書籍情報
著者:マシュー・サイド
訳者: 有枝春
出版社:ディスカヴァー・トゥエンティワン
発行年:2021年
価格:2,530円
ジャンル:組織論/マネジメント/リーダーシップ/行動科学/多様性・インクージョン(D&I)/イノベーション論
著者のプロフィール
マシュー・サイドは、イギリスのジャーナリストであり評論家で、オックスフォード大学を首席で卒業したのち、タイムズ紙のコラムニストとしてスポーツ、政治、ビジネス、教育など幅広い分野をテーマに論考を発表してきた人物である。元卓球選手としてオリンピックに2回出場した経歴を持ち、エリートアスリートとしての経験と学術的素養を組み合わせ、「失敗の科学」に代表される行動科学・組織論系のベストセラーを執筆してきた。BBC「ニュースナイト」やCNNインターナショナル、BBCワールドサービスなどに出演し、メディアを通じて科学的知見を一般読者が理解しやすい物語へと翻訳することに長けた論客として知られる。スポーツと社会科学を横断する視点を武器に、個人の才能よりも「集団としてどう学び、どう失敗から立ち上がるか」という問いを一貫して追究している点が、サイドの著者としての大きな特徴である。
本書の特徴
CIAの9.11事前察知失敗、1996年エベレスト事故、第二次世界大戦期のブレッチリー・パーク、グローバル企業の経営戦略など、異なる分野の豊富な実例を横断しながら、「認知的多様性」が組織の成否を左右する核心メカニズムであることを示すノンフィクションである。
単に「多様性は大事」と説くのではなく、画一的な集団がなぜ同じ盲点を共有して致命的なミスを犯すのか、多様な視点がどのように問題空間のカバー率を高めイノベーションを生むのかを、心理学・行動科学・ネットワーク科学などの知見と結びつけて分析している。さらに、ヒエラルキーやエコーチェンバー、無意識のバイアスが多様性を潰してしまう組織構造上の罠を掘り下げ、陰の理事会(シャドーボード)といった具体的な実務レベルの介入方法にも踏み込むことで、経営者・リーダー・現場メンバーが明日から使える設計指針として多様性を位置づけている。読み物としてのストーリーテリングと、実務に直結する理論・フレームワークが高いレベルで両立している点が、本書の最大の特徴と言える。
以下内容要約
画一的なエリート集団の「見えない死角」
まずサイドが取り上げるのは、2001年9月11日の同時多発テロをめぐるCIAの失敗である。
彼は、CIAが「頭のいい人」をこれでもかと集めていながら、組織としては決定的な盲点を抱えていたのは、メンバーの出自やものの見方が驚くほど似通っていたからだと描く。
というのも、CIAの幹部やアナリストの多くは、白人男性で、高偏差値のリベラルアーツ系大学出身という、ある意味「コピー&ペーストされたエリート」だった。だからこそ、試験成績や論理的思考のスコアは高くても、イスラーム文化の象徴や殉教の意味といった、別種の世界観にはピントが合わなかった。
その結果として、サイドによれば、アルカイダが発していたシグナルは情報としては手元にありながら、「これは本当に危ない」と解釈できなかった。髭をたくわえ、焚き火の前で語るビンラディンの姿や、「大いなる婚礼」と名付けられた作戦コードは、イスラーム世界の内側の視点を持つ人にとってはきわめて象徴的だが、同質なエリート集団の目にはただの背景ノイズとして映ってしまった。
こうしてサイドは、「優秀な頭脳が集まっている=賢い組織」とは限らないと指摘する。むしろ、一人ひとりがどれだけ賢くても、みんなが同じ方向からしか世界を見ていないと、組織全体としては「見えない場所」がごっそり残る。その死角が、9.11のような歴史的失敗を呼び込んだ、とサイドは論じる。
反逆者たちが作る「へんてこチーム」の強さ
一方でサイドは、第二次世界大戦中のブレッチリー・パークを、真逆のケースとして紹介する。
彼が強調するのは、ナチス・ドイツの暗号エニグマを解読したチームが、軍人でも数学エリートでもない「ごった煮」集団だったという事実である。
というのも、ブレッチリーには、数学者や言語学者だけでなく、クロスワードパズル好き、チェスプレーヤー、古典学者、社交界のデビュタントまで、経歴だけ見れば「なんでここに?」と言いたくなる人々が集められていた。採用試験も、形式張った学歴より「この人、なにかやらかしそうだ」という奇妙な才能を見抜くことに力点が置かれていた。
