紗久楽さわ 江戸漫画 BL インタビュー

 

書籍情報
著者:紗久楽さわ​
出版社:フィルムアート社​
発行年:2025年
価格:1,980円
ジャンル:インタビュー/評論・エッセイ、漫画論、BL研究、江戸文化・歌舞伎・浮世絵、クリエイター論​

著者のプロフィール
紗久楽さわは、江戸期の風俗・言語感覚への緻密な目配りで知られる漫画家で、『百と卍』をはじめ江戸文化とBLを交差させる表現で高い支持を得ている作家です。幼少期から手塚治虫やCLAMPに憧れ、浮世絵師や歌舞伎役者など実在の人物・芸能への関心を創作に取り入れてきた経歴が語られており、江戸文化への愛と調査にもとづく描写、そして現代的な関係性の感性が作品の核を成しています。BLジャンルの可能性を広げつつ、歴史解釈とフィクションの往復によって、固定観念から読者の視野を解放するアプローチが特徴です。​

本書の特徴
本書は『百と卍』の歩みを節目に、江戸文化・歌舞伎・浮世絵への愛、BLジャンルの変遷と魅力、影響を受けた作家・作品、そして各代表作の背景と制作プロセスを語る全編インタビュー構成です。副題に示されるとおり、「同じものでも見方が変われば違って見える」という視点転換を鍵に、過去と現在、男色史とBL、史実と創作の関係をほどき直し、読者に歴史と表現の再読を促します。

 

以下内容要約

 

紗久楽さわが語る、江戸×漫画×ボーイズラブの根源

「見落とされた過去を今とつなげたい」——この一句が、紗久楽さわの創作活動を貫く通奏低音となっている。新著『おんなじものが、違ってみえる 江戸と漫画とボーイズラブと』(フィルムアート社)は、『百と卍』の完結を機にまとめられたインタビュー集だ。聞き手はBL評論で知られるライター・山本文子が務め、著者の半生から創作思想まで、隠さず言語化している記録となっている。

 

本書で繰り返し語られるのは、同じものでも見方が変われば、まったく異なって映り、意味が生まれるということだ。江戸という歴史舞台は、学者にとっても漫画家にとっても、同じ過去であって同じではない。紗久楽さわにとって江戸は、セピア色の死んだ世界ではなく、そこに生きた人々にとっての、目に鮮やかな日常そのものなのだ。

月代への「推し」から出発した創作

著者が江戸の扉を開いたのは、高校時代に放映されたNHK大河ドラマ『新選組!』だった。脚本家・三谷幸喜の緻密な時代考証と娯楽の両立に惹かれた紗久楽さわは、やがて新選組の武士たちが結った月代(さかやき)という髪型に深く惹かれることになる。前髪から頭頂部を剃り上げた髪型への、ほぼ純粋な「推し愛」から、本来的な意味での研究が始まったのだ。

 

その後、杉浦日向子の江戸漫画を読み、陰間(かげま)という江戸時代の男娼の存在を知る。江戸の市場には、陰間茶屋という斡旋機構まで存在し、客との時間は線香の本数で計測されていたという、当時の社会的現実がある。紗久楽さわはここで、セクシュアルマイノリティとしての生存形態と感情に向き合うことになる

 

インタビューで著者は述べている。「月代をしているお兄さんがふたりいるのがものすごく好きで、ずっとそのふたりを望んでいた。けれど既存のBL作品には、月代同士の表現が極端に少なかった」と。自分が妄想する世界がこの世に存在しないなら、描くしかない。この強い欲望が『百と卍』の誕生を促した。

「型」と「様式」がもたらす親和性

紗久楽さわの表現世界を理解するには、幼少期からの読書体験に遡る必要がある。手塚治虫やCLAMPといった大家の作品に魅了された著者は、物語と絵が織りなす「型」という概念に幼くして捕まった。この「型への感受性」は、後に江戸文化との出会いで花開く。

 

江戸時代の美意識そのものが、本質的に「誇張」と「様式」を基調としていたのだ。歌舞伎の大げさな身振り、浮世絵の記号的な表現、そこに存在する「見立て」という手法——すべてが漫画という現代メディアの「記号化・省略・強調」という特性と驚くほどの親和性を持っていた。江戸と漫画は、見た目は違うけれど、本質的には同じ「美学言語」を話しているのだ

史実と創造のあいだで

著者の創作プロセスで興味深いのは、その学び方だ。紗久楽さわは江戸検定などの試験資格を取得していない。著者自身の言葉を引けば、「勉強した記憶がない。『萌え狂って調べていたら、いつの間にかこんなところに』」というスタンスなのだ。

 

東映太秦映画村への訪問、消防博物館での火消しに関する資料調査、隅田川の現地踏査——好奇心を駆動力とした身体的な探究を重視する著者にとって、江戸知識は「客観的な正解」ではなく、「創作のための感覚的な土台」である。

 

『百と卍』における月代や陰間の描写も、同様の姿勢から生まれている。江戸の性愛の多様性と、現代のセクシュアルマイノリティへのまなざしを重ねながら、著者は「同じだけど違う、違うけど同じ」という相対的な視点を構築した。元陰間の百樹と伊達男の卍が「義兄弟」の契りを結ぶシーンは、江戸の伝統儀式と現代の婚礼の象徴性を融合させる、その試行錯誤の果てにある。

江戸言葉が持つ音の美学

本書で語られる「江戸言葉」への執着も、創作の深さを示す。紗久楽さわは「胴欲(どうよく)」という言葉に愛着を寄せている。意味は「残酷だ」だが、魅力的な男性が色関係にある相手に意地悪をし、相手がすがって泣く——そうしたシチュエーションを表現するための、古江戸人の言葉遣いなのだ。

 

「まくし立て早口」の会話がもたらす音韻的な快感、「まっぴらめんねェ」「みったっしゃねェ」といった音の変化への注意深さは、漫画における方言運用の根拠となっている。BLというジャンルの感情の厚みと、江戸的な美意識の融合を目指す時、言葉選びは決して細部ではなく、作品全体を支える骨組みそのものなのだ

見落とされた者たちへのまなざし

本書の真の価値は、「見落とされた」ものを今に生かそうとする紗久楽さわの姿勢にある。江戸時代の男色文化は、時代とともに記録から消された。セクシュアルマイノリティの感情や生存形態は、公式な歴史叙述の外側に置かれてきた。

 

現代のBL表現は、そうした「隙間」を埋める力を持っている。女性作家による江戸表現、マイノリティの視点、関係性の濃度で歴史を読み替えるジャンル——BLは単なる恋愛表現ではなく、従来の歴史認識そのものへの異議申し立てなのだ。

 

『百と卍』は2018年度の『このBLがやばい!』で1位を獲得し、さらに文化庁メディア芸術祭マンガ部門で優秀賞を受賞している。BL作品として初めて同賞を受けたこの受賞は、時代小説とBL表現の新しい可能性を制度的にも認めたのだ。

おわりに——視点を変える自由

本書『おんなじものが、違ってみえる』は、個々の作品紹介ではなく、著者がいかにして「同じ江戸」を何度も何度も読み替えてきたのか、その感受性の進化を辿る書籍だ。デビュー作『当世浮世絵類考 猫舌ごころも恋のうち』から『かぶき伊左』『あだうち 江戸猫文庫』を経て『百と卍』に至る軌跡は、実は「同じテーマの異なる見え方」の積層である。

 

視点を変えることで、同じものが違って見える。違うものが同じに見える。その反復の中で、固定観念はほどけ、新しい感受性が育まれる。BLというジャンルの可能性、江戸文化との新しい結び方、そして性とジェンダーの多様性を祝福する姿勢——それらすべては、単なる「個人の創作観」ではなく、過去と現在を架橋する方法論そのものなのだ。

 

「見落とされた過去を今とつなげたい」という動機は、単なる歴史への郷愁ではない。それは、現在の読者が今を生きる上で、異なる視点をいかに獲得するかという問題と直結している。本書は、その実践を紗久楽さわが自らの創作で示した、貴重な記録なのである。

納得の構造 日米比較 思考表現スタイル

 

書籍情報
著者:渡邉 雅子
出版社:岩波書店
発行年:2025年​
価格:1,672円
ジャンル:比較教育・比較文化/思考表現スタイル研究/作文・言語教育/カリキュラム学/知識社会学​

著者のプロフィール
渡邉雅子は名古屋大学大学院教育発達科学研究科の教授で、コロンビア大学大学院でPh.D.(社会学)を取得した比較教育・比較文化と知識社会学の専門家である。日本・米国を中心に、フランスやイランも含めた複数国の思考表現スタイルを比較し、初等教育の作文・歴史教育から大学入試の能力観に至るまで、文化と教育が生む論理構造の差異を実証的にモデル化してきた。主著に『納得の構造』(2004、東洋館)や『論理的思考とは何か』(2024、岩波)などがあり、思考表現の比較研究を約30年にわたり継続している。​

本書の特徴
本書は、私たちが何を根拠に「納得」するのかを、日米の作文実験と初等教育カリキュラム・授業の比較から解明し、叙述の順番と論理の組み立てが文化的に形成されるプロセスを示すものである。四コマ漫画を用いた独創的な作文実験や、作文指導の実態比較により、論理・合理性・能力観がどのように教育実践へ埋め込まれ、日米で逆転現象を生むかを具体的に分析する。初版(東洋館、2004)の知見を基盤に、岩波現代文庫版として読みやすく再提示し、思考表現スタイル研究の入門としても専門的検討の基盤としても機能する構成となっている。​

 

以下内容要約

 

説明の順番が決定する納得の構造

日本とアメリカでは、同じ出来事を説明する際に根本的に異なる順序を採用している。この違いは単なる文体の差異ではなく、各国における教育体制と社会的価値観の深い層を反映した「納得の構造」、つまり何をもって説明が成立したと判断するかという基準そのものを形成している。渡邉雅子の研究が明らかにした通り、説明の順序という根本的な差異が、やがて学力評価や能力判定へと転化していくメカニズムは、比較教育学における最も重要な発見の一つである。

日本の場合、時間が流れた順に出来事を並べていく時系列構造が基本になる。「そして」「そこで」といった接続詞を用いながら、起きたことを忠実に追っていく説明方式である。この方式では、最初の出来事から始まって、次々と起きた事象を時間的順序に従って配列することで、読者や聴き手は一連の経緯を共に体験するような感覚を得る。事柄の全体像が段階的に明かされていくため、全景をつかみやすく、登場人物の心理変化や情動の推移が自然と理解できる構成になっている。

これに対してアメリカでは、結論や判断を先に示してから、その原因を遡って説明する因果律構造が標準的だ。「なぜなら」「だから」といった理由づけの接続詞が接ぎ目になり、全体が論証的な構成を持つことになる。最初に述べられる結論は、その後の個別の論拠によって正当化される。読者は、まず全体的な判断に同意してから、なぜそうなるのかという個別の理由を理解していく論理的経路を辿ることになり、その結果、説明は筋立てのはっきりした構造を獲得する。

この違いは教育現場に明確に反映されている。歴史教育を例に挙げれば、日本では過去から現在へ向けて時系列で事象を並べ、児童が各時代にどのような出来事があったかを順に学ぶ。江戸時代にはどのような社会構造があったのか、明治維新ではどのような変化がもたらされたのか、という具合に、時間の流れに沿った事象の描写が中心となる。教師の質問も「あのとき何が起きたのか」という形になる。このアプローチでは、児童が学ぶべき内容は各時代の具体的な状況とそこに生きた人々の心情であり、共感能力の育成が重視されている。

一方アメリカでは、結果から逆算して「なぜそうなったのか」を問う。複数の要因がどの程度影響を与えたかを分析する訓練が中心になるわけだ。たとえばアメリカ独立戦争を学ぶ際、単に出来事を時系列に並べるのではなく、独立戦争に至った複数の原因(租税政策、啓蒙思想の普及、産業構造の変化など)を特定し、それぞれの寄与度を考察する。「なぜイギリスからの独立が必然だったのか」という問いに対して、複数の視点から論証的に答える能力が求められている。

四コマ漫画実験が示すもの

渡邉の研究で際立っているのは、同じ刺激に対する児童の反応を比較する四コマ漫画の作文実験である。この実験は、同一の視覚情報に対して、児童たちがどのような思考パターンで出力を構成するのかを、客観的に検証する方法論として極めて有効である。実験では、登場人物の一日の出来事を描いた四コマ漫画を示し、児童に「この人物の一日はどのような日だったか」を説明するよう求めた。

日本の子どもたちの作品には「そして」型が圧倒的多数を占め、コマの流れを時間順に追いながら、場面の推移や登場人物の心情を丁寧に描写する傾向が見られた。典型的な例では、「朝起きると雨が降っていた。そして通学路で友達に会った。そこで一緒に学校へ向かった。学校では楽しい授業があり、その後部活動があった」というように、接続詞で出来事がゆるく結ばれ、なぜそれが起きたのかという因果関係は曖昧なままに、次々と新しい出来事へ進んでいく構成だ。文章全体から浮かび上がるのは、登場人物が経験した一連の現象であり、それぞれの出来事がどのような必然性を持つかは必ずしも明示されない。

これに対し、アメリカの児童は結論先行型の文章を書く傾向が有意に強い。最初に全体をまとめた判断を示し、具体的な根拠を並べ、最後に再び全体をまとめるというサンドイッチ型の論証構造である。「この一日は退屈だった。なぜなら朝は雨で気分が沈んだ。さらに学校では退屈な授業ばかりだった。だからこの一日は退屈だったのだ」という形式で、最初の評価判断が後続の事例によって支えられる構成になっている。出来事のつながりが明確で、話が一貫した方向へ向かう構成になっている。この実験結果から導き出されるのは、思考法の型は無限にあるように見えながらも、基本的な類型を示すことが可能であり、さらに重要なことに、教育を通じてそのいずれの型も習得可能だということである。

自由と形式のパラドックス

渡邉が指摘する興味深い逆説が、自由と形式についての相反する現象である。日本では作文を教える際に「型」を厳密に教えず、子どもたちに自由に書くよう指導する傾向がある。教室では「自分の気持ちをありのまま表現しなさい」という指導が一般的であり、起承転結のような固定的な形式を強制することは避けられる傾向にある。しかし結果として、時系列という単一のパターンへ次々と収斂していく。子どもたちは自分が自由に表現していると思いながらも、実は決まった形に落ち着いているのだ。個々の児童が「自由に書いた」多数の作文を集計してみると、圧倒的多数が時系列叙述という同じパターンに従っていることが明らかになる。

一方アメリカでは、複数の「型」を慎重に教える。テキストやワークシートを用いて、結論先行型、問題解決型、比較対照型といった異なる論証方式を学ばせることで、その結果として子どもたちは様式を選択し組み合わせるという真の自由と創造力を獲得することになる。型を習得した上で、その型のどれを使うかを選ぶという判断が、かえって自由度を高めるパラドックスが生じているのである。形式的な「型」の習得が、かえって多様な表現を生み出すための基盤となるというこのパラドックスは、教育方法論にも大きな示唆を与えている。

