多様性の科学:組織と問題解決の秘訣

 

 

書籍情報


著者:マシュー・サイド
訳者: 有枝春​
出版社:ディスカヴァー・トゥエンティワン​
発行年:2021年
価格:2,530円
ジャンル:組織論/マネジメント/リーダーシップ/行動科学/多様性・インクージョン(D&I)/イノベーション論


著者のプロフィール


マシュー・サイドは、イギリスのジャーナリストであり評論家で、オックスフォード大学を首席で卒業したのち、タイムズ紙のコラムニストとしてスポーツ、政治、ビジネス、教育など幅広い分野をテーマに論考を発表してきた人物である。元卓球選手としてオリンピックに2回出場した経歴を持ち、エリートアスリートとしての経験と学術的素養を組み合わせ、「失敗の科学」に代表される行動科学・組織論系のベストセラーを執筆してきた。BBC「ニュースナイト」やCNNインターナショナル、BBCワールドサービスなどに出演し、メディアを通じて科学的知見を一般読者が理解しやすい物語へと翻訳することに長けた論客として知られる。スポーツと社会科学を横断する視点を武器に、個人の才能よりも「集団としてどう学び、どう失敗から立ち上がるか」という問いを一貫して追究している点が、サイドの著者としての大きな特徴である。​

本書の特徴

 

CIAの9.11事前察知失敗、1996年エベレスト事故、第二次世界大戦期のブレッチリー・パーク、グローバル企業の経営戦略など、異なる分野の豊富な実例を横断しながら、「認知的多様性」が組織の成否を左右する核心メカニズムであることを示すノンフィクションである。

 

単に「多様性は大事」と説くのではなく、画一的な集団がなぜ同じ盲点を共有して致命的なミスを犯すのか、多様な視点がどのように問題空間のカバー率を高めイノベーションを生むのかを、心理学・行動科学・ネットワーク科学などの知見と結びつけて分析している。さらに、ヒエラルキーやエコーチェンバー、無意識のバイアスが多様性を潰してしまう組織構造上の罠を掘り下げ、陰の理事会(シャドーボード)といった具体的な実務レベルの介入方法にも踏み込むことで、経営者・リーダー・現場メンバーが明日から使える設計指針として多様性を位置づけている。読み物としてのストーリーテリングと、実務に直結する理論・フレームワークが高いレベルで両立している点が、本書の最大の特徴と言える。

 

以下内容要約

 

画一的なエリート集団の「見えない死角」

 

まずサイドが取り上げるのは、2001年9月11日の同時多発テロをめぐるCIAの失敗である。


彼は、CIAが「頭のいい人」をこれでもかと集めていながら、組織としては決定的な盲点を抱えていたのは、メンバーの出自やものの見方が驚くほど似通っていたからだと描く。

 

というのも、CIAの幹部やアナリストの多くは、白人男性で、高偏差値のリベラルアーツ系大学出身という、ある意味「コピー&ペーストされたエリート」だった。だからこそ、試験成績や論理的思考のスコアは高くても、イスラーム文化の象徴や殉教の意味といった、別種の世界観にはピントが合わなかった。

 

その結果として、サイドによれば、アルカイダが発していたシグナルは情報としては手元にありながら、「これは本当に危ない」と解釈できなかった。髭をたくわえ、焚き火の前で語るビンラディンの姿や、「大いなる婚礼」と名付けられた作戦コードは、イスラーム世界の内側の視点を持つ人にとってはきわめて象徴的だが、同質なエリート集団の目にはただの背景ノイズとして映ってしまった。

 

こうしてサイドは、「優秀な頭脳が集まっている=賢い組織」とは限らないと指摘する。むしろ、一人ひとりがどれだけ賢くても、みんなが同じ方向からしか世界を見ていないと、組織全体としては「見えない場所」がごっそり残る。その死角が、9.11のような歴史的失敗を呼び込んだ、とサイドは論じる。

 

反逆者たちが作る「へんてこチーム」の強さ

 

一方でサイドは、第二次世界大戦中のブレッチリー・パークを、真逆のケースとして紹介する。


彼が強調するのは、ナチス・ドイツの暗号エニグマを解読したチームが、軍人でも数学エリートでもない「ごった煮」集団だったという事実である。

 

というのも、ブレッチリーには、数学者や言語学者だけでなく、クロスワードパズル好き、チェスプレーヤー、古典学者、社交界のデビュタントまで、経歴だけ見れば「なんでここに?」と言いたくなる人々が集められていた。採用試験も、形式張った学歴より「この人、なにかやらかしそうだ」という奇妙な才能を見抜くことに力点が置かれていた。

 

そのうえでサイドは、こうした「へんてこチーム」が、なぜ暗号解読で決定的な成果を挙げられたのかを説明する。数学的なパターン認識に強い人と、言語の癖を読む人、雑な直感で仮説を乱発する人と、機械の操作に長けた人が、同じ部屋で議論を重ねるからこそ、一人の頭では到達できない解にたどり着けたのだというわけだ。

 

ここで重要なのは、サイドが「多様な人を集めただけ」では足りないと見る点である。彼の描写では、ブレッチリーには、若手が遠慮なく上官の判断に異議を唱えられる空気があった。つまり、多様な視点がちゃんとテーブルに乗るコミュニケーション構造があったからこそ、多様性が「飾り」ではなく「武器」になったとされる。

 

イノベーションは「寄せ集めの再結合」から生まれる

 

次にサイドは、イノベーションの正体を「ゼロからの発明」ではなく「既存のアイデアの組み合わせ」として描き直す。


サイドの説明では、大きな飛躍を生むのは、ひとつの分野を深掘りする連続的な改良よりも、離れた領域同士をつなぎ直す「再結合的な発想」である。

 

たとえば、スマートフォンという製品は、電話・コンピュータ・カメラ・GPS・インターネットという別々の技術を、ひとつのデバイスに「寄せ集めた」結果として生まれたものだ、とサイドは整理する。この種の再結合には、もともと違う文脈で働いていた人や、異なる文化圏で育った人が、同じテーブルにつくことが欠かせない。

 

そこでサイドは、移民やマイノリティがイノベーションに過大な貢献をしてきたというデータやエピソードを引き合いに出す。別の国で育ち、別の常識で鍛えられた人は、既存の前提を当たり前と思わないので、「そもそもこのルール、必要?」と平然と問い直す。そのずれた視点こそが、新しい組み合わせの種になる。

 

こうしてサイドは、「優秀な同質エリートを揃えること」と「イノベーションに強いチームを作ること」は、実はかなり別のゲームだと示す。前者は既存ルールの中で最適化する力を高めるが、後者に必要なのは、ルールそのものを組み替える発想であり、そのためには、むしろ異物感のあるメンバーがいたほうがいい、という逆説が提示される。

エコーチェンバーとグループシンクの罠

 

しかしサイドは、多様な人を集めても、話し方と聞き方を間違えると、あっさり「みんな同じことしか言わない集団」に逆戻りすると警告する。


彼が特に問題視するのは、リーダーに逆らいづらい雰囲気や、似た意見だけが反響するエコーチェンバーが、多様な視点を物理的には存在していても「実質的には消してしまう」という構造である。

 

たとえば、組織内で発言権が偏っていると、会議ではいつも同じ数人だけが話し、多数のメンバーは黙ってうなずくだけになる。このとき、表面上は大人数のディスカッションに見えても、実際に意思決定をしているのはごく狭い「ミニ集団」でしかない。

 

さらにサイドは、人間にはもともと「自分と似た人と一緒にいたがる」という傾向があると指摘する。これが仕事仲間や情報源の選び方にも反映されると、自然と似た背景・似た意見の人ばかりをフォローすることになり、気づけばエコーチェンバーの出来上がりになる。SNSでの政治的分断などは、その典型例として描かれる。

 

そのうえでサイドは、極端なイデオロギーから抜け出した元メンバーのケースを取り上げ、「外側の世界」との接触が固定化した信念を揺さぶるきっかけになると論じる。閉じた情報環境の中にいる限り、どれだけ頭がよくても、自分の前提が偏っていることすら気づけない。この点で、多様性は「心のセーフティネット」にも似た役割を果たすとされる。

 

エベレストで露呈した「心理的安全性」の有無

 

次にサイドがスポットライトを当てるのが、1996年のエベレスト大量遭難事故である。


彼の読み解きによれば、この悲劇の背景には、登山技術や天候運の問題だけでなく、「リーダーにノーと言いづらい空気」がじわじわ積み重なっていた。

 

というのも、商業登山隊の多くでは、経験豊富なガイドが絶対的な権威を持ち、クライアントである登山者は彼らの判断に従う構造になっていた。たとえ「今日は登頂をあきらめた方がよさそうだ」と感じていても、高額の遠征費用や「ここで引き返したら恥ずかしい」という心理が働き、誰も声を上げない。

 

そこでサイドは、同じ山で別の選択をした隊との対比を描く。そこでは、リーダーが「なにかおかしいと思ったら、遠慮なく言ってくれ」と繰り返し伝え、行動計画もメンバーとの議論を通じて柔軟に変えていた。結果として、その隊は登頂を中止し、安全に下山することを選ぶ。

 

この対比からサイドが引き出す結論は単純だが重い。つまり、多様な経験や能力を持つメンバーを集めても、心理的安全性がなければ、その知恵はテーブルに乗らない。逆に、たとえメンバー構成がそれほど多様でなくても、「言っていい」「異論を歓迎する」という前提が共有されていれば、致命的な判断ミスを避ける可能性はぐっと高まるのだ、というわけだ。

ネアンデルタール人と人類史から見る多様性

 

ここまで組織やチームの話をしてきたサイドは、視点を一気に人類史スケールに広げる。


彼は、ネアンデルタール人の絶滅とホモ・サピエンスの生存を対比させながら、「多様性は種レベルの生き残り戦略でもある」と論じる。

 

サイドの整理では、ネアンデルタール人は身体能力も脳の大きさも高水準だったが、集団の規模が小さく、互いに分断されがちだった。その結果、遺伝的にも文化的にもバリエーションが乏しく、環境変化や感染症といった外乱に弱かった可能性が指摘される。

 

一方で、ホモ・サピエンスは、比較的大きな集団同士が広いネットワークを通じてつながり、道具や神話、技術を交換していたとされる。道具の形状や装飾のパターンが地域ごとに違いながらも、互いに影響し合っていることは、その「文化的多様性のネットワーク」を物語っている。

 

サイドはこの対比から、「集団としての知恵=集団脳」の概念を導入する。個体の脳の性能ももちろん重要だが、長い目で見れば、異なる知識やスキルを持つ個体同士がどれだけ交わり、情報を再結合できるかが、文明そのものの進化を左右するのだという。多様性が欠けた集団は、環境が変わったときの「予備パーツ」が足りない機械のようなもので、ちょっとした衝撃で一気に動かなくなってしまうのである。

 

多様性を「ちゃんと機能させる」ためのルール

 

とはいえ、サイドは「多様な人を集めればすべてうまくいく」とは言わない。


彼が本書の終盤で力を入れるのは、多様性を「看板」で終わらせず、実際の意思決定の場で機能させるための、かなり地味な設計作業である。

 

その一つが、「無意識のバイアス」にできるだけ自覚的になることだとサイドは説く。人は、自分と似た経歴の人を「なんとなく安心できる」と感じ、似た趣味の人の意見を「なんとなく筋が通っている」と感じやすい。この「なんとなく」が採用・昇進・会議運営のあらゆる場面で積み重なると、組織はいつのまにか同質なメンバーで固められてしまう。

 

そのうえでサイドは、意思決定の場に「異なる世代や現場視点を意図的に混ぜる」仕掛けの重要性を語る。若手や周辺部にいる人を、中心的な議論のリングに一時的に招き入れることで、上層部だけでは思いつかない盲点や新しい問いが持ち込まれるからだ。それは、エリート層の権威を否定するというより、「レンズを増やす」行為だと位置づけられる。

 

さらにサイドは、人間関係のスタイルにも触れ、「与える姿勢」を持つメンバーが多いチームほど、多様性が前向きに機能しやすいと指摘する。自分の利益だけでなく、他者の成功や成長にリソースを割ける人が多いほど、異なるバックグラウンド同士の信頼が生まれやすく、それが結果として知識の交換と再結合を促すからだ。多様性は、結局のところ「違う人同士がどれだけ安心してつながれるか」の問題でもある。

 

本書が書かれた時代背景と、サイドのねらい

最後に、『多様性の科学』が書かれた時代背景を押さえておくと、サイドのねらいが少しクリアになる。


この本が世に出たのは、9.11後のテロとの戦い、2008年以降の金融危機と格差拡大、SNSによる分断、そして企業のダイバーシティ&インクルージョン施策が一気に広まった流れがひと通り出揃ったあとだった。

 

つまり、多様性という言葉が「いいことだよね」とは広く共有されていたが、それが「なぜ組織の生存戦略と結びつくのか」までは腑に落ちていない時期である。形式的な女性登用やマイノリティ登用は進んでも、会議室の中では相変わらず同じタイプの人だけがしゃべっている、という状況が珍しくなかった。

 

サイドは、そうした空気の中で、多様性を「倫理の問題」から「認知と情報処理の問題」へと移し替えようとした。CIAの9.11失敗やエベレストの遭難、ネアンデルタール人の絶滅といった例をならべることで、「多様性がない組織や集団は、単純に“見えていない場所”が多くて危ない」と、ごく現実的なリスクとして位置づけている。

 

その意味で、『多様性の科学』は、ある企業の採用ポスターに使えそうなきれいなスローガンの本ではない。むしろ、ブレッチリー・パークの変わり者たちや、エベレストで躊躇なく引き返した隊のような、ちょっと変な選択や構成を「合理的な戦略」として見直そうとする試みだと言える。サイドは、人類史と組織論と失敗談を一つのテーブルに並べ、「違うこと」「そろっていないこと」のほうが、長期的にはずっと頼りになるのだと静かに語りかけている。

食の常識を疑う本 Spoon-Fed

 

 

書籍情報


著者:ティム・スペクター
訳者:寺町朋子
発行者:白揚社
発行年:2021年
価格:2,860円
ジャンル:栄養学/食と健康/公衆衛生・食品産業批判/腸内細菌・マイクロバイオーム/科学リテラシー・食情報リテラシー

著者のプロフィール

 

ティム・スペクターは、ロンドン大学キングス・カレッジの遺伝疫学教授であり、双子研究小児肥満・生活習慣病・老化の遺伝制限と環境配慮の相互作用を考えてきた国際的研究者である。て、世界最大規模と言われる食後代謝反応研究「PREDICT(プレディクト)」プロジェクトや、オンライン栄養プログラム「ZOE(ゾーイ)」の共通段階など、従来の暫定的な栄養ガイドラインに代わる食の新しいパラダイムを提案している。 Diet Myth』『Spoon-Fed』シリーズ子ども時代、食品産業と政策に歪められた「食の常識」を批判的に検証し、科学的根拠に基づいた食生活と健康観の再構築を決めている。​

本書の特徴

 

「個人差」「朝食」「カロリー」「脂質」「サプリメント」「人工甘味料」「加工食品」といったテーマごとに短い章を立て、一つ一つの「定説」を取り上げて、その科学的根拠を検証しながら神話を解体していく構成である。の知見を織り込みつつ、食品産業のロビー活動や政策形成への影響​​にも踏み込んで、食の問題ではなく社会構造問題として憂慮している点である。

 

以下内容要約

栄養学の「常識」が歪んできた理由

 

毎朝、新聞を開けば「この食べ物が健康に良い」という記事が踊っている。テレビでは白衣の専門家が「カロリー管理が重要です」と言い張る。学校の栄養の授業では「朝食を食べましょう」と教えられる。だが、ちょっと待ってほしい。そうした「常識」の多くは、実は科学的根拠が薄いか、食品企業が儲けるために作った物語かもしれない。

 

キングス・カレッジ・ロンドンの研究者ティム・スペクターは、双子研究を長年続けてきた。驚いたことに、遺伝的に同じはずの双子でさえ、同じ食べ物への体の反応が全く違う。牛乳が骨を強くするとか、低脂肪こそ健康だとか、朝食は一日で最も重要だとか。そうした言説の正体を調べると、企業のマーケティングか政治的圧力から生まれたものばかり。つまり、私たちは無意識のうちに「売られている常識」を信じさせられてきた。

 

食品産業の上位10社が世界市場の70パーセント以上を支配し、彼らはロビー活動に数千万ドルを投じて政策を動かしている。

 

カロリー計算という粗雑な指標

「食べたカロリーから使ったカロリーを引けば、太り具合が決まる」。こんな単純な計算、本当に通用すると思う?実はこの考え方は19世紀の蒸気機関の効率測定からきたもので、人間の体に無理やり当てはめたに過ぎない。

 

同じ100キロカロリーでも、アーモンドから摂ったのと砂糖から摂ったのでは、体が吸収するエネルギー量が32パーセントも違う。セロリだって、生で食べると6キロカロリーだが、調理すると36キロカロリーになる。さらに人によって「食事で熱を作る」という現象の程度が違い、同じメニューでも100キロカロリー以上の差が生じる。まるで、同じ値段の商品でも、お店によって実際の内容量が全然違う、という感じだ。