そのうえでサイドは、こうした「へんてこチーム」が、なぜ暗号解読で決定的な成果を挙げられたのかを説明する。数学的なパターン認識に強い人と、言語の癖を読む人、雑な直感で仮説を乱発する人と、機械の操作に長けた人が、同じ部屋で議論を重ねるからこそ、一人の頭では到達できない解にたどり着けたのだというわけだ。
ここで重要なのは、サイドが「多様な人を集めただけ」では足りないと見る点である。彼の描写では、ブレッチリーには、若手が遠慮なく上官の判断に異議を唱えられる空気があった。つまり、多様な視点がちゃんとテーブルに乗るコミュニケーション構造があったからこそ、多様性が「飾り」ではなく「武器」になったとされる。
イノベーションは「寄せ集めの再結合」から生まれる
次にサイドは、イノベーションの正体を「ゼロからの発明」ではなく「既存のアイデアの組み合わせ」として描き直す。
サイドの説明では、大きな飛躍を生むのは、ひとつの分野を深掘りする連続的な改良よりも、離れた領域同士をつなぎ直す「再結合的な発想」である。
たとえば、スマートフォンという製品は、電話・コンピュータ・カメラ・GPS・インターネットという別々の技術を、ひとつのデバイスに「寄せ集めた」結果として生まれたものだ、とサイドは整理する。この種の再結合には、もともと違う文脈で働いていた人や、異なる文化圏で育った人が、同じテーブルにつくことが欠かせない。
そこでサイドは、移民やマイノリティがイノベーションに過大な貢献をしてきたというデータやエピソードを引き合いに出す。別の国で育ち、別の常識で鍛えられた人は、既存の前提を当たり前と思わないので、「そもそもこのルール、必要?」と平然と問い直す。そのずれた視点こそが、新しい組み合わせの種になる。
こうしてサイドは、「優秀な同質エリートを揃えること」と「イノベーションに強いチームを作ること」は、実はかなり別のゲームだと示す。前者は既存ルールの中で最適化する力を高めるが、後者に必要なのは、ルールそのものを組み替える発想であり、そのためには、むしろ異物感のあるメンバーがいたほうがいい、という逆説が提示される。
エコーチェンバーとグループシンクの罠
しかしサイドは、多様な人を集めても、話し方と聞き方を間違えると、あっさり「みんな同じことしか言わない集団」に逆戻りすると警告する。
彼が特に問題視するのは、リーダーに逆らいづらい雰囲気や、似た意見だけが反響するエコーチェンバーが、多様な視点を物理的には存在していても「実質的には消してしまう」という構造である。
たとえば、組織内で発言権が偏っていると、会議ではいつも同じ数人だけが話し、多数のメンバーは黙ってうなずくだけになる。このとき、表面上は大人数のディスカッションに見えても、実際に意思決定をしているのはごく狭い「ミニ集団」でしかない。
さらにサイドは、人間にはもともと「自分と似た人と一緒にいたがる」という傾向があると指摘する。これが仕事仲間や情報源の選び方にも反映されると、自然と似た背景・似た意見の人ばかりをフォローすることになり、気づけばエコーチェンバーの出来上がりになる。SNSでの政治的分断などは、その典型例として描かれる。
そのうえでサイドは、極端なイデオロギーから抜け出した元メンバーのケースを取り上げ、「外側の世界」との接触が固定化した信念を揺さぶるきっかけになると論じる。閉じた情報環境の中にいる限り、どれだけ頭がよくても、自分の前提が偏っていることすら気づけない。この点で、多様性は「心のセーフティネット」にも似た役割を果たすとされる。
エベレストで露呈した「心理的安全性」の有無
次にサイドがスポットライトを当てるのが、1996年のエベレスト大量遭難事故である。
彼の読み解きによれば、この悲劇の背景には、登山技術や天候運の問題だけでなく、「リーダーにノーと言いづらい空気」がじわじわ積み重なっていた。
というのも、商業登山隊の多くでは、経験豊富なガイドが絶対的な権威を持ち、クライアントである登山者は彼らの判断に従う構造になっていた。たとえ「今日は登頂をあきらめた方がよさそうだ」と感じていても、高額の遠征費用や「ここで引き返したら恥ずかしい」という心理が働き、誰も声を上げない。
そこでサイドは、同じ山で別の選択をした隊との対比を描く。そこでは、リーダーが「なにかおかしいと思ったら、遠慮なく言ってくれ」と繰り返し伝え、行動計画もメンバーとの議論を通じて柔軟に変えていた。結果として、その隊は登頂を中止し、安全に下山することを選ぶ。
この対比からサイドが引き出す結論は単純だが重い。つまり、多様な経験や能力を持つメンバーを集めても、心理的安全性がなければ、その知恵はテーブルに乗らない。逆に、たとえメンバー構成がそれほど多様でなくても、「言っていい」「異論を歓迎する」という前提が共有されていれば、致命的な判断ミスを避ける可能性はぐっと高まるのだ、というわけだ。