教育における価値観の対立軸

このような叙述の型の違いの背景には、各国の教育が何を目指しているのかについての根本的な相違がある。日本の教育は人間や感情の育成を目指し、素直に感じたことを表現する能力、他者に共感する力を重視する。教育の現場では、子どもたちの内面的な成長、すなわち感受性の豊かさや他者への想像力といった、数値化しにくい資質が大切にされる傾向にある。作文の評価も、「気持ち」がよく表れているか、生き生きとした表現ができているか、社会的・歴史的背景に対する共感が十分か という観点から行われやすい。教員は児童が事象をいかに深く感受しているか、いかに登場人物の心情に寄り添えているかを評価の軸とする。

これに対し、アメリカの教育は判断に資する技術の習得を目指し、複雑な情報を分析し、論証的に主張を展開する能力を重視する。学校教育では、児童が習得すべき技術が相対的に明確に定義され、その習得度が客観的な基準によって測定される。評価基準は論理構造の明確さ、証拠に基づいた論証力に置かれる。教員は児童が主張と根拠をいかに正確に組み立てたか、いかに客観的な証拠を用いたかを評価の中心に据える。これらの価値観の違いが、結果として子どもたちの思考パターンを規定し、やがては「能力」という見えない区別へと転換されていくのである。

スタイルが衝突する場面

異なるスタイルが接触するとき、評価の不一致が起きやすい。この現象は、国際交流や留学生の受け入れが増える現代社会において、極めて実践的な問題として浮上している。日本型の時系列叙述に対して米国型の因果的評価軸を当てると「論証が不足している」と判定されやすく、逆に米国型の結論先行・要約重視の構成を日本型の共感的価値観で評価すると「心情に欠ける」と受け取られる傾向がある。

具体的な場面を想定してみると、国際学会での論文発表評価がその典型である。日本の研究者が、先行研究の蓄積を時系列に丁寧に述べ、その歴史的文脈の中で自らの研究を位置づけるというアプローチで発表する場合を考えよう。この方式では、研究分野の形成過程が段階的に明かされ、聴き手は一連の学問的な営みを共に体験する感覚を得る。しかし米国の評価者からすれば、なぜこの研究が必要なのか、それが既存研究のどのような問題を解決するのか、という結論部分が明確に先立つことなく、時間をかけて背景説明に費やされているように映る。結果として「要点が曖昧だ」という評価が下されてしまう。

逆の場面も同様である。米国の研究者が最初に「本研究の独創性は次の三点にある」と結論を先行させ、その直後に各論拠を列挙し、最後に再度結論を確認するという論証構造で発表する場合、日本の評価者にはこの構成が「味気ない」「研究者の思考過程が見えない」「人間性が感じられない」と受け取られやすい。こうした評価のズレは、単なる好みの違いではなく、各側が自分たちの「納得の骨格」を絶対視しているところから生じる。つまり、自分たちの文化的に形成された説明方式を「正しい説明」と無意識のうちに定義し、それから逸脱した表現を「不十分」「不適切」と判断してしまうという認識的な陥穽に陥っているのである。

さらに教育改革の文脈では、一方の型だけを他方へ導入することの危険性が浮き彫りになる。効率化志向でアメリカ式の因果的分析型だけを日本の教室に持ち込めば、それまで育てられてきた共感や感受性が失われてしまう可能性がある。たとえば、近年の日本の教育現場で「論理的思考力の育成」という名目の下、あらゆての作文課題で結論先行・論拠提示という方式を強制すれば、児童たちは自分の感受性に基づく表現、全体的な情動の流れを重視した叙述といった、日本型教育が長年かけて培ってきた資質を失うことになる。詩的表現、物語的叙述、あるいは心理描写といった領域が軽視されるリスクがあるのだ。

逆に日本型の共感重視をアメリカに移植すれば、論証力や技術的思考が軽んじられるリスクがある。アメリカの学校に「感情表現を重視する」という指導方針を無批判に導入すれば、生徒たちが論理的思考の訓練から遠ざかり、複雑な問題を分析的に解く能力の発達が阻害されるおそれがある。どちらの教育体系も、その社会的文脈の中で機能してきた知恵の結晶であり、他方の文脈へ無理矢理移植することは、両者にとって望ましくない結果をもたらすのである。

複数スタイルの運用能力へ向けて

本書の到達点は、相対主義に留まらないところにある。どちらが優れているかではなく、複数のスタイルを状況に応じて選び替えるメタ的な運用能力を育成することが重要だという指摘だ。結論先行、問題解決型、因果展開などの「型」を複数習得し、場面に応じて切り替える能力が、これからの時代に求められるリテラシーになっていくと渡邉は述べている。

 

実践的には、小論文や討論、歴史叙述といった課題で、複数の型を明示的に教授し、評価基準を透明化することが提案されている。さらに共感的評価軸と技術的評価軸の両方を用いた二重のルーブリック評価も、一つの方向づけとして示唆されている。

ファシストはいかに過去を改竄するか

 

書籍情報
著者:ジェイソン・スタンリー
訳者:森本奈理
発行者:白水社
発行年:2025年11月
価格:2,640円
ジャンル:社会思想・現代政治・教育批評・ファシズム研究

著者プロフィール
ジェイソン・スタンリーはイェール大学の哲学教授で、メディアでも頻繁に討論活動を行っている現代の代表的な政治哲学者です。 彼は言語哲学やプロパガンダ理論の研究で有名であり、家族の歴史的背景(ナチスから逃げたユダヤ系家族) )もあって、ファシズムや解放主義の研究に強い関心を持っています。スタンリーは『ファシズムはどこから来るか』で世界的に注目され、その後も民主主義への客観と抗う方法について精力的な著作権活動を続けてきました。​

本書の特徴
『ファシストは未来を支配するために比較的過去を改竄するのか』は、現代の極右独裁主義やファシズムが教育や歴史認識を徹底して運営し、民主主義を弱体化させる過程を批判的に解析する書です。教育現場で起きている現象を具体的な事例とともに検証し、「ファシズムの手口」に対して市民と教育者が持つべき批判的眼差しを養うための必読である。​

以下内容要約

 

教育は民主主義を守る最前線である

本書の核となる主張は単純だが、現代にあっては破壊的である。独裁者が未来を支配したければ、過去の記憶を統制する必要があり、その最強の道具は学校教育である。プーチンが口にしたとされる「戦争は教師によって勝ち取られる」という言葉は、実はファシスト政治の本質を言い当てている。

 

民主主義社会は複数の視点と共有された現実を前提とする。市民は平等な貢献者として国家の物語を作り上げる権利を持つ。ところが権威主義体制は全く異なる論理で動く。共有現実の多声性を破壊し、指導者の好む単一の物語を刻印すること、それが独裁者の最優先課題になる。そのプロセスにおいて、教科書の改竄、カリキュラムからの「不都合な歴史」の削除、さらには校園での言論統制が、一貫した戦略として機能する。

 

教育制度への介入は、政権交代後の最初の数年のうちに行われることが多い。理由は簡単だ。今日の小学生が明日の有権者になるまでに10年以上の時間がある。その間にナショナリズムの単一物語を埋め込んでおけば、批判的思考の芽は摘まれ、権威への従順さが自然な状態として定着する。

陰謀論が如何にして歴史を置き換えるか

ファシスト政治の第二の柱は、神話的過去と被害者物語の結合である。ナショナリズムが機能するには、栄光ある時代があったこと、その時代から今は衰退していること、そしてその衰退は外敵の陰謀のせいであるという三つの要素が揃う必要がある。

 

ここで登場するのが陰謀論だ。ファシズムの実践者たちは、陰謀論というフレームワークを通じて歴史認識を塗り替える。その代表例が「グレート・リプレイスメント理論」という反ユダヤ主義的な陰謀論である。白人キリスト教徒が移民により置き換えられているという虚偽のナラティブは、アメリカのMAGA共和主義やフロリダのロン・デサンティス知事の教育改革の背後にある。

 

具体的には、カリキュラムから黒人歴史やLGBTQ+の経験を「削除」することで、白人キリスト教男性の偉業のみを強調する構図が生まれる。フロリダ州の「ストップ・ウォーク法」(2022年)は、黒人歴史月間の教育内容を制限し、Black Lives Movementへの言及を禁止した。理由は「批判的人種理論から児童を守る」という標語であるが、実質的には不都合な過去を歴史から消すことそのものである。

 

こうした操作が機能するのは、ナショナリズムと陰謀論が欲求のセット商品として売られるからだ。「わが国は偉大である」と「わが国は敵に蚕食されている」という二つの物語が同時に提示されると、市民は心理的に不安定な状態に陥り、強い指導者への依存を深める。その過程で「多様性」や「移民」「批判的思考」といった民主主義的価値は、国家の敵として再定義される。

大学は何故攻撃の対象になるのか

権威主義的政治にとって、大学という制度はやっかいな存在である。なぜなら大学は、神話を批判的に検証する場だからだ。教室では学生が「なぜそうなのか」を問うことが求められ、権力者が提供する単一の物語に疑問を唱えることが知識人としての基本動作とされる。それは独裁的統治にとって致命的な脅威である。

 

だからこそ、世界各地の権威主義的リーダーたちは大学を標的にする。トランプ、プーチン、エルドアン、ミレイといった名前は異なるが、彼らの戦術に共通する特徴がある。それは「大学は国家の敵である」という言説の拡散である。大学における「左派」の影響力を排除する、テニュア制度を廃止する、「国旗を敬わない」教授を処罰する。こうした提案は一見ばらばらに見えるが、実は一つの目的に向けて整列している。すなわち、大学という検証の場を「愛国的教化」の場へ転換することである。

 

スタンリー自身も最近、アメリカから去ることを選択した。ファシズムを研究する専門家が、自分の国で言論の自由が脅かされていると感じるまでになったということは、事態が相当に切実であることを示唆している。

教育の二つの対立軸——ブッカー・ワシントン対W.E.B.デュボイス

本書は興味深く、20世紀初頭の黒人指導者たちの教育哲学の対比を挙げる。ブッカー・ワシントンは黒人アメリカ人に産業教育と労働者としての経済的生産性を強調した。つまり「汝らは労働者として社会に役立つスキルを身につけよ」という趣旨である。これに対し、W.E.B.デュボイスは自由教育(liberal education)を主張した。それは「魂を高めるだけでなく、民主的に自らの利益を進める技能を与えるもの」であった。

 

この対比は、単なる歴史的逸話ではなく、教育が何をもたらすかについての根本的な分岐を示している。一方は市民を経済的従属性と政治的受動性のうちに馴致し、他方は市民を主権者として鍛え上げる。現代の教育改革の論争は、実はこの100年前の議論と同じ場所にある。ブッカー・ワシントン型の教育は、個人の幸福よりも国家の安定を優先し、批判的思考より従順さを重視する。デュボイス型の教育は、歴史の複雑性に直面させ、市民の力を信じ、民主的な判断を育てる。

歴史の単線化と記憶の改竄——ウクライナとロシアの事例

抽象論だけでは理解しづらいので、具体的事例を見てみよう。ロシアがウクライナに対して行った軍事侵攻の後、ロシア教科書は劇的に書き換えられた。ウクライナは「存在しない国」として扱われ、軍事行動は「西側からの脅威に対する正当な防衛」と虚偽記述された。かつての共通の歴史も、今はロシアの栄光のみが強調され、ウクライナの独立の経験や民族的アイデンティティは周縁化される。

 

目的は明確だ。ロシアの若者が「わが国は被害者である」「敵は西側である」という単一の物語を内面化したとき、戦争を支持する心理状態が完成する。複数の視点、対立する証言、不都合な事実といった歴史の厚みが完全に除去されれば、市民は「ただ一つの真実」のみを信じるようになる。その時、独裁者の言葉は真実そのものになり、批判や疑問は「敵の宣伝」として排斥される。

インドのヒンドゥー・ナショナリズムも同様だ。教科書からイスラム史や少数派の歴史が削除され、「純粋な国家の起源」という神話が強化されている。パレスチナの教育システムも複数の視点を教える機会が限定されている。世界中で、民族主義的な政権は歴史教科書を新しい国民を製造する工場として運用している。

古典と伝統——権力の道具としての人文学

権威主義的政治が好むもう一つの手法は、古典と伝統という権威語を用いて過去を磨き上げることである。「古典」「西洋文明」「伝統」といった語彙は、選別的引用と英雄化を通じて、現在の排外的な政策の道徳的根拠へと転用される。

 

たとえば、古代ギリシャの民主主義の歴史は講じられるが、その民主制が奴隷制と女性への不参政に支えられていたという事実は削除される。古代ローマの帝国主義的栄光は讃美されるが、被征服民への暴力や支配の痕跡は周縁化される。結果として「わが文明は高い」という確信が、現在の人種的優越や民族的純潔性の主張へ接続する。

 

人文学は、本来なら歴史の複雑性を教え、異なる視点の存在を示す学問である。ところがファシスト的な政治のもとでは、人文学は懐古的ナショナリズムの装置へ転化する。性別役割の厳格化、左派の悪魔化、国民的偉大さ・純潔性・無罪性の三つのプロペラが並行して回転し、統治に資する規範が教室で再教育される。

教室では何が起きているのか

現在、米国の複数の州で、黒人歴史月間の教育内容が制限されつつある。理由は「批判的人種理論から児童を保護する」という標語だが、実態は歴史の削除である。教員は恐怖と脅迫の下で仕事をしている。保護者グループが学校運営会議を占拠し、「わが子を洗脳から守れ」というスローガンのもと、社会運動の歴史、被抑圧者の経験、加害の記憶といった内容を排除しろと圧力をかける。教員は解雇や訴追の脅威に直面しながら教鞭をとる。

 

かくして教室は、かつての「知的冒険の場」から「愛国的信念の灌輸センター」へと段階的に転換する。学生には「批判的思考」ではなく「愛国的信仰」が与えられ、「あなたの国は最高の国家であり、指導者は最高の人物である」という確信が埋め込まれる。同時に「現状は変え難い」という無力感も醸成される。その結果、若者たちは市民としての主体性を失い、権威への服従を自然な状態として受け入れるようになる。

民主主義を守るための実践

では、この流れに抗うにはどうすればいいのか。スタンリーが提案する道筋は、実は単純である。

 

第一に、学校教育から特定の過去を追放する介入に対抗すること。一次史料の読解、相反する証言の突き合わせ、事実と神話の識別といった、歴史リテラシー教育を再構築すること。黒人、ラテン系、先住民、女性、LGBTQ+の人々の経験を体系的に組み込むことは、単なる「多様性推進」ではなく、民主主義を守るための必須要件である。

 

第二に、記念碑や博物館といった公共記憶装置を多声的なものへ改造すること。説明プレートを更新し、加害と被害の双方の証拠を並置し、排除された声を編入すること。単一の栄光物語を複数の過去へ置き換えることが、地域の民主的な対話を生み出す。

