲーム」の両方を使えることが重要だと指摘している点だ。テクノロジーで直接問題を解決する「原理のゲーム」だけでは不十分で、製品自体に象徴的な意味を持たせる「敗北のゲーム」も必要になる。

 

企業も、この両方の戦略を継続することが求められる。技術的な優位性だけでなく、ブランドや物語の力も重要だ。21世紀においても、意味と体験の両方が価値を生む。計算機が感覚に直接訴えかける力を持つようになっても、人間は意味を求め続ける。

 

問題を発見し、自ら定義する力も重要になる。これが「イシュードリブン」の時代だ。複雑な社会状況に応じて自ら戦略を再定義し実践する主体性が、個人にも企業にも求められる。

新しい世紀の魔法使いたち

落合が提示するビジョンは、技術的な未来予測にとどまらない。人間とは何か、自然とは何か、体験とは何か。こうした根本的な問いに対して、新しい視点を提供している。

 

コンピュータの計算力は圧倒的だ。1秒に30億回計算し、インターネットによって永久記憶を可能にする。この圧倒的な計算力が、人間中心主義を脱構築し、新しい自然観を生み出す基盤となっている。

 

技術がブラックボックス化して仕組みが見えなくなるとき、それは魔法のように感じられる。しかし真の魔法は、技術を使って世界の捉え方そのものを変えることにある。21世紀は「魔法使いになる世紀」だと落合は宣言する。

 

その魔法は、エジソンがキネトスコープで人々を驚かせたように、人間の知覚と体験を拡張する。サザランドが「究極のディスプレイ」で夢見たように、コンピュータが物理世界を制御する。ワイザーが「ユビキタス・コンピューティング」で予見したように、技術が環境に溶け込む。

 

そして最終的に、イメージと物質のギャップが解消された「デジタルネイチャー」という新しい自然が現れる。芸術と科学が再び融合し、人間と機械の境界が消えていく。そこに生まれるのは、計算機的自然観に基づく新しい世界観だ。

落合陽一の『魔法の世紀』は、こうした転換点に立つ私たちに、未来への想像力と実践の手がかりを与えてくれる。技術革新によって変容する社会の中で、どのように主体性を保ち、どんな新しい価値観を築くか。その問いに向き合うための視座を、この書は提供している。

疑似科学から科学をみる書影

 

 

書籍情報
著者:マイケル・D・ゴーディン
訳者:隠岐さや香(監訳)、平井正人(訳)、住田朋久(訳)、黒川尚子(訳)
出版社:岩波書店
発行年:2025年
価格:2,310円
ジャンル:科学史/科学哲学/疑似科学論/現代思想/科学と社会の関係

著者のプロフィール
マイケル・D・ゴーディンは、アメリカ・プリンストン大学で科学史を専門とする歴史学者であり、同大学の教授・学長(2021年現在)を務める。科学と社会の関係やロシア科学史、核兵器の歴史、言語と科学技術の関係など広範なテーマで世界的評価を受けている。著書には『On the Fringe: Where Science Meets Pseudoscience』『Scientific Babel』『The Pseudoscience Wars』などがあり、科学の境界性や周縁知識の社会的位置づけを長年にわたり研究してきた。

本書の特徴
本書『疑似科学から科学をみる』は、かつて主流だったが今では疑似科学とされる諸理論(占星術や錬金術、骨相学、優生学など)を歴史的・社会的に解説し、現代の創造論・心霊研究・「水の記憶」といった新たな論争主題まで射程に収めている。疑似科学批判を一方的に行うのではなく、境界画定(デマーケーション)の歴史そのものと、そこにある社会・政治・文化の力学を読み解くことで「科学とは何か」を問い直す。否認主義が拡大し「信じる科学」が分断を生む現代社会で、科学の本質を再考させる一冊。

 

以下内容要約

 

科学の周縁で何が起きているのか

科学と疑似科学の違いは何か。これは一見単純に思えるが、歴史をひもといてみるとその答えは意外にもぼんやりしている。科学とはどこで疑似科学に変わるのか、その線引きは固定的ではなく、時間とともに移動し続ける。プリンストン大学の科学史家マイケル・D・ゴーディンが著した『疑似科学から科学をみる』は、この問題を正面から扱う一冊である。

現在の私たちは、科学と非科学を明確に区別できると考えがちだ。しかし過去を振り返れば、その線引きがいかに流動的であったか、また時の権力や社会的需要によっていかに容易に書き換えられてきたかが見えてくる。占星術も、かつては天文学と不可分だった。ケプラーやティコ・ブラーエといった一流の天文学者たちが、星々の位置から人間の運命を読み解こうとしたのである。彼らは観測機器を改良し、緻密な計算を重ねて、天体の運動を記録した。その過程で得られた知見が、やがて近代天文学の基礎となっていった。占星術が疑似科学に転じたのは、占星術自体が失敗したからではなく、天体物理学という新しい専門分野が確立され、その枠内に組み込まれない領域として周縁化されたからである。