ネアンデルタール人と人類史から見る多様性
ここまで組織やチームの話をしてきたサイドは、視点を一気に人類史スケールに広げる。
彼は、ネアンデルタール人の絶滅とホモ・サピエンスの生存を対比させながら、「多様性は種レベルの生き残り戦略でもある」と論じる。
サイドの整理では、ネアンデルタール人は身体能力も脳の大きさも高水準だったが、集団の規模が小さく、互いに分断されがちだった。その結果、遺伝的にも文化的にもバリエーションが乏しく、環境変化や感染症といった外乱に弱かった可能性が指摘される。
一方で、ホモ・サピエンスは、比較的大きな集団同士が広いネットワークを通じてつながり、道具や神話、技術を交換していたとされる。道具の形状や装飾のパターンが地域ごとに違いながらも、互いに影響し合っていることは、その「文化的多様性のネットワーク」を物語っている。
サイドはこの対比から、「集団としての知恵=集団脳」の概念を導入する。個体の脳の性能ももちろん重要だが、長い目で見れば、異なる知識やスキルを持つ個体同士がどれだけ交わり、情報を再結合できるかが、文明そのものの進化を左右するのだという。多様性が欠けた集団は、環境が変わったときの「予備パーツ」が足りない機械のようなもので、ちょっとした衝撃で一気に動かなくなってしまうのである。
多様性を「ちゃんと機能させる」ためのルール
とはいえ、サイドは「多様な人を集めればすべてうまくいく」とは言わない。
彼が本書の終盤で力を入れるのは、多様性を「看板」で終わらせず、実際の意思決定の場で機能させるための、かなり地味な設計作業である。
その一つが、「無意識のバイアス」にできるだけ自覚的になることだとサイドは説く。人は、自分と似た経歴の人を「なんとなく安心できる」と感じ、似た趣味の人の意見を「なんとなく筋が通っている」と感じやすい。この「なんとなく」が採用・昇進・会議運営のあらゆる場面で積み重なると、組織はいつのまにか同質なメンバーで固められてしまう。
そのうえでサイドは、意思決定の場に「異なる世代や現場視点を意図的に混ぜる」仕掛けの重要性を語る。若手や周辺部にいる人を、中心的な議論のリングに一時的に招き入れることで、上層部だけでは思いつかない盲点や新しい問いが持ち込まれるからだ。それは、エリート層の権威を否定するというより、「レンズを増やす」行為だと位置づけられる。
さらにサイドは、人間関係のスタイルにも触れ、「与える姿勢」を持つメンバーが多いチームほど、多様性が前向きに機能しやすいと指摘する。自分の利益だけでなく、他者の成功や成長にリソースを割ける人が多いほど、異なるバックグラウンド同士の信頼が生まれやすく、それが結果として知識の交換と再結合を促すからだ。多様性は、結局のところ「違う人同士がどれだけ安心してつながれるか」の問題でもある。
本書が書かれた時代背景と、サイドのねらい
最後に、『多様性の科学』が書かれた時代背景を押さえておくと、サイドのねらいが少しクリアになる。
この本が世に出たのは、9.11後のテロとの戦い、2008年以降の金融危機と格差拡大、SNSによる分断、そして企業のダイバーシティ&インクルージョン施策が一気に広まった流れがひと通り出揃ったあとだった。
つまり、多様性という言葉が「いいことだよね」とは広く共有されていたが、それが「なぜ組織の生存戦略と結びつくのか」までは腑に落ちていない時期である。形式的な女性登用やマイノリティ登用は進んでも、会議室の中では相変わらず同じタイプの人だけがしゃべっている、という状況が珍しくなかった。
サイドは、そうした空気の中で、多様性を「倫理の問題」から「認知と情報処理の問題」へと移し替えようとした。CIAの9.11失敗やエベレストの遭難、ネアンデルタール人の絶滅といった例をならべることで、「多様性がない組織や集団は、単純に“見えていない場所”が多くて危ない」と、ごく現実的なリスクとして位置づけている。
その意味で、『多様性の科学』は、ある企業の採用ポスターに使えそうなきれいなスローガンの本ではない。むしろ、ブレッチリー・パークの変わり者たちや、エベレストで躊躇なく引き返した隊のような、ちょっと変な選択や構成を「合理的な戦略」として見直そうとする試みだと言える。サイドは、人類史と組織論と失敗談を一つのテーブルに並べ、「違うこと」「そろっていないこと」のほうが、長期的にはずっと頼りになるのだと静かに語りかけている。