第三に、教師の専門的自律性を制度的に保護すること。カリキュラム決定の透明性を確保し、独立した苦情処理機構を整え、教材選定が政治イデオロギーではなく教育的妥当性に基づくようにすること。検閲の要求と恐怖の下で、教師が批判的思考を教えることは不可能だからである。

 

第四に、何よりも重要なのは、歴史を変える力を市民が持つという感覚を学生に与えることである。ファシスト的な教育は「歴史は必然的に進む、お前たちには何もできない」というニヒリズムを灌輸する。これに対し、民主的教育は「過去は複数の力によって形作られ、未来も同じく、あなたたちの行動次第で変わる」ということを示すべきだ。

思春期、内科外来に迷い込む書籍表紙

 

書籍情報
著者:國松淳和/尾久守侑​
発行者:中外医学社​
発行年:2022年​
価格:3,080円(税込)​
ジャンル: 臨床医学/総合内科・思春期診療・心身医学/医療者向け対話/医療哲学​

著者のプロフィール
國松淳和は、南多摩病院の総合内科・膠原病内科で部長を担当する内科医で、不明熱・不明炎症・自己炎症性疾患など「不定・不明・難治性の病態」を総合内科のじっくりで診てきた臨床家である。 著作も多く、内科診療の思考と言語化に長け、診療科の境界でこぼれ落ちる患者を拾い上げる実践を続けている。侑は、慶応義塾大学精神・神経科学教室などに所属する精神科医で、詩人としての顔も併せ持ち、「個」の感覚を集中に思春期を含む患者の精神に直面するスタイルで言語と臨床を往還させることを特徴とする。​

本書の特徴
本書は二人の医師の対談でありながら、割りの語り方向に収斂しない「クロスしないトーク」の構成をとり、多視点で思春期の体調不良を知覚設計している。 モチーフには「迷い込む」感覚を象徴する意匠が用いられ、読み味としても抽象的な思考から具体的中心テーマは、診療科の狭間に落ちやすい思春期を内科でどう受け止めるか、「器質か心因か」という二元論を超える態度、医療者の自己愛への省察、そして空論でなく現実臨床で使える言葉を持つことである。​

 

以下内容要約

 

思春期は医療の迷宮に迷い込む

『思春期、内科外来に迷い込む』の著者、國松淳和と尾久守侑は、現代の医療が抱える構造的な問題を端的に指摘する。それは思春期という時期が、医療という建物において誰の専門でもない廊下に放置されているということだ。小児科は子どもを診る科だが、思春期の患者はもはや典型的な子どもではない。成人内科は大人を診る科だが、思春期はまだ完全に大人ではない。精神科があるではないかと言う者もいるだろうが、倦怠感や頭痛が訴えの中心である患者を、最初から精神科に送るわけにはいかない。

 

こうして思春期の患者は、診療科の境界線の引き方が生む裂け目に吸い込まれていく。本書で著者たちが展開するのは、この当たり前のようでいて誰も指摘しなかった問題への対処法である。それは小児科でも精神科でもない一般内科という、ある種「専門ではない」領域にこそ、思春期患者の受け皿としての可能性があるという逆説的な提案なのだ。

「器質か心因か」という思考停止

医学教育を受けた医療者の頭には、ある種の二項対立が刻み込まれている。身体症状があれば器質的な病気を探す。検査で異常が出なければ心因性だと判断する。この単純で明快な分け方は、医学の教育現場で何度も繰り返されるために、やがて反射的な思考パターンになる。

 

けれども思春期という時期は、この二分法を露骨に拒否する。朝だけ立ちくらみがするが、検査は正常。学校に行く時だけ腹痛が悪化するが、大腸内視鏡検査では異常がない。こうした患者に対して医療者は、無意識のうちに「器質も異常がないなら、結局は心の問題なのだろう」という結論を急ぐ。患者はその結論を、自分の症状が「本物ではない」という烙印だと受け取る。こうして医療関係は深刻化する。

 

國松と尾久が強調するのは、そもそもこの二分法自体が思春期診療の現場では機能しないということだ。検査に出ない症状が必ずしも心因とは限らない。むしろ生物学的な脆弱性(たとえば起立性調節障害の素因)に、心理社会的なストレス(学校の人間関係や発達段階の不安)が上乗せされたとき、症状は最も複雑になる。医療者が必要とするのは、単純な二者択一ではなく、多元的な視点で患者の状態を捉える柔軟性である。

「何となく」を見立てる技術

医学の診断には、教科書的な「確定診断」という目指す先がある。ところが思春期の患者が訴える不調の多くは、そのような確定診断の枠を外れている。検査値も画像検査も正常範囲内。けれども患者の生活は明らかに制限されている。

 

本書で示唆されるのは、「検査に出ない違和感を情報として使う」という発想の転換である。医学用語で「プレテスト確率」と呼ばれる概念だが、要するに患者の語り口や症状のパターンから、どの病気がどの程度ありそうかを感覚的に判定する能力のことだ。

 

たとえば患者が「朝だけ悪くて、夕方には治る。起き上がると立ちくらみがする」と語ったとき、経験豊富な医療者の脳には起立性調節障害の可能性が自動的に浮上する。別の患者が「全身がだるく、検査は全て正常。でも学校に行く時だけ悪くなる」と言えば、心理社会的ストレスの影響をより重く見積もる。こうした微細なパターン認識は、教科書には書かれていない。数百人の患者を診た医療者の身に蓄積される、ある種の「勘」である。

 

本書の著者たちは、この勘をどう磨くのかについて、対談を通じて示唆している。ポイントは、患者の訴えに耳を傾けながら、同時に自分の頭の中で「もし、この患者が起立性調節障害だったら」「もし、学校での不適応が背景にあったら」と複数の仮説を並行して走らせることだ。その仮説群に基づいて、最小限の検査と最小限の生活指導を試してみる。患者の反応を見て仮説を更新する。このサイクルを回す中で、初期受診の時点では見えなかった本質が徐々に浮かび上がる。

「正論の罠」と臨床の現実

医療面接の教科書には「患者に共感を示すこと」「不安を取り除くこと」「適切な情報提供をすること」など、聞こえの良い原則が満載されている。しかし現実の診療現場では、こうした原則の適用が時に有害となる。

 

例えば、医療者が患者に「大丈夫ですよ。心配しないでください」と言ったとしよう。患者は一瞬安心する。けれども家に帰って同じ症状に直面したとき、何も改善されていない現実に直面する。やがて「医者は何もしてくれなかった」という失望に変わる。医療者の側からすれば、患者の不安が根拠のないものだと考えたのだから、安心を与えることが治療だと思ったのかもしれない。しかし患者にとっては、言葉だけの安心は無意味どころか、自分の症状を軽く見られたと感じさせる。

 

國松と尾久が対話の中で繰り返し強調するのは、「言葉だけでなく、具体的に何かを試す」ことの重要性だ。たとえば「朝の起床時刻を毎日同じにしてみましょう。朝日を浴びるようにしましょう。水分をしっかり摂りましょう」といった、一見ありふれた指導を思い浮かべるかもしれない。しかし本書で示唆されるのは、そうした指導を「やってみてください」と投げ出すのではなく、「2週間後にどうなったか、またこの外来で一緒に確認しましょう」という具体的な検証の枠組みを同時に示すことだ。

 

この違いは大きい。後者の場合、患者は「医者は自分の状態に関心を持っている」と感じ、自分の試みが検証される対象になったことで、行動に動機づけが生まれる。失敗したとしても「うまくいかなかったね。では別の方法を試してみましょうか」という往還が可能になる。このプロセス自体が、患者にとって「自分の症状は真剣に受け止められている」というメッセージになるのだ。

医療者の無意識を問う

本書の中盤で著者たちが議論する「医療者の自己愛」というテーマは、一見すると医療倫理の教科書的な内容に見えるかもしれない。けれど、ここで問われているのはそんな道徳的なものではない。

 

医療者が診療を行うとき、その動機は必ずしも患者の利益だけではない。患者を治すことで、自分は「有能な医者だ」という承認を求めている。診断の難しい症例を見事に解明することで、自分の専門性を示したい。患者に従わせるような指導によって、医療者としての権威を感じたい。こうした無意識の欲求が、思春期の患者との関係を歪ませることがある。

 

例えば、医療者が診断を急ぎすぎるのは、患者の利益のためではなく、自分が「できる医者」だと思いたいという欲求が背景にあるかもしれない。あるいは患者に対して「私の指導に従いなさい」という態度を無意識に示すのは、患者の自律性を尊重したいという本来の目的から逸脱しているのだ。

 

國松と尾久が強調するのは、こうした無意識を医療者が自分自身で認識することの重要性だ。完全に克服することは不可能だが、自分の中にそうした欲求があることに気づくだけで、患者との関わり方は変わる。患者の自律を奪わないように、医療者が意図的に身を引く。完璧な診断や治療を目指さず、患者と一緒に「試行錯誤する」という立場を保つ。そうした姿勢の転換が、思春期診療では何より大切だと本書は示唆している。

内科という「専門ではない場所」の可能性

思春期の患者が迷い込みやすい医療の迷宮を救う場所は、専門医ではなく一般内科医である、という著者たちの結論は、一見逆説的に見える。それは専門性の不足を意味しているのではなく、むしろ多様な可能性に対応できる柔軟性を意味している。

 

一般内科医が日々対峙するのは、「不明熱」や「不明炎症」といった、どの専門分野にも完全には収まらない患者群である。こうした患者たちの診療を通じて、内科医が磨くのは「広い鑑別診断」という能力だ。ある症状に対して、一つの原因に絞り込むのではなく、複数の可能性を同時に想定し、段階的に検証していく。この姿勢は、思春期の不調に対しても応用できる。

 

また内科医は、短期で劇的な改善を期待するのではなく、長期にわたって患者をフォローする習慣を持っている。何度も診察を重ねることで、症状の変化や患者の生活背景が徐々に明らかになる。こうした「数稽古」と呼ばれるプロセスが、思春期診療では極めて重要なのだ。

薬物療法の現実的な運用

思春期の精神症状に対する薬物療法についても、本書は興味深い視点を提供している。医療界には「できるだけ薬を少なくしましょう」という潮流がある。最小限の薬物療法で対応することが、医学的に洗練されていると見なされるのだ。

 

けれども著者たちの診療経験から浮かび上がるのは、そうした「最小化の原理」が常に最善とは限らないという現実だ。むしろ、患者の症状の複雑さと生活状況に応じて、場合によっては複数の薬物を組み合わせることで、初めて実効性のある治療が成立することもある。

 

重要なのは「どうしてこの薬を選ぶのか」「いつまで使い続けるのか」「どのように終わらせるのか」という医療者の思考プロセスが、患者に伝わることだ。薬物療法も含めた治療設計を、医療者が患者に説明し、患者が納得した上で試みられるなら、その治療の効果は単なる薬理学的な作用を超える。

本書が医療者に問いかけること

『思春期、内科外来に迷い込む』という书籍の企図は、思春期という医療の隙間に落ちた患者たちを救うための実践的な方法論を示すことにある。けれど、同時に著者たちが医療者に問いかけているのは、より根本的な問題である。

 

医療者は本来、患者の自律を尊重し、患者が自分の身体と心に向き合う機会を作ることに専念すべき存在ではないのか。診断の確定や治療の完成よりも、患者とともに不確実性に耐えながら、試行錯誤を重ねることの価値に気づいているか。医療の専門性とは、正解を押しつけることではなく、複雑な現実の中で患者とともに考え、行動する能力のことではないのか。

 

こうした問いは、決して思春期診療に限った話ではない。けれど思春期という時期の特殊性ゆえに、これらの問いが最も鮮明に浮かび上がるのだ。大人でもなく子どもでもない、揺らぎの時期にある患者たちとの関わり方を通じて、医療の本質そのものが問い直される。

マッピング思考の本の表紙

 

書籍情報
著者:ジュリア・ガレフ
訳者:児島修​
出版社:東洋経済新報社​
発行年:2022年​
価格:税込2,200
ジャンル:認知科学/意思決定/批判的思考/行動科学/実務的思考法(予測・判断の訓練)​

著者のプロフィール
ジュリア・ガレフは、合理的思考と判断の向上をテーマに活動する作家・講演家・ポッドキャスターで、統計学的素養を背景に「正確に世界を捉える」態度を普及させてきた人物である。応用合理性研究センター(CFAR)の共同設立に関わり、実践的な思考訓練を体系化するとともに、ポッドキャスト「Rationally Speaking」を通じて科学・哲学・政策の最前線にいる専門家へのインタビューを継続してきた。著書The Scout Mindsetは各国で翻訳され、ビジネス、政策、教育の現場で「地図を更新する」認知姿勢の入門書として受容が進んでいる。​

本書の特徴
本書は、信念を守るために情報を選別してしまう「兵士のマインドセット」と、地図を描くように現実をありのままに把握し更新する「スカウト(偵察者)のマインドセット」を対比し、後者を鍛える具体的手法を提示する実践書である。章立ては、なぜマッピング思考が必要かという動機づけから始まり、認知バイアスの扱い、メタ認知的トレーニング、ピンチ時の意思決定、意見とアイデンティティの距離の取り方へと段階的に展開する構成で、各章は職場・投資・議論などの具体例とチェックリストで終わるため、学習と運用が一体化しやすい。読者は「確信度を数値で持つ」「新情報で地図を上書きする」という確率的姿勢を身につけ、思い込みを減らし判断の精度・確度を上げる方法を得られる点が最大の価値である。​

 

以下内容要約

 

マッピング思考――人には見えていないことが見えてくる「メタ論理トレーニング」

著者のジュリア・ガレフは統計学の専門家で、応用合理性研究センターを設立し、多年にわたって合理的思考について研究を重ねてきた人物だ。本書は単なるノウハウ本ではなく、人間が現実をどう認識し、判断を下すのかという認知の仕組みそのものを問い直す作品である。

二つの思考モード

人間の思考には二つの根本的に異なるモードがあるとガレフは指摘する。一つは兵士のマインドセットであり、もう一つが偵察者のマインドセット、つまり本書が中心的に論じるマッピング思考だ。この二つの思考モードは、私たちが日常生活で意思決定を行う際に、どの程度の影響を与えているのかを理解することが重要である。

兵士のマインドセットに支配される人間は、信じたい結論があらかじめ決まっており、その結論を正当化する情報だけを集める傾向にある。防衛本能が強く働き、自分の既存の信念を守ることに全力を注ぐ。異なる見方や新しい情報は脅威として感じられるため、都合よく解釈し、反論する。このプロセスは無意識のうちに進行することがほとんどで、本人はそれが起こっていることに気づかないことさえあり得る。

これは人類が長く生存してきた環境の産物である。現実を変える選択肢がなかった時代、事実そのものよりも、事実をねじ曲げて自分に都合よく解釈する能力が重要だったのだ。不確実で危険に満ちた世界では、信念を疑いすぎることは躊躇を生み、躊躇は死を意味した。むしろ強い確信を持ち、迷わずに行動することが生存戦略となった。だから私たちの脳は、信じたいことを信じる方向へと進化してきたのである。しかし現代の複雑な社会では、この生存戦略が時として私たちの判断を歪める。