錬金術も同じ道をたどった。金に変える術を求めた錬金術師たちの実験室での工夫は、一見すると迷信の産物に見えるかもしれない。しかし彼らが試行錯誤の過程で開発した蒸留、昇華、焙焼といった技術は、実験化学の基本操作そのものである。彼らが記し残した物質変化の観察記録や装置の設計図は、やがて近代化学の装置や操作法へと発展していった。パラケルススやロバート・ボイルのような自然哲学者たちは、錬金術の継承者であり同時に近代科学の先駆者でもあったのだ。

骨相学にしても事情は変わらない。頭蓋骨の形状から精神的特性や知的能力を判断しようとした試みは、現在の神経科学における脳の機能局在説の先駆けであった。フランツ・ガル(Franz Gall)は詳細な解剖学的観察に基づいて、脳の異なる領域が異なる心的機能に関わると主張した。その着眼は間違っていなかった。ただし彼の方法論が粗雑で、統計的検証を欠いていたこと、そして何より彼の理論が人種差別や階級差別の正当化に利用されたという社会的背景が、骨相学を疑似科学の座へ追い込んだのである。

こうした理論が「疑似科学」とされるようになったのは、単に知識の進歩や観測精度の向上があったからだけではない。むしろ重要なのは、科学が専門職として確立される過程で、競合する理論を周縁へ押しやる必要が生じたことである。19世紀から20世紀初頭にかけて、科学は大学を中心とした制度的基盤を整備し、査読制度を導入し、専門的訓練を受けた者だけが科学的知識を生産する権限を持つようになった。その過程で、医学会や学士院といった公式な機関に認められない理論は、いかに実績があろうとも、いかに支持者がいようとも、体系的に排除されていったのだ。

いったん周縁に追いやられた理論が、再び中心へ戻ることは稀だ。占星術は今日でも愛好者がいるが、学術的な認可は得られない。錬金術の知識も、化学の歴史として保存される程度である。骨相学もまた、その誤謬を教える反面教師としてのみ言及される。ただし、時おり境界線は前後する。そうした例外的な現象も存在するのである。

鍼治療のように、非科学的と断定されていた領域が、限定的ながらも正統科学に再統合されることもあるのだ。東洋医学は長らく西洋医学の観点からは民間療法に過ぎないと見なされていた。しかし1990年代以降、神経生物学や神経化学の手法を用いた研究が進むにつれ、鍼による鎮痛メカニズムが科学的に解明されはじめた。ニューロンの活動パターン、神経伝達物質の放出、脳の画像診断によって、鍼刺激が実際に脳内で物質的な変化をもたらすことが示された。その結果、世界保健機関(WHO)も鍼治療の有効性を認め、多くの先進国で医療保険の対象に組み入れられるようになったのである。

このプロセスは自動的なものではなかった。鍼治療の再統合には、東洋医学の臨床的成果が無視できなくなったこと、西洋医学の測定技術が進化したこと、そして社会的需要が高まったことが複合的に作用している。つまり、科学的境界線の移動は、理論の真偽だけではなく、社会的・政治的・経済的要因によって左右される動的なプロセスなのである。その意味で、科学と疑似科学の区別は固定的ではなく、時代や地域、権力構造とともに相対的に変動し続けるものなのだ。

政治と科学のねじれた関係

科学の周縁には、単なる学説の浮沈だけでは説明できない現象が存在する。政治権力が科学そのものを改造してしまった事例である。こうした事態は、科学が社会制度として機能している以上、避けられない側面を持っている。

ソビエト連邦の事例は、その最も劇的な例である。農学者トロフィム・ルイセンコは、1930年代から1950年代にかけてソビエト農業政策の中心人物となった。彼はメンデル遺伝学を強く攻撃し、それを「ブルジョワ科学」「資本主義的な虚偽」と非難した。代わりにルイセンコが推し進めたのは、獲得形質の遺伝という説である。つまり、ある世代で獲得された特性が次の世代に遺伝されるという、現在の遺伝学では否定されている理論だ。この説はスターリン体制の意識形態と親和性が高かった。社会主義的改造を通じて人間や動物を改良できるという思想が、獲得形質説の理論体系と相容れたからである。

スターリンの強力な後ろ盾を得たルイセンコの理論は、ソビエト全体の農業政策に組み込まれた。メンデル遺伝学を支持する科学者たちは学位を剥奪され、職を失い、シベリア送りにされたり処刑されたりした。遺伝学者ニコライ・ヴァヴィロフは、ルイセンコの政敵として投獄され、獄中で死亡した。その間、ルイセンコのやり方に基づいた農業技術が全国で推し進められ、穀物の収量向上を約束されたが、実際には農業生産は停滞し、深刻な飢饉が繰り返された。この政策的転換によって、ソビエト農業は科学的基礎を失い、数十年にわたって経済的停滞をもたらすことになったのである。

ナチス・ドイツでも同じことが起きた。アルベルト・アインシュタインの相対性理論や、マックス・プランクやニルス・ボーアらの量子力学は、ナチス政権の眼からすると許容できない理論であった。これらが「ユダヤ物理学」として非難されたのは、理論的な不備があったからではなく、その理論の主導者や支持者の多くがユダヤ系であり、またこうした新しい理論が既存の世界観に挑戦するものだと見なされたからである。代わりにナチス体制が推し進めたのは、古典物理学への回帰という、事実上の科学的後退である。その結果、ドイツの理論物理学の中心的人物たちの多くが亡命を余儀なくされ、ドイツ科学は衰退の道をたどることになった。