 

80件の減量実験をまとめた研究では、低カロリー食で最初はがっつり痩せるのに、3年後には80パーセントが元の体重に戻った。つまりカロリー計算に頼った減量は、長期的には失敗する。むしろ重要なのは、食べ物の質と自分の体質に合った選択なのだ。

 

朝食神話とマーケティングの歴史

 

「朝食は一日で最も重要な食事」というフレーズ、聞いたことがあるでしょ?これは1960年代に米国の栄養学者が言ったセリフで、その後、シリアルメーカーが「朝食を食べないと体に悪い」と宣伝しまくった。つまり、企業のための宣伝文句が学説に化けたわけだ。

 

朝食を食べる人は確かに健康的に見える。でも、それって朝食のおかげじゃなくて、健康的な生活をしている人が朝食も食べているからじゃないだろうか。逆に生活がだらしない人ほど朝食を抜く傾向がある。原因と結果を入れ替えてしまってはいけない。

 

スペクターが37,000人でやった実験では、決まった時間に食事をすませる「時間制限食」をやった人が2週間で平均1.1キログラム痩せて、エネルギーが増したと報告している。つまり、朝食の有無より、いつ食べるかのほうが重要。「朝食を絶対に食べろ」という科学的根拠はない。

 

人工甘味料が腸内細菌を乱す

 

「カロリーゼロだから安心」。こんなお気軽な思い込みで、あなたの腸内環境が静かに蝕まれているかもしれない。人工甘味料は吸収されないから体に無害だと昔は思われていたが、最新の研究は真逆を示している。

 

アスパルテームやスクラロースといった人工甘味料は、腸内の善玉菌をやっつけ、病原菌を増やしてしまう。2025年の研究では、人工甘味料を摂っている人の小腸の細菌が減少し、有害な化学物質が増えていた。つまり、数字上はゼロカロリーでも、体の中では一大事が起きているのだ。短期的にカロリーを減らした代償として、長期的な代謝リスクを払わされている。

 

超加工食品の健康リスク

ファストフード、スナック菓子、加糖飲料、白い食パン。こういう工業的に作られた食品を「超加工食品」という。2024年の大規模研究では、こうしたものをたくさん食べている人は、心臓病で死ぬリスクが50パーセント増、うつ病が20パーセント増、癌のリスクも上がっていた。英国の食品広告を見ると、98パーセントが超加工食品で、本物の食べ物の広告はたったの2パーセント。つまり、世の中は偽物の食べ物に包囲されている状態だ。

 

超加工食品が体を悪くするのは、腸内の細菌バランスをめちゃくちゃにするから。短鎖脂肪酸という体に良い物質が減り、炎症が増える。まるで体の中で静かな戦争が起きているのに、私たちはそのことに気づいていない。

 

ビタミンサプリメントの非有効性

 

ビタミンDのサプリメント、飲んでいる人は多い。だが大規模な研究では、これらが骨を強くしたり、うつを治したり、疲労を改善したりといった効果は認められなかった。むしろ、ビタミンD「欠乏」の診断基準が10年ごとに倍増させられ、医者たちが非現実的に高い血中濃度を「正常」だと言い張っている。まるで、不安感をあおって商品を売るマーケティング戦略みたいだ。

 

健康な人はビタミンDの値が高い傾向があるが、これは因果関係が逆なのだ。外で活動する健康的な生活を送るから値が高いのであって、サプリでビタミンDを無理やり増やしても、健康にはならない。欠乏症がない限り、サプリメントより多様な本物の食べ物から栄養を摂るべきだ。

 

グルテンフリーという幻想

 

グルテンフリー製品、やたらと増えた。だが、実際にセリアック病(グルテンで体が反応する病気)と診断されている人は人口の1パーセント未満だ。なのに、英国では10パーセント、米国ではもっと多くの人がグルテンを避けている。つまり、大多数は根拠なく「体に悪いもの」を避けているってことだ。

 

逆に26年間の大規模研究では、グルテン摂取量が少ない人のほうが心筋梗塞のリスクが15パーセント高かった。なぜなら、グルテンを含む全粒穀物は心臓保護効果があるから。グルテンフリー製品の多くは栄養が低く、脂肪が多く、繊維が少ない。セリアック病がないなら、グルテンフリーは有害無益である。

 

低脂肪神話の真実

「脂肪は敵。低脂肪こそ健康」。この思い込みはどこから来たのか?1950年代の研究者が都合よく選んだデータに基づいているのだ。実際には、飽和脂肪酸と心臓病の因果関係は曖昧で、むしろ「食べ物全体の質」が重要だとわかってきた。

 

バターとチーズは同じ飽和脂肪を含むのに、チーズを食べてもコレステロール値が上がらず、むしろ下がることもある。つまり、脂肪という単一の成分だけ見ていては本質が見えない。低脂肪食品は脂肪を減らした代わりに砂糖や添加物を増やしているから、結局、体に悪い。単一栄養素で食べ物の良し悪しを判断するのは、本質的に間違っている。

 

新たな食の処方箋

では、どう食べるべきか。スペクターが示すのは「個別化栄養」という考え方だ。万能な食べ方なんて存在しない。自分の体がどう反応するかを観察することが第一歩。週に30種類以上の異なる植物(野菜、果物、穀物、豆、ナッツ)を食べることを目指そう。同じ野菜でも色が違えば、含まれている栄養も違う。

 

食物繊維を意識的に摂取すること。これが腸内の良い菌を育てる。発酵食品も大事だ。ヨーグルト、味噌、キムチ。こういったものには兆単位の良い菌が含まれている(サプリメントはせいぜい億単位)。超加工食品は最小限に。時間を決めて食べる「時間制限食」も試す価値がある。カロリー計算は放棄して、食べ物の質に焦点を当てる。地中海食(野菜、魚、オリーブオイルが中心の食べ方)を参考にするのも良い。

 

そして最も大事なのは、「平均的な栄養ガイドライン」に盲従しないこと。同じ食べ物でも、人によって血糖値の上がり方が10倍も違う。つまり、あなたにとって最適な食べ方は、あなただけが知ることができるのだ。

 

食品産業という見えない力

ここで見逃してはいけないのが、食品業界の力の大きさだ。2015年の米国食事ガイドライン改訂時、肉業界や飲料業界は「環境のために植物ベース食を推奨すべき」という提案を、大量のロビー活動費でつぶしてしまった。大学の栄養学部にさえ、食品企業から研究資金が流れ込んでいる。つまり、学問の場ですら「誰が金を出しているか」が研究結果に影響を与えている。産業資金による研究は、都合の悪い結果を出版しない傾向が強い。

 

私たちが信じている「常識」の多くは、実は企業が儲けるために設計されたものかもしれない。だからこそ、メディアが言うことを、教科書に書いてあることを、無批判に受け入れてはいけない。「本当にそうなのか」と一度疑ってみる。自分の体で試してみる。そういう習慣が、これからの時代には不可欠なのだ。

戦略的休息術 TIME OFF 書籍

 

 

書籍情報
著者:ジョン・フィッチ、マックス・フレンゼル
訳者:ローリングホフ育未
出版社:クロスメディア・パブリッシング
発行年:2023年4月1日
価格:2,398円
ジャンル:ビジネス書/自己啓発/働き方改革/生産性・創造性・休息・ウェルビーイング

著者のプロフィール


ジョン・フィッチはビジネスコーチ、エンジェル投資家、作家として活躍し、自身も仕事中毒からの回復を経験した人物です。

 

マックス・フレンゼルはAI研究者であり、コンサルタント事業や執筆活動を通じて「人間らしさとは何か」を探求しています。ともに異なる専門領域ながら「休むこと」の価値を実体験し、現代人に休息倫理(Rest Ethic)の重要性をグローバルに発信しています。​

本書の特徴


『TIME OFF』は単に「休む」ことを推奨するのではなく、科学的エビデンスと多くの実例をもとに、休息が創造性と生産性に直結することを論理的に解説しています。休息を自ら戦略的に設計する「休息倫理(Rest Ethic)」の実践法を中心に、アリストテレスやバートランド・ラッセルなど歴史的な思想、最新の脳科学や心理学も引用しながら、現代人が“高尚な余暇”を取り戻す道筋を示します。仕事や学びだけでなく「人生そのもの」を豊かにするライフマネジメントの指南書となっています。

 

以下内容要約

『TIME OFF』は、せっかく世界を手に入れたのに、なぜか心がそこにない人たちのための本だ。二〇二〇年、アメリカで刊行されたこの本の著者たちも、かつてそういう人たちだった。ジョン・フィッチはビジネスコーチで起業家、マックス・フレンゼルは人工知能の研究者。どちらも「仕事が好き」という言葉で自分の人生を正当化した挙句、心身ともにすり減らした経験の持ち主である。

 

その経験から生まれた疑問は、シンプルで痛ましい。「どうしてこんなに働いているのに、何も満たされていないのか」。この問いは、二一世紀初頭の先進国社会に蔓延する症状を指し示している。デジタル技術で効率は上がったはずなのに、人間の創造性は逆に細くなっている。スマートフォンで世界と繋がったはずなのに、孤立感はむしろ深まっている。メールとチャットは二四時間、脳の片隅で鳴り続ける。こんな状態で、誰が幸福になれるだろうか。

 

フィッチとフレンゼルが着眼したのは、「仕事をもっと上手くやるにはどうするか」という古いロジックではなかった。むしろ反対に、「休み方そのものを、根本的に考え直す必要がないか」という逆転の発想だった。労働倫理は山ほど存在するのに、どうして休息倫理はこんなに貧しいのか。その問いから、この本は始まる。

呼吸のように欠かせない、休息という習慣

優れた労働倫理だけでは、人は最終的に潰れる。必要なのは、労働と同じ重みを持つ「休息倫理」という新しい枠組みである。

 

著者たちが持ち出す比喩は、意外なほどシンプルだ。働く=息を吸う、休む=息を吐く。両方がなければ窒息する。いたって当たり前の話なのに、現代人はこの当たり前を見落としている。カレンダーは会議と締切で埋まり、休日にもメールは鳴り続け、気がつけば「休む」という概念そのものが消えている。

 

ここで重要なのは、本書が「怠けろ」と言っているのではないということだ。むしろ逆で、フィッチとフレンゼルが提唱する休息倫理は、怠惰を正当化するのではなく、「いかに戦略的に、意図を持って休むか」という規律を求めている。つまり、仕事の準備運動と同じように、人生全体における休息も、計画され、設計され、習慣化されるべきものだ、という提案である。

 

この視点から見ると、「忙しい人ほど偉い」という古い価値観は、実は社会全体を弱らせている。なぜなら、休息がなければ創造的思考は生まれず、創造的思考がなければ、人間にしかできない仕事は消えていくからだ。プロテスタント的勤勉観が産業社会を支えたのと同じように、現代のナレッジワーク社会では、休息倫理こそが生産性と創造性の源泉になり得る。ここが、二人の主張の核心である。

古代の「高尚な暇」を現代に呼び戻す

人類の偉大な成果の多くは、「何もしない時間」を持てた人々から生まれてきた。

 

アリストテレスは、二千年以上前から「高尚な余暇」という言葉を遺している。それは「他の何かのためではなく、それ自体が目的である時間」を意味していた。学んだり、思索したり、芸術に触れたり、友と対話したり――そうした活動は、すべて「人間らしく生きる」ことの中心に位置していたのだ。

 

ところが現代では、こうした活動までもが「仕事の再充電のための時間」に格下げされている。ヨガをするのも、読書するのも、旅をするのも、すべて「明日への英気を養うため」という名目がつく。つまり、余暇そのものが、仕事の手段に従属させられてしまった。

 

フィッチとフレンゼルが示唆するのは、かつて一部の人だけに許されていた高尚な余暇が、現代のテクノロジーと制度によって、実は多くの人に取り戻せる可能性があるということである。ただし、それには社会全体の価値観の転換が必要だ。産業労働の時代は終わり、知識と創造性が価値の源泉になった今、「何もしない時間」や「遊び」や「思索の時間」は、もはや贅沢品ではなく、仕事の質そのものを決める前提条件なのである。

 

バートランド・ラッセルという哲学者は、「有閑階級がなければ、人類は野蛮な状態から脱することはできなかった」と述べた。その言葉をフィッチとフレンゼルは反転させる。今は、すべての人が自分の有閑をつくれる時代だ、という希望と責任を。

脳が「考えるのをやめたら」始まること

創造的思考は、机の前に座っているときではなく、むしろ何もしていないように見えるときに生まれる。

 

心理学者グラハム・ウォーラスが提唱した「創造の四段階」というモデルがある。準備(課題に集中する)、温め(問題から離れる)、ひらめき(突然の気づき)、確認(検証と実装)。このプロセスの中で、ウォーラスが最も強調したのが二番目の「温め」である。つまり、あえて問題から目を背け、別のことをしている間に、脳は無意識のうちに情報を組み直し始める、ということだ。

ここで脳科学が登場する。「デフォルトモードネットワーク」という回路があり、人が散歩をしたり、風呂に入ったり、ただぼんやりしているときに、この回路が活発になるとされている。そのとき、脳は意識的な思考を担当する領域を休め、別の方法で過去の記憶や知識をつなぎ合わせ始める。つまり、「何も考えていない状態」ほど、脳は活発に働いているのだ。

 

歴史はこのメカニズムの例に満ちている。風呂場でアルキメデスが浮力の原理に気づき、公園のベンチでレーザー開発の着想を得た物理学者がいた。進化論を思いついたダーウィンは、毎日「思考小道」と呼ぶ砂利道を散歩していた。つまり、偉大なひらめきは、たいてい机の上ではなく、足が動いている時間に立ち上がっているのである。

 

対照的に、現代の働き方は「準備」と「確認」のサイクルを何度も何度も繰り返させ、肝心な「温め」の時間を奪ってしまう。常時稼働、常時接続、常時マルチタスク――こうした状態では、脳は情報を詰め込むばかりで、それを組み合わせる暇がない。結果として、創造性は渇いていく。

九つの休み方、戦略的タイムオフの処方箋

著者たちが提示する九つのタイムオフは、すべて「何もしない」ことではなく、むしろ「戦略的に何かをする」というパラドックスに満ちている。

 

まず睡眠。睡眠は、単なる体の疲労回復ではなく、脳が情報を整理し、感情を調整し、翌日のひらめきの下地を作る時間である。著者たちは、バスケットボール選手レブロン・ジェームズが年間の体のケア費用で最も重視するのが睡眠だという事例を引きながら、寝不足の「根性論」を静かに解体していく。睡眠は「生産性の投資」であり、仕事の一部である。

 

次に運動。ここで強調されるのは、限界まで追い込むトレーニングではなく、継続できる軽い運動である。散歩や軽いジョギングが脳の血流を増やし、デフォルトモードネットワークを活性化させるメカニズムが説明される。ダーウィンやニーチェといった思想家たちが、ひらめきを得るために歩き続けたという歴史的事実が、現代の「考えるために動く」という習慣を正当化する。

ひとりになる時間は、寂しさ(ロンリネス)と孤高(ソリチュード)を区別する作業から始まる。ビル・ゲイツが年に二回、湖の小屋にこもって古い論文を読みふけるという話や、著者たちが出会った起業家が、人との繋がりを意図的に断つことで初めて自分の価値観と向き合えたという事例が、孤立と孤高の違いを浮かび上がらせる。

 

遊びについては、「役に立たないこと」の尊さが論じられる。子どもが無目的に積み木をしたり、想像の世界に没頭するとき、脳は常識の枠を外して、可能性を試す練習をしている。この「ロジックなき思考」が、後年の創造的発想の土台になるのだ。

 

旅は、遠い国への長期旅行だけに限られない。フィッチとフレンゼルは「マイクロ・トラベル」という言葉を造り、いつもと違う街角を歩くこと、知らない店に入ることも、脳を環境変化に適応させる装置として紹介する。日常のルートから一歩踏み出すことが、思考のパターンを崩す。

 

デジタルとの距離を取ることについては、「テック・シャバット」というユダヤの安息日になぞらえた実践が提示される。週に二四時間、すべてのスクリーン機器をオフにするというシンプルなルール。最初の数時間は不安に襲われるが、それを超えると、時間の流れがゆっくりになり、目の前のものが鮮明に見えるようになるという。

日本は「忙しさの優等生」だが、幸福の赤点である

マックス・フレンゼルが東京で感じた違和感は、率直で、ときに辛辣である。こんなに真面目に働いている社会が、なぜ生産性で世界の下位にいるのか。この矛盾を前にして、彼が気づいたのは、「忙しく見えること」と「生産的であること」が完全に別物だということだった。

 

終電まで残ることが評価される職場では、当然ながら疲弊した脳で判断が下される。睡眠不足の国では、創造性は生まれにくい。

 

日本が世界有数の睡眠不足国であること、そしてその睡眠不足が年間約一五兆円の経済損失を生んでいるというデータが、本書で引用される。これは単に個人の健康問題ではなく、社会全体が自ら競争力を削いでいる構造的な問題なのだ。

 

日本社会は、勤勉さと責任感を持ちながら、同時に休息倫理を欠いた状態で走り続けている。

 