これに対してマッピング思考とは、地図を描くように世界を正確に把握することを目的とする。地図製作者としての思考では、戦場全体を理解することで、次に何をすべきかを判断する。新しい情報や予期しない事実は、古い地図を修正できるチャンスとして歓迎される。もし地図に誤りが見つかれば、それは即座に修正される。間違いは失敗ではなく、自分をアップデートする機会に他ならない。この思考モードにおいては、事実を避けるのではなく、むしろ 積極的に事実と向き合うことが前提となっている。

兵士のマインドセットでは、反対意見は敵として扱われる。一方、マッピング思考では、反対意見や異なる視点はより完全な地図を作成するための貴重な情報源となる。自分の見立てが間違っていたことを知ることは、長期的には大きな利益をもたらす。なぜなら、誤った地図に基づいた判断は、やがて現実と衝突し、より大きな損失につながるからだ。

判断力の源泉

超予測者と呼ばれる人々がCIAのプロフェッショナルなアナリストを上回る予測精度を持つという事例は興味深い。彼らが優れているのは、より多くの知識を持っているからではなく、自分が間違える能力に長けているからだという。この発見は、一般的な常識を覆すものだ。通常、予測精度が高い人は、豊富な専門知識やアクセス権、最新の情報ネットワークを持っていると考えられている。しかし実際には、これらの要素は決定的な差をもたらさなかった。

つまり、判断の精度は知性の高さや知識量ではなく、 思考のプロセスそのものの違いから生じるのだ。超予測者たちが持つ共通点は、自分の予測がいかに外れやすいかを深く理解していることにある。彼らは常に自分の見立てに疑問を投げかけ、反対の可能性を真摯に検討する。失敗を学習の源泉として扱う姿勢が、長期的には他の誰よりも正確な判断へと導く。

ガレフが強調するのは、 不確実性と向き合う能力の重要性である。この能力は、単に謙虚さを持つことではなく、むしろ統計的な思考枠組みを身につけることに関わっている。何かについて「絶対にそうだ」と断定するのではなく、「80%の確信度で考える」といったように、確実性のレベルを意識的に設定する。このプロセスは、感情に支配されやすい人間の認知を、より客観的な土台へと引き戻す働きをする。

そして新しい情報に接するたびに、その確信度を増減させる。例えば、最初は70%の確信度で「この仮説は正しい」と考えていたが、新たな証拠を発見したことで、それが80%へ上昇することもあれば、60%へ低下することもあり得る。この柔軟性こそが、より正確な判断を可能にする根本的なメカニズムなのだ。

超予測者と平凡な予測者を分ける最大の違いは、不確実性を敵ではなく情報として扱う点にある。どんなに優れたアナリストでも、人間が直感に頼る限り、バイアスや思い込みから完全に逃れることはできない。しかし予測精度を追求することで、そのバイアスをできるだけ小さくしようと意識的に努める者が、結果として現実に近い判断にたどり着く。ガレフが示すこの知見は、予測だけに留まらず、人生の様々な場面での意思決定にも適用されるべき原理なのである。

動機的推論の罠

人間が陥りやすい落とし穴が、動機的推論と呼ばれるものだ。自分に都合のいい情報だけを無意識のうちに集め、都合の悪い情報は軽視する。このプロセスは私たちが気づかないうちに、常に進行しているのである。例えば、ある政治的な立場を支持する人物は、その立場に都合のいいニュース記事には積極的に目を通すが、反対の視点から書かれた記事は無視する傾向がある。あるいは、投資判断を下すとき、自分が購入した株が値上がりする可能性ばかりを探し、リスク要因は意図的に見落としてしまう。

これは単なる個人的な欠陥ではなく、進化の過程で人間の脳に組み込まれたメカニズムである。ガレフが指摘するように、人類の祖先たちにとって、世界を正確に認識することは必ずしも生存に有利ではなかった場合がある。むしろ、自分の信念に都合のいい情報を優先的に処理し、自分たちのグループの結束を保つことが、狩猟採集社会における生存戦略だったのだ。危険から身を守るには、判断に迷いがあってはならず、一度決めた方針を疑わないことが有効だった。その結果として、私たちの脳は確認バイアスと動機的推論を使って、既存の信念を守る方向へと自然と機能するようになったのである。

だからこそ、このメカニズムに自覚的になることが重要なのだ。自分の脳がこのように機能することを知ることで、初めてそれに対抗する手段が生まれる。多くの人は、自分の判断は理性的であり、情報を公平に評価していると信じている。しかし実際には、その判断の背後には強力な動機が隠れている。医学診断の例を考えてみるとよい。医師が最初に特定の病名を想定すると、その診断を支持する症状ばかりに目が行き、それと矛盾する症状は見落とされやすくなる。これが 医療現場でのミスにつながることもある。

自分がどのような動機で情報を選別しているのか、意識的に監視する必要がある。この監視プロセスは簡単ではない。なぜなら、動機的推論は無意識で機能するため、自分がそれに従事していることに気づきにくいからだ。しかし、いくつかの実践的な方法がある。例えば、重要な判断を下す際に、自分の主張と逆の立場を積極的に探してみることだ。あるいは、信頼できる第三者に意見を求め、自分が見落としている視点がないか確認する。このような意識的な努力を通じて、初めて動機的推論の影響を軽減することが可能になるのである。

アイデンティティの軽量化

本書が提示する重要な洞察の一つが、アイデンティティと意見の分離である。ある政治的立場を支持することと、その立場を自分そのものだと考えることは別の問題だ。この区別を理解することは、マッピング思考へ向かう上で極めて重要な転換点となる。多くの人は、自分の意見がアイデンティティの中核をなしていると考えている。例えば、環境問題への対策を強く支持する人は、その立場が自分の価値観や人格の本質だと感じているかもしれない。あるいは経済政策について特定の見方を持つ人は、それを自分のアイデンティティの一部だと見なしている。しかしガレフが指摘するのは、この融合こそが思考を硬化させる主要な原因だということなのだ。

アイデンティティが強固であるほど、その立場を守るために思考が固くなり、新しい情報の受け入れが困難になる。心理学者たちが明らかにしてきたように、自分のアイデンティティを脅かすような情報に直面すると、人間の脳は防衛反応を起こす。反論を考えたり、その情報の欠陥を探したり、あるいは完全に無視したりする。これは意識的な決定ではなく、脳が自動的に実行する保護メカニズムなのだ。例えば、ある宗教的信念を強く持つ人が、その信念と矛盾する科学的証拠を提示されても、その証拠の信頼性を疑ったり、特殊な解釈を加えたりする傾向がある。同様に、強い政治的アイデンティティを持つ人は、自分の立場に反する統計データや研究結果を、最初から信用しない可能性が高い。

反対に、アイデンティティを相対的に軽くしておくことで、状況や新しい知見に応じて自分の考えを柔軟に修正できるようになる。ここで重要なのは、アイデンティティを軽くすることが、自分を持たないことを意味しないという点である。むしろそれは、自分の見方が永遠不変の真実ではなく、より良い理解へ向かう過程の一段階に過ぎないという認識を持つことなのだ。真の強さは、自分の信念に固執することではなく、新しい情報に基づいて信念を更新する柔軟性にあるのである。

これは弱さを示すことではなく、むしろ 思考をしなやかに保つための戦略である。社会的には、自分の意見を貫く人間が強く見え、簡単に考えを変える人間が弱く見えるかもしれない。しかし現実は逆だ。ガレフが描く超予測者たちは、自分の予測が外れることを受け入れ、その経験から学ぶことで、より精密な思考力を磨いてきた。彼らは、意見を変えることを敗北ではなく、進化と見なしているのだ。

真実探求者としての自己認識を持ちながらも、特定の見解にしがみつかないことで、より広い視野が確保される。この状態において、人間は初めて本当の意味で開放的になることができる。新しい意見に耳を傾け、反対の立場の人間と有意義な対話ができるようになる。そしてその過程で、自分の理解がより深まり、より正確な現実把握へと近づいていくのである。アイデンティティと意見を分離すること――それは個人の成長の道を開く、最初の一歩なのだ。

マッピング思考への転換

本書全体を貫くメッセージは、人生の判断を「こうあってほしい」という願いに基づくのではなく、現実がどうなっているのかをできるだけ正確に認識した上で下すべきだということだ。これは一度身につけたら終わりではなく、常に続けていく習慣である。状況が変わり、新しい情報が入る度に、内的な地図を修正し続けることが求められる。

 

こうした思考の転換は、より良い判断につながり、結果としてより良い人生選択を可能にする。それは理屈の上での話ではなく、実際の生活の中で意思決定をする際の精度が上がり、後悔を減らすことができるということだ。

 

ガレフが示唆しているのは、私たちが普段使っている思考の枠組みそのものを問い直す必要があるということである。兵士から偵察者へ――その転換こそが、人生において本当に重要な選択肢を開く鍵となるのだ。

思春期のつながる気持ちと不登校支援

 

書籍情報

著者:関 正樹
出版社:日本評論社​
発行年:2024年
価格:1,980円
ジャンル:児童精神医学・臨床心理(思春期)​教育・不登校支援​

著者のプロフィール
関正樹は児童精神科医で、発達障害や不登校の子どもと家族の臨床支援を中心に活動している医師である。 多数の講演・研修登壇や保護者向け支援にも関与し、デジタル環境と子どもの「居場所」の関係を実践に即して解説してきた。 前著として、子どもにとってのネット・ゲーム世界の意味を論じた単行本があり、本書はその臨床的関心をさらに思春期の「つながる気持ち」と不登校の局面に焦点化した続編的性格を持つ。​

本書の特徴
本書は、思春期の子どもが「誰かとつながりたい」という切実な欲求を背景に、学校に行きづらさを抱えたときにSNSやオンラインゲームへ居場所を求める過程を、外在的な危険の列挙ではなく内在的心性の理解から描く点に特徴がある。 児童精神科外来の視点から、安易な「危ないからやめさせる」という処方を退け、家庭内に安心と対話を回復する支援方針を具体的事例とともに提示する構成で、依存というラベルの再考と、オンラインの居場所とリアルの居場所を架橋する実践的提案が示される。​

 

以下内容要約

 

思春期の「つながる気持ち」と不登校・ネット世界の実像

思春期の子どもがSNSやオンラインゲームへ向かう現象を、大人たちは往々にして「危ないからやめなさい」という単純な禁止令で対処しようとする。だが医療現場で子どもたちと向き合う児童精神科医・関正樹が描き出すのは、その表面的な判断をはるかに超えた、もっと複雑で切実な心理的な構造だ。彼が提示するのは、追い詰められた思春期の子どもがなぜそこへ向かわざるを得ないのかという、 深い層の動機を理解するための地図である。単なる行動の観察ではなく、 心の奥底に流れる「居場所と承認への渇き」という根本的な欲求が、どのように表面化し、デジタル空間へと向かっていくのかを、具体的な患者の経験を通じて示す試みだ。

つながりの源流をたどる

友だち関係が濃密で不安定な思春期という発達段階へ入ると、子どもたちの内面では予想外に複雑な心理的な動きが起きている。「何者にもなれないかもしれない」という恐怖と、同時に「学校に意味があるのだろうか」という根本的な問い直しが、日々の生活の中で同時進行する。この二つの問いが交差するとき、子どもの心には微かだが確かな揺らぎが生まれ、その揺らぎから逃げるのではなく、何とか自分を支える支点を探し始める。

SNSに投げ込まれる「生きるのがつらい」という短い一文は、単なる感情の垂れ流しではない。関正樹がその医療現場での観察を通じて指摘するのは、この言葉が実は 受信者を探す信号 であるということだ。名前のない状態で、自分の内面の痛みを言葉にする行為そのものが、誰かが読んでくれること、誰かが気づいてくれることへの深い期待を抱えている。その投稿に対し、見ず知らずの他者からの短い返答が返ってくる。「わかる」「そうだよね」といった短い共感の言葉が、思春期の子どもが感じている孤立感を、すべてではないにせよ、一部引き受けてくれるのだ。

匿名性という仕組みが、ここで重要な役割を果たす。現実の世界では名前を背負わされ、その名前に紐付いた評価や期待と戦い続ける子どもにとって、名前なしで存在する自由は何物にも代え難い。その匿名性の中で、自分の痛みの輪郭が削られ、より普遍的な「つらさ」として浮かび上がる。すると同じような痛みを持つ他者からの返答が、単なる他人事ではなく、自分と同じ経験をしている「同志」からの言葉として響く。この 最低限の安定感の回復 が、その後の心理的な立て直しの入口になる。

ネットは自己実現の仮設現場

「YouTuberになりたい」「eスポーツで食べたい」という言葉が子どもから口に出るとき、親たちはしばしば「そんなの現実的ではない」という判定を急いで下す。だが関正樹が医療現場で観察してきたのは、この発言の本質が職業選択の甘さではなく、もっと根深い心理的な欲求の翻訳であるということだ。子どもが本当に言いたいのは、「今の評価軸では僕を見てくれない。別の座標軸があれば、そこで僕は何かになれるかもしれない」という切実な問い直しなのである。

学校という限定的な環境では、採用される評価の指標が驚くほど限られている。成績、運動能力、容姿、社交性といった数え切れるほどのカテゴリーに、すべての子どもが無理やり振り分けられ、その中で自分の位置を決められてしまう。そこで「できない」と判定された子どもは、その判定に人生全体を決定づけられた気分になる。ところがデジタル空間を覗いてみると、評価軸はまったく別物だ。創作に対する評価、独創性、表現力、コミュニティ内での貢献度、フォロワーとのつながりの密度。学校では見向きもされなかった才能や感性が、ここでは 初めて可視化される仕組み になっているのだ。

小説投稿サイトやイラスト共有プラットフォームで、本名ではなくニックネームの自分が初めて承認される経験は、思春期の子どもの心理に大きな変化をもたらす。学校では名前に紐付いたキャラが固定され、そこから逃げることができない。クラスメートからは「あいつはこういう奴」と一度定義されると、その枠を破ることはきわめて難しい。ところがオンライン上では、名前を変えることができ、別の人格として存在することさえ可能だ。その別の顔で、自分の表現が評価されるという経験は、単なる気分転換ではなく、 アイデンティティの危機からの救済 を意味している。

関正樹が著書の中で描いているリュウタ君のケースは、この動きを象徴的に示している。学校に行く意味を完全に見失い、朝起きることすら困難になっていた彼が、小説投稿サイトとの出会いをきっかけに、少しずつ心の動きを取り戻していく。最初は匿名で短編を投稿するだけの行為だった。反応はほとんどなかった。だが数ヶ月後、彼の作品に対するコメントや感想が少しずつ増え始める。「このストーリー、すごく好きです」「キャラクターがリアルで驚きました」といった短い言葉が、彼の内面に何かを灯す。やがて彼は自分の作風を模索し始め、創作活動そのものに没頭するようになる。この過程で起きているのは、 気晴らしではなく、自尊感情の根本的な再構築 なのだ。