ここで注目すべきは、科学の真偽が政治的権力によって決定されたことではなく、何が科学として制度的に保護されるか、誰がそれを宣言する権限を持つかが、権力関係によって左右されたという点である。言い換えれば、真実がどちらにあるかではなく、どちらの理論が公式なもとして社会的に承認されるかという問題が、科学的根拠ではなく政治的決定によって解決されたということなのだ。

現代日本の戦前期も無関係ではない。1930年代から1945年までの間、日本の科学政策が国家総動員体制の枠内で再編成されていく過程を見ると、政治と科学の関係が如何に密接であったかが明らかになる。天文学の研究機関も、物理学の大学講座も、戦争遂行に有用な技術開発へ向けて動員された。原子物理学の研究さえも、国防との結びつきで優先順位が決まった。一方で、戦争と無関係な基礎研究は資源配分から外され、人材も徴兵によって奪われていった。

さらに重要なのは、どの研究に資源が配分されるか、どの分野が国策に沿うか否かが判定される過程である。例えば遺伝学も、その応用可能性如何では重視されたり、あるいは軍国主義的なプロパガンダに利用されたりもした。生物学の基礎研究であっても、結果として差別思想を正当化するために悪用される危険性があったのだ。政治と科学は、常に緊張関係にあるのだ。その緊張は、科学が単なる知的追究ではなく、権力と結びついた社会制度であるという現実から逃れられない。

どの問題に取り組むべきか、どの理論に投資するか、どの研究者を支援するか。こうした判断は一見すると実務的なものに見えるが、実は社会の価値観、権力構造、そして時の政権の意向が深く組み込まれている。民主主義社会であっても、この原則は変わらない。むしろ透明性に欠けるために、より一層その影響は見えづらいものになっているのである。

主流に対抗する「科学」のかたち

疑似科学の中には、主流科学の構造そのものを模倣し、それに対抗する形で組織される理論群がある。こうした理論群は単なる無秩序な主張ではなく、科学と同じ社会的装置を整備し、科学と同じやり方で正統性を主張しようとするのだ。

創造論は聖書の創世記を科学的に立証しようとする運動である。特にアメリカ合衆国では、20世紀後半から創造論と進化論の対立が激しくなった。創造論の支持者たちは単に信仰を述べるのではなく、地質学的証拠の再解釈、古生物学的記録の別の読み方、そして物理学的理論を用いて、宇宙と生命が数千年前に創造されたことを科学的に証明できると主張するようになったのだ。彼らはインテリジェント・デザイン説という新しい理論体系を構築し、学会を開催し、同業者評価論文を発表し、大学での講義を要求した。その外見は、科学的活動そのものである。

UFO学もまた同様の構図を示している。政府が隠蔽している宇宙人訪問の証拠を収集し、目撃証言を記録し、物理的痕跡を分析する。UFO研究者たちは、自分たちが真摯な調査を行っていると確信している。彼らにすれば、主流科学がUFOを真面目に研究対象として扱わないのは、学問的な理由ではなく、権力的な抑圧なのだ。政府機関が宇宙人訪問の事実を隠蔽し、主流科学がその隠蔽に協力しているという陰謀論が、UFO学の世界観を支えている。

同様に、ある種の代替医療も、公式な医学制度に対抗する形で自らの正統性を構築してきた。ホメオパシーやキネシオロジーといった理論は、従来医学の治療法を批判し、自分たちの方法が真の治癒をもたらすと主張する。彼らも学会誌を発行し、臨床試験と称する調査を行い、実践者たちの訓練制度を整備した。その社会的装置だけを見れば、医学研究と区別がつかないのである。

これらは論文誌や学会を備え、科学的な装いを整えている。第一線の創造論学者は大学の職位を持ち、査読論文を発表している。UFO研究の中にも、物理学の学位を持つ者や工学の専門家が含まれている。代替医療の実践者たちも、解剖学や生理学の知識を習得し、病理学的メカニズムについて語ることができる。つまり、外部から見た場合、彼らと主流科学者の間には、社会的・制度的な区別が容易には見当たらないのだ。

支持者たちは、自分たちが真の科学的真実を追究していると信じており、主流科学が既得権益に基づいて新しい可能性を閉ざしていると見ている。この見方は全く根拠がないわけではない。科学の歴史は、既得権益が新しい理論を抑圧した例に満ちている。ウェゲナーの大陸移動説は地質学会に受け入れられるまで数十年を要した。ペニシリンの発見者フレミングの研究も、当初は軽視されていた。ガリレオやコペルニクスは権力と衝突した。こうした歴史的事実が、創造論者やUFO研究者たちに、自分たちも同じように抑圧されている被害者だという確信を与えるのである。

対立の鋭さは、双方が科学とは何かについて異なる認識を持つからだ。主流科学は専門的訓練と査読制度を重視する。科学者になるには大学院で専門教育を受け、学位を取得し、査読を通じた同業者の評価に耐える必要がある。知識は階層的であり、専門知識を持つ者だけが有効な知識を生産する権限を持つという立場である。