フィッチとフレンゼルは日本を一方的に批判しようとしない。むしろ、もし日本がこの「休息倫理」という考え方を取り入れたなら、世界でも最も創造的な国の一つになり得る、という可能性を示唆する。勤勉さはそのままに、休み方を変える。その組み合わせは、これまでにない力を生むかもしれない。

AIは「忙しさ」を引き受けるために生まれた

フレンゼルがAI研究者として見つめるのは、人間がAIと同じ土俵で競争することの無意味さである。データ処理、パターン認識、反復作業――こうした領域では、人間がどれだけ努力しても機械に勝てない。であれば、人間が同じ競争に参加し続けることは、単なる消耗戦に過ぎない。

 

では、人間にしかできないことは何か。フィッチとフレンゼルが挙げるのは、創造性と愛(共感)という、いささか気恥ずかしいほど人間くさい能力である。新しい問いを立てること、他者の痛みを理解すること、状況の意味を読み直すこと――これらはAIが最も苦手とするプロセスであり、同時に人間の最大の強みである。

 

AI時代の仕事とは、むしろ「何をしないか」を選ぶ時代だ。機械に任せられるタスクは、どんどん機械に任せる。その結果として人間に残る時間は、本当の意味で創造的な活動と、他者と深く関わる時間に充てられるべきだ、というのが二人の見立てである。

ここで労働時間の問題が浮上する。週四〇時間労働という枠組みは、産業社会の遺産である。なぜなら、当時の仕事は「時間を売る」ことそのものだったからだ。だが、創造性を売る時代に、なぜ時間で人を評価し続けるのか。フィッチとフレンゼルが示唆するのは、労働時間の短縮と、そのぶん増える高尚な余暇という、ひとつの未来像である。AI時代の競争力は、よく休んだ状態でいかに深く考えるかにある。

二人の回復、あるいは再生の物語

エピローグで語られるのは、理論ではなく、燃え尽きた二人がタイムオフを取り入れることで、人生がどう変わったかという話だ。

 

ジョン・フィッチは、かつて週八〇時間働く人間だった。成功への飢えと自己証明への渇望が、彼を行動へ駆り立てた。睡眠を削り、人間関係を後回しにし、常に「次の成果」を求める生活。そんなとき、旅先で出会った年配の女性が、彼に向かって言った。「あなたたちは生きるためではなく、死ぬために働いている」。その一言が、彼の時間観を根底から揺さぶった。

 

マックス・フレンゼルは、日本での研究生活で、勤勉さと効率のギャップに直面した。こんなに真面目に働いている社会が、なぜ生産性で停滞しているのか。その問いを深掘りする過程で、彼は気づく。「忙しさ」と「価値」は、むしろ反比例するのではないか、ということに。

 

二人の結論は、本書のトーン全体を形づくる。「休んだから成功できた」ではなく、「休んだからこそ成果が出せた」。この言い回しのシンプルさに、著者たちの信念の深さが凝縮されている。

 

タイムオフは誰かに許可されるものではなく、自分たちで設計し、習慣化し、人生の中に編み込むべきものだ。それはときに罪悪感と戦うことになるかもしれない。だが、その戦いを引き受けた先に、本当の意味で充実した人生がある。フィッチとフレンゼルは、それを示唆している。

ドッペルゲンガー 鏡の世界への旅 ナオミ・クライン

 

 

 

書籍情報
著者:ナオミ・クライン​
訳者:幾島幸子​
出版社:岩波書店​
発行年:2025年​
価格:4,180円​
ジャンル:政治・社会思想/メディアと情報空間/ポピュリズム・陰謀論研究/グローバル資本主義批判/回想録的ノンフィクション


著者のプロフィール


ナオミ・クラインはカナダ出身のジャーナリストであり思想家で、グローバル資本主義と新自由主義を批判的に検証してきた論客として世界的に知られている。 彼女は『ノー・ロゴ』や『ショック・ドクトリン』などの著作を通じて、ブランド資本主義、災害資本主義、気候危機といったテーマを一貫して扱い、企業や国家が危機を利用して規制緩和や民営化を推し進める仕組みを明らかにしてきた。 また、大学などで教鞭もとりつつ、社会運動に関わるアクティビストとしても活動し、メディア出演や講演を通じて、気候正義や社会的連帯の必要性を訴えている。 このように、クラインは「資本主義・メディア・危機」の三つの軸を横断して分析する批評家として位置づけられる。


本書の特徴


本書『ドッペルゲンガー──鏡の世界への旅』は、ナオミ・クラインが、自身が「ナオミ・ウルフ」という別の著名フェミニストと繰り返し取り違えられた経験から出発し、現代の情報空間と政治状況を「鏡の世界」として描き出す試みである。 物語は、陰謀論やフェイクニュースが渦巻くオンライン空間において、著者自身の「分身(ドッペルゲンガー)」が勝手に振る舞ってしまうという不気味な感覚を手がかりに、極右の陰謀論者や反ワクチン運動、スピリチュアル系のオルタナ右翼などの現象を観察し、その背後にある社会的不安と分断のメカニズムを明らかにしていく。 さらに、本書は単なる現状批判にとどまらず、読者自身もまた「デジタルな分身」を持ち、その分身を通じて世界と関わる存在になっているという事実を突きつけ、自己像と社会構造の両方を見つめ直す哲学的・倫理的な問いを投げかけている。 そのため本書は、個人的な体験記、現代思想、メディア論、政治分析が緊密に編み込まれた、非常にハイブリッドなノンフィクションとして読むことができる。

 

以下内容要約

 

もう一人のナオミという厄介な問題


クラインのこの本は、かなりしんどいところから始まる。

 

自分とよく似た名前と顔を持つナオミ・ウルフと、長年ずっと混同され続けてきたという話だ。

 

 ウルフは『美の陰謀』で知られるフェミニストだが、近年は反ワクチンや陰謀論へと急カーブを切った人物。一方クラインは『ショック・ドクトリン』で資本主義をバッサリ斬るタイプの左派論客。

 

思想的にはほぼ真逆なのに、インターネットの世界ではその違いがきれいに溶けてしまう。クラインの名前でウルフの発言が拡散され、自分の知らないところで自分が陰謀論者にされている──それは「アカウントを乗っ取られた」どころではなく、「自分というキャラごと乗っ取られている」感覚だ。この自己の乗っ取りのような体験を出発点にして、クラインは一人の問題を、社会全体の「鏡の世界」の病にまで引き伸ばしていく。

2011年、ウォール街近くの公衆トイレで、クラインは隣の個室からウルフの主張について話す声を聞く。どうも自分と混同されているらしい、と気づく瞬間だ。 オキュパイ・ウォールストリートの現場でも、クラインが語る「銀行救済と緊縮」という構造の話と、ウルフの「国家による言論弾圧」というドラマチックな物語が、ごちゃ混ぜに扱われていく。クラインにとっては、自分の分身が勝手に別のセリフをしゃべり始めるような不気味さで、そこから「ドッペルゲンガー」というモチーフが立ち上がってくる。​

 

鏡の世界とデジタル空間の歪み


クラインが「鏡の世界」と呼ぶのは、インターネット上に広がる、もう一つの現実だ。そこでは事実よりも「ムカつく」「泣ける」「バズる」といった感情の強さが通貨になる。 SNSとプラットフォーム資本主義は、人間をデータとプロフィール画像にして、常に他人と比較させ続ける装置でもある。その結果、誰もが不安定な「デジタル分身」を持ち、現実の自分よりも、タイムライン上の自分の方が元気に走り回っているような状態になる。​

 

この鏡の世界では、陰謀論やフェイクニュースは単なる「ウソ」では終わらない。現実への不安や疎外感を埋める、手っ取り早い物語として機能する。 ワクチンが怖い、仕事が不安定、将来が見えない──そうした感情が、「きっと悪い奴らの計画だ」というストーリーに回収されるわけだ。クラインは、こうした陰謀論を笑い飛ばすだけではダメだと言う。陰謀論者が鏡の向こうで何を見ているのか、なぜそんなゆがんだ世界の方が居心地よく感じられるのかを、直視しなければならない。

コロナ禍は、この鏡の世界を一気に拡大するブースターになった。ウルフはマスク義務やワクチンパスポートを「監視体制」や「デジタル専制」の証拠だと語り、ワクチンをほとんど生物兵器扱いし始める。 それらはネット上のノイズに留まらず、マスク義務禁止法といった具体的な政策にもつながっていく。同時にアルゴリズムは二人のナオミを雑に扱い、クラインの名前でウルフの発言を拡散する。ロックダウンで多くの人が家とネットに閉じ込められた時期、クラインは「自分の名前の自分ではない誰か」が喋り続ける様子を毎日見せつけられる。現実の自分より、鏡の世界の自分の方が影響力を持ってしまう──それがこの本の危機感の背景にある。​

 

対角線の政治──左右が交錯する奇妙な時代


クラインがとくに時間をかけて説明するのが、「対角線の政治(ダイアゴナリズム)」という現象だ。ざっくり言えば、「右か左か」という昔ながらのラインが崩れ、斜め方向に奇妙な同盟が組まれている状態である。​

 

パンデミックや気候変動への対策をめぐって、本来はリベラル寄りだった自然派・スピリチュアル系の人々が、「個人の自由」を掲げる極右と手を組むケースが各地で観察された。 スティーブ・バノンのような戦略家は、「大企業への不信」「政府への怒り」といった左派の言葉をうまく借りてきて、別の目的──排外主義や権威主義──に接続してしまう。クラインが描き出すのは、「こっちの味方」だと思っていた価値観が、鏡の世界の向こうでは反転し、敵の看板に掛け替えられているという不気味な光景だ。

その背景には、ウェルネス業界の世界観がある。身体を「自己管理のプロジェクト」として扱い、「自分だけは完全に健康でいたい」と願う感覚が、優生学的な発想と静かに共鳴してしまう。 マスクやワクチンに反対するスローガンは、一見「身体の自己決定権」を守るもののようでいて、実際には黒人や先住民コミュニティなど、すでに脆弱な人々のリスクを無視する論理と結びついていく。ここでもまた、「本来左派のはずだった言葉」が、鏡の世界でねじれて再利用される。​

 

ブランド化された自己という罠


クラインは若い頃から、ブランド資本主義を批判する側に立ってきた。ところが気づけば、自分自身も「反グローバリズムの急進的知識人」というブランドとして市場に並べられていた、と白状する。 名前がラベルになり、顔写真がロゴになり、メディアやイベントで「ナオミ・クライン」という商品が売り買いされる。それはウルフも同じで、二人は別々の棚に並んだはずの「ナオミ」という商品だった。ところが、棚卸しが雑なプラットフォーム世界では、二つのラベルが混ざり合い、ブランドが希釈されていく。​

 

若い世代はもっと早い段階から、SNSで「売れる自分」を設計するよう迫られている。自撮りとプロフィール文と投稿の一つひとつが、「パーソナルブランド」の部品にされる。 その結果、オンラインで演じる自己と、オフラインで暮らす自己の間にギャップが広がり、二重生活のような感覚が生まれる。森の中を歩き、スマホから距離をとろうとしても、頭のどこかで「ここをどう言葉にすれば受けるか」を考えてしまう自分がいる、とクラインは書く。 ブランドから逃げようとする自分の中に、なおブランドを作ろうとする声が居座っている、その矛盾そのものがこの時代の病だとクラインは示している。

監視資本主義と携帯電話の不気味さ


「彼らは携帯電話のことを知っている」という章では、スマホがほとんどお守り兼監視カメラと化した世界が描かれる。位置情報、購買履歴、移動パターン──あらゆるデータが吸い上げられ、広告のため、あるいはもっと別の目的のために利用されている。​

 

人々はこの構造を正確に理解しているわけではないが、「なんか全部見られている気がする」という勘だけは共有している。 この漠然とした不安が、「ワクチンパスポートは支配の道具だ」「政府とビッグテックが結託している」といった陰謀論の物語へと流れ込みやすい。クラインは、ウルフの言説が事実としては間違っていても、「監視されているのでは」という感覚そのものは、実際の監視資本主義に根を持っていると認める。 この章で描かれるのは、根拠の薄い陰謀論と、実在する監視システムの間にある、薄くて危うい膜のような境界線である。

極右とスピリチュアル系の奇妙な合流


パンデミックのさなか、これまでヨガやオーガニック食、瞑想といった「意識高いライフスタイル」を掲げていた人々の一部が、気づけばQアノンや極右メディアと同じデモに立っている──そんな場面が世界各地で生まれた。​

 

ここでつながるキーワードは「自分の体は自分のもの」というフレーズだ。 自己決定、自然回帰、オルタナ医療といった言葉は、それ自体では悪くない。だがそれが極端な個人主義と結びつくと、公共の健康や弱者の安全といった観点がスコーンと抜け落ちる。マスクを嫌がるのは「自分の自由」であり、他人のリスクは見えにくくなる。クラインは、こうしたウェルネス文化の影の部分が、ナチス的な「強く、健康で、美しい身体」の崇拝と微妙に共鳴してしまう危険を指摘する。 本来は解放の言葉だったはずの「自己決定」が、いつのまにか「他人なんか知らない」という排除の合言葉に裏返る、そのねじれをクラインは丁寧に追いかけている。

自閉症と反ワクチン神話の系譜


ワクチンと自閉症を結びつけるデマも、クラインにとっては他人事ではない。彼女には自閉スペクトラムの息子がおり、親として、そして社会批評家として、この問題に向き合わざるをえなかった。​

 

1990年代、アンドリュー・ウェイクフィールドの捏造論文が「ワクチンが自閉症を引き起こす」という神話のスタート地点になった。 しかしクラインがたどり着くのは、もっと前の歴史だ。1920年代のウィーンでは、自閉症児のための先進的な教育が模索されていたが、ナチス占領後、医師ハンス・アスペルガーは子どもたちを「社会に適応できそうな子」と「処分してもよい子」に分け、後者を虐殺施設へ送った。​

 

ここで浮かび上がるのは、「標準から外れた子ども」をどう見るかという、社会全体のまなざしである。療育は足りず、学校の支援も薄く、親たちは「普通でない」ことを悲劇として抱え込まされる。 そのとき、外部に「悪者」を作る物語──ワクチンのせいだ、誰かの陰謀だ──に吸い寄せられるのは、不合理でありつつも、人間的にも理解できる動きでもある。クラインは、反ワクチン神話をからかう代わりに、それを生み出しているのが医療格差や支援の欠如という現実だと指摘し、その構造をこそ問題にすべきだと語る。

歴史的トラウマとしての鏡──ナチズムと植民地主義


クラインは、鏡の世界を単なるネット現象ではなく、長い歴史のなかに位置づける。ヨーロッパの植民地主義とホロコーストとの連続性を指摘する映画を手がかりに、ナチスの民族浄化は、すでに植民地で実行されていた「劣った他者を消す」論理の内向きバージョンだと説明する。​

 

現代の極右は、この歴史を「もう終わったこと」として棚に上げつつ、「ヨーロッパ文明が攻撃されている」という物語を前面に押し出す。 ここでも「被害者」と「加害者」の位置は入れ替えられ、過去の暴力は曖昧な影となって残るだけだ。ユダヤ系でありながらシオニズムに批判的な左派でもあるクラインは、自分自身が複数の立場に引き裂かれる感覚を隠さない。イスラエルとパレスチナをめぐる言説では、「ユダヤ人=国家」という図式に抗う者も、別の鏡の中で「裏切り者」として描かれる。 クラインが繰り返し強調するのは、歴史的な暴力を「他人事」として外部に押し出すかぎり、鏡の中のナチスや植民者は、私たち自身の影としてつきまとい続けるという点だ。

影との対峙──脱自己化という選択


本書の終盤でクラインが差し出すキーワードが、「脱自己化(アンセルフィング)」である。 これは「自分なんてどうでもいい」と投げ出すことではない。むしろ、ブランド化された自分、フォロワー数で測られる自分、常に正しい側にいたい自分から、一歩横にずれる試みだ。​

 

母親の脳梗塞というきわめて個人的な危機を通じて、クラインは、自分の「立場」や「名前」よりも、目の前のケアや関係性の方がはるかに切実で重い瞬間があることを描く。 SNSの炎上合戦から距離を取り、「静けさ」そのものを抵抗の形として選ぶこと。誰かを論破する代わりに、壊れてしまった関係や傷ついた人々をていねいにつなぎ直すこと。クラインは、鏡の世界に吸い込まれないためには、自分の物語を大声で主張するよりも、自分を一度「外す」勇気が必要だと言う。

現実に向き合うということ


最終的にクラインがやろうとしているのは、「物語を全部やめろ」と言うことではない。物語は人間が現実を理解するための装置だから、それ自体を捨てることはできない。 ただし、物語に酔ったまま現実を忘れるのではなく、「これは物語であって、現実そのものではない」と自覚しながら使え、という話だ。​

 

鏡の世界は、気候危機、経済格差、戦争といった直視しにくい現実から目をそらすための巨大なスクリーンにもなっている。 SNSで自己演出に忙しくしている間に、海面は上がり、生活は不安定になり、誰かが戦地へ送られている。本書は、そのスクリーンにひびを入れ、「こっち側を見ろ」と指差す行為でもある。現代社会は、現実と鏡の世界という二つのレイヤーに分かれてしまった。個人的なドッペルゲンガーの話は、その二重構造を分かりやすく見せるための入り口なのだ。​