オンラインの親密さは現実に連なる

SNSでの出会いや恋愛に対して、保護者たちが緊張感を抱く理由は十分に理解できる。ネット上での人間関係は目に見えず、相手の素性も定かではなく、思わぬトラブルに巻き込まれる危険性が確かに存在する。その懸念自体は決して間違っていない。だが児童精神科の現場で子どもたちと向き合う関正樹が繰り返し指摘するのは、むしろ逆説的な現象が起きているということだ。すなわち、 現実の世界が苦しい子ほど、オンラインの人間関係が極めて重要な機能を果たす という観察である。

その機能とは何か。危険とも見える関係が、実は思春期の子どもにとって「練習試合」として作用しているのだ。現実の学校生活で人間関係に失敗した子どもが、ネット上で別の形の関係を試してみる。そこで得られる経験が、必ずしも悪いとは限らない。むしろ、現実では決して得られない種類の心理的な支えになることもある。親たちが懸念する「危険な相手との接触」という一面だけに注目すれば、確かに警戒は必要だ。しかし同時に見逃してはならないのは、 なぜその関係を子どもが必要としているのか という根本的な背景である。

関正樹が著書で描いているフウカさんのケースは、この複雑性を象徴的に示している。彼女は中学二年生の時点で、学校のクラス内での人間関係がこじれ始めていた。友だち関係の微妙なズレから始まった関係の悪化は、やがてクラス全体での孤立へと進んでいく。教室の中で、自分だけが場違いな存在に感じられ、休み時間が苦痛になり、授業中も視線を感じて落ち着けない状態に陥る。この段階で彼女の心には、 人間関係そのものへの恐怖 が深く根付いている。

そのような状態にあるフウカさんが、SNSを通じて出会ったのは、同じような経験を持つ少し年上の男性だった。相手も不登校経験があり、学校の人間関係に悩んでいた過去を持つ人物だ。二人はメッセージのやり取りを通じて、自分たちの経験や感情を共有し始める。重要なのは、この関係が現実の友だち関係とは異なる形式で成り立っているということだ。名前を明かさなくてもよい、見た目で評価されない、返答を急がなくてもいい。こうした非同期で、低圧力の関係の中で、フウカさんは初めて「自分の気持ちを安全に表現できる」という経験をする。

相手からのメッセージに対する返答は、彼女の心理的な安定をもたらし始める。「そういう気持ちになるのは当然だよ」「君は悪くない」といった言葉が、学校で感じていた孤立感を少しずつ軽減させていく。この段階では、相手の人物像がどうであれ、その関係が彼女に与えている心理的な機能は極めて重要だ。同時に親や学校関係者が見るべき点は、「ネット上で危険な関係に巻き込まれるリスク」と「彼女がなぜそこを必要としているのか」という二つのレンズを同時に持つことである。

危険は目配せしながらも、背景を見失ってはならない。関正樹が繰り返す主張の核にあるのは、この 二眼思考 の必要性だ。フウカさんの場合、現実の学校での人間関係の修復が進まなければ、ネット上の関係への依存度は高まり続ける。逆に、学校での人間関係が少しでも改善され、安心できる環境が生まれれば、ネット上の関係の必要性は自然と減っていく可能性がある。つまり、「SNSを禁止する」という対症療法的な対策は、問題の真の原因に手を付けないまま、症状だけを押さえ込もうとする試みに過ぎないのだ。

「居場所」を場所から関係へ

本書が繰り返し用いる「居場所」という概念は、多くの親や教育者が想像するような物理的な場所ではない。家のリビング、学校の教室、地域の児童館といった、地図に書き込むことができるような空間ではなく、むしろ 自分という存在が認識され、承認される人間関係のネットワーク を指している。この定義の転換は重要だ。というのも、従来の教育現場では「居場所づくり」といえば、もっぱら物理的な環境整備に注力してきたからである。きれいに整理された教室、居心地のよい図書館、工夫された学習スペース。こうした環境が整えば、子どもたちは自動的に安心を感じるはずだという前提が暗黙のうちに存在してきた。

だが関正樹が医療現場で直面するのは、その前提が必ずしも成り立たないという現実である。物理的にはきちんと整備された家庭や学校であっても、そこが子どもにとって「存在が認められる場所」になっているかどうかは別問題なのだ。親が子どもの気持ちに耳を傾けず、学校では成績という単一の指標でしか評価されなければ、どれほど快適な環境であっても、子どもにとってそれは「居場所」足り得ない。逆に、一見すると何の変哲もない暗いゲーム画面の前に座る状態であっても、そこでギルドメンバーとの関係が深まり、自分の貢献が認識されるなら、それもまた一つの「居場所」として機能し始めるのだ。

家庭や学校が自動的に居場所になるとは限らないという認識は、大人たちにとって不安定で受け入れがたいものかもしれない。だが同時に関正樹が示唆するのは、ゲームやSNS、オンラインコミュニティといった場所が、 否応なく多くの思春期の子どもにとって機能的な居場所になってしまっている という現実である。それは良い悪いという単純な二項対立では判断できない。なぜなら、その場所がなければ、子どもたちはさらに深刻な孤立状態に陥る可能性があるからだ。

著者が著書の中で示すのは、ゲームやネットの世界が、単なる「現実逃避」では終わらず、むしろ 不登校の回復過程の一部として機能している場面 を数多くの患者ケースから引き出したものだ。例えば、完全に学校から離れた子どもが、オンラインゲームの中で初めて「役割」を得る経験がある。ソロプレイではなく、ギルドやクランといった集団的なゲーム環境では、プレイヤーには固有の役割が割り当てられる。ヒーラー、タンク、ディーラー。自分の役割を果たすことで、チームが成功する。その成功体験が、現実の生活では得られていない「自分は必要とされている」という感覚をもたらす。

この感覚の復活は、単なる気分転換ではなく、心理的な回復の入口になる。ゲーム内での人間関係が安定し、貢献が認識されるようになると、やがて他の領域にも変化が波及する。朝起きる時間が規則的になる。画面を見つめる時間の質が変わり、単なる逃避ではなく、目的を持ったプレイになる。そしてその後、親や医師との対話の中で「もしかしたら学校に戻ってもいいかもしれない」という思考が生まれることもある。このプロセスの中で、ゲームは決して敵ではなく、心理的な回復の足場として機能しているのだ。

大人の関わりが最後のボトルネック

結局のところ、思春期の子どもがネットやゲームへ向かう現象への対応において、最終的に問われるのは大人たち自身の関わり方であるということだ。これは医療現場での数え切れない臨床経験から、関正樹が繰り返し到達する結論である。子どもの問題ではなく、大人の問題なのだ。

「それは危ない」だけで話を締めくくる態度の何が問題なのか。その態度は、子どもの内面で起きている「つながりたい」「認められたい」という 一次感情を完全にスキップ してしまうということだ。危険性の指摘は確かに一面では正しい。だが、その正しさだけで子どもに向き合うとき、大人は暗黙のうちに「お前の気持ちなんて知らない、とにかくやめろ」というメッセージを送ることになる。子どもはそのメッセージを受け取り、親には自分の本当の気持ちを打ち明けることができない状態へと追い込まれる。親子間の信頼が失われ、子どもがさらに家庭から遠ざかっていく。その結果、子どもが頼るのはデジタル空間だけになる。という悪循環が起きるのだ。

関正樹が著書の中で何度も強調する原則が「守らせられない約束をしない」ということである。この一文は、一見すると当たり前のことを言っているように思えるかもしれない。だが、その含意は想像以上に深い。親が子どもに約束をするとき、その約束には二つの責任が発生する。一つ目は、子どもが約束を守る責任。二つ目は、親が子どもにそれを守らせる責任である。ゲームやSNSの問題に直面した親が、焦りや不安から「絶対にやめる」「一日一時間だけ」「課金は禁止」といった約束を子どもに求めることがある。だが、その約束が本当に守らせられるものなのか、親は自問する必要があるのだ。

例えば、ある母親が思春期の息子に「ゲームは一日一時間に限定する」という約束をさせたとしよう。最初の数日は息子もそれに従うかもしれない。だが、学校でのストレスが溜まった日、親友との関係がこじれた日、テストの成績が悪かった日。そうした日々の小さな挫折を経験するたびに、ゲームという心の安定装置への欲求は高まる。一時間の制限では足りない。二時間、三時間へと増えていく。母親は約束を守らせるため、子どもに言い聞かせ、時には強制的にコントローラーを取り上げる。親子間の緊張は高まり、会話の質は低下していく。この状況こそが、本来は避けるべき状態なのだ。

関正樹が提案するのは、こうした「管理術」の前に、まず根本的に 関係の質を整える ということである。ゲームやSNSの使用時間をどう管理するか、という技術的な問題ではなく、子どもが親に安心を感じ、親が子どもの本当の気持ちを知ろうとする、そうした基本的な関係の構築こそが先決だということだ。それは、家庭に「安心できる会話」を戻すということでもある。

安心できる会話とは何か。それは、子どもが本当のことを話しても、親が即座に否定したり、説教したり、解決策を押し付けたりしない対話のことだ。例えば、子どもが「学校、つらい」とつぶやいたとき、親が「何がつらいの?」と根掘り葉掘り聞き出そうとするのではなく、まずはそのつらさを「そっか、つらいんだ」と受け止めることから始まる。子どもが「友だちと喧嘩した」と打ち明けたとき、親が「お前が悪いに決まってる」と判定を下すのではなく、まずは話を最後まで聞くことだ。

実例で見る3つの転回

  • SNSの吐露が救難信号として機能し、同質の経験を持つ他者の短文が、希薄になった自己感をつなぎ止める。危機介入の糸口は「否定」ではなく「受け止め」に置く。​

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  • クリエイティブ投稿の承認が、学校で剝がれた“キャラ”の代替骨格になる。目標設定は就職相談ではなく、自己像リハビリとして設計する。​

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  • 課金や投げ銭のふるまいは、承認・参加感・推しの三点で説明できる。禁止一発ではなく、合意・予算・仕組み理解の三層で回路を引き直す。​

まとめ

関正樹が示すのは、ネット・ゲーム・SNSを敵にしないための配置転換だ。オンラインの居場所とオフラインの居場所を対立させず、橋でつなぐ。危険の列挙ではなく、必要の説明へ。道具の管理ではなく、関係の修復へ。子どもは“やめる”前に“満たす”が必要だ、という単純で難しい順番の確認に尽きる。​

土・微生物:文明の衰退を食い止める土の話

 

書籍情報

著者:デイビッド・モントゴメリー
訳者: 片岡夏実​
出版社:築地書館​
発行年:2018年​
価格:2,970円
ジャンル:環境・農業政策/土壌学・地力再生/アグロエコロジー/リジェネラティブ農業(不耕起・被覆作物・有畜循環)​

著者のプロフィール
デイビッド・モントゴメリーはワシントン大学の地形学教授で、地形発達や地質学的プロセスが生態系と人間社会に及ぼす影響を研究する国際的に著名な地質学者である。2008年に「マッカーサー・フェロー(通称:天才賞)」に選出され、学際的な視点から土壌劣化、農業、文明の関係を論じてきた。​

本書の特徴
本書は、アフリカからアメリカ、アジアまで不耕起・輪作・被覆作物・有畜農業・ボカシなどの実践を現地取材し、微生物、生物多様性、炭素循環に根差した「土壌の健康」を軸に農業の再生可能な道筋を提示する。古代ローマに始まる農耕史と現代の農業技術を往復しながら、「犂やトラクターに象徴される耕起からの脱却」と「微生物と有機物を基盤にした農業」への転換を、経済性・環境性・レジリエンスの観点から総合的に描く構成が特徴である。​

 

以下内容要約

 

文明を支える目に見えない資産―土の話

文明は大陸の上に築かれ、国家は領土に栄え、経済は生産力によって成長するとされている。しかし、地質学者デイビッド・モントゴメリーが示すのは、人類の繁栄と衰退のすべてが実は二十センチメートルほどの黒い物質の健全性に左右されているという、やや不吉な事実である。それが土壌だ。

 

古代メソポタミアは「人類最古の文明」として讃えられてきたが、何千年も続いたこの文明が衰退したのは何故か。モントゴメリーが指摘するのは、塩類集積とシルト堆積である。灌漑農業が繁栄させた初期には、確かに莫大な食糧を生み出していた。だが乾燥地帯では、蒸発散により水分だけが失われ、塩類が土壌に蓄積していく。同時に上流の山系からの土壌侵食が大量のシルトを運び、灌漑用運河を塞いでしまった。これによって、七千年にわたって少なくとも十一の王朝を支えた土地は、生産能力を失ったのである。

 

古代ローマはどうか。地層学的な調査から、帝政期の侵食速度は帝政前の十倍以上に加速していたことがわかっている。ローマの遺跡の周囲を調査すれば、かつて地下に埋設された建築物の基礎が今では地表に露出している。この露出高さを測定することで失われた表土の量を推定できるのだ。大型機械こそなかったが、犂による耕起と森林伐採によって、傾斜地の表土は劇的に削られていった。地中海沿岸で今日見られる「石灰岩が剥き出しになり、辛うじて土の残った地に、ようやくオリーブと葡萄が育つ」という風景は、この長期的な衰退の結果に他ならない。

 

近代アメリカのピードモント地域の事例は、より劇的である。ヨーロッパからの入植者は、この地域の農業的豊かさに引きつけられた。だが、わずか二百年の間に、平均して十から十八センチメートルの表土が失われた。地域全体では、ある場所では三十センチメートル以上の喪失さえ記録されている。農地としての価値は急速に低下し、赤い亜鉱層が露出した「赤い丘」が景観となった。綿花農業の集約化により、わずか数十年で、かつて「アメリカ屈指の農業地」と呼ばれた土地は、その役割を失ったのである。

 

こうした歴史は決して過去の物語ではない。現在、世界全体では土壌が年間一ミリメートル強失われている一方、土壌が生成される速度は年間零点零一から零点零二ミリメートルに過ぎない。つまり人類は、土壌を生成の二十から百五十倍の速度で失っているのだ。

技術が隠蔽する問題

農業の近代化は、はじめ希望に満ちていた。十九世紀、ドイツの化学者リービッヒは植物が無機塩だけで生育すると主張し、化学肥料時代の幕を開けた。リービッヒのこの理論は正しい側面もあったが、微生物や腐植の役割を完全に無視していた。しかし、効果は誰の目にも明らかだった。グアノなど窒素とリン酸の豊富な肥料により、農業生産は飛躍的に向上した。

 

その後、二十世紀後半の「緑の革命」は、高収量品種の開発と、大量の化学肥料・農薬・灌漑技術の組み合わせにより、インドやメキシコの飢饉を回避させた。穀物生産は三十年で二倍以上に増加した。インドはその後、飢饉を経験していない。ノーマン・ボーローグらが「世界を養った」と称されるのは、この成功の故である。

 

だが一九七〇年代から、その副作用が現れ始める。インドのパンジャブ州では数万ヘクタールの畑が塩害を受けた。生産量の伸びは緩やかになり、やがて減少し始めた。

 

