繁華街の一角、雑居ビルに営業所を構える『霊とか相談所』に辿り着いた時、モブは一人だった。
エクボは行きたい所があるからとどこかに消えてしまったし──今日の様子から察するに霊幻に文句を言いに行った気がする、ちょっとうらやましい──、押しかけ秘書をしているはずの女子高生は、所長も所員もいないのに一人で留守番するなど性に合わなかったのかその姿が見えない。いつも遊びに来た時には所員である芹沢が出迎えてくれるのだが、今頃は夜間学校で勉強に勤しんでいるのだろう。
 当然のように営業終了の札が掛けられているドアを開けた時に、ざぁと昔馴染んだざわめきを聞いた気がしてじっと目を凝らしてみたものの、已然目の前には人影のないブラインドが閉められて薄闇に沈んだ事務所が広がっているだけだった。
 本当にいつ帰ってくるんだろうか、あの人は。
 床に鞄を投げ出すと、今日はここで宿題をやってしまおうと思い付いていた。勝手知ったる何とやらと給湯室に向かい電気ケトルでお湯を沸かす準備をして自分専用のマグカップを取り出すと、インスタントコーヒーを求めて戸棚を覗く。
来客用の梅昆布茶やハーブティーに混じって、誰の趣味なのか、アッサム、ダージリン、フレーバーティーといった紅茶の種類が増えていた。
 足繁く来ていた頃には冷蔵庫にモブ専用の牛乳が常備されていて、その頃にはあまり気付かなかったけれど、師匠は幼い弟子のためにあれやこれやと気遣ってくれていたのが分かる。戸棚にはお菓子箱があって、来客用じゃないから食べていいと言われていたそこには今でもモブの好きなお菓子が一杯だ。
それを見る度に感情の少ない幼い頃の自分が、お菓子を貰って傍目からは喜んでいるかどうなのか分からない表情で笑っている風景が思い浮かび、自分に向けられた師の微笑みを反芻することになる。
 インスタントコーヒーと砂糖をマグカップに入れると、ブラックが飲めないモブは、さすがに今は牛乳は置かれていなかったからとコーヒーミルクの粉末を多めに入れる。インスタントコーヒーよりもクリーミングパウダーの瓶のほうが大きいサイズで買われているのは、こうしてちょくちょくやって来るモブが大量に使うからというのも大きな理由だろう。
 ちょっとお腹が空いたし、久しぶりの除霊で疲れたから砂糖は大目に入れた。
 応接セットのソファに座り脚を曲げて上げると、腕で膝を抱えるようにしながら両手でマグカップを持つ。中学の頃から見ると手足が伸びていて少し収まりが悪い。
「……まったりしちゃうなー……。」
空になったマグカップをローテーブルにコトリと置くと、ころっと擬音が付きそうな様子でソファの上に横向きに倒れる。そうして暫く目を閉じていた。
緩く繰り返される自らの呼吸……、それから思い出すのはダラけてるなーと呟く師匠の声で。
 ぐーっと手足を伸ばして伸びをして寝そべったまま天井を見上げる。薄墨を溶かしたような暗さに染まる白い壁紙のそこには蜘蛛の巣がゆらゆらと一つ引っかかっていた。
 
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 あの人は言った。恐らくスイッチのようなものが切り替わったのだろうと。
モブが昏い自分の内面と向き合った時に、身に潜む強大な力と感情に向き合った時に。
陳腐な言葉で言えば、今まではオートモードだった。感情と呼吸と、超能力は等しくあり、使わないと制限をするならば息を殺すほどの葛藤を生んでいた。その分無意識に身を護るバリアが常に張られていて、異常と正常を曖昧にした独自の世界に心を囲い守る防衛規制が掛かっていた。
 そのシステムが一度リセットされた今は何か?
マニュアルモードだ。感情と呼吸と超能力は切り離され、無能力者のように怒っても泣いても笑っても超能力が暴発して周囲を破壊することはない。使わないのが通常状態となったからだ。その代わりバリアを張るんだと意識しなければ身を守れないし、異常と正常の差を歪みとして認識してしまうことになる。
「だから俺は、できればお前にヘルプを出したくないと思っている……。」
 目を覚ますと部屋は青い闇の中に沈んでいた。時々車のヘッドライトがブラインドの隙間から壁を照らしては走り去っていく。はっとしてヤバいとスマートフォンの画面を見ると時刻表示が七時近くを示していた。
「んー。お腹空いたなー。」
いくら甘くしたからといってコーヒー一杯でお腹が膨れるわけではないし、今晩のおかずは何だろうとぼんやり思ってから、あーっとモブは軽く叫んでいた。
「……金庫っ、お金っ!」
当初の目的を思い出すとひらりとソファから飛び起きる。
流石、元肉体改造部副部長は伊達ではない。
所長の机に手をついてひょいっと飛び越すと、そのまま身を屈めて下から覗き込む。片袖の事務机には脚部を覆う幕板があるが、そこに接着されたフックに小さな鍵が掛かっていた。
 この鍵は引き出しのものでモブはそこを開錠すると、一番下の大きい引き出しから手提げ金庫を取りだそうとして、……チカチカと明滅するランプに視線を取られていた。
金庫に隠れた引き出しの奥に二つ折りの携帯電話がひっそりとあって、伝えられなかった、もしくは伝えられていない言葉の存在を主張している。
もう自分の物ではないけれど、長く付き合ったモブの携帯には未だに電源が入っていて、知らず吸い寄せられた指がぱちりとその画面を開いていた。
 着信が数件入っている。
携帯は返してしまったから繋がらないと伝えたはずなのにうっかり掛けてきたらしい友人のものが履歴に並んでいて、その最後に霊幻師匠との表示があった。日付は今年の四月だ。
この携帯を自分で取り上げた癖に、スマートフォンの方ではなくこちらに掛けたというのが何とも師匠らしからぬうっかりだ。
 それから伝言が一件入っている。
何気ない気持ちでキー操作を行い再生してみると、最後の履歴の日付を機械音声が読み上げていた。それから……
──モブ。元気か? 今日は入学式だろう? 電話で悪いが、高校入学おめでとう……──
そこまでスピーカーで流れた時に、携帯は電源切れを訴えて甲高いアラームを流していた。
そうして、ふつりと携帯の画面は暗くなる。
 再び訪れた闇は先程よりも濃さを増しているように感じられた。
水底のような静寂の中で、ぽたりと水滴が床を叩いていた。
「……あ、れ……? なん、で……?」
くしゃりと歪めた表情を両手で覆いながら、闇の中に蹲りモブは自身の中にある訳の分からない悲しみに滂沱の如く涙を流していた。
まるで寒空に置き去りにされた子供のように。
 
モブ (11-89= )%