 

クラインの結論はシンプルだが、あまり優しくはない。鏡の中の「おかしな他人」を笑う前に、そこに映っている自分の影を見ろ、ということになる。その影ごと自分を引き受け、他者と連帯する道を探ること。そこからしか、鏡の世界からの脱出路は開けない──本書はそう言って、静かに幕を閉じる。​

AIに心を支配されないための自己啓発

 

書籍情報


著者:マーク・クーケルバーク
訳者:田畑暁生
出版社:青土社
発行年:2022年
価格:2,200円
ジャンル:現代思想/テクノロジー倫理/AIと社会哲学/デジタル社会批判/社会構造論

著者のプロフィール


マーク・クーケルバークはウィーン大学メディア・テクノロジー哲学の教授であり、人工知能やロボティクス、現代技術の倫理に関する分野で国際的に活躍する思想家である。ヨーロッパの政策立案や国際シンクタンクにおいてAI倫理の専門家としても貢献し、複数の主著が翻訳されている。テクノロジーの社会的・哲学的影響に着目し、AI時代の人間理解や社会変動について広く発言している。​

本書の特徴


本書は、AIやデジタルテクノロジーの普及で加速する「自己啓発文化」の現在を、古典、宗教、資本主義の歴史的系譜から批判的に位置付ける。自己啓発が人を幸せにするどころか、かえって焦燥や不安、社会的疎外を生み出している現実に警鐘を鳴らし、その原因・背景を倫理学・社会構造論の観点から多面的に分析する。個人主義やデジタル資本主義に飲み込まれない新たな「自己」のあり方、すなわち“関係性自己”“物語としての自己”という新しい概念を提唱し、社会全体の変革を含めた包括的な解決策を模索した批評的構想書である。

 

以下内容要約

 

古代から近代まで――「魂を鍛える技術」がどんな顔をしていたか

クーケルバークはまず、自己啓発の源流を古代からたどり直し、もともとの「自己を鍛える」という発想が、いかに倫理と霊性に根ざしていたかを丁寧に描く。

 

ここで中心に置かれるのはミシェル・フーコーが論じた「自己の技術」という視点である。古代ギリシアの哲学者たちは、「汝自身を知れ」というデルフォイの銘句を合言葉に、対話や黙想、節制の実践を通して魂を鍛えることを重んじた。ストア派の修行は、外部の出来事を完全にはコントロールできないが、出来事への態度だけは自分で選べる、という冷静な姿勢を身につける訓練として提示される。ここでの「自己改善」は、出世のためではなく「よく生きる」ための長期的な修練であり、誰かのタイムラインに成果を投稿する必要もなかった。

 

一方でキリスト教の伝統に入ると、「自分を顧みる」という行為は懺悔や内省の実践として再編成される、とクーケルバークは整理する。修道院での告白、良心の吟味、罪の告白といった実践は、欲望を監視し、心の中の思いを言葉にして点検する、かなり徹底した自己検査のシステムであった。ここでは「神の前での自分」を整えることが最重要であり、内面は監視されるべき場所であると同時に、救いがかかっている戦場でもあった。

 

さらにルネサンスの人文主義では、「人間は自分をつくり変えうる存在だ」という非常に楽観的な人間像が登場する。ピコ・デラ・ミランドラがうたった「人間の尊厳」は、教育と修養を通じて「より高い自己」を目指すことができるという信念と結びついていく。ペトラルカのような人文主義者たちは、道徳哲学と雄弁術を組み合わせて、人間がどのように自分の人格を形づくるかを重視した。ここでは「自己形成」は、社会的な成功というより、人格完成という目的に向けて開かれていた。

 

こうして見ていくと、自己啓発の遠い祖先は、もともと「魂の技術」として、倫理的・宗教的な修練と強く結びついていたことがわかる。クーケルバークは、この古い文脈を踏まえたうえで、近代以降に何が起きたかを問いにかけていく。

「本当の自分」という魔法の言葉――近代の自己執着とヒップスター実存主義

クーケルバークが次に焦点を当てるのは、「本当の自分」「自分らしさ」といった近代的なスローガンが、どのようにして自己執着へと変わっていったかという点である。

 

ここで登場するのがルソー以降の近代思想である。ルソーは自然の中で孤独に思索する人物として、「社会の仮面を脱ぎ捨てた、自然で純粋な自己」というイメージを強く打ち出した。内面の真実性を何よりも大切にするスタイルは、その後のロマン主義や実存主義に大きな影響を与える。クーケルバークは、この「内面への熱いまなざし」が、現代の「本当の自分探し」の原型になっていると見る。

 

しかし著者は、ここにパラドックスが潜んでいると指摘する。内面を大切にしようとすればするほど、人は自分の感情や欲望を細かく観察しはじめ、「これは本心か」「これは演技か」と延々と自己点検を繰り返すようになる。つまり「本当の自分を大切にしよう」というメッセージが、いつのまにか「自分をいつも監視し続けよ」という命令にすり替わるのである。鏡を一日に何度ものぞき込んでいるうちに、顔のシワより鏡のほうが気になってくる、あの感じである。

 

現代にくると、クーケルバークはこの流れを「ヒップスター実存主義」と名づけて皮肉る。実存主義が語った「自分で自分の生を選び取る」という重たいテーマが、ライフスタイルの演出と結びついて、「ちょっと変わったカフェ」「ちょっとニッチな趣味」「ちょっと尖った職業」といったパッケージで消費されるようになるからである。ここでは「他人と違う自分」が商品になり、SNSの投稿やプロフィール欄がそのショーウィンドウになる。

 

著者の目には、こうしたヒップスター的な自己演出が、一見すると反体制的でオルタナティブでありながら、じつは市場が用意したテンプレートの中で「自分らしさ」を演じているだけに見える。しかもその「自分らしさ」が、のちにAIのレコメンドに吸い上げられ、「あなたにぴったりのコンテンツ」として返されるのだから、自己探しの旅はいつのまにかアルゴリズムのガイド付きパッケージツアーになってしまう。

ウェルネス資本主義――「より良い自分」がビジネスモデルになるまで

この近代的な自己観が、21世紀に入って「ウェルネス資本主義」と結びつくとき、自己啓発は個人の趣味ではなく、巨大な経済装置として回り始めるとクーケルバークは描く。

 

ウェルネス資本主義とは、健康・幸福・自己実現をパッケージにして売る産業のことである。ここには自己啓発書、オンライン講座、マインドフルネス研修、フィットネスジム、栄養サプリ、ヘルスケアアプリなどが一列に並んでいる。どの商品も「あなたはもっと良くなれる」「今のままでは少し足りない」というメッセージを添えて登場し、足りなさを埋めるための次の購入を促す。

 

クーケルバークによれば、この仕組みのキモは「不安の製造と解消のセット売り」にある。まず広告やSNSが、「充実した朝活」「理想のボディライン」「整ったマインド」といったイメージを洪水のように流し込み、現在の自分とのギャップを意識させる。そのうえで、「このアプリ」「このメソッド」「このサプリ」があれば差を埋められると約束する。けれどもそのギャップは、ちょうど地平線のように、近づいても近づいても遠ざかっていく。

 

著者がさらに問題視するのは、この産業が「構造的な問題」を個人のマインドに押し戻す働きである。賃金の低さ、長時間労働、将来不安、社会保障の不安定さといった要因からくるストレスが、「あなたのメンタルの弱さ」「レジリエンス不足」「思考のクセ」の問題として語り直される。つまり、環境を変えるのではなく、環境に耐えられる自分づくりが推奨される。会社のオフィスに置かれるマインドフルネスルームや睡眠管理アプリは、その象徴として描かれる。

 

ここでクーケルバークは、「自己啓発は人を強くするというより、むしろ“従順で壊れにくい働き手”を増やす方向に働いてはいないか」と問い直す。外側からの強制ではなく、「自分のため」という名目で自発的に自分をならしていくプロセスを、彼はフーコーの議論にならって「自己馴致」と呼び、そこに現代の搾取の新しい面を見る。

AI・ビッグデータと「計測される自己」――アルゴリズムはなぜ自分より自分を知ってしまうのか

クーケルバークがAIについて本格的に語り出すのは、この「自己啓発の構造」がデータとアルゴリズムに組み込まれている、と判断できる地点に来たときである。

 

現代のデジタル技術は、単に情報を配信するだけでなく、人間の行動をカテゴリに分け、数値に変換し、ひたすら測り続ける装置として働いている。歩数、心拍数、睡眠時間、カロリー、仕事の生産性、SNSでの反応──あらゆるものがスコアやグラフになって、アプリの画面に並ぶ。クーケルバークは、このような社会を「計測社会」として描写する。

 

この計測社会では、「自己を知る」という行為の意味が逆転する。古代の「汝自身を知れ」は、対話や内省を通して自分のあり方を問うことだった。ところが今や「自分の状態」を知るためには、アプリが集計したデータや、AIが出したスコアにアクセスする必要が出てくる。スマートウォッチが示す「昨日より睡眠の質が悪い」という通知が、本人の眠気の実感よりも強い説得力を持ち始める。

 

著者が強調するのは、AIが「あなたはこんな人だ」と判断する根拠に、当の本人がほとんどアクセスできないという事実である。クリック履歴や位置情報、購買データ、交友関係といった膨大なログがどんな重みづけで処理され、どのような相関関係が見つけられているのかは、ブラックボックスの中に隠れてしまう。その結果、「AIのほうが自分の好みをよくわかっている」という感覚が生まれつつも、その認識過程をこちらから検証する術はほとんどない。

 

この構造は、自己啓発の文脈でさらにややこしい顔を見せる。レコメンドAIは「あなたをより良い自分へ導く」パーソナルコーチとして登場し、健康、学習、仕事、人間関係のあらゆる場面で「次にすべきこと」を提案する。その提案に素直に従っているうちに、「自分で考えて選ぶ」という古典的な自律のイメージは後景に退き、「AIが示した最適解に合わせて生きる」スタイルが静かに標準化されていく。

 

クーケルバークは、ここに「魂の技術」の質的転換を見る。かつて自己修練の技術は、日記や瞑想、対話といった形で、主体の内側に働きかける手段だった。それがAI時代には、主体をデータ化し、外部から再編集するテクノロジーへと変化している。自己が物語として語られる前に、すでに数値として計算されている、というわけである。

関係的自己と「物語としての自己」――出口はどこにあるのか

ここまで徹底的に批判を積み上げたうえで、クーケルバークが提示するのは「関係的自己」と「物語としての自己」という、二つの別ルートである。

 

関係的自己とは、人間を「孤立した一点」としてではなく、他者・社会・環境・テクノロジーとの関係網の中で立ち現れる存在として捉える考え方である。著者は、「私という存在はデザイン可能な白紙のプロジェクトではなく、すでにさまざまな関係に巻き込まれた物語として立ち上がっている」と強調する。友人、家族、職場、街、生態系、さらには使っているプラットフォームやデバイスに至るまでが、すべて「自分」の一部を形づくっている。

 

この見方を採用すると、「自己啓発で自分を変えればすべて解決する」という発想そのものが揺らぎ出す。なぜなら、燃え尽きや不安や孤独感が、個人の内面だけではなく、働き方、住環境、ジェンダーの役割分担、アルゴリズムの設計といった、より大きな構造とからみ合っているからである。クーケルバークは、問題を「自分の甘さ」や「努力不足」に還元する物語から、関係の網の目全体に目を向ける物語へと切り替えることを提案する。

 

さらに著者は、「自己とは物語である」というナラティブな観点を持ち込む。ここで言う物語とは、自己紹介のキャッチコピーではなく、「私は何者で、誰と生きてきて、どこに向かおうとしているのか」という長い時間軸の筋書きである。現在の自己啓発が提供するのは、「努力すれば報われる」「ポジティブ思考で壁を乗り越えよ」「失敗は成長のチャンス」といった、極めて個人主義的で競争的なテンプレート物語だとクーケルバークは見ている。

 

そこで彼が構想するのが、「ナラティブ・テクノロジー」という考え方である。これは、テクノロジーを使って、個人主義と自己責任の物語ではなく、関係性と連帯、さらには他の生物や環境も含んだ物語を支える仕組みを作れないか、という問いである。AIやデジタルメディアは、現在のように「スコア化と最適化」に使われるだけでなく、他者の物語と自分の物語をつなげるためにも使えるはずだ、と著者は言う。たとえば、ケア労働や見えにくい家事労働のストーリーを可視化すること、環境破壊の影響をローカルな語りとして共有することなどが、その例として示される。

 

ここで重要なのは、クーケルバークが「自己啓発をやめて何もしない生活を送りましょう」と勧めているわけではない点である。彼が拒否するのは、個人だけを責任主体とする自己啓発の枠組みであり、その枠組みを越えたところで「どんな変化が本当に望ましいのか」を問い直そうとしている。言い換えれば、「症状」を軽くするテクニックではなく、「病そのもの」をつくり出している社会とテクノロジーの組み合わせに、正面から手をつけようという発想である。

2022年までの世界に向けた本書のメッセージ

クーケルバークが本書を書いた2022年前後の世界は、自己啓発とAIがすでに日常の空気レベルで混ざり合い、「改善し続けることが当たり前」という前提がほぼ疑われなくなった時代である。

 

スマートフォンはすでに一人一台どころか「身体の延長」となり、健康管理アプリや学習アプリは、ごく普通の生活道具として広まっていた。SNSでは「より良い自分」のイメージが絶え間なく流れ、企業はウェルネスプログラムやメンタルヘルス施策を導入しながら、生産性の維持と向上を図っていた。AIはレコメンド機能や広告配信、信用スコアリングなどの形で静かに浸透し、「アルゴリズムに合わせた暮らし方」を人々に学習させていた。

 

そうした時代状況の中で、クーケルバークは「自己啓発の罠」というタイトル通り、個人の向上心がどこで罠に変わりうるのかを示そうとする。自分を大切にすること、成長したいと願うこと自体は否定されない。しかし、その願いが資本主義とテクノロジーの回路に組み込まれたとき、「向上心」は逆に人を疲弊させ、社会の不平等や不正義を見えにくくする働きを持ち始める。

 

著者が繰り返し強調するのは、「自己の問題だと思っていることの多くは、実は社会の問題であり、技術の設計の問題でもある」という視点である。だからこそ、「自分を変えること」にすべてを集約するのではなく、「自分と社会の関係のあり方」を変える方向に目を向ける必要がある、と彼は主張する。ここには、古代から続く「魂の技術」の伝統を踏まえながらも、その技術が資本とアルゴリズムの手に委ねられることへの違和感が、はっきりと刻まれている。

 

この本は、読者の生活をいきなり劇的に変える即効薬ではない。むしろ、毎朝なんとなく開いているアプリや、なんとなく押してしまう「改善のボタン」の背後に、どんな歴史とどんな力学が潜んでいるかを静かに照らし出す照明装置のような役割を担っている。クーケルバークのねらいは、おそらく「自己啓発のゲームから降りろ」ということではない。彼が問いかけるのは、「そもそもどんなゲームをプレイしたいのか」「誰がそのルールを決めているのか」を、AI時代の今あらためて考えないか、という招待状である。

マタギドライヴ 落合陽一 本書紹介

 

 

書籍情報


著者:落合陽一
発行者:PLANETS/第二次惑星開発委員会
発行年:2025年
価格:本体3,200円
ジャンル:現代思想/メディア論/ポストヒューマン論/文明論/AI・デジタル社会論

著者のプロフィール


著者の落合陽一は、1987年東京都生まれのメディアアーティストであり研究者である。 東京大学大学院学際情報学府博士課程を短縮修了し博士(学際情報学)を取得したのち、筑波大学で准教授として教鞭をとりつつ、デジタルネイチャー開発研究センターのセンター長として研究と社会実装の双方に携わっている。 2010年前後から作家活動を本格化させ、境界領域における物質と情報、質量と映像、自然と計算機といった対立項のあいだを横断するメディアアート作品や理論的テキストを発表し続けている。


本書の特徴

 

本書『マタギドライヴ:計算機自然の辺縁における脱人間知性的文明論』は、著者が約七年にわたる思索と連載を通じて練り上げてきた「マタギドライヴ」概念を、体系的な文明論として結晶させた書物である。 デジタルネイチャー化によって情報技術が自然のように遍在し、人間と機械、物質とデジタルの境界が曖昧になる世界を前提に、「かつて『人間』と呼ばれた形式」に固執することも、機械の一部として完全に同化することもできない存在たちのための新しい生き方を描き出している点が大きな特徴である。 東北の狩猟民「マタギ」をモチーフに、既存の最適化システムや大量生産・大量消費のロジックから外れた「辺縁」に身を置き、偶然性や環境の変動に身を委ねながら価値を“狩る”心性を、AI時代の知的実践として再定義している。

以下内容要約

 