遺伝子組み換え作物はどうか。除草剤耐性作物は、農家の労働負担を劇的に軽減するはずだった。初期には成功したかのように見えた。だが、数年経つと「スーパー雑草」が出現し、除草剤に耐性を持つようになった。米国では既に十四種の耐性雑草が確認されている。農家はより強力な除草剤を使用せざるを得なくなり、化学物質への依存は深まるばかりだ。害虫抵抗性作物も同様である。常に殺虫成分を放出する作物により、やがて耐性害虫が出現し、さらに強い農薬が必要になる。結局のところ、技術による「解決」は、問題を次の段階へと先送りしているに過ぎない。

土壌に隠された経済

土壌の真の価値は、その表面の色や粒度ではなく、地下に広がる見えない世界にある。

 

腐植は有機物が微生物によって分解されてできた難分解性物質であり、土壌粒子を結合させ、団粒構造を形成する。この団粒構造が発達した土壌は、保水性と通気性に優れ、微生物にとって理想的な環境を提供する。表土の形成には数百年から数千年の時間が必要だが、耕起によって数十年でその大部分が失われることも珍しくない。

 

菌根菌は植物根と共生する真菌で、特にアーバスキュラー菌根菌は八割の陸上植物と相利共生している。植物が光合成産物を提供する代わりに、菌糸を土壌中に広げて、根の届かない場所からリン酸などの栄養を吸収し、宿主植物に供給するのだ。リン酸は土壌中では通常、不溶性の形態で存在し、植物が直接吸収することは難しい。菌根菌との共生なしには、多くの植物の生育は不可能なのである。

 

根圏とは「植物根から影響を受ける土壌領域」と定義される。この小さな空間では、植物と数十億の微生物が複雑な化学シグナルを交わし、共存している。植物は根の分泌物で微生物に「応援を依頼し」、微生物は養分と水分で応じる。この根圏微生物の多様性こそが、植物の病害抵抗性や栄養吸収効率を大きく左右する。有機物が連続的に分解され、腐植が蓄積し、微生物が多様であればあるほど、土壌は健全であり、作物は良好に育つ。

 

これらすべてが、化学肥料と除草剤で単純化された土壌では機能しない。無機肥料は即座に利用可能な栄養をもたらすが、微生物-植物の複雑な相互作用を破壊し、土壌の生物学的機能を著しく低下させる。

再生への道

では、どうすればよいのか。モントゴメリーが示唆するのは「再生型農業」である。その原則は三つ。不耕起、土壌被覆、そして多様性である。

 

不耕起とは、大型機械による耕起を放棄し、土表に残されたわらや被覆作物の残体を保留することだ。これにより、有機物が連続的に微生物に供給され、土壌構造が保全される。

 

被覆作物は、本来の作物の収穫後に、冬季から春季にかけて植栽される植物群である。ライ麦やビッチ、豌豆の混播が行われる。これらは雑草を物理的に抑制し、根の分泌物により微生物を活性化させ、窒素を固定する。被覆作物が複数種混植されることで、土壌微生物の多様性も高まる。

 

輪作と多様性は、不耕起栽培を補完する。トウモロコシとダイズを単調に繰り返す農法では、その作物に特化した病害虫や微生物が蓄積する。しかし、不耕起の上に複数種の被覆作物を導入し、小麦や大麦を加えた輪作を行えば、根の深さが異なる多様な植物が土壌のあらゆる層に作用し、微生物生態系も複雑化する。これにより病害虫は自然に抑制され、栄養の利用効率も高まる。

 

ダレーン・ベック博士が率いるDakota Lakes Research Farmの事例は、この効果を明確に示している。被覆作物を導入して二、三年で、従来は一年生の競争的な雑草が優占していた土壌植生が、多年生の非競争的な植物へと自然に遷移する。同時に、化学肥料の投入量を八十パーセント削減しながら、トウモロコシとダイズの収量は慣行農法と同等かそれ以上に維持される。これは単なる窒素固定能力ではなく、有機物の連続的投入、土壌集合体の改善、水分保持力の向上が複合的に機能した結果なのだ。

 

ローラー・クリンパーなるハイテク機械も登場した。被覆作物の斜めの刻み目を持つドラムが、茎を押し潰しながら引き切ることで、水輸送を遮断し、枯死を早める。二、三回の使用で、ライ麦は九十パーセント以上の枯死率を達成し、その後の除草剤投入を最小化できる。直播播種機も、被覆作物の残渣マットを貫通し、種子を土壌と確実に接触させる設計となっている。

結び

土を守ることは、単なる環境保全ではない。食糧生産の継続性であり、農民の経済的自立であり、そして文明の持続性そのものなのだ。リービッヒ以来、人類は無機肥料と化学物質に依存する道を選んだ。それは短期的には成功したように見えた。だが今、その限界が明らかになっている。

 

かつてアルバート・ハワード卿は、人間の健康はすべて食べ物に由来し、食べ物の健康は土壌に由来すると述べた。この言葉は、当時は科学的根拠を欠くとして軽視された。だが今、根圏微生物の研究が進み、菌根菌の役割が解明され、有機物循環の重要性が数値化できるようになった。ハワードが直感的に理解していたことが、科学によって確認されたのである。

 

歴史は土壌の衰退とともに繰り返されている。ローマもメソポタミアも、ピードモント地域も、すべて同じプロセスをたどった。人口増加に対応するため、耕地を拡大し、有機物を軽視し、無機物に依存し、やがて土壌は衰退した。そしてその後、文明も衰退した。

 

今回こそ異なる選択をする必要があるのではないか。被覆作物も、不耕起も、ローラー・クリンパーも、決して新しい発明ではない。しかし、それらを体系的に実装し、根圏微生物の研究と組み合わせ、農業経営として成立させることは新しい試みなのだ。たとえ地味な取り組みに見えても、長期的な視点では農地の生産性維持と生態系の保全に極めて効果的であることが、ようやく示されつつある。

 

数世代後に「あの時代、我々は選択を誤ったのだ」と言われないために。今、我々が意識的に取り組まなければならないのは、目に見えない世界ーー土壌ーーの再生なのである。

苦痛の心理学:なぜ人は苦しみを選ぶのか

 

書籍情報

著者:ポール・ブルーム
訳者:夏目大
発行者:草思社
発行年:2025年11月14日
価格:3,300円
ジャンル:心理学(特に「快楽」「苦痛」「脳科学」「動機」「意味」など人間の根本的な精神現象を科学的に観察する応用心理学・認知科学領域)​

著者のプロフィール
ポール・ブルームは、カナダ出身の心理学者であり、現在はトロント大学心理学教授、イェール大学心理学名誉教授を務めている。認知科学および発達心理学分野で世界的な評価を受けており、幼児から大人までの「正義」「娯楽」「アイデンティティ」「宗教」「芸術」など人間の根本的な精神現象について、学界的・科学的に探求している。著書は『赤ちゃんはどこまで人間なのか』『反共感論』ほか多数あり、NATUREやSCIENCEなどのトップ学術誌、およびニューヨーク・タイムズやニューヨーカー等の一般誌にも多数寄稿。現代の「意味」や「価値」に関する理論的発信を続けている。​

本書の特徴
本書『苦痛の心理学』は、「人間はなぜ自ら考えるのかを求める」という難題を科学的に解き明かし、快楽至上主義への批判とともに、苦痛や困難が人間の幸福や意味の追求とどのように結び付くかを論じる。マラソン、激辛料理、ホラー映画、SMなど様々な実例を挙げ、努力や苦難の先にある「意味」や「自己成長」こそが、豊かな人生にふさわしいと論証する。​

以下内容要約

 

人生に苦しみが必要という逆説

人間は快楽だけでは幸せになれないという事実は、現代の「有毒なポジティブさ」の時代には逆説的に聞こえるかもしれない。しかし心理学者ポール・ブルームが著した『苦痛の心理学』は、この一見矛盾した真理を科学的に解き明かしている。

 

ブルームの主張は単純だ。人間は快楽と苦痛のバランスを求め、その「スイートスポット」にこそ人生の意味が宿るということである。辛い食べ物を好む人、ホラー映画を楽しむ人、マラソンに挑む人—これらの行動は一見不合理だが、実は人間の本質を映し出している。ブルームはこうした行動を単なる例外としてではなく、人間が持つ根本的な動機の複数性の証拠として扱う。彼が提唱する「動機的多元主義」という概念は、人間は快楽だけでなく、意味のある人生、道徳的善良さ、親密な関係、多様な経験など、複数の価値を追求する存在だと説明する。

選択された苦しみが人生を変える

ブルームが提唱する「良性マゾヒズム」とは、実害を伴わない苦痛から快楽を得る現象を指す。この概念は心理学者ポール・ロージンによって導入され、ブルームの理論の中核を成している。激辛料理を食べるとき、脳は高温に反応するTRPV1受容体を通じて痛みシグナルを送る。身体が「苦しい」と知覚するその瞬間に、エンドルフィンとドーパミンが放出され、その後の安堵感や多幸感が生み出される。これは身体が実際の脅威だと誤認した結果、防御反応として快楽物質を放出するメカニズムだ。

 

ここで重要なのは、この苦しみが「選択された」ものだという点だ。ブルームはあえて「強制された苦しみ」との区別を強調する。病気、喪失、不当な抑圧—これらの避けられない苦痛は、確かに人間を傷つける。だからこそ、自ら選んだ困難—登山、育児、創造的な仕事—の価値がより際立つのだ。選択された苦しみには、コントロール感と意味の付与というふたつの要素が含まれる。自分で決めたという事実そのものが、同じ苦痛をまったく異なる経験へと変容させる。

 

興味深いのは、ホラー映画の研究である。カナダのウォータールー大学の研究者たちは、ホラー映画のファンと非ファンの脳活動を比較した。その結果、ファンの脳では恐怖を感じる扁桃体が活性化すると同時に、報酬系を司る側坐核も活発に動いていることが判明した。つまり恐怖そのものが、脳の報酬回路に直接つながっているのだ。これは「防御フレーム理論」と呼ばれる概念で説明される。映画館という安全な環境にいることを認識しているからこそ、恐怖を楽しむことができる。現実の危険ではないという「フレーム」が、恐怖を快楽へと変換する。

 

マラソンランナーの場合も同様だ。研究によれば、マラソン中に体験する苦痛は、完走後に想起されるとき、その強度が30から40パーセント低く記憶される。これは「ピーク・エンド効果」と呼ばれる記憶のバイアスである。人間は経験の最もピークの瞬間と、終了時の感情を重視して全体を評価する。だからゴール後の達成感が、走行中の苦痛の記憶を上書きしてしまう。

 

さらに注目すべきは、サウナの研究だ。フィンランドの伝統的なサウナ文化を調べた研究では、摂氏80度から100度という極限環境に身を置くことで、心拍数が上昇し、血管が拡張し、一時的に心臓への負荷が高まる。しかしその直後、身体は強力なリラックス状態に入る。この温度ストレスが、ストレスホルモンであるコルチゾールの長期的な低下をもたらすことが確認されている。つまり、短期的な苦痛が長期的な健康効果を生むのだ。

親として経験する逆説

子育てほど「幸福のパラドックス」を示す例があるだろうか。研究が示すところでは、子どもを持つ親は子どものない成人よりも、日々のストレスが高く、抑うつ傾向がある。にもかかわらず、多くの親は子育てを人生で最も意味のある経験だと答える。この矛盾をブルームは、快楽と意味の違いとして説明する。

 

この矛盾は、脳の側頭極や島皮質といった領域が、短期的な感情と長期的な人生の物語を別個に処理していることで説明される。親は日々の疲労を感じながらも、人生全体の意味付けの中では、その苦労をなくてはならないものとして統合しているのだ。脳スキャンの研究では、自分の人生について語るとき、側頭極が活性化することが示されている。この領域は物語を構築する場所であり、個別の経験を一貫した人生の筋書きへと編み上げる。

 

さらにブルームは、子育ての瞬間的な感情を測定する研究と、人生全体の満足度を尋ねる研究を比較する。瞬間を切り取れば、おむつ替え、夜泣き対応、かんしゃくへの対処は、間違いなくストレスフルだ。しかし人生全体を振り返るとき、それらの苦労は「成長の物語」「愛の証明」「自己犠牲の価値」として再解釈される。これは物語的自己の力である。

意味を求めるDNA

人間が「なぜ生きるのか」という問いに答えを持つとき、「どのように生きるのか」のほぼすべての困難に耐えることができる—これはホロコースト生存者ヴィクトール・フランクルが強制収容所で発見した真実である。ブルームも同じ結論に到達している。

 

フランクルは、アウシュヴィッツとダッハウでの極限状況において、生き延びた人々に共通点を見出した。それは身体的な強さでも、若さでもなかった。生き延びた人々は、収容所の外に「待っている誰か」や「完成させるべき仕事」といった、生きる理由を持っていた。フランクルはこれを「態度的価値」と呼んだ。苦しみそのものは変えられなくても、それに対する態度は選択できる。この選択こそが、人間の尊厳の最後の砦だとフランクルは主張した。

 

ブルームはフランクルの洞察を現代の研究と結びつける。心理学者キャロル・ライフとその同僚たちの研究によれば、人生に目的意識を持つ人々は、心血管疾患のリスクが低く、免疫機能が高く、寿命が長い傾向がある。意味は単なる心理的な満足ではなく、生物学的な健康効果をもたらす。これは「目的効果」と呼ばれ、意味が脳の報酬系だけでなく、ストレス応答系にも影響を与えることを示している。

 

フロー状態と呼ばれる完全な没入状態も、実は苦しみとセットで存在する。心理学者ミハイ・チクセントミハイが提唱したこの概念は、スキルと課題が最適にバランスしたとき、人は自己意識を失い、時間感覚が歪む状態を指す。このとき、容易すぎても困難すぎてもその状態は訪れない。つまり、適度な「歯ごたえ」が、充実を生み出す不可欠な要素なのだ。

 

チクセントミハイの研究では、フロー状態に入るための条件として、課題がスキルをわずかに上回るレベルであることが挙げられる。この「わずかに上回る」という部分が鍵だ。簡単すぎれば退屈し、難しすぎれば不安になる。しかし適度に困難な課題は、全注意を要求し、自己への執着を消し去る。ロッククライマー、チェス選手、外科医、ジャズミュージシャン—彼らは皆、この状態を追求している。そしてこの状態に入るためには、避けられない苦しみ—筋肉の緊張、精神的な集中、失敗のリスク—が必要なのだ。

努力が価値を生む謎

2018年、社会心理学者のマイケル・インズリヒトとアマル・シェナブは「エフォート・パラドックス」という概念を提唱した。彼らの研究が示したのは、努力は苦痛であると同時に、その苦痛が対象への愛着を生み出すという矛盾だった。

 