一方、反体制科学は直感的な真実追究と外部者の視点を重視する。素人だからこそ、既得権益に汚染されていない新鮮な視点が得られるという考え方である。彼らは査読制度を権力的な抑圧と見なし、学位や専門資格を形式的な障壁と見なす。むしろ実際の現象観察、直感的な理解、常識的な推論の方が、複雑な理論よりも信頼できると主張するのだ。

この構図は単なる知識の争いではなく、誰が正統性を独占するのかをめぐる社会的権力闘争なのである。どちらが真実に近いかという認識論的問題ではなく、誰が社会的に認められた知識生産者として機能するのか、その地位を誰が保持し続けるのか、という権力の問題なのだ。主流科学が主流足り得ているのは、大学や学会、査読誌という制度的基盤を保有し、政府や企業から研究資金を獲得し、医学や工学といった応用分野で実績を積み上げているからである。

しかし反体制科学もまた、独自の社会的ネットワークを構築している。本を出版し、会議を開催し、インターネットを通じて支持者たちと結びつく。特に現代では、デジタル技術が地理的制約を超えたコミュニティの形成を可能にした。創造論者たちはオンライン上で同志を見つけ、UFO研究者たちは動画サイトで数百万の視聴者にアクセスできるようになったのである。

したがって、科学と疑似科学の対立は、真偽の争いであるというより、二つの異なる正統性が社会的資源と影響力をめぐって競争する過程なのだ。どちらが勝つかは、科学的論証の力だけでは決まらない。教育制度、メディア環境、政治的背景、そして社会的信頼という複合的な要因が作用するのである。

科学と疑似科学を分かつものは何か

カール・ポパーが提唱した反証可能性という基準がある。オーストリア出身の哲学者ポパーは、科学と非科学を区別する決定的な基準を求めてこの理論に到達した。科学的理論とは、原理的に誤っていることが証明できる理論であり、決して間違っていることを証明できない理論は疑似科学である、というのだ。言い換えれば、ある理論が科学的であるためには、それに反する観察結果が理論上存在していなければならない。もしどのような現象が生じても理論と矛盾しないのであれば、その理論は科学ではなく信仰に過ぎないということになるのである。

ポパーの基準は優雅で論理的である。例えば、古典的なニュートン力学は反証可能である。もし惑星の軌道がニュートンの予測と異なれば、その理論は間違っていることが証明される。したがってニュートン力学は科学的である。一方、精神分析学の一部の主張は反証可能ではないかもしれない。患者が治療に反発するのは無意識の抵抗の証だと解釈されるならば、すべての反応が理論を支持する証拠として機能してしまい、理論を反証することが原理的に不可能になるからだ。

だが現実はそれほど単純ではない。ポパーの基準を厳格に適用すると、予期しない困難が生じるのだ。弦理論のような現代物理学の有力な仮説も、この基準を満たさない可能性がある。弦理論は、素粒子が一次元の弦であるという主張であるが、その検証に必要なエネルギースケールは現在および近い将来の実験技術では到達不可能であるとされている。つまり、反証可能性を満たすには、原理的に反証できるメカニズムが存在しなければならないが、弦理論の場合、技術的制約のためにそれが現実的に不可能に近いのである。それでも物理学者たちは弦理論を真摯に研究している。ポパーの基準を厳密に適用すれば、弦理論は疑似科学のカテゴリーに落ちることになってしまうが、そうした判定は物理学界で受け入れられていない。

一方で、地球平面説だって形式的には反証可能である。もし地球が本当に平面であれば、ある種の観察結果が予測される。例えば、地球が球体であることを示す衛星画像、船舶が地平線の下に沈んでいく現象、異なる緯度での太陽の角度の変化といった、すべてそれに反する証拠である。地球平面論者たちもまた、こうした観察結果に対して何らかの説明を提示することができる。光学的な幻想だとか、画像は政府による捏造だとか、重力ではなく密度が物質を引き下ろすのだとか。結局のところ、十分に工夫すれば、どのような反証的観察も理論の側に組み込むことが可能になってしまうのだ。

科学は実際には誤りを犯すことがあり、疑似科学が偶然真実にたどり着くこともある。歴史を見れば、当時の科学界から否定されていた現象が、後に実証されたケースは多い。隕石の落下は18世紀まで科学者に信じられていなかった。彼らは空から石が落ちてくるはずがないと考えていたが、農民たちはそれを目撃していたのである。超音波も、当初は科学的に実証不可能な現象と見なされていた。超常現象の一部も、後に科学的メカニズムが解明されることがある。例えば、暗示やプラセボ効果といった現象は、かつて疑似科学の領域に属すると思われていたが、現在は神経生物学によってメカニズムが明らかにされつつある。

単一の普遍的な基準で線引きすることは、理論的にも実践的にも不可能に近いのである。ポパーが提示した反証可能性という基準は、一見して科学的で論理的だが、実際の科学活動の複雑さを十分に捉えていない。科学の歴史は、こうした単純な基準では説明できない曖昧さに満ちているのだ。