熊とパソコンと魔法使いの教え

落合陽一の『マタギドライヴ』という本、タイトルからしてすでに様子がおかしい。「マタギ」といえば、雪山で熊を追いかける渋いおじいちゃんたちのことだし、「ドライヴ」といえば、なんとなくサイバーでカッコいい響きだ。この二つをくっつけるのは、まるで藁(わら)靴にロケットエンジンを搭載するようなセンスである。

 

著者は、「現代はもうデジタルネイチャーだ」と言う。これはいわば、森の中にWi-Fiが飛んでいるとかそういうレベルの話ではなく、世界全体が巨大なコンピューターの中に飲み込まれて、木もビルもポケモンも区別がつかなくなった状態のことだ。もはや、ここが現実なのかマトリックスなのか、誰も証明できない。そんなバグりかけた世界で、僕らはどう生きればいいのか。

 

そこで提案されるのが、まさかの「マタギ」スタイル、つまり農家をやめて狩人になれという話である。

 

農耕民族というのは、基本的に真面目だ。「春に種を撒けば、秋には米が食える」というルールを信じて、コツコツ畑を耕す。でも、デジタルネイチャーの天気(アルゴリズム)は気まぐれすぎて、明日いきなり雪が降るかもしれないし、畑がデータごと消えるかもしれない。そんな場所で「計画通り」なんて言っていられない。だからこそ、山に入って「たまたま出会った獲物をありがたくいただく」という、マタギの出たとこ勝負な生き方が最強のOSになるのだ。

死んでも帰れない飲み会

この本が投げかけるもう一つの爆弾が、「死の終焉(しゅうえん)」という概念だ。なんだかRPGのラスボスみたいな名前だが、要するに「人間、死んでも死にきれない時代が来た」ということらしい。

 

昔なら、心臓が止まればそこでゲームオーバー。あとは天国か地獄へ行ってらっしゃい、だった。ところが今はどうだ。肉体が滅んでも、SNSのアカウントは残るし、生前のデータを学習したAIが「本人っぽく」つぶやき続けることだってできる。いわば、本人が一次会の途中で帰ったのに、残された自分のホログラムが三次会のカラオケまで参加し続けているような状況だ。いつ成仏すればいいのか、幽霊も困惑するレベルである。

 

こうなると大事なのは、生きている間のことよりも、死んだ後の「自分データ」をどうデザインしておくかという、妙にSFチックな終活になる。

 

人生が「死んだら終わり」の閉じた物語ではなく、死後もアップデートされ続ける終わらない連載マンガになる。そう考えると、生きる意味もちょっと変わってくる。「どう生きるか」よりも「どう残るか」。なんだか面倒くさい気もするが、僕らはすでにそういう「死ねない呪い」にかかった世界に足を突っ込んでいるのかもしれない。

ガリ勉より野生の勘

経済の話も、これまでの教科書を裏返すようなことが書かれている。トマ・ピケティという偉い学者が「金持ちはずっと金持ち(r>g)」と証明して世界を絶望させたが、これが逆転するということだ。

 

理由は単純、AIのせいだ。これまでは「物知り」や「計算が速い人」がエリートだったが、そんなのはAIが秒速でやってくれる。つまり、知性のバーゲンセールが始まって、知識を溜め込むことの価値が暴落するのだ。蔵に米を溜め込んでいる地主よりも、毎日手ぶらで山に入って、その辺のキノコやら見たことない獣やらを捕まえてくるヤツのほうが強くなる。

 

知識を守って籠城(ろうじょう)するより、軽装備でデジタルの荒野をうろつきまわる「移動型」のほうが、結果的に美味しいご飯にありつける時代が来る。

 

大企業という立派なお城に勤めている人より、謎のYouTuberや、よくわからないアプリを作っている個人のほうが楽しそうなのは、この予兆なのだろう。大事なのは貯金残高ではなく、「獲物を見つける嗅覚」なのだ。

「する」でも「される」でもない、ヌルっとした状態

ここで面白くなってくるのが、「中動態(ちゅうどうたい)」という聞き慣れない言葉だ。英語の授業で「能動態(~する)」と「受動態(~される)」は習ったけど、その間があるらしい。

 

マタギは獲物を「俺が狩ってやったぜ!」とは言わない。「山から授かった」と言う。自分が主役で山が脇役なのではなく、自分も山という巨大なシステムの一部として、たまたま獲物と出くわしただけ。この「俺が俺が」とガツガツせず、かといって流されるわけでもない、波待ちサーファーのような脱力感が中動態だ。

 

AIが出してくる大量の選択肢から「これかな」とポチる行為は、自分で作ったわけじゃないけど、やらされてるわけでもない、まさにこの「中動的」な感覚に近い。

 

「世界を変える!」と鼻息を荒くして努力するのは暑苦しいし、すぐにバテる。それよりも、デジタルの川をドンブラコと流されながら、面白そうな桃が流れてきたらサッと拾う。それくらいの「適当さ」こそが、これからの時代の正しい作法なのかもしれない。

ハイテクな民芸品

最後に登場するのが「テクノ民藝(みんげい)」という、これまた奇妙な組み合わせの言葉だ。民藝といえば、おばあちゃん家の茶碗みたいな「名もなき職人の手仕事」のことだが、それを最新テクノロジーでやろうというのだ。

 

工場で大量生産されたピカピカのスマホは便利だけど、愛着は湧かない。でも、3Dプリンタで出力した自分だけの変なフィギュアや、AIと一緒に作った謎の音楽には、強烈な「個人的な匂い」が宿る。グローバルな規格品ではなく、ド田舎の道端に落ちている石ころのような、極めてローカルで個人的な執着。

 

最先端の技術を使って、誰のためでもない、自分だけの「変なモノ」を作り出すことこそが、次の時代の豊かさになる。

マタギが自分だけの槍を手入れするように、僕らもiPadやら生成AIやらを使い倒して、自分だけの「民具」を作り始める。そうやって、巨大で冷たいデジタル世界の中に、体温のある小さな居場所を作っていく。

 

結局のところ、この本が言っているのは「山に帰れ」ということではない。「ここがすでに山(デジタルネイチャー)なんだから、遭難しないように歩き方を覚えろ」ということだ。とりあえず、スーツを脱いで、動きやすい服に着替えたほうがいいかもしれない。熊が出るかもしれないからね。

脳科学の限界を描く『Neuromania』書影

 

書籍情報


著者:アルベール・ムハイベール(Albert Moukheiber)​
出版社:Allary Éditions(アラリー出版社)​
発行年:2024年​
価格:21.90ユーロ前後​
ジャンル:認知神経科学・科学コミュニケーション/メディア批判・科学技術社会論(STS)/自己啓発・ビジネス分野における神経科学言説批判​

著者のプロフィール


アルベール・ムハイベールは、認知神経科学の博士号を持つ神経科学者であり、臨床心理士としても活動してきた人物である。 パリ第8大学などで教鞭をとりつつ、パリの病院で不安障害やレジリエンスを中心とする臨床実践を長年行ってきた経歴を持つ。

 

 彼は、私たちの意見や信念がどのように形成されるのかを探る神経科学者のコレクティブ「Chiasma(キアスマ)」の共同創設者であり、批判的思考や認知バイアスについて一般向け講演やワークショップを行う活動家としても知られている。 前作『Votre cerveau vous joue des tours(あなたの脳はあなたをだます)』は12言語以上に翻訳され、フェイクニュースや認知バイアスをテーマとした一般書として国際的な成功を収めた作品である。 『Neuromania』では、研究者・臨床家・科学コミュニケーターという三つの立場を統合し、「脳のすべて化」という社会現象を歴史的・科学的・社会的観点から解体する姿勢が一貫している。​

本書の特徴


『Neuromania. Le vrai du faux sur votre cerveau(ニューロマニア:あなたの脳についての真実と虚構)』は、「すべては脳で説明できる」という流行的な言説を批判的に検証し、神経科学が本当に語れることと、メディアやビジネスがそこに勝手に付け加えている虚構を峻別することを目的とする書物である。

 

脳科学そのものを否定するのではなく、その歴史的形成過程(デカルトの機械論、骨相学、左脳・右脳論、三脳説など)と現代の機能的MRI(fMRI)研究の限界を丁寧にたどりながら、「どのレベルの説明が、どの現象に対して妥当なのか」という問いを一貫して追究している点にある。

 

 さらに、自己啓発、コーチング、マーケティング、教育、HR(人事)などの領域で濫用される「脳科学」「ニューロ◯◯」的言説(MBTIなどの性格テスト、左脳・右脳神話、脳トレ商法、神経可塑性万能論など)を具体例として取り上げ、それらがどのように個人の行動や自己像を「脳のせい」に還元し、社会的・政治的な責任から目をそらさせているかを解き明かす構成になっている。 

 

以下内容要約

 

脳がすべてを決めるという幻想

 

現代では、とりあえず何でも「脳のせい」にしたがる空気がある。

うれしさも不安も、やる気のなさも依存も、「それはホルモンと神経伝達物質のバランスの問題です」と言われると、不思議と納得してしまう。だが、その「なるほど感」こそが落とし穴かもしれない。

 

昔から人間は、釈迦の時代だろうとネット時代だろうと、「分かった気」にさせてくれる物語にすがってきたのであって、脳科学だけが特別なわけではないのだ。

 

アルベール・ムハイベールという神経科学者が2024年に出した『Neuromania』は、まさにこの「脳で全部説明できた気になる快感」に対して、ちょっと待てとブレーキをかける本である。

脳画像という魔法の装置

ムハイベールが特に警戒するのが、fMRI画像の持つ視覚的な説得力である。

 

 脳スキャン画像は、その内容とは無関係に、「科学的正当性」を付与する装置として機能してしまう。 

 

ある実験では、同じ内容の論文にfMRI画像を添付したグループとそうでないグループで評価を比較したところ、画像があるだけで説得力が統計的に有意に上昇した。 つまり、カラフルな脳の画像は、言葉より雄弁に「これは本当のことですよ」と主張しているわけだ。脳画像は、論理とは関係なく、人々の思い込みを強める道具になっているのである。しかも厄介なことに、その画像自体が美しいので、つい信じたくなってしまう。まるで、占い師の不可解な言葉よりも、派手なカードの方が説得力を持つようなものだ。​

 

さらに問題なのは、メディアを通じて科学情報が私たちの手に届くまでの過程で、情報が何度も歪められることである。 まず大学や研究所の広報部が、研究費を獲得するプレッシャーから「面白そう」な部分だけを抽出して結果を大げさにする。 

 

次に科学ジャーナリストが、文字数制限や読者の関心を引くために簡略化し、曖昧な因果関係で補う。 そしてSNSやまとめサイトが、さらにその記事を単純化して背景の情報を失わせる。 最終的に私たちの目に入る頃には、もとの研究とはまったく別物の「知識」として定着してしまうのである。伝言ゲームを思い出してみてほしい。最初は「象が鼻を使う」だったのに、最後には「象が鼻を失う」になっちゃったみたいな感じだ。​

 

典型例として挙げられるのが、「TikTok視聴時の脳」と「夕日鑑賞時の脳」を比較したfMRI画像だ。

 

 SNSで広がったこの画像は、「TikTokを見ると脳が活性化し、夕日を見るときより神経活動が低い」という主張を視覚的に支持しているように見える。

 

 だが、ちょっと待ってほしい。実際には、fMRIは病院内でしか使えない装置であり、実験では被験者は静止した壁の画像を見ただけで、実際の夕日を体験したわけではない。 

 

つまり、「TikTok視聴時の脳」と「壁の写真」を比較しているという、かなり変な実験になっているわけだ。検出された活性化の差も極めてわずかで、複数の比較を重ねて大げさにされた結果にすぎない。 

 

それでもメディアが元の論文の限定条件を省略し、日常経験との比較にすり替えた結果、「SNS依存で脳が損傷する」という疑似科学的な結論が社会に広がってしまった。 なんだか、マジシャンの種を知った気分で、スッキリしない。脳画像は正しく使えば有用だが、物語と組み合わさると一気に「科学っぽい神話」に変わってしまう。

脳科学の歴史は比喩の墓場

ムハイベールは、脳科学の歴史を振り返ることで、現代の「脳ブーム」が決して新しい現象ではないことを示す。 面白いことに、人間は時代が変わるたびに、脳を当時の最新技術に例えたがる傾向がある。 脳科学の歴史は、時代ごとの最新技術で脳を例えようとする試みの繰り返しであり、そのたびに失敗してきた歴史でもある。

17世紀には、哲学者デカルトが脳を機械仕掛けのロボットに例えた。

 

 当時、からくり人形が流行っていたからだ。痛みは「紐を引く」行為であり、脳は時計のように動くものとされた。 ちなみに、この時代の人は脳を理解するために、自分たちが知っている最高の技術である「機械」を参照したわけである。つまり、脳を本当に理解した、というより、脳を知らないから機械に例えた、という方が正確だ。 

 

19世紀には、神経がどのように電気信号を送るのか分かり始めると、脳は電気ネットワークとして理解されるようになった。 時代は電気化したからだ。しかしこれも、化学的な仕組みを無視した不正確なモデルだった。

 

 20世紀には、脳はコンピュータとして語られ、見える物を認識する脳の部分はグラフィックス、記憶はRAMやハードディスクに例えられた。 パソコンが登場した時代の話だ。これは最も広く信じられた比喩であり、今でも多くの人がこのイメージを持っている。 

 

そして21世紀初頭には、人工知能やディープラーニングのニューラルネットが脳をシミュレート可能だと思われたが、これもまた既に破綻している。 つまり、脳は常に「現在の私たちが知っている最新技術」として理解されてきたのだ。​

 

各時代で「ついに脳を理解した」という信念が生じ、その比喩が定着するが、脳の実際の複雑さが明らかになるにつれて、比喩は放棄される。 ムハイベールはこれを「脳科学の歴史は比喩の墓場」と表現する。

 

 いわば、脳科学の歴史は、捨てられた比喩の塚の上に築かれているようなものである。それでもなお、私たちは新しい比喩に飛びつく。なぜなら、謎めいたものを「分かった気」にさせてくれるからだ。​

 

興味深いのは、このパターンが科学界に限定されないことだ。19世紀の頭蓋骨測定法、いわゆる骨相学は、当時の科学者たちからも疑似科学と批判されていたにもかかわらず、一般の人々の間に広く広がった。 頭の形を測定して性格を判定するという、今聞くと馬鹿げた話だが、当時の人々にとっては「科学的」に見えたのだろう。

 

同様に現代の「左脳は論理的、右脳は創造的」といった脳の説明や「爬虫類脳・哺乳類脳・新皮質の三つの層」といったモデルも、科学的根拠が弱いまま企業研修や学校の教育現場で使われている。 つまり、疑似科学の進化形が、脳のラッピングを施されて再上陸しているような状況なのだ。​

性格テストという名の錯覚

会社は従業員の「性格の特徴」を調べ、チーム編成を「科学的に最適化」すると称する。 

 

MBTIやDiSCといった性格テストは、脳科学風に見えるが、実際には心理学の基準である妥当性や信頼性を満たしていない。 つまり、見た目は科学的だが、中身は占いに毛が生えた程度、みたいな感じだ。

 

ムハイベールは「バーナム効果」を指摘する。 これは、曖昧で誰にでも当てはまる記述、たとえば「社交的な側面を持つが、内向的な瞬間もある」といった文が、実はすべての人に該当するため、受験者は「自分に当てはまる」と誤認する現象である。 要するに、「あなたは時々疲れを感じることがありますか?」と聞かれて、「そう、まさに私だ」と思う感じだ。占いと同じ仕組みで、脳科学の言葉で飾っただけのプラセボ効果にすぎない。​

 

実際、性格の予測精度は低く、チーム効率が改善された証拠もない。 にもかかわらず、会社は「科学的に人材を配置している」という幻想を売ることができ、従業員の不安感を「脳の個人差」へと個人化できる。 

 

「お前のチームがうまくいかないのは、お前の脳の問題だ」と、さりげなく責任をすり替えているわけだ。こうして問題は、組織の構造や力関係ではなく、個人の脳に押し付けられる。 なんだか、船が沈みかけているのに、「お前の泳ぎ方が悪い」と言われている感じである。性格テストの多くは、科学の服を着た占いであり、それを根拠に人を分類し始めた瞬間から、問題は一気にややこしくなる。

診断の急増と環境要因の無視

発達障害の診断が急増している背景にも、同様の仕組みがある。 

 

だが、ちょっと考えてみてほしい。本当に世の中に発達障害の人が増えたのだろうか、それとも診断の基準が広がったのだろうか。

 

ムハイベールが指摘するのは、睡眠時間の不足、栄養不良、教室の環境悪化といった学校生活の中での原因が見落とされているということだ。

 

 脳の発達は確実に外部環境に左右される。 神経可塑性という言葉が示す通り、脳は外からの刺激によって変化する。 だが「脳が原因」という診断は、学校の制度や働き方といった大きな制度の改革をスキップする口実になってしまう。 薬で個人を「治す」方が、社会全体を変えるより容易で安価だからだ。なんだか、鼻をつまんで「においはしない」と言い張るようなものだ。​

 

自己啓発の本や講座でも同じわなにはまっている。「脳は何度でも変化するので、どんな困難でも乗り越えて能力を伸ばせる」という主張が満ちあふれているが、ムハイベールは正確さを求める。 脳の変化能力は確かに存在するが、それは「既にあるダメージを最小限にとどめる」ものであって、「無制限に向上する」ことを保証するものではない。