最も象徴的な実験が「IKEA効果」である。ハーバード・ビジネス・スクールのマイケル・ノートンとダニエル・モチョン、デューク大学のダン・アリエリーが行った研究では、被験者に収納ボックスを組み立てさせた。完成品と自分で組み立てた製品を比較したところ、被験者は自作の箱を、完成品よりも平均63パーセント高く評価した。しかも、その箱の出来栄えが悪くても、評価は変わらなかった。

 

この現象は単なる認知バイアスではなく、深い心理メカニズムを持つ。努力を投入したという事実が、対象に自己の一部を投影させる。その結果、その対象の価値は主観的に上昇する。これは子育て、仕事、創作活動すべてに当てはまる。苦労して作り上げたものは、たとえ客観的な質が低くても、作り手にとっては特別な価値を持つ。

 

さらにインズリヒトたちは、努力の最中と完了後で、主観的な評価が変わることも発見した。課題を遂行している最中は、多くの人が「こんなに大変だとは思わなかった」と感じる。しかし完了した瞬間、その評価は反転する。「大変だったけど、やってよかった」という感覚が生まれる。これは「努力の事後正当化」と呼ばれる現象で、脳が過去の努力を肯定的に再評価する。もし努力を無駄だと認めれば、自分の選択が間違っていたことになる。だから脳は、努力に価値があったと信じるように記憶を調整する。

物語の力で過去を編集する

興味深いのは、困難な経験も、その意味づけ次第で人生を変える可能性を持つという点だ。「挫折」を「成長の機会」として語り直す。「喪失」を「自分を知るきっかけ」として再編成する。自分の人生の物語を、主体的に構築し直すことで、同じ出来事はまったく異なる意味を帯びる。

 

これは単なる自己欺瞞ではなく、脳科学的には前頭前皮質による意味付けプロセスなのだ。人間の脳は、過去の出来事を現在の理解に基づいて修正することができる。つまり、ある程度の「再解釈」は、実在する心理現象なのである。神経科学者のジョセフ・ルドゥーは、記憶が想起されるたびに、その記憶は再統合されると説明する。つまり過去を思い出すたびに、脳はその記憶を少しずつ書き換えている。この「記憶の再固定化」と呼ばれるプロセスが、物語療法やトラウマ治療の基礎となる。

 

ブルームが紹介する「心的外傷後成長」の研究も、この再解釈の力を示している。心理学者リチャード・テデスキとローレンス・カルフーンは、深刻なトラウマを経験した人々の一部が、そのトラウマを通じて人生観が変わり、より深い意味を見出すことを発見した。がん患者、事故の生存者、戦争の帰還兵—彼らの中には、その経験によって人生の優先順位が明確になり、人間関係が深まり、自己理解が進んだと語る者がいる。

 

これは苦しみを美化することではない。テデスキたちも強調するように、トラウマそのものは決して良いものではない。しかし人間には、最悪の経験からも意味を抽出し、それを自分の物語に組み込む能力がある。この能力こそが、レジリエンス—回復力の核心なのだ。

苦しみと喜びは同じコイン

最終的にブルームが示唆するのは、苦しみは人生の敵ではなく、むしろ意味の源泉だということだ。無菌室のような安全で快適な人生は、たしかに痛みから遠い。しかし同時に、成長からも、深い人間関係からも、そして自己超越の経験からも遠い。

 

人間は、自分が困難に立ち向かい、それを乗り越える能力を持つことを知ったとき、初めて自分の人生に所属感を感じる。選択された苦痛は、そのような自己発見の扉を開く鍵なのだ。ブルームの主張は、単なる自己啓発ではなく、人間存在の根本的な構造についての洞察である。

 

ブルームは「対比理論」も紹介する。これは快楽が、それに先行する苦痛によって増幅されるという現象だ。冷たいプールから出た後の温かいタオルの心地よさ、激しい運動後の休息の深さ、空腹の後の食事の美味しさ—これらはすべて、対比によって生まれる快楽である。もし常に快適な状態にいれば、その快適さは当たり前になり、感覚は麻痺する。これは「快楽適応」と呼ばれる現象で、人間は良い状態に慣れてしまい、同じレベルの刺激では満足できなくなる。

 

結局のところ、人生の質は苦痛の不在によってではなく、意味の存在によって測られる。そして意味は、多くの場合、選択された苦しみの中から生まれる。登山家がなぜ山に登るのか、作家がなぜ苦しみながら執筆するのか、親がなぜ眠れない夜を過ごしても子育てを続けるのか—答えは、その苦しみの先に、何か価値あるものがあると信じているからだ。その信念こそが、人間を人間たらしめている。

ワイルドフッド 野生の青年期 書籍カバー

 

書籍情報
著者:バーバラ・N・ホロウィッツ、キャスリン・バウアーズ
訳者:土屋晶子
出版社:白揚社
発行年:2021年10月
価格:3,300円
ジャンル:自然科学/進化生物学/動物行動学/著者独自の比較青年期論/科学ノンフィクション

著者のプロフィール
バーバラ・N・ホロウィッツは、米国の医学博士であり、ハーバード大学およびUCLAの教授として動物と人間の共通点に着目し研究を続ける医師・生物学者です。前作『人間と動物の病気を一緒にみる』で新たな学際領域「ズービキティ(汎動物学)」を提案し高く評価されました。共著のキャスリン・バウアーズはサイエンスライターであり、幅広い科学トピックを扱い、特に動物行動や進化の視点から、動植物と人間の関係を探求する著述家です。二人は2010年代以降継続的に「人間と動物の間にある見えない壁」を突破する共同作業を進めています。​

本書の特徴
本書は、人間だけでなくあらゆる動物の“青年期(ワイルドフッド)”に着目し、人類史・進化史に裏打ちされたユニバーサルな成長課題を比較生物学・行動生態学の手法で解き明かします。なぜ若者はリスクを冒すのか、なぜ仲間との関係や集団の中の地位が重要なのか、なぜ多くの動物が青年期に「危険」に魅了されるのか、自然界にひそむ普遍的な原理を、圧倒的な動物観察例と科学的分析で示しています。人間の思春期の行動を「未熟さ」や「未完成」と捉える前に、生物界の“必然”として理解し直そうという強いメッセージが貫かれているのが本書最大の特徴です。​

 

以下内容要約

 

ワイルドフッド─生物界に共通する青年期の本質

青年期は人間特有の現象ではない。ペンギンからハイエナ、クジラ、オオカミに至るまで、すべての動物が経験する発達段階であり、著者のバーバラ・ナッターソン・ホロウィッツとキャスリン・バウアーズはこれを「ワイルドフッド」と名付けた。この概念は、進化の歴史を通じて無数の動物が共通して身につけなければならない能力の習得期間を指している。

本書の核となる考えは極めてシンプルだ。子どもから大人へ至るまでの過程は、生物が進化の中で獲得してきた共通パターンなのだと。親元を離れた若い個体が直面するのは、人間も動物も変わらない四つの必須課題である。これを著者たちはSAFETY(安全)、STATUS(地位)、SEX(性)、SELF-RELIANCE(自立)と整理した。

このフレームワークは単なる概念上の整理ではなく、実際の動物行動観察から抽出された実証的パターンである。若いペンギンのウルスラは、危険な海へ単独で飛び込むことで安全スキルを学び、ハイエナの子どもたちは母親の地位を相続しながらも同盟関係の構築により自らの立ち位置を確立し、ザトウクジラの若いオスは年長者の複雑な歌を真似ながら求愛コミュニケーションを習得し、若いラッコは母親から潜水採食技術を実地で学ぶことで自立への道を開く。これらすべてのプロセスは、進化が設計した普遍的な成熟メカニズムの一部なのである。

危険への計算された暴露

最初の課題が「安全」だ。ただし安全とは、単なる危険回避ではない。親元を離れたペンギンの幼体ウルスラは、ヒョウアザラシが跋扈する南極の海へ自ら飛び込む。統計上、三羽に一羽が死ぬ環境である。これは無謀に見えるかもしれないが、実は計算された行動なのだ。

若い個体が捕食者の能力、その狩りの方法、自分がどの程度の速さで逃げられるのかを知るには、実際に遭遇する以外にない。直接の危険に直面することで、脳の神経回路は劇的に再編される。同時に仲間の失敗を観察することも重要で、メーアキャットの若者が群れの年長者の監視行動を眺めながら、本当の警報と誤った警報を区別するすべを学ぶように、社会的学習が効率を高める。

恐怖反応は古い脳システムであり、無意識のうちに発動する。扁桃体が感知した脅威は、即座に逃走、硬直、降伏などの反応を駆動する。この反応が「調律」される必要がある。高リスク環境で育った若い獲物ほど一般化された恐怖反応を発達させるが、同時に具体的な捕食者の特性を学んだ個体は、さらに高い生存率を示す。

興味深いのは「捕食者未経験」という現象だ。隔離された島嶼環境で何世代も捕食者と接触しなかった種は、危険認識能力を完全に喪失する。ガラパゴス諸島のイグアナが人間の接近に全く動じないように、本能的な恐怖は経験によって維持されなければ消滅するのである。これは現代社会で過保護に育てられた若者が、リスク判断能力を欠く現象と本質的に重なる。

若いガゼルが見せる「ストッティング」という行動も示唆的だ。捕食者を発見した際、逃げるのではなく高く垂直に跳躍する。これは「私は健康で素早い、追いかけても無駄だ」という信号であり、捕食者がより弱い獲物を選ぶよう誘導する戦略である。恐怖が過剰でもなく過小でもない、その中間の領域で行動選択が最適化されるのだ。

集団内での地位と同盟

安全スキルを獲得した後、若い個体が直面するのが地位の問題である。資源、繁殖機会、健康──これらすべてが集団内のポジションに左右される。ハイエナの社会では、アルファメスの娘は生まれた時点で特権を享受する。最初に食事にありつき、他個体に対する支配権を与えられ、健康状態も良い。この「母系地位継承」システムは極めて強固で、高位の母親から生まれた子どもは自動的に高い社会的地位を与えられる。一方、下位の個体の娘は、常に苦闘を強いられる。

ただし世の中は完全に固定化されているわけではない。チンパンジーやヒヒの若い個体は、同盟を構築することで初期の地位を相対化できる。複数の仲間と協力して上位個体に対抗すれば、相対的な優位が変わる。グルーミングや味方への支持表明といった小さな社会的行動の積み重ねが、時間とともに権力バランスを塗り替えていくのだ。

人間の学校社会がこれと本質的に異なるわけではない。入学当初は無名の新入生も、特定のグループに属し、協力関係を構築することで、承認と評判の獲得は可能になる。セロトニンなどの神経伝達物質のレベルは社会的地位の変動に応じて変わり、若者はそれを化学的に「感じる」。故に地位の上下動は、思春期の脳に強烈な報酬ないし罰として刻み込まれる。

特に注目すべきは「敗者効果」と呼ばれる現象だ。一度の敗北経験が、その後の戦いにおける勝率を劇的に低下させる。二匹の魚を戦わせ、負けた個体を別の新しい相手と対戦させると、体格が同等でも再び負ける確率が65パーセントに達する。これは神経化学的変化によるもので、敗北の記憶が脳内のストレスホルモンを持続的に高め、自信を喪失させるのである。人間の若者が学校でのいじめやSNSでの攻撃によって心理的に委縮する現象と、構造は全く同じだ。

ただし敗者効果は永続的ではない。仲間のサポート、小さな成功体験の積み重ね、環境の変化により、神経化学的バランスは回復する。実際、複数の仲間と連携した若いチンパンジーが、単独では到底かなわない高位個体を追い落とす事例も確認されている。地位は固定されたものではなく、関係性の中で流動的に再構成されるのである。

性的コミュニケーションの習得

第三の課題は性である。肉体の成熟と、相手を理解し合意を得る能力は別物だ。ザトウクジラはその鳴き声の複雑さで知られているが、若いオスクジラが一人前の歌を歌えるようになるまでには、年長者の鳴き声を繰り返し聞き、模倣し、試行錯誤する時間を要する。クジラの歌は毎年変化し、若いオスは流行を追いかけるように最新のメロディパターンを習得しなければならない。歌えないオスは求愛競争から脱落する。

トリの求愛ダンス、シカの装飾行動、多くの動物が洗練された儀式をもつのだが、それらの技法は先天的ではなく習得されるものなのだ。レイサンアホウドリの若いオスは、求愛ダンスの複雑なステップを数年かけて学ぶ。最初は不器用で、リズムが合わず、メスに無視される。しかし年長者の動きを観察し、失敗を繰り返すうちに、徐々に洗練されていく。

求愛とは一方向の信号発信ではなく、相手との対話である。視覚、聴覚、嗅覚、触覚を駆使した往復的なシグナリングが交わされ、その中で同意が形成される。若い個体がこのプロセスを学び損なえば、後の人生で深刻な問題が生じかねない。興味深いことに、動物界でも強要や圧力による性関係は存在し、単なる物理的な力だけでなく、反復的な干渉や威圧といった形態も存在することが確認されている。

キイロショウジョウバエの実験では、オスが求愛を拒絶されると、次第に攻撃的になり、メスを威嚇して交尾を強いる行動に移行することが観察された。これは性的コミュニケーションの失敗が、暴力的な代替行動を引き起こす典型例である。人間社会における性的同意の教育が重要なのは、この生物学的傾向を適切に制御するためでもある。

一方、多くの種では若い個体が同性同士で求愛の「練習」をする現象も確認されている。これは実際の繁殖を目的としない社会的学習であり、安全な環境でコミュニケーションスキルを磨くプロセスなのである。

自立への道

最後の課題は自立である。自分の食べ物を調達し、テリトリーを確保し、親からの援助なしに生活を営む能力が求められる。若いラッコが母親から潜水採食を学ぶように、若いオオカミが狩りの列に加わり、年長者から戦術を習得するように、自立スキルは実地訓練を通じた試行錯誤の産物だ。

オオカミの群れでは、若いオスは通常二歳から三歳で親元を離れる。これは「分散型独立」と呼ばれ、生まれた群れから完全に離脱し、新たな地域で自らのテリトリーを確立する必要がある。その過程で多くの若いオオカミが死亡する。統計では、分散した若いオオカミの五割が一年以内に命を落とす。これは交通事故、他の群れとの戦闘、飢餓、人間による射殺など、さまざまな要因による。

一方、別の戦略として「段階的独立」も存在する。メキシコカケスの若い個体は、親のテリトリー内に留まりながら、徐々に自分の行動範囲を拡大していく。親は引き続き保護を提供するが、若い個体は自分で食物を見つけ、危険を回避し、社会的スキルを磨く時間を得る。この段階的移行モデルは、北米アカリスなど多くの種で観察される。

興味深いのは、完全に放り出されるのではなく、親が「偵察遠征」や「訓練キャンプ」のような短期的な独立経験を提供する種も存在することだ。若い個体は数日間親から離れ、自力で生活し、その後戻ってくる。これを繰り返すうちに、自立に必要な技能が段階的に身につく。

この過程で重要なのは、失敗が許容される環境の存在である。初期段階では親や群れが保護を提供し、若い個体は安全な範囲でリスクを取ることができる。完全な孤立は動物にとって死を意味するが、適切な支援の下で段階的に独立することで、成年期の生存率は劇的に向上する。