科学的境界画定は避けられない実践的問題である。無限の時間と資源があれば、あらゆる仮説を検証することができるかもしれない。しかし現実には限られた時間と資源の中で、何が研究に値するかを選別する必要がある。大学の研究室の数は有限であり、助成金も限定的であり、学生の定員も決まっている。科学的共同体は、どのプロジェクトに投資するか、どの若き研究者を支援するか、どの論文を査読誌に掲載するかについて、絶えず意思決定を迫られているのである。

その判断基準が科学的理由だけに基づくわけではなく、文化的・政治的文脈に左右されるというのが現実である。例えば、環境問題に関する研究への投資が増加するのは、気候変動が科学的に重要だからではなく、社会的に関心が高まったからでもある。がん研究への資金が豊富なのは、それが医学的に重要であると同時に、患者会が強力なロビー活動を展開しているからでもあるのだ。逆に、学問的には興味深くても、応用価値が見当たらない基礎研究は、資金配分の優先順位が低下する傾向にある。

重要なのは、どのテーマを周縁と見なすかの判断に、社会全体の価値観や権力構造が反映されているということだ。占星術が疑似科学とされたのは、その予測能力がなかったからではなく、天文学が専門職化され、占星術との結びつきが切り離されたからである。超心理学が主流科学に受け入れられていないのは、その実験設計が根本的に欠陥しているわけではなく、心的現象への物質主義的還元主義が科学の主流的パラダイムを支配しているからでもある。

言い換えれば、科学と疑似科学の区別は、理論の内在的な特性ではなく、社会的・制度的・政治的コンテクストの中で構築されるものなのだ。その線引きは時間とともに変化し、地域によって異なり、権力関係によって左右されるのである。ポパーの反証可能性という基準は、科学的思考の重要な側面を捉えているが、科学がいかに社会的に構築されているかという現実には対応していないのだ。

現代の否認主義とその背景

気候変動否定論や反ワクチン運動が示すのは、科学をめぐる分断が単なる知識不足では説明できないということである。これらの運動に関わる人々が不合理だからではなく、科学的知識をどう信じるか、誰を信頼するか、そしてその知識が自分たちのアイデンティティや価値観にどう関連するかが深く影響しているのだ。タバコ産業が喫煙と健康のリスク研究を攻撃し、化石燃料企業が気候科学に疑義を唱えるのは、科学的根拠からではなく戦略的意思から出ている。科学出版の改革や教育の充実だけでは、こうした否認主義に対抗できないのである。

 

ゴーディンが提示するのは、科学と疑似科学が鋭く対立する二項対立ではなく、社会・時代・文化によって相対的に位置付けられる動的な場という見方である。科学は社会の中で何度も再定義されており、その周縁には常に疑似科学が存在し続ける。科学の本質を理解するには、偽物がいかにして偽物とされるのか、その歴史と社会過程を学ぶ必要がある。

我と汝・対話:ブーバーの哲学書

 

書籍情報
著者:マルティン・ブーバー
訳者:植田重雄
出版社:岩波書店(岩波文庫 青655-1)​
発行年:1979年(文庫版/原著1923年刊)​
価格:相場は1,000円前後から
ジャンル:宗教哲学/対話哲学(ダイアローグ哲学)/ユダヤ思想/実存主義的倫理

著者のプロフィール
マルティン・ブーバー(1878–1965)はウィーン生まれのユダヤ系思想家で、対話(ダイアローグ)を人間存在の根本構造とみなす「対話哲学」の中心的提唱者である。彼は青年期からユダヤ神秘主義の一派であるハシディズム研究に携わり、宗教的体験の核心を制度ではなく直接的な出会いに見出す視点を確立した。代表作『我と汝』は、近代が進めた対象化と手段化の世界観を相対化し、全人格的な呼びかけの関係においてのみ「真のわれ」が立ち現れると論じ、以後の宗教哲学・倫理学・教育・対人援助論に広範な影響を与えた。また、ブーバーは共同体形成と相互理解を重んじる立場から、政治的・社会的課題にも発言し、実存と共同体の接点を探究し続けた思想家として位置づけられる。​

本書の特徴
本書は「世界は二つの根源語によって経験される」という主張に立ち、対象化・利用の関係である〈われ‐それ〉と、全人格的な出会いの関係である〈われ‐なんじ〉を峻別して、人間の現実と意味の成立を対話的関係から解明する。そして、歴史的近代が〈それ〉の側の肥大をもたらしたことを批判的に点検し、〈なんじ〉との直接的な呼びかけと応答に回帰することで、自己と共同体の回復が可能になると論じる。さらに第三部では「永遠のなんじ」(神)への開けを通して、時間的な出会いが普遍的意味へと接続される構造を提示し、宗教哲学的次元で対話の根源を描き出す構成になっている。なお、岩波文庫版は主著二篇(『我と汝』『対話』)を収める定評ある古典的訳書であり、継続的に参照されてきたテキストである。​

 

以下内容要約

 

マルティン・ブーバーの対話的実存哲学――関係における真の自己の成立

ウィーン生まれのユダヤ系哲学者マルティン・ブーバー(1878-1965)が1923年に発表した『我と汝』は、単なる倫理学や宗教哲学の著作ではない。むしろ、現代人の実存がいかに歪められ、疎外されているのか、そしてその中にあって人間が真の自分を取り戻す道が存在するのかという問題に真摯に向き合った思想家の格闘の記録である。