 

 つまり、傷ついた脳は一部修復されるかもしれないが、スポーツ選手のように劇的に成長するわけではないということだ。

 

また、トラウマから「回復する」のに重要なのは、脳の変化ではなく、本人を支える社会的・物質的・心理的な環境である。

 

 貧困、暴力、社会からの孤立といった外部の原因を無視して「脳の鍛錬」だけを強調することは、被害者を責任化することになる。 これは、溺れている人に「お前の泳ぎ方が悪い」と言うようなものだ。「脳が原因だ」という言い方は、本人の責任に見せかけて、実は社会の側の責任から目をそらす便利なスローガンになりやすい。

複数の見方から理解する視点

ムハイベールが提案するのは、脳の仕組みだけで説明するのではなく、複数の層からの説明を組み合わせる「認知科学」の見方である。

 

 同じ心の現象、たとえば「悲しみ」は、複数の視点から理解できるのだ。 化学的レベルでは、脳の中のセロトニンなどの物質の変化として見える。 これは薬による治療の根拠となるが、すべての原因ではない。脳の回路レベルでは、脳のどの部分が活動しているかというパターンとして現れる。 これは何が起きているかを示すが、本人がどう感じているかまでは説明しない。身体レベルでは、涙や胸の痛み、呼吸の変化といった生理的な反応として現れる。 心の状態は脳だけでは説明できない。心理的レベルでは、思考内容や苦しみの感じ方として経験される。 これは本人の内面の世界であり、脳の画像からは読み取れない。そして文化的レベルでは、フランス人とアフリカ人の悲しみの表現方法の違いとして現れる。 同じ生理現象も、社会や文化によって異なる表現形態をとる。つまり、悲しみは脳だけで起きているのではなく、身体と、他者との関係と、文化の中で起きているのだ。​

 

各レベルは相互に影響し、全体として一貫性を持つべきである。

 

 脳の化学だけで説明することは、他の重要な原因を見えなくしてしまう。

 

たとえば、社会からの孤立による落ち込みは、脳の視点では「モノアミンという物質の低下」として現れる。 これは本当のことだ。しかし根本的な原因は個人の脳にはなく、社会からの切り離しにある。

 

 これが最も根本的な原因である。抗うつ薬で脳の化学を正常化しても、孤立が解消されなければ本当の解決にはならない。 つまり、脳科学は有用な見方だが、最も大切な原因を説明しているわけではない。

 

ムハイベールはこの点で、脳だけで人間をコントロールできるという還元主義の考え方に明確に反対する。 考えてみれば、脳だけで人間が動いているなら、なぜ私たちは詩を読んで泣き、友人との時間を大切にするのだろうか。​

メディアと科学化の仕組み

ムハイベールが強調するのは、メディアだけを責めるべきではないということだ。 むしろ科学知識が私たちのところに届くまでの全体が、様々な圧力が交差するプロセスである。

 

 研究者にも圧力がある。公的な研究費が減り、個々の研究者が予算を獲得する競争に直面している。 「目立つ」、つまりニュースに取り上げられやすい研究テーマと結果の大げさな説明が求められる。

 

 いわば、地味だが正確な研究より、派手だが誇張した研究の方が資金を獲得しやすいという歪んだインセンティブが働いているわけだ。

 

大学の広報部門も圧力を受けている。 研究の社会的な価値を「見える化」することを求める。論文の結果を誇大化し、日常生活への応用の夢を描く。 なんだか、つまらない真実より、スッキリした嘘の方が売れるという商業主義みたいだ。

 

新聞や雑誌の記者にも限界がある。記事の文字数制限と読者の注目を集めるため、複雑な条件を削除せざるを得ない。 見出しは「脳スキャンで〇〇が判明」となり、実験の限界は消える。 そしてSNSの仕組みも影響する。驚きや単純性、道徳的な評価を含むコンテンツが優先的に広がる。 記事をさらに削いだ「要約」が流通する。​ちょっと書いていて耳が痛い。

 

結果として、各ステップでの「少しずつの単純化」が積み重なると、最終段階ではもとの研究とは別物になる。 これは悪意から生じるのではなく、構造的に避けられない仕組みなのである。 誰もが善意で動いているのに、結果として虚偽が拡散する、という奇妙な状況が生まれるわけだ。科学が「みんなに届けられる」過程は、美談ではなく、少しずつ意味が削られていく長い伝言ゲームのようなものだ。

批判的思考は個人ではなく社会の問題

ムハイベールが講演で示した「批判的に考えるための4つの柱」は注目に値する。 

 

脳科学のような複雑な主張に対抗するには何が必要か。

 

第一は自分の思考を疑う力である。 自分の脳を信じるな、自分の判断の間違いを認識せよ、という態度だ。 

 

これは習得の難度が中程度だが、本人の反省に左右される。

 

第二は論理的な誤りの知識である。 

 

思い込みや推論の誤りを学ぶことだ。

 

習得の難度は低いが、知識があっても感情が優ることがある。 つまり、「これは論理的におかしい」と分かっていても、気に入った説明には信じたくなるわけだ。

 

第三は知的な姿勢である。

 

謙虚さ、新しい考えへの開放性、頑固さを避けるといった姿勢だが、これは習得の難度が高い。 

 

人の性格に左右されるため、変わらないこともある。

 

そして第四は自分の知識の限界を知ることである。

 

 自分の得意分野の限界を認識することだが、これはほぼ不可能である。 

 

生涯をかけても、すべての分野の専門知識を習得することは物理的に無理だからだ。​

 

第四の柱が決定的に重要である。 

 

どんなに論理的で批判的思考に長けた人でも、気候変動、経済学、医学などすべてに詳しくなることはできない。つまり、私たちは必然的に、信頼できる誰かに判断を委ねるしかないのだ。

 

 では、複雑な現代社会で私たちはどうすればいいのか。ムハイベールの答えは、批判的思考は本質的に個人ではなく社会全体の問題であるということだ。

 

 個人がすべての分野で専門家になるのではなく、信頼できる専門家に判断を委ねる。 これを「情報的な同意」と呼ぶ。 そのためには、社会全体での信頼が必要である。

 

裁判所の公正さ、メディアの多様性と独立性、教育と研究への十分な投資といった社会の仕組みの立て直しが根本的な解決である。 つまり、個人の「脳最適化」ではなく、社会全体の仕組みを変えることこそが、脳科学の過度な言説から自分たちを守る最も有効な防御線なのである。 言い換えれば、私たちが「脳」を気にする前に、「社会」を気にするべきということだ。​

脳科学が有効な場面とそうでない場面

最後に大切なポイントを確認しておきたい。 

 

ムハイベールは脳科学を完全に否定しているのではない。 むしろ有効な場面とそうでない場面を明確にしようとしている。 

 

脳科学が有効な場面としては、パーキンソン病の治療、神経が壊れる病気の理解、神経を傷つけた後のリハビリテーション、特定の精神疾患の薬物治療といった分野が挙げられる。

 

 つまり、脳科学は医学的な文脈では十分な成果を上げているのだ。一方で、脳科学が有効でない場面としては、「仕事選び」「人間関係」「創造性」の説明や改善、社会的な問題である貧困や差別、教育格差の根本的な原因、個人のやる気の変化、文化による違いの理解といった分野がある。 つまり、生きていく上で本当に大事なことは、脳科学では説明できないのだ。​

 

両者を混同する根拠は、前者のような医学的な成功が、後者の分野にも応用できると誤解されるからだ。 しかし病気のある脳と、正常に機能している脳への働きかけは、倫理的にも科学的にも別の問題である。 脳科学の時代における注意と、社会全体での知識共有の必要性が、今、求められているのである。 脳は確かに重要だが、脳だけを見ていると、社会や歴史や他者との関係といった「人間としての本体」が視界からすっぽり抜け落ちてしまう。

アメリカ史を陰謀論で読む本

 

書籍情報


著者:ジェシー・ウォーカー
訳者:鍛原多惠子​
出版社:河出書房新社​
発行年:2025年(新装版)​
価格:3,300円​
ジャンル:アメリカ政治思想史/アメリカ精神史/陰謀論研究/メディア文化論/現代社会批評


著者のプロフィール


ジェシー・ウォーカーは、アメリカのジャーナリストであり、リバータリアン系シンクタンクとも近い月刊誌『リーズン(Reason)』の編集者として知られる政治・文化評論家である。彼は、植民地期から現代までのアメリカ政治文化を対象に、ポピュリズム(人民主義)、陰謀論、サブカルチャー、宗教運動など「周縁」に見える現象が、むしろアメリカの主流的精神構造を形づくってきたと論じてきた。既刊の『Rebels on the Air』では海賊ラジオや対抗メディアの歴史を通じて、国家権力と草の根文化の相克を描き、本書ではその関心を「陰謀論」というレンズに集約してアメリカ精神史を再構成している。


本書の特徴


本書の最大の特徴は、陰謀論を「病的で周縁的な妄想」とみなすのではなく、アメリカという国家の成り立ちと自己理解を支えてきた「精神史の中核的なフォークロア」として読み替えている点にある。著者は、悪魔崇拝、異星人、イルミナティ(秘密結社)、KKK(白人至上主義団体)、ケネディ暗殺からウォーターゲート事件、9.11同時多発テロ、FEMA(連邦緊急事態管理庁)陰謀論に至るまで、建国前夜から現代に至る膨大な事例を渉猟し、それらを五つの「原型神話」として整理することで、陰謀論が人々の不安・怒り・無力感をどのように物語へと変換してきたかを描き出す。さらに、新装版では「アメリカはなぜ、再びトランプを選んだのか?」という問いを正面から掲げ、トランプ現象を単なるポピュリズム現象ではなく、長期にわたる陰謀論的想像力の累積として位置づける構成となっている。

以下内容要約

 

アメリカの陰謀論は「異常」じゃなくて「ふつう」

 

「陰謀論なんて、変な人たちの妄想だろう」。そう思ってたあなたは、一度考え直した方がいい。なぜなら、陰謀論はアメリカ政治の中心に、建国のときからずっと潜んでいるからだ。

 

大統領も信じてるし、左派も右派も、みんな信じてる。つまり、「異常」じゃなくて、「ふつう」なのだ。もう一度言おう。大統領が信じてるんだ。あなたの頭の上には、陰謀論という雨が降り注いでいる。気づかないうちに、ずぶ濡れになってるのだ。

 

この本が伝えたいのは、単純だけど、考えてみると恐ろしい事実である。私たちが「陰謀論」と呼んで除外している思考方法は、実は権力者たちも日々使っている。

 

市民も政治家も、同じ脳を持った人間である以上、同じ思考の罠に落ちる可能性がある。ウォーカーはそこに気づくよう促しているのだ。言い換えれば、あなたも陰謀論者になる可能性がある、ということである。怖いけど、本当だ。

ホフスタッターの限界

昔、歴史家のリチャード・ホフスタッターという人が、『アメリカの政治におけるパラノイドスタイル』という論文を書いた(1964年)。

 

その論文では、陰謀論は「周縁的な妄想」「異常な心理」だと説明された。つまり、まともじゃない人たちが信じるもの、というわけだ。

 

背景には、第二次世界大戦後のアメリカにおいて、共産主義への恐怖が蔓延していた時代があった。ホフスタッターはマッカーシーの赤狩りを眼前にしながら、「これは一種の精神病理だ」と診断したのである。言うなれば、彼は「陰謀論なんて、どこかのイカれた奴が言ってることだろう」と思いたかったのだ。そうじゃないと、世界が怖すぎるからね。

 

でもウォーカーはそこに異議を唱える。彼の主張は単純だ。陰謀論は大統領から市民まで、左派から右派まで、アメリカ政治の主流に組み込まれた「ふつうの心の動き方」なのだ。

 

つまり、あなたが思ってるよりずっと普通なのだ。むしろ、ホフスタッター自身が描いた陰謀論的思考――秘密結社が組織されている、見えない敵が支配している――という心性は、エリート機関にも同じように存在していた。

 

ただ、ホフスタッターはそこに目を向けなかった。権力者の行動は別のレンズで見ていたのだ。都合のいい二重基準である。市民の疑いは「病気」で、権力者の陰謀は「仕方ない」。そんなわけあるか、という話だ。

 

この視点の転換こそが、ウォーカーの著作の核心である。陰謀論を「病理」から「文化現象」へと読み替えるとき、私たちは社会全体の構造をもう一度見直す必要に迫られるのだ。つまり、単なる学問的な問題じゃなくて、民主主義の問題なのである。

陰謀論って、実は物語である

ウォーカーがおもしろいのは、陰謀論を「ウソ」として否定しないところだ。

 

むしろ彼は、それを「権力から排除された人たちが、自分たちの物語を作るメカニズム」として読み直す。これは民俗学的なアプローチであり、陰謀論を「フォークロア(民間伝承)」として扱う試みである。要は、昔の村で「お化けが出た」と言うのと同じように、現代人は「陰謀がある」と言うわけだ。形は変わっても、人間は常に物語を求めている生き物なのだ。

 

たとえば、20世紀初頭の黒人コミュニティで流布した「夜間医者」という陰謀説がある。

 

医学生が夜中に黒人を誘拐して解剖するという話だ。事実としては虚偽だ。でも、この物語の背景には、白人医師たちが黒人患者に対して非人間的に扱っていたという現実が隠れていた。

 

タスキーギ梅毒実験という実際の犯罪さえあった。1932年から1972年にかけて、アメリカ南部の貧困黒人男性に対して、梅毒の「治療」という名目で、実は何もせずに経過を観察する非倫理的な人体実験が行われたのだ。

 

ペニシリンが開発されても、医者たちは実験を続けた。「科学のためなら、黒人の命なんて安いもんだ」ということである。この歴史的なトラウマが、「医者は黒人を狙っている」という陰謀説を生み出したのである。

 

つまり、物語としては嘘でも、その背後にある「社会的な現実」について、深い「真実」を伝えていたのだ。

 

権力に押さえ込まれている人たちが「自分たちが無視される理由は無能じゃなくて、敵の陰謀のせいだ」と語るとき、そこには確かな心理的なリアルさがある。彼らの物語が虚偽だからといって、その心理的な根拠まで否定するわけにはいかないのだ。

 

つまり、「それはデマです」と言って終わりではなく、「なぜこのデマが信じられるのか」という問いが大切なのである。そこに社会の本当の問題が隠れているからだ。

 

ウォーカーの指摘は民主主義的である。声を上げることができない人たちが、陰謀論という形で自分たちの経験を語る。その語り方が科学的に正確でなかったとしても、彼らの苦しみや疑念は確実に存在している。だからこそ、陰謀論を研究することは、社会の底から上がってくる声を聞くことなのだ。言い換えれば、陰謀論者の話を聞くことが、民主主義を守る第一歩かもしれないということである。

五つの「敵」のパターン

ウォーカーが発見したのが、アメリカ歴史に何度も繰り返される五つの「敵」のパターンだ。

 

これらのパターンは、時代や状況が変わっても、基本的な構造は変わらない。つまり、アメリカ社会の根底に潜む思考の枠組みなのだ。まるで、ジグソーパズルの枠のようなものだ。時代ごとに中身は変わるけど、枠の形は決まっている。

 

「外の敵」は、インディアン、ソビエト、テロリストなど、国境の外にいるやつらだ。

 

17世紀のピューリタンは、荒野とインディアンを「悪魔の領域」と考えた。彼らの世界観では、ヨーロッパから渡ってきた清教徒たちは「神に選ばれた民」であり、その周囲の荒野とそこに住むインディアンは、サタンの支配下にある危険な他者だった。コットン・マザーという有力な説教師は、インディアン襲撃を「悪魔の軍勢による攻撃」として説いた。つまり、戦争は戦争じゃなくて、宗教戦争なのだ。もっと言えば、相手は敵じゃなくて、悪魔の手先なのだ。こうなると、相手を倒すのは軍事的必要性じゃなくて、宗教的義務になる。道徳的に正当化されるわけだ。

 

400年後の現代でも、敵の顔は変わったけど、「外側から襲ってくる脅威」という物語の構造は同じだ。冷戦期のソビエト脅威論も、9.11以降のテロとの戦いも、同じ枠組みで語られている。「外敵」を想定することで、国内の結束が生まれる。つまり、外敵は便利なのだ。社会の矛盾から目をそらせるし、権力者を支持させやすくなる。だから、外敵は常に必要とされるのだ。

 

「内の敵」は、隣人や家族の顔をしている。

 

これは外の敵より、ある意味でもっと恐ろしい。なぜなら、判断基準が曖昧になるからだ。あの人は敵? それとも味方? わかんない。その不安感が、社会全体を蝕んでいく。

 

セイラム魔女裁判を見てみよう。最初は外からの脅威を恐れていたのに、やがて「敵はもう中にいるかもしれない」という疑いが生まれた。魔女は目に見えない力を持つとされたから、「証拠がない」ことがかえって「敵はどこにでも隠れている」という確信を生み出した。つまり、証拠がないことが、疑いの根拠になってしまうのだ。これは論理的には無茶苦茶だけど、心理的には納得できてしまう。怖いからね。