自立には物理的スキルだけでなく、心理的自信も不可欠である。若い個体が「自分は生き延びられる」という感覚を獲得するには、小さな成功体験の積み重ねが必要なのだ。狩りに成功し、捕食者から逃げ切り、テリトリーを守り切る。これらの経験が神経回路を強化し、真の自立を可能にする。

人間への示唆

本書が提示するのは、人間の思春期で起きていることは決して病理ではなく、進化が用意した適応的プロセスだということだ。危険に惹かれる傾向、仲間との関係を最優先にする行動、性的関心の急速な展開、親からの独立への衝動──これらはすべて、生物界に通じた普遍的なパターンなのである。

親たちが「なぜ危険なことをするのか」と首をかしげる行為も、その実は数百万年の進化史に根ざしている。適応的であるがゆえに、それは消えない。重要なのはこの時期を「抑圧すべき時期」ではなく「最適に支援すべき時期」として理解することだ。青年期の課題を一つずつ成功させることで、若者は真の意味で大人へと到達する。

著者たちが強調するのは、ワイルドフッドを孤立した個人の問題として捉えるのではなく、社会全体で支援すべき発達段階として認識する必要性である。動物の世界でも、若い個体の成長は群れ全体の協力によって支えられている。人間社会も同様に、若者が四つの課題を安全に乗り越えられる環境を整備する責任を負っている。それが種の繁栄につながる、という生物学的真実を本書は明確に示しているのだ。

殺人が経済に目覚めたか?進化経済学

 

 

書籍情報

著者:ポール・シーブライト
訳者: 山形浩生・ 森本正史
出版社:みすず書房
発行年:2014年1月
価格:4,180円
ジャンル:経済思想・制度経済学/進化経済学/行動経済学/人類史・文化進化と協力/制度設計と信頼の経済学。​

著者のプロフィール
ポール・シーブライトは、進化・協力・信頼を軸に経済生活の成り立ちを研究する経済学者で、英語版『The Company of Strangers: A Natural History of Economic Life』(2010年改訂版)が本書の底本となっている。 本書の日本語版では、ダニエル・デネットによる序文が付され、リーマンショック後の情勢に合わせた加筆・補足が行われた改訂版の内容が反映されている。 研究の核は「見知らぬ他者との協力がいかにして可能になったか」という問いであり、人類史・生物学・人類学・心理学を横断して経済生活の基盤を描き出すスタイルで国際的に評価されている。​

本書の特徴
本書は、貨幣や市場を前提とした「経済」という生態系が、人類にもともと備わった部族的性向とどう折り合い、どのように信頼と協力を拡張してきたかを、平易な言葉で描く通俗性と理論的射程を兼ね備える。 ロンドンのパン供給やレストランの会計、計画都市の退屈さ、知的財産権の特異性など身近な事例を手がかりに、現代のネットワーク化された経済生活が「わずか1万年前に始まった驚異的な実験」の上に成り立つという視角を提示する。 デネット、エルスター、ロドリック、ギンタスらの賛辞が示す通り、専門用語に頼らず社会科学の核心問題へ導く「読む楽しみ」と学術的有用性の両立が魅力である。​

 

以下内容要約

 

人類の進化と経済システムの不可思議な関係

ポール・シーブライトの『殺人ザルはいかにして経済に目覚めたか』は、人類がなぜ見知らぬ他者と大規模に協力できるのか、その謎を進化心理と経済制度の交点から解き明かそうとする試みだ。本書の核心は、現代経済社会というものが人類の進化史上における極めて脆い実験であり、その成立基盤が信頼という心理的現象にあるという提言にある。

 

人類は百万年近く狩猟採集で過ごし、その間に心理特性を形成した。ところがわずか一万年足らずの間に、農業から都市化、そして市場経済へと急速に転換してしまった。この時間的な不連続性こそが、シーブライトが問題にする根本的なパラドックスなのである。さらに進化心理学の視点から見ると、人間は小規模な集団内での相互作用に適応してきた。血縁者や顔見知りの相手との信頼構築は本能的だが、匿名の他者との取引は進化的に想定されていない。それなのに、現代社会は数百万人の見知らぬ者同士の関係性によって成立している。この矛盾の解明がシーブライトの探求の出発点である。

視野狭窄という構造的必然性

本書の中心概念が「視野狭窄」(トンネルビジョン)という考え方だ。これは個人の欠点ではなく、むしろ分業社会の構造的な必然性として機能する仕組みを指す。シャツ一枚を買うとき、消費者は原綿の栽培から製造、流通に至る全過程に携わる数千人の存在を知る必要もなければ、知ることもできない。それぞれが自分の職務に集中し、信頼に基づいた仕組みが全体を調整するのだ。

 

この個々人の視野が狭いという事実は、一方では効率性と専門知識の深化をもたらす。個人が限定的な情報に基づいて迅速に判断でき、各人の責任も明確になる。しかし同時に、全体への影響が見えないという危険性も抱えている。個人の賢明な行動の蓄積が、社会全体には有害な結果をもたらす場合もあるし、相互依存の規模と重要性は日常的には意識されない。

 

2008年の金融危機は、この問題を象徴的に示している。銀行員が短期的な利益を追求することは、局所的には妥当であった。だが無数の個人の賢明な行動が連鎖することで、全体としては システムを崩壊させてしまった。視野狭窄によって効率が生まれる一方で、意図しない破局も生じるということだ。

 

具体的な歴史事例が示唆に富んでいる。アメリカ南北戦争時、南部の海上封鎖により綿花供給の三分の一が遮断されたとき、市場経済はどう応答したか。綿花価格は戦前の六倍に上昇し、その価格上昇というシグナルが、イギリスの織機メーカーに「新技術を開発せよ」というメッセージを送った。同時にインド、エジプト、ブラジルの農民に「綿花栽培に転換せよ」という異なるメッセージが到達した。この全体のプロセスは、誰からの命令も受けず、中央計画も存在しないまま、数ヶ月で進行していった。

 

価格とは市場が発する無言のメッセージである。個人は全体の複雑な相互作用を理解する必要なく、ただこのシグナルに応答するだけで、見えない手が全体を調整するのだ。綿花の取引に関わる商人も農民も織機工場の経営者も、誰もが「世界経済の血流を操作している」という自覚なしに、自分の領域に専念するだけで協力が成立する。この調整メカニズムは、中央計画では決して実現できない効率性をもたらしている。

制度という信頼の補完装置

では、知らない者同士の間で協力がなぜ可能になるのか。シーブライトの答えは明確だ。金銭、法制度、契約、評判メカニズム、そして企業や官庁といった組織体が、個人の視野狭さを補完しているというのである。

価格システムはその最たるものだ。消費者は商人の信頼性を知らなくても、評判が蓄積された価格メカニズムが自動的に良い生産者を選別する。法制度と契約の強制は、見知らぬ者同士の交換を可能にする。通貨は特定の商品の価値を相互に認識させ、取引の媒介手段として信頼性を軽減する。市場参加者は評判を気にし、長期的な利益を損なわないために短期的な不正を避ける。組織という大きな単位で信頼関係が成立することで、取引可能な主体の数が増加する。

インターネット時代の楽天やアマゾンを考えてみると、この仕組みの効果が一層明白になる。完全に見知らぬ売り手と買い手が、評判システムという制度的な信頼装置で仲介されている。買い手は商品レビューという制度化された信頼情報に基づいて判断し、売り手は評価スコアに基づいて行動する。この評判メカニズムがなければ、匿名での大規模な取引は成立しない。個人個人は相手の素性を知る必要なく、数値化された評価に応答するだけで、全体として機能する仕組みなのだ。

しかしこれらの制度は当然行われる前提ではなく、維持しなければ崩壊する可能性を常に抱えている。分業が精密化するほど、信頼の崩壊がもたらす破壊は大きくなる。金融危機や供給ネットワークの寸断が示すように、相互依存の質は脆弱である。個人が一見利己的に行動すればシステム全体は破綻する可能性を秘めているのだ。

2011年の東日本大震災ではサプライチェーン一箇所の破壊が世界中の製造業に波及した。自動車産業、電子機器産業、医療機器産業まで、多くの産業が日本からの部品供給に依存していた。この一つの事象がもたらした経済的な影響は計り知れず、グローバル化した現代社会の相互依存がいかに深いか、そして同時にいかに脆いかを如実に示した。タイの洪水による半導体不足、コロナパンデミックによるサプライチェーンの停止といった事例も、同じ構造的な脆弱性を映し出している。

制度は協力を促進する一方で、その制度そのものへの過度な依存という新たなリスクも生む。金融システムの複雑化を例に取ると、銀行、投資ファンド、保険会社といった金融機関は相互に絡み合い、一つの機関の崩壊が全体へ波及する。2008年のリーマン・ショックはこの構造的脆弱性の典型である。個々の銀行員や投資家が短期的な利益を追求することは、局所的には理に適っていた。しかし無数の利己的な行動が連鎖することで、システム全体は崩壊寸前まで追い詰められた。

この矛盾の本質は、制度が機能するためには各主体が制度を信頼し、基本的なルールを守らなければならないということだ。しかし人間は常に自分の利益を優先させる傾向を持つ。評判メカニズムも、長期的な信用を失う代償が十分に大きくない場合には、短期的な不正に抵抗できない。金融取引の場合、一度の大きな利益が得られれば、その後の社会的な非難は無視できると判断する主体が現れる。かつて人類が血縁集団という小さなコミュニティで生活していた時代、相手の顔が見え、評判は極めて大事なものだった。しかし匿名性が高い大規模社会では、この制御メカニズムが弱体化する傾向にある。

シーブライトが強調するのは、グローバル化した現代では、この脆弱性がより一層露呈しやすくなっているということだ。*互依存の規模が拡大するほど、一箇所の破壊がもたらす影響も指数関数的に大きくなる。さらに遠く離れた地域での出来事が、瞬時に世界経済全体に波及する。COVID-19パンデミックの際、各国が自国民の健康を優先させるあまり、ワクチンの供給が不均等になり、医療格差が拡大した。この状況は、相互依存関係にある現代社会が、いざという時には各自が自国の利益を優先させるという本質的な矛盾を露呈させている。

制度という「見えない基盤」は、日常的には認識されない。給与は銀行の信用システムによって移動し、商品は契約と法制度に守られたサプライチェーンを通じて流通する。個人は自分の役割に専念し、全体の相互作用を理解しようとしない。**この「視野狭窄」がなければ効率が実現できないのだが、同時にこの視野の狭さが、制度全体への無関心も生む。**制度の脆弱性に気付かぬまま、私たちは複雑で高度に相互依存したシステムの上に乗っているのだ。

テーマ化された現代の課題

都市、水、価格、家族と企業、知識という複数の領域を通じて、シーブライトは現代経済の本質的な二面性を浮き彫りにしていく。これらの領域では、協力と効率という肯定的な側面と、意図せざる害悪と依存という負の側面が常に表裏一体で存在している。

古代アテネから現代マンハッタンまで、都市は知らない者同士の密集した協力を実現させた舞台だ。匿名性と分業が生産性を飛躍させる一方で、都市は犯罪、貧困、環境汚染といった外部性と暴力の組織化も促進する。都市部に人口が集中するほど、利便性と危険性の両方が指数関数的に増大するのである。

水のような共有資源は、権利割当と監視のない制度設計では乱用と枯渇に陥る。インド農村部の地下水が枯渇し、サハラ以南のアフリカでは水を巡る紛争が激化している現実は、共有資源の管理制度がいかに脆弱であるかを示唆している。各個人の理性的な行動の蓄積が、全体としては自滅的な結果をもたらすジレンマだ。

すべてを価格化することは効率性をもたらすが、倫理的・制度的な副作用も伴う。市場はあらゆるものに値札を付け、情報の非対称性を軽減し、資源配分の効率化を実現する。だが人間の臓器、票、愛情、名誉といったものまで商品化することの危険性は、市場メカニズムの限界を示唆している。価格という無慈悲な数値化が、本来は人間関係や社会的価値で評価されるべき領域に侵入することで、新たな形の不平等と支配が生まれるのだ。

親族選択から非人的な規則へと移行する家族と企業の関係は、一見矛盾しているようだが、実は大規模協力の不可欠な要素だ。家族は血縁に基づく相互扶助の単位であり、顔の見える信頼が支配する領域である。企業や官庁といった組織体は、逆に個人の感情や特殊な関係性を排除し、ルール遵守と効率を追求する。この構造的な冷徹さが、広範な協力を常態化させながらも、同時に関係性の人間性を希薄化させる。仕事上の付き合いで心が疲れるのは、この制度と人間の本性の齟齬に起因しているのだ。

象徴的な知識は約束や契約、貨幣といった抽象的な制度を可能にし大規模協力を支援するが、同時に誤った情報や神話の拡散、集団的な誤った判断も制度化する。インターネット時代、この両義性は一層顕著になっている。真実の迅速な伝播と、ウイルスのように広がるデマの両方が、同じプラットフォームで加速度的に増幅されるのだ。

脆弱性への目線

本書が最後に警告するのは、信頼ネットワークの本質的な脆弱性だ。グローバル化により遠く離れた地域の出来事がリスクとなり、制度的な盲目性――すなわち視野狭窄の不可避な副作用――が危機を拡大させる。個人の視野の狭さによって効率が実現されるその一方で、全体の相互依存構造に気付かぬまま、システムは危機の淵に立たされているのだ。

金融システムの複雑化、供給チェーンの全地球的な展開、そしてそれを支えるシステムへの過度な依存が、一箇所の崩壊を全体の危機に変えてしまう。2008年のリーマン・ショック、2011年の東日本大震災によるサプライチェーン寸断、2020年のパンデミックによるワクチン供給の不均等化といった事象は、すべてこの構造的な脆弱性を示唆している。個々の銀行家、物流企業、政治家が自国や自社の利益を追求することは、局所的には理に適っている。しかし無数の利己的な行動が連鎖するとき、システム全体は一瞬にして破局へ向かう可能性を秘めているのだ。

グローバルネットワークの拡大は、かつてないほどの生産性と消費の増加をもたらした。だがこの発展は同時に、一つの企業の経営危機がアジア全域の失業を招き、一つの国の政策転換が世界市場を震撼させるという相互依存の脆弱さをも極大化させた。制度が信頼によって成立するという事実は、その信頼が一度損なわれたとき、崩壊の速度も指数関数的になることを意味している。

経済学者アダム・スミスが「見えざる手」で説いた市場メカニズムの力強さは本物だが、その背後にある制度と信頼の脆弱さをどう維持・改善していくかが、グローバル化した現在にこそ問われているのである。この問題に対してシーブライトは単純な処方箋を提示しない。むしろ、人類が形成してきた制度の土台が思いのほかもろく、無意識の相互依存のうえに成り立つ文明がいかに危険であるかを改めて思い知らせるのだ。その上で、なおも私たちはこの不確かな仕組みを保ち、さらに発展させていく以外に道がないという静かな諦観と、同時に深い問題提起が残されるのである。