 

本書の核心は単純だが、その含意は深い。人間は世界と関わるとき、二つの根本的な態度を取る。その態度の違いが、世界そのものの見え方を変え、自分自身の存在のあり方を規定する。言い換えれば、私たちがどう関係するかによって、世界は二つに分かれてしまうということだ。

二つの根源語――関係の仕方が存在を決める

ブーバーは「根源語」という造語を使う。これは単なる単語ではなく、関係の様式そのものを指す。一方は「我-それ」、もう一方は「我-汝」である。

 

「我-それ」の関係は経験と利用の態度だ。ここで我は対象を観察し、分類し、計算し、利用する主体として立つ。木を例にすれば、それを生物学的標本として認識し、樹齢を測り、材質を評価する見方である。人間関係でいえば、相手を性別や職業、経歴といった属性の集合体として把握し、その人間関係から何を得られるかを計算する態度だ。この関係を成立させるのは、時間と空間と因果律という枠組みである。つまり我が対象を知識化し秩序立てることで、世界は秩序だった客体の集合へと変わる。

 

これに対して「我-汝」の関係は全く異なる。ここでは媒介物が一切遮断され、二者が相互に全体として相対する現在性が成立する。木を我-汝の関係で経験する瞬間とは、生物学的知識も図像も手放し、その木の全体存在と出会う時だ。人間関係では、相手を役割や肩書きで分類することなく、この瞬間のあなたが全体として立ち現れる時である。

 

ブーバーが見落とさない点は、この二つの態度における主体の異なり方だ。我-それの世界では、我は機能的で分断的である。相手に対する操作者として、知識体系の要素として、社会的役割の担い手として、つまり部分的に立ち現れる。ところが我-汝の出会いの中にあってのみ、我は全体として、その責任を持つ者として初めて立つことになる。

 

言い方を変えれば、真の自己は孤立した内面にあるのではなく、他者との全体的な関係の出来事の中にしか成立しないということだ。この逆説的真実を見落とすことが、近代人の苦しみの源である。

三つの領域での出会いの様相

ブーバーはこの二つの根源語が、人間同士の関係、自然界、そして精神的なもの(最終的には神)という三つの領域すべてに貫通していると述べる。

 

人間同士の関係は最も明瞭だ。親友の顔を見つめるとき、相手の表情を心理的に分析することもできれば、全く別のあり方で相手と相対することもできる。相手を「理解する」ことと、相手と「出会う」ことは別の現象なのだ。

 

自然との関係も同様だ。ブーバーは少年時代に馬のたてがみを撫でた時の記憶を語る。その瞬間、馬の生命力そのものが自分に応答し、自分もまた全体として応答していた。知識を持ち込まず、計算も介入せず、ただ生命と生命が出会う経験である。

 

第三の領域は精神的なもの、突き詰めれば神である。ここでブーバーが言う神は、神学的な命題や教義ではなく、呼びかけと応答の相手としての生きた現存在だ。神は論証や思弁の対象ではなく、この瞬間に「汝」として呼びかけられるもの、応答する存在である。

時間とともに沈下する必然性

しかし、ここにブーバーが直視する悲劇がある。すべての時間的な汝は、必然的に「それ」へと沈降する

 

愛する者も、親友も、時間の経過とともに関係が制度化され、認識の対象へと転化する。当初は全体的な出会いであった関係が、やがて相手を「この人はこういう人だ」と分類し始める。相手の言動を過去の言動と比較し、パターンを認識するようになる。こうした過程は避けられない。出会いの瞬間を意識化しようとした瞬間に、その直接性は失われるのだ。

 

この円環的な運命から逃れられるのは、唯一「永遠の汝」としての神との関係のみだ。なぜなら神は時間内に存在せず、したがって「それ」へ沈下することがないからだ。すべての個別的で時間的な汝との出会いは、究極的には無限者への窓となり、その向こうの絶対的な現存在を指し示している。人間が誰かに「汝」と呼びかけるたびに、その呼びかけの背後には必然的に神への呼びかけが含まれている——ブーバーの思想はここに行き着く。

近代社会の危機診断

ブーバーが第二篇で繰り広げるのは、現代社会に対する深刻な診断だ。歴史の進展とともに「我-それ」の関係が過度に肥大化し、人間の対話的関係性が衰退してきたという診断である。

 

近代がもたらした理性化、制度化、科学化は、確かに技術的進歩と物質的豊かさをもたらした。しかし同時に、人間相互の直接的な対話と共同体的な結びつきが失われてきた。

 

その象徴的な現象が、制度と感情の分離である。人間は学校や職場に身を置くとき、機能的な役割語で他者と関わることを余儀なくされる。一方で個人的な感情は「私的領域」として別枠にされてしまう。このような二分割は、実は生の本来的な統一性を破壊している。真の関係とは、私全体がこの人と出会うことであり、役割と感情に分裂した状態ではない。

 

また、合理性と効率性が生の隅々に浸透することで、「汝」と出会う可能性そのものが縮小してきた。人間関係は相互理解という名目で心理学的に分析され、愛もまた「愛情」という感情データとして処理される。制度と感情の二分割は、じつは双方が「それ」化されることを意味しているのだ。