 

告発された人が処刑を逃れるため、別の誰かを密告する。その結果、疑いの輪はどんどん広がり、やがて村全体が互いを疑う地獄と化した。19人の人間が処刑された。その後、村人たちは「あれは間違ってた」と認めたが、時すでに遅し。

 

このパターンは、その後の、共産主義スパイ狩りやイスラム教徒への疑いへと受け継がれていく。冷戦期のアメリカでは、誰もが「赤い工作員」かもしれない。隣の同僚も、親友も。現代では、誰もがテロリストの同調者かもしれない。内の敵という論理は、社会に深刻な分断と不信をもたらすのだ。つまり、自分たちの足元を掘っているようなものだ。

 

「上の敵」は、支配層だ。

 

フリーメイソン、イルミナティ、現代の「ディープステート」。大統領や官僚やお金持ちが、見えないところですべてを操っているという物語は、権力への不満を説明するのに都合がいい。

 

19世紀のアメリカでは、銀行家やウォール街の投機家が陰謀の中心だと考えられた。ユダヤ人金融資本家という人種的な想像力まで加わった。20世紀には、FBIのエドガー・フーヴァーのような強力なエージェントが、国民を監視下に置いているという疑いが生まれた。実は、これらの疑いの一部は事実だったのだ。つまり、「陰謀が本当にあった」という歴史的経験が、人々の疑いを正当化したのである。

 

「下の敵」は、弱い者たちが暴動を起こすという恐怖だ。

 

奴隷反乱、労働者暴動、移民の蜂起。これはしばしば上の人たちの勝手な想像で、自分たちの権力を守るために下の人たちを脅威として描いた。南部の奴隷主たちは、北部の奴隷解放主義者が黒人奴隷を焚きつけて反乱を起こさせるという陰謀を恐れた。

 

ちょっと待て、それって完全に筋違いじゃないか。被害者が反発するのは陰謀じゃなくて、当たり前の反応だ。でも、支配層はそれを「陰謀」として捉える。自分たちの行為を正当化するために。労働者階級の台頭を前にして、エリート層は「アナーキスト」「共産主義者」という敵像を作り出した。これらの「敵」は、支配層の権力を守るために想像された存在なのだ。つまり、下の敵という陰謀論は、権力者による権力保持のための装置なのである。

 

最後に「善い陰謀」というのがある。

 

秘密裏に世界を守る正義の組織、天使的な存在。これは絶望的な世界に希望をもたらす。キリスト教文化では、見えない天使が人々を守っているという信仰がある。

 

歴史的には、秘密結社が世界を良い方向に導いているという想像も現れた。現代でも、「政府の中にも良心的な人たちがいて、隠れて悪から私たちを守っている」というドラマや映画のテーマは、一種の「善い陰謀」神話である。

 

これらの物語は、世界の不公正さに絶望せず、どこかに救いがあると信じさせる力を持っている。つまり、人間はすべての陰謀論が不安をもたらすわけではなく、ときには希望をもたらす陰謀論も信じるのだ。面白いでしょ。悪い陰謀論では人間は疑わしくなり、良い陰謀論では人間は希望を持つ。どちらも陰謀論なのに。

ウォーターゲート事件が変えたこと

1970年代、ホフスタッターの分析が壊れた。ウォーターゲート事件、COINTELPRO、NSAの違法監視。つまり、政府そのものが秘密のうちに市民を監視し、陰謀を企てていたことが明かされたのだ。これは単なる政治的スキャンダルじゃない。これは「陰謀論とは何か」という根本的な問い直しなのだ。

 

ウォーターゲート事件の詳細を見てみよう。1974年、ニクソン大統領のホワイトハウスが民主党全国委員会本部に盗聴装置を仕掛けた事件から始まった。

 

単なる盗聴ではなく、その後の隠蔽工作、証拠隠滅、証人への圧力――つまり、大統領自身が陰謀を企てていたのだ。ニクソン大統領は、「俺が大統領だから、俺がやることはすべて合法だ」と言い張った。つまり、権力そのものが陰謀を正当化するのだ。陰謀論が「根拠のない妄想」だという議論は、この事件によって決定的に破壊された。なぜなら、根拠があったからだ。実際に陰謀があったのだ。

 

同時代に明らかになったCOINTELPROは、さらに衝撃的だった。FBIが1950年代から1970年代にかけて、市民活動家、黒人指導者、反戦運動家などを監視し、ときには陰謀を仕掛けて、内部分裂を狙っていたのだ。マルコムXやマーティン・ルーサー・キング・ジュニアも監視対象だった。NSAは市民の通信を違法に傍受していた。つまり、あなたの手紙も、電話も、メール(当時はなかったけど)も、政府は見てるかもしれない。そんな世界だったのだ。

 

ウォーカーが指摘するポイントは決定的だ。「政府陰謀は完全な妄想ではなく、時には現実である」。そうなると、「陰謀論は異常だ」という議論は成り立たなくなる。誰もが陰謀論的思考をする可能性がある。そして、その対象には権力者たちも含まれるのだ。つまり、市民の「陰謀への疑い」と、権力者の「陰謀の実行」は、同じ現実の異なる側面なのである。これは恐ろしい結論だ。なぜなら、それは「陰謀論を否定できない」ということだからだ。

 

この転換は、民主主義にとって危険でもあり、必要でもある。権力者を信じすぎるのは危ないが、すべてを疑いすぎるのも民主的な議論を壊す。その緊張の中で、民主主義は成立しているのだ。つまり、民主主義とは、「信じつつ、疑う」という矛盾した状態を保ち続けることなのかもしれない。

人間の脳の仕組みと陰謀論

では、なぜ人間は陰謀論を信じやすいのか。ウォーカーは神経生物学で説明する。

 

人間の脳には「アポフェニア」という傾向がある。つまり、意味のないデータから意味を見つけちゃう、パターンのないところにパターンを見ちゃう能力だ。

 

進化的には、これは有用だった。危険を敏感に感じることで、祖先たちは生き残った。サバンナで狩りに出かけた人間が、茂みの中に敵の姿を「見つけられる」能力は、実際に生死を分けた。時には誤解だった(ただの風だった)としても、敵がいないと思って襲われるより、敵を想定して警戒する方が生存率は高かった。つまり、人間は「過度に疑う奴」が生き残ったのだ。「信じやすい奴」は、そのまま肉食動物の餌になった。つまり、陰謀論を信じるのは、人間の根底的な性質なのだ。

 

でも現代社会では、この能力が過度な疑いを生む。陰謀論者が散らかった情報をつなぎ合わせて物語を作ることは、バグじゃない。それは人間の根本的な「意味を作る力」の現れなのだ。

 

インターネットの時代になると、その傾向はさらに強まる。無数の断片情報が手に入るようになると、自分の仮説を補強する「証拠」は無限に見つかる。YouTubeのアルゴリズムは、あなたが見た動画に似た内容を次々と勧めてくる。その結果、あなたの「陰謀への疑い」はどんどん強化される。つまり、ネットは陰謀論の最高のインキュベーターなのだ。温かい温室の中で、陰謀論が育つ。

 

ウォーカーの結論は鮮烈だ。陰謀論は避けられない人間的現象であり、民主主義社会のコストなのだ。

 

つまり、完全になくすことはできない。

 

「陰謀論をなくそう」というのは、「人間を変えよう」と言うくらい無茶な話なのだ。だから大事なのは、それとどう付き合うかなのである。陰謀論を「精神病」として治療するのではなく、民主的な議論と教育を通じて、私たちの思考がどのような仕組みで陰謀論に引き寄せられるのかを理解すること。そこからしか、本当の対抗は始まらない。つまり、敵を倒すのではなく、敵を理解することなのだ。

「アメリカはいつも疑わしい」

ウォーカーが言うのは、陰謀論は「波」ではなく「常態」だということだ。19世紀の「奴隷権力陰謀説」、1960年代の反政府疑惑、現代のディープステート論。これらは別々の事件じゃなくて、同じ精神史の異なる局面だ。つまり、アメリカという国は、建国のときから疑わしい。というか、疑う心を持った人たちによって建国された。だから、疑わしくて当たり前なのだ。

 

具体的に見てみよう。19世紀、アメリカの北部と南部が対立していた時代、北部の廃奴主義者たちは「南部の奴隷主たちが、連邦政府を乗っ取ろうとしている」という陰謀説を唱えた。一方、南部では「北部の急進派が、南の伝統的な秩序を破壊しようとしている」という逆の陰謀説が流布した。両方正しい。いや、両方間違っているのかもしれない。でも、どちらも信じてた。その結果が南北戦争だ。陰謀論が戦争を起こすのだ。恐ろしいでしょ。

 

1950年代、マッカーシー議員は「国務省に共産主義スパイがいる」と主張した。彼のリストには何の根拠もなかったが、恐怖の雰囲気の中では、多くの人が信じた。国防総省職員、ハリウッドの映画人たち。誰もが疑いの対象になった。キャリアを失った人、自殺した人もいた。つまり、陰謀論は人命を奪う。それでも人々は信じた。なぜなら、怖いから。敵がいる方が、世界が理解しやすいから。

 

現代では、「ディープステート」という言葉が流行している。これは「見えない官僚機構が大統領より上に君臨している」という物語だ。トランプが大統領になったとき、この言葉は頻繁に使われた。彼は「既得権勢力」と戦っていると説き、自分の行動を正当化した。つまり、大統領も陰謀論を使う時代になった。あなたの上司が陰謀論を信じてたら、どうするよ。

 

つまり、アメリカは常に疑わしい。権力への不信と社会的な不安が結びつき、新しい敵が想像され、新しい陰謀説が生まれる。そのサイクルは建国から今までずっと続いてるのだ。この事実を直視することなしに、現代アメリカ政治を理解することはできない。つまり、アメリカを理解したいなら、陰謀論を理解しろということだ。

 

ウォーカーのリバタリアン的視角は、陰謀論をトップダウンの権力批判として肯定する傾向を持つ。彼は「政府を疑え」というメッセージを送っている。

しかし彼は同時に、陰謀論がもたらす危険性――虚偽情報、スケープゴーティング、暴力の正当化――を完全には無視しない。

AIに看取られる日 医療と介護の未来

 

書籍情報


著者:奥 真也
出版社:朝日新聞出版(朝日新書)​
発行年:2025年
価格:957円​
ジャンル:医療・介護の未来予測/医療AI・医療DX(デジタルトランスフォーメーション)/高齢社会政策・社会保障/生命倫理・終末期医療

著者のプロフィール


奥真也は、日本の医師・医療未来学者であり、医療現場とデータサイエンスの双方を踏まえて医療・介護の将来像を描いてきた専門家である。東京大学医学部を卒業後、放射線医学や医療情報学の研究に従事し、東京大学医学部附属病院22世紀医療センター准教授などを経て、現在は東京科学大学特任教授や埼玉医科大学総合医療センター客員教授として、医療AIや医療DXの社会実装をテーマとした教育・研究を行っている。また、一般向けには『未来の医療年表』(講談社現代新書)などの著作で、がん医療や高齢社会における医療費・人手不足の問題をわかりやすく解説し、医療政策とテクノロジーの両面から議論をリードする存在となっている。​

本書の特徴


本書は、2040年にかけて深刻化する日本の医療・介護の人手不足と医療費の膨張という課題に対し、医療AI・介護DX・ビッグデータ活用といったテクノロジーがどこまで問題を解決しうるのかを、最新研究と具体的事例を交えて検証する構成になっている。とりわけ、「AI医師は患者の『ズキズキ痛む』と『ジンジン痛む』を判別できるのか」「AIが誤診したら誰が責任をとるのか」「介護AIは人に寄り添えるのか」といった問いを軸に、診断・治療・介護・看取りの各場面でAIが担う役割と、なお人間医師・介護職に残される「聖域」としての仕事を対比しながら描き出す点が特徴的である。さらに、画像診断・創薬・デジタル治療アプリから、介護現場の要介護認定や見守りセンサーまでを一望しつつ、「未来の医療が変える生き方と死に方」というテーマのもとで、読者が自らの最期をどのような医療・介護環境で迎えるのかを考えるための教養書として位置づけられている。

以下内容要約

 

AIに看取られる日――2035年、医療はどう変わるのか

2035年、あなたが病気になったとき、診断を下す相手は医者ではなくAIかもしれない。それは恐ろしいことなのか、それとも救いなのか。著者・奥真也の問いかけは、医療という私たちの最も身近な制度が、実は根っこから変わろうとしていることを教えてくれる。

「名医」という概念が消える時代

医学の世界では、昔から「名医」という言葉がある。

 

何十年も医学を極めた医師であり、患者たちはその医師の診察を受けるために遠方から足を運ぶ。だが奥真也は言う。2035年には、そうした「名医」も「ヤブ医者」も同時に消滅する、と。

 

理由は単純だ。AIは数百万の患者の症例データを瞬時に参照できる。

 

人間の医師が生涯で診られるのは、せいぜい数万人だ。その差は圧倒的である。AIの診断精度は医師を上回り、やがてすべての患者が「名医レベルの診断」を標準で受けられるようになる。となれば、医師間の技量差という概念そのものが意味を失う。

 

では、医師は何をするのか。その答えは意外だ。AIが診断を担うからこそ、医師は患者との対話に時間を使える。

 

希少疾患のように症例が少なく、AIの判断材料が乏しい病気への対応。患者の不安や恐怖に寄り添うこと。経済的事情を踏まえて、その人らしい治療方針を一緒に考えること。こうした「マニュアルでは語り尽くせない判断」こそが、人間医師の新しい仕事場となる。

 

医学教育も変わる。これまでは知識の詰め込み──どんな病気にどんな薬を使うか、という暗記が中心だった。だが2035年の医師に必要なのは、患者の話を聞く力、その人の人生全体を理解する力、そして自分たちの限界を知ることである。医者という職業は「知識の人」から「対話の人」へと転身を迫られる。

日常が医療データ化される不気味さ

2035年、あなたの体は常に観察されている。便座、鏡、マットレス、シャワーヘッド。こうした日常のデバイスが24時間365日、心拍数、血圧、体温、さらには排泄物まで記録し続ける。昔は「年に一度の健康診断」が医療の主役だったが、その時代は終わる。

 

AIがこうしたリアルタイムデータを分析すれば、症状が出る遥か前に、がんや心臓病を見つけられる。血液中のがんマーカーが微妙に増えた瞬間、心電図の乱れが始まった段階で、治療が開始される。つまり、「超早期発見」が当たり前になる。患者にとっては救いのように見える。

 

だが、その背後に隠れた危険を見逃してはいけない。医療データと経済データが結びつくと何が起きるか。保険会社や雇用主が、あなたの健康リスクを事前に知り、差別的な扱いをする可能性がある。「この人は将来、病気になりやすいから採用しない」「この人の保険料は高くする」。医療の民主化は、同時に個人の自由が失われるリスクを孕んでいる。

 

もう一つ、デジタルツインという技術がある。これは、あなたの臓器や生理機能をコンピュータ上に複製し、治療を事前にシミュレーションするもの。

 

仮想空間で「もう一人のあなた」に投薬や手術を試してから、現実の治療を実行する。失敗のリスクを極限まで減らす技術だ。これもまた、医療を個別化し、その人にぴったりの治療を実現する道を開く。

臓器を「作る」「ワクチンで治す」「細胞を若返らせる」

医療の未来は、AIだけでは完結しない。生命工学という別の分野も大きく進化する。著者が強調する三つの柱を見てみよう。

 

一つ目はバイオプリンティング。

 

つまり、3Dプリンター技術を使って、患者自身の細胞から臓器を「作る」ことだ。日本でも国家プロジェクトとして、骨や血管や心臓の筋肉を製造する研究が進んでいる。これが2035年には現実の医療になっている。

 

ドナー不足で移植を待つ患者が命を落とす時代は終わり、必要な臓器はオーダーメイドで製造される。患者自身の細胞から作るから、免疫の拒絶反応もほぼ起きない。ただし、コストと製造時間がボトルネックになるため、最初は高い医療技術として扱われるだろう。

 

二つ目はがんワクチンだ。

 

統合型グリコ・ナノワクチンという新しいタイプのワクチンが開発されている。これは患者のT細胞(免疫細胞)をがん専用の攻撃兵器に教育するもの。

 

免疫のブレーキを外す薬と組み合わせることで、治療効果が飛躍的に高まる。著者の言葉は明快だ。2035年には、ほとんどのがんが治る病気になる

 

それは医学的な進歩であると同時に、社会的にも大きな変化をもたらす。「がん=死」という古いイメージは消え、糖尿病のように「管理しながら付き合う慢性疾患」へと扱いが変わるのだ。患者たちが受ける心理的な重圧も、大きく軽くなるはずだ。

 

三つ目は、細胞レベルの若返り。長寿遺伝子(サーチュイン遺伝子)という遺伝子が、DNA修復や炎症を抑える働きをすることが判明している。

 

これは カロリー制限(いつもより25%少なく食べること)で活性化する。同時に、老化した細胞を選別して除去するセノリティクスという技術も開発中だ。

 