対話的関係性への回帰

ブーバーが提示する唯一の処方箋は「回帰」である。ただし、これは過去への郷愁ではない。現代社会の中にあってなお「汝」と出会うことの可能性を信じ、実践することを意味する。

 

人間は個人主義と物象化の陥穽から脱して、真の関係性を取り戻す必要がある。学校では子どもを「学習者」という抽象的なカテゴリーではなく、一人の人間として相対する。病院では患者を「患者」という機能的役割ではなく、生きた人間として対面する。職場でも市民対話でも、制度の枠組みを一度括弧に入れ、「自由」と「運命」が相互に約束し合う領域へと到達する必要がある。

ハシディズムとの深い繋がり

ブーバーが「汝」との出会いという思想に到達した背景には、ユダヤ教神秘主義の一派であるハシディズムとの深い関わりがある。幼少期にポーランドのハシディズム文化に接したブーバーは、制度的な宗教儀式よりも、日常の中における神との直接的な出会いと喜びの精神を学んだ。市場の取引の中にあっても、労働の最中にあっても、聖性は存在するという考え方が、彼の「出会い」の思想の源泉となっている。

現在における普遍的意義

ブーバーの『我と汝』は、20世紀初頭の西洋思想に深刻な影響を与えた。その思想はハイデガーやレヴィナスなどの実存主義哲学者、さらには心理療法や教育学、対人援助の領域にも広がり、人間関係の本質に関する深い思考を促してきた。

 

近代の合理化と物象化が人間の実存を脅かす状況は、むしろ現在ますます深刻化している。SNSの普及により、人間関係は「フォロー・フォロワー」という機能的な結合へと還元され、職場ではAIやデータ分析が人間関係を「最適化」する圧力が高まっている。こうした状況の中で、ブーバーが世紀前に提示した「真の出会い」という概念は、決して色褪せた理想ではなく、むしろ緊急の現実的課題として立ち現れている。

 

本書の最終的なメッセージは明確だ:すべての真実なる生とは出会いであり、人間は「汝」との無媒介な関係を通じてのみ、その本来の存在の意味を見出すことができるということである。この声は現代においてなお鮮烈であり、人間関係の物象化と疎外に抗する普遍的な思想的資産として機能し続けている。

紗久楽さわ 江戸漫画 BL インタビュー

 

書籍情報
著者:紗久楽さわ​
出版社:フィルムアート社​
発行年:2025年
価格:1,980円
ジャンル:インタビュー/評論・エッセイ、漫画論、BL研究、江戸文化・歌舞伎・浮世絵、クリエイター論​

著者のプロフィール
紗久楽さわは、江戸期の風俗・言語感覚への緻密な目配りで知られる漫画家で、『百と卍』をはじめ江戸文化とBLを交差させる表現で高い支持を得ている作家です。幼少期から手塚治虫やCLAMPに憧れ、浮世絵師や歌舞伎役者など実在の人物・芸能への関心を創作に取り入れてきた経歴が語られており、江戸文化への愛と調査にもとづく描写、そして現代的な関係性の感性が作品の核を成しています。BLジャンルの可能性を広げつつ、歴史解釈とフィクションの往復によって、固定観念から読者の視野を解放するアプローチが特徴です。​

本書の特徴
本書は『百と卍』の歩みを節目に、江戸文化・歌舞伎・浮世絵への愛、BLジャンルの変遷と魅力、影響を受けた作家・作品、そして各代表作の背景と制作プロセスを語る全編インタビュー構成です。副題に示されるとおり、「同じものでも見方が変われば違って見える」という視点転換を鍵に、過去と現在、男色史とBL、史実と創作の関係をほどき直し、読者に歴史と表現の再読を促します。

 

以下内容要約

 

紗久楽さわが語る、江戸×漫画×ボーイズラブの根源

「見落とされた過去を今とつなげたい」——この一句が、紗久楽さわの創作活動を貫く通奏低音となっている。新著『おんなじものが、違ってみえる 江戸と漫画とボーイズラブと』(フィルムアート社)は、『百と卍』の完結を機にまとめられたインタビュー集だ。聞き手はBL評論で知られるライター・山本文子が務め、著者の半生から創作思想まで、隠さず言語化している記録となっている。

 

本書で繰り返し語られるのは、同じものでも見方が変われば、まったく異なって映り、意味が生まれるということだ。江戸という歴史舞台は、学者にとっても漫画家にとっても、同じ過去であって同じではない。紗久楽さわにとって江戸は、セピア色の死んだ世界ではなく、そこに生きた人々にとっての、目に鮮やかな日常そのものなのだ。

月代への「推し」から出発した創作

著者が江戸の扉を開いたのは、高校時代に放映されたNHK大河ドラマ『新選組!』だった。脚本家・三谷幸喜の緻密な時代考証と娯楽の両立に惹かれた紗久楽さわは、やがて新選組の武士たちが結った月代(さかやき)という髪型に深く惹かれることになる。前髪から頭頂部を剃り上げた髪型への、ほぼ純粋な「推し愛」から、本来的な意味での研究が始まったのだ。

 

その後、杉浦日向子の江戸漫画を読み、陰間(かげま)という江戸時代の男娼の存在を知る。江戸の市場には、陰間茶屋という斡旋機構まで存在し、客との時間は線香の本数で計測されていたという、当時の社会的現実がある。紗久楽さわはここで、セクシュアルマイノリティとしての生存形態と感情に向き合うことになる

 

インタビューで著者は述べている。「月代をしているお兄さんがふたりいるのがものすごく好きで、ずっとそのふたりを望んでいた。けれど既存のBL作品には、月代同士の表現が極端に少なかった」と。自分が妄想する世界がこの世に存在しないなら、描くしかない。この強い欲望が『百と卍』の誕生を促した。

「型」と「様式」がもたらす親和性

紗久楽さわの表現世界を理解するには、幼少期からの読書体験に遡る必要がある。手塚治虫やCLAMPといった大家の作品に魅了された著者は、物語と絵が織りなす「型」という概念に幼くして捕まった。この「型への感受性」は、後に江戸文化との出会いで花開く。

 

江戸時代の美意識そのものが、本質的に「誇張」と「様式」を基調としていたのだ。歌舞伎の大げさな身振り、浮世絵の記号的な表現、そこに存在する「見立て」という手法——すべてが漫画という現代メディアの「記号化・省略・強調」という特性と驚くほどの親和性を持っていた。江戸と漫画は、見た目は違うけれど、本質的には同じ「美学言語」を話しているのだ

史実と創造のあいだで

著者の創作プロセスで興味深いのは、その学び方だ。紗久楽さわは江戸検定などの試験資格を取得していない。著者自身の言葉を引けば、「勉強した記憶がない。『萌え狂って調べていたら、いつの間にかこんなところに』」というスタンスなのだ。

 

東映太秦映画村への訪問、消防博物館での火消しに関する資料調査、隅田川の現地踏査——好奇心を駆動力とした身体的な探究を重視する著者にとって、江戸知識は「客観的な正解」ではなく、「創作のための感覚的な土台」である。

 

『百と卍』における月代や陰間の描写も、同様の姿勢から生まれている。江戸の性愛の多様性と、現代のセクシュアルマイノリティへのまなざしを重ねながら、著者は「同じだけど違う、違うけど同じ」という相対的な視点を構築した。元陰間の百樹と伊達男の卍が「義兄弟」の契りを結ぶシーンは、江戸の伝統儀式と現代の婚礼の象徴性を融合させる、その試行錯誤の果てにある。

江戸言葉が持つ音の美学

本書で語られる「江戸言葉」への執着も、創作の深さを示す。紗久楽さわは「胴欲(どうよく)」という言葉に愛着を寄せている。意味は「残酷だ」だが、魅力的な男性が色関係にある相手に意地悪をし、相手がすがって泣く——そうしたシチュエーションを表現するための、古江戸人の言葉遣いなのだ。

 

「まくし立て早口」の会話がもたらす音韻的な快感、「まっぴらめんねェ」「みったっしゃねェ」といった音の変化への注意深さは、漫画における方言運用の根拠となっている。BLというジャンルの感情の厚みと、江戸的な美意識の融合を目指す時、言葉選びは決して細部ではなく、作品全体を支える骨組みそのものなのだ

見落とされた者たちへのまなざし

本書の真の価値は、「見落とされた」ものを今に生かそうとする紗久楽さわの姿勢にある。江戸時代の男色文化は、時代とともに記録から消された。セクシュアルマイノリティの感情や生存形態は、公式な歴史叙述の外側に置かれてきた。

 

現代のBL表現は、そうした「隙間」を埋める力を持っている。女性作家による江戸表現、マイノリティの視点、関係性の濃度で歴史を読み替えるジャンル——BLは単なる恋愛表現ではなく、従来の歴史認識そのものへの異議申し立てなのだ。

 

『百と卍』は2018年度の『このBLがやばい!』で1位を獲得し、さらに文化庁メディア芸術祭マンガ部門で優秀賞を受賞している。BL作品として初めて同賞を受けたこの受賞は、時代小説とBL表現の新しい可能性を制度的にも認めたのだ。

おわりに——視点を変える自由

本書『おんなじものが、違ってみえる』は、個々の作品紹介ではなく、著者がいかにして「同じ江戸」を何度も何度も読み替えてきたのか、その感受性の進化を辿る書籍だ。デビュー作『当世浮世絵類考 猫舌ごころも恋のうち』から『かぶき伊左』『あだうち 江戸猫文庫』を経て『百と卍』に至る軌跡は、実は「同じテーマの異なる見え方」の積層である。

 

視点を変えることで、同じものが違って見える。違うものが同じに見える。その反復の中で、固定観念はほどけ、新しい感受性が育まれる。BLというジャンルの可能性、江戸文化との新しい結び方、そして性とジェンダーの多様性を祝福する姿勢——それらすべては、単なる「個人の創作観」ではなく、過去と現在を架橋する方法論そのものなのだ。

 

「見落とされた過去を今とつなげたい」という動機は、単なる歴史への郷愁ではない。それは、現在の読者が今を生きる上で、異なる視点をいかに獲得するかという問題と直結している。本書は、その実践を紗久楽さわが自らの創作で示した、貴重な記録なのである。