動物実験では寿命が延び、見た目も若くなる。このふたつが統合されたら、医療は「病気を治す」から「老化そのものを遅くする」という段階に進む。

 

著者は「人生120年」を夢想ではなく、現実的なシナリオとして提示する。そうなったとき、医療費や介護の仕組みは、今と全く変わってしまう。

若い医師たちが逃げ出す理由

ここで、理想的な医療の未来を語る一方で、奥真也が目を向けるのは、日本の医療現場が既に経験している絶望的な現実である。

 

若手医師が保険診療(一般的な内科、外科)を敬遠し、美容外科のような高収入で楽な仕事へ逃げ出している。

 

これを著者は「直美問題」と呼ぶ。保険診療の医師は長時間働きながら、給料は安い。その一方で美容外科は診療報酬が高く、夜勤も少ない。人間は合理的だから、選ぶ仕事が変わる。

 

その結果、外科医という職業そのものが消えかけている。2040年には消化器外科医が5200人も不足すると予測されている。

 

つまり、がんの手術という最も重要な医療が、提供できなくなる危機が迫っているのだ。医師の総数は増えているのに、なぜこんなことになるのか。答えは簡単だ。給与体系が現場を支えられなくなったからだ。

 

著者が提案する解決策は意外だ。「もっと医者の給料を上げろ」ではなく「医療提供をテクノロジーで効率化しろ」というものである。

 

市販薬をもっと活用し、デジタル治療アプリ(スマートフォンで使える医療アプリ)を保険で使えるようにする。

 

生成AIに医学的な相談をして、本当に病院に行く必要があるかを判定する。こうすることで、医師の貴重な時間を本当に必要な患者に集中させる。

 

また、全国で医療情報を共有すれば、重複検査がなくなる。同じ検査を何度も受けなくて済む。これだけで年間520億円の医療費が浮く。効率化によって、医師の負担を減らし、制度を持続させるという戦略だ。

介護は既に人手不足の限界を超えている

医療の危機以上に深刻なのが、介護という現場の状況である。

 

訪問介護の求人倍率は15.5倍だ。つまり、求職者一人に対して15件以上の仕事がある。誰もが来るはずなのに、来ない。人手不足は制度設計のレベルではなく、人類的な限界に達している。

 

さらに怖いのは、働いている人たちの年齢だ。訪問介護員の平均年齢は54.4歳。65歳以上も珍しくない。つまり、高齢者が高齢者の世話をしているのだ。70代、80代のヘルパーが、夜中に何度も要介護者を起こし、入浴を手伝う。こうした重労働は、介護職自身の体をむしばむ。ヘルパーが要介護状態になるのは、遠い未来ではなく、もう始まっている。

 

介護DX(デジタルトランスフォーメーション)は、この崩壊を食い止める唯一の手段として位置づけられる。センサーやカメラを使って、転倒リスクや寝返りが打てない危険性を早期に検知する。スマートフォン一台で、介護記録も連絡も全部済む。スタッフの業務負担は劇的に軽くなり、人手不足を技術で補う。

 

同時に、要介護認定という手続きもAIで処理する。今は認定に平均40日かかり、その判定には主観や地域差がつきまとう。AIが客観的な基準で判定すれば、誰もが公平に必要なサービスを受けられる。ただし、デジタル化を一方的に押しつけたら現場は混乱する。スタッフの声を聞き、一緒に導入を進める姿勢が大事だ。

死ねない時代の苦悩

医療技術の進歩がもたらす最後の問題は、最も人間らしい問題である。

 

多くの病気が治る病気になれば、人間は「いつ死ぬのか」を自分で決めなければならなくなる。がんも心臓病も死の病ではなくなり、人生は120年に延びる。その120年を、認知症や寝たきりで過ごすことの意味とは何か。生きることの価値とは。

 

安楽死や尊厳死という議論は、医学の細かい問題ではなくなる。社会全体が向き合うべき問題になる。だが、著者は簡単な答えを示さない。なぜなら、その答えは一人の医者では決められず、社会全体で決めるべきものだからだ。

 

ただし、警告は鮮明だ。安楽死が合法化されると、貧困の中で生きる人たちは「死を選ぶ方が楽」という圧力を感じるかもしれない。その「選択」は、本当に自由なのか。その問いの前に、医療は沈黙する。

ナターシャ・カンプーシュ「3096デイズ」表紙

 

書籍情報


著者:Natascha Kampusch(ナターシャ・カンプーシュ)​
訳者: Jill Kreuer(ジル・クロイアー)​
出版社:Penguin Books(ペンギン・ブックス/Penguin Group, Great Britain)​
発行年:2010年(英語版ペーパーバック。ドイツ語原著『3096 Tage』は2010年9月刊)​
価格: 2,946円​
ジャンル:自伝/誘拐・監禁事件のノンフィクション/トラウマ・サバイバル/犯罪被害・被害者学/レジリエンス(心理的回復力)/人質・監禁の心理​

著者のプロフィール


ナターシャ・カンプーシュは1988年生まれのオーストリア人女性で、10歳だった1998年3月2日にウィーンで通学途中に誘拐され、8年半にわたってヴォルフガング・プリコロピルの自宅地下室などに監禁された人物である。

 

彼女は2006年8月23日に18歳で脱出し、解放直後には数週間の集中的な心理社会的ケアと精神科的支援を受けたのち、公的証言やメディア出演を通じて自身の体験を語り始めた。

 

その後、共同執筆者のハイケ・グローネマイアーとコリンナ・ミルボルンの協力を得て自伝的回想録『3,096 Days(原題:3096 Tage)』を執筆し、世界的ベストセラーとなったほか、事件の舞台となった家屋を買い取って管理するなど、加害の場を自らのコントロール下に置く象徴的な行動でも注目を集めた。現在は執筆や講演活動、チャリティ・プロジェクトを通じて、犯罪被害者支援やトラウマからの回復に関するメッセージを発信し続けている。​

本書の特徴


本書『3,096 Days』は、誘拐・監禁事件のセンセーショナルな「事実の羅列」ではなく、監禁前の複雑な家庭環境から、拉致当日、地下室での日常、誘拐犯との権力関係の変化、脱出、そしてその後の心理的意味づけに至るまでを一人称で精緻に描き出す構成をとる。

 

叙述は時間順に進みつつも、単なる出来事の時系列記録ではなく、アイデンティティの喪失と回復、学習性無力感とその突破、擬似成熟(pseudo‑maturity)や「大人のナターシャ」との内的対話といった心理的プロセスに焦点を当てており、極限状態におけるサバイバル戦略の内側を読者に体験させる点が際立っている。また、ストックホルム症候群というレッテル付けに対する明確な拒否や、加害者を「完全な怪物」としてではなく、暴力と弱さを併せ持つ人間として把握しようとする姿勢を通じて、被害者と加害者、憎悪と共感、服従と能動性といった二項対立を揺さぶるメタ的視点を提示している。

以下内容要約

 

監禁という名の牢獄——ナターシャ・カンプーシュの8年間

本の背景と著者について

1998年3月2日、オーストリアのウィーン郊外で10歳の少女ナターシャ・カンプーシュが登校途中に誘拐された。彼女は8年間、ヴォルフガング・プリコロピルという男の地下室に監禁された。2006年8月23日、18歳になった彼女は脱出に成功し、その4年後の2010年9月に本書を執筆・出版した。著者本人による一字一句の記述は、統計や外部記者の推測ではなく、8年間の監禁生活の内部から見た現実そのものであり、そこに生きた人間の感覚が刻み込まれている。

 

共同執筆者はハイケ・グローネマイアーとコリンナ・ミルボルン。彼女たちは著者の経験を言語化し、整理するプロセスを支えた。本書は240ページという限定的な分量の中で、物理的監禁と心理的支配の全貌を描き切っている。

本書の構成と章立ての意味

全体は10章とエピローグで成り立つ。ウィーン郊外での子ども時代から始まり、監禁の最初の数週間、心理的支配の深化、そして脱出へと至る。この章立ては単なる時系列ではなく、段階的な心理的支配のプロセスを構造的に映し出している。

 

個人的な感情の記述というより、監禁という現象を、自分の内側から冷静に観察し、分析しようとする姿勢が貫かれている。それは、自分がどのような状況に置かれているのかを理解しようとする知的営為であり、同時に、自分が完全に支配されることを防ぐための心理的抵抗でもあった。

奇行と精神的安定性の逆説——支配者の矛盾

まず押さえておくべきは、監禁者と被監禁者の関係である。プリコロピルは一見すると狂った男に思えるが、その行動には奇妙なほど一貫した論理があった。地下室を完璧に管理し、毎日のルーティンを厳密に守り、被害者に対して体系的な支配を加える。8年間のあいだ彼は、組織的な人間関係を構築しようとさえしていた。

 

この矛盾性が本書の核心にある。完全な暴君でありながら、同時に何かの秩序を必要とする者。破壊的でありながら、創造的でもあるという人間の複雑性。

 

ナターシャはやがて、この矛盾を理解することが生存の鍵だと気づく。相手を怪物として一元的に捉えるのではなく、その中に人間的な部分と鬼畜的な部分が共存していることを認識すること。その認識こそが、適切な距離感や対応の精度を高めたのである。

心理的支配の構造——アイデンティティの窃盗

本書の第5章「いかに私のアイデンティティが盗まれたか」が示すように、監禁は単に身体を束縛することではなく、人格全体への組織的な破壊を意図していた。

 

プリコロピルはナターシャに新しい名前「ヴィヴィ」を与え、過去の名前を口にすることを禁じた。両親が彼女を探していない、身代金も払わなかったと繰り返し伝えることで、家族への信頼を切り離そうとした。さらに鏡や外界からの情報を制限し、体重や髪型を支配し、着る服や仕草まで細かく指示することで「自分が誰なのか」という感覚を侵食していく。

 

だがナターシャはこの攻撃に対抗する手段を見つけた。トイレットペーパーに虐待の記録を綴ったのである。これは単なる日記ではなく、「私はここにいる。これが私に起きたことだ」という、消されそうになる自己の存在証明だった。この小さな行為は、心理的支配の完全化を防ぎ、自分がまだ「ナターシャ」であることの確認となった。

サバイバル戦略としての「擬似成熟」

監禁2年目の12歳のとき、ナターシャは極度の孤独に襲われた夜に、18歳になった自分との「約束」を交わした。法医学心理学者の分析によれば、これは「擬似成熟」と呼ばれる現象である。彼女は12歳で25歳のように振る舞わなければならず、その無理な成長が、ある意味では彼女を救った。

 

この戦略の心理学的機能は複雑だ。まず時間的展望の維持。将来への希望を具体的な人格として内在化すること。次に自己効力感の保持。「18歳の自分が必ず助けに来る」という確信が、現在の無力感を支える。そして心理的分離。現在の無力な自己と、未来の力のある自己を区別することで、完全な崩壊から自己を守った。

 

実際に彼女は18歳の誕生日に誘拐犯に告げた。「この状況は終わらせなければならない。どちらかが死ぬしかない。もう出口はない。」数週間後、彼女は脱出を果たし、その約束を実現させた。

長期監禁における学習性無力感と微かな希望

極度の心理的支配によって形成される「学習性無力感」。逃避不可能な状況に繰り返しさらされることで、たとえ逃避可能な環境が現れても行動しなくなるこの現象に、ナターシャもまた陥った。

 

外に出る機会が何度かあったにもかかわらず、店員や通行人に助けを求められなかった。それは恐怖だけでなく、「どうせ誰も信じてくれない」「逃げれば家族が殺される」という長年植え付けられた信念が、自発的行動を麻痺させていたからだ。しかし彼女は「大人のナターシャ」との内的対話を続け、「いつか必ず終わらせる」という小さな炎を消さなかったことで、この心理的牢獄が完全に閉じきるのを防いでいた。

 

この微かな希望の維持が、最終的な脱出を可能にした。無力感は完全には定着しなかった。その理由は、彼女が「未来の自分」というアンカーを持っていたからである。

憎悪の拒絶——戦略的感情制御

本書で最も引用される一文がこれだ。「もし憎しみだけで彼に向き合っていたら、その憎しみが私を食い尽くし、生き延びるために必要な力を奪っただろう。」

 

この主張は、トラウマ心理学における「適応的感情調整」の卓越した実例を示している。ナターシャは誘拐犯を非人間化しなかった。「愛しているふりをした」ことで譲歩を引き出した。複雑な関係性を認識した。「彼も被害者だった」と後に述べた。「彼には良い面もあった」と認めることで心理的共存を可能にした。

 

心理学研究は、長期監禁状況における憎悪の持続が皮質コルチゾール上昇と心理的崩壊を招くことを示している。ナターシャの選択は、生理学的にも心理学的にも合理的なサバイバル戦略であった。ただし、この戦略はストックホルム症候群ではないと彼女は強調する。それは単純な感情的同化ではなく、限定的で戦術的な感情管理だった。

「複雑性」への執着——単純化への抵抗

脱出後、メディアと心理学者たちはナターシャに「ストックホルム症候群」のラベルを貼ろうとした。彼女は誘拐犯の自殺を聞いて泣き、遺体に蝋燭を灯したからである。

 

だが彼女はこれを明確に拒否した。「誘拐犯と長時間過ごせば、自分を適応させ、相手と同一視するのはごく自然なことだ。私は自分の体験を自分の言葉で記述し分析する権利を持っている。」

 

彼女の主張の核心は、他者による病理化された解釈の拒絶にある。「ストックホルム症候群」というラベルは、彼女の戦略的判断と能動的適応を、受動的な病理現象に貶めるものだった。

 

加害者を100%悪、被害者を100%善とする二項対立の拒否。関係性の多層性——恐怖、依存、操作、共存が同時存在すること。生存のための戦略的感情管理を、病理的愛着と混同されることへの抗議。この複雑性の認識こそが、彼女の自己理解と回復の基礎となった。

メディアと「理想的被害者」神話への対抗

脱出後、ナターシャが直面した第二の闘いは、メディアと社会が押し付ける「理想的被害者」役割の拒否であった。

弱々しく、助けを必要とする少女像。誘拐犯への絶対的憎悪の表明。単純化された被害者ナラティブへの服従。メディアはこれらを強く期待した。

 

だがメディアは彼女の視点に満足せず、彼女にどう感じどう考えるべきか指示しようとした。しかし彼女は気にしない。彼女は「助けを必要とする弱い少女」の役割を演じることを拒否し、自分の物語を自分の言葉で語る権利を主張し続けた。この姿勢は、被害者の能動性とエンパワーメントを体現していた。

子どもから大人への加速された転換

ウィーン郊外での幼少期は決して理想的ではなかった。両親の離婚、厳格で平手打ちをする母親、無責任な父親、不安定で孤独な環境。これらの困難な経験が、やがて監禁下での生存能力をある程度強化したことは、トラウマ研究における新しい視座を提供している。

 

困難な幼少期が、彼女を急速に成長させた。困難な状況をナビゲートする能力を早期に学んだことが、ある意味で彼女の役に立った。この現象は「外傷前硬化」とも呼べるもので、レジリエンス研究の発展を促してきた。

脱出の瞬間と心理的バリアの突破

18歳になったナターシャは内心で決意した。「この状況は終わらせなければならない。どちらかが死ぬしかない。」2006年8月23日、庭で掃除機をかけている最中にプリコロピルが電話に気を取られた隙を突き、門の外へ走り出した。

 

その瞬間、足がすくみ、心臓が凍りつくような恐怖を感じたと彼女は記述している。この瞬間の記述は、学習性無力感を破って行動を起こすことが、単に物理的障害ではなく、強大な心理的障壁との闘いであることを如実に物語る。

 

8年間の監禁で形成された心理的牢獄は、物理的門戸の開放よりも重い。その扉を自分で開き、一歩を踏み出す。その一歩が、どれほどの決意と恐怖を要したかは、統計や心理学の定義では捉えきれない。

解放後の葛藤と自己物語の権利

脱出は生存の終わりではなく、別の困難の始まりだった。精神科病院での集中ケア、家族との再会のぎこちなさ、報道機関の過剰な興味と批判的まなざし、ストックホルム症候群というレッテル付けへの反発。

 

彼女は、自らの物語を公にすることで過去を固定化する危険を感じつつも、「語る主体」であり続けることこそが、加害者と世間の両方から自己を取り戻す唯一の道だと結論づけた。本書の執筆と出版は、その主張の実装である。

核心にあるもの——人間精神の破壊不可能性

『3096 Days』の最終的なメッセージは、シンプルにして根本的である。トラウマは必ずしも人を壊さない。適切な心理的戦略により、人は「壊れずに」生き延びられる。

 

憎悪は生存に不利。戦略的感情制御が長期サバイバルの鍵となる。被害者は受動的存在ではなく、能動性、操作能力、自己決定を保持しうる。そして最も重要なのは、単純化された物語への抵抗こそが真の回復の始まりだということだ。

 

ナターシャ・カンプーシュの人生は、極限状況における適応的コーピングの実証例であり、トラウマ心理学、レジリエンス研究、被害者学にとって第一級の一次資料である。彼女は、生き延びただけでなく、その生き延び方を言語化し、世界に示した。そのことが、本書の最大の価値であり、多くの人々に読み継がれる理由となっている。