アトルガン皇国に於いて結婚式と言えば、身分や地域によって若干の差はあるとは言え、コミュニティーの長等の人前にて夫婦の誓いを立て、その後に歌や踊りに彩られた披露宴を執り行うのが一般的だった。
そうした習慣が出来たのは、国教である白き神信仰の教えが抽象的で云わば哲学に似たようなものであり、夫婦仲睦まじく暮らせとの一文が載った教典が無い為だろう。ワラーラ寺院の学僧を見れば彼らが学徒であり、結婚とは程遠い世捨て人のような雰囲気があるのが良く分かる。
最近の皇都アルザビでは女神アルタナを信奉する西国の傭兵が増えた為、辺民街区や人民街区に無認可ながらひっそりと教会が設けられ、女神の前で愛を誓う結婚式に出逢うことが無いではない。
もしくは、古くから国民の一部を占めるイフラマド系の住民には連綿と黒き神オーディンを信仰しているなどとの噂もあり、それが異端な邪教として見られているにせよ、それにも相応の仕来たりはあるのだろう。
兎に角、東より来た人物であるとはいえ皇国民であるガダラルが結婚式と言うのならば、茶屋シャララトのような店を一時貸し切り、直属の上司である天蛇将辺りを証人に誓いを立てる形式が想像されるのではないだろうか。
勿論、ラズファードが夫婦となる初めに忠告した通り、法的に婚姻関係が結べる訳ではない。
同性であることを差し置いても、現在のラズファードに戸籍があるかの問題は大きく、流民とそう変わらぬ身分であるのだが、畢竟、そんなことは戸籍の問題であって、誓いを立てるのは自由であるし、実際に宴で騒ぐ者達には左程関係無いことであろう。
多くを知らされぬまま、約束された晴れの日にラズファードが袖を通した花嫁衣装は厚手に織られた白の絹地に金糸で花やアーモンド、樹木の刺繍が一面、散らす様に施され、その葉や花の部分にはターゴイスブルーのパッチワークがなされた踝までの長さのある清楚なドレスだった。
皇国の伝統に則った製法で身体の線を隠す様にゆったりと作られたそれは、ラズファードが優雅に歩く度にふわりと風に靡く。姿だけならば、そう、どこぞの貴族か富豪の令嬢であろうと思われた。
頭からすっぽりと被る透ける程に薄く織られた白地のヴェールにも、金糸で細かな刺繍がされており、彼の顔貌に奥ゆかしく霞を掛けていた。
黄金製の細いバングルを美しく重ねつけた手は、新郎であるガダラルに引かれて昼の陽射しを受けて華やぐ街中に導かれる。
ガダラルは普段よく見る紅い鎧ではなく、花婿として金の刺繍やビーズによって装飾された落ち着いたボルドーの短い円筒形の帽子を被り、胸元に同様の装飾がされた同色のすらりとしたビロードのローブを着ていた。その颯爽としたその姿は道行く人々にざわつきを与えて立ち止まらせたのである。
街角に突如現れた凛々しい花婿と美しい花嫁を誰何し人々は噂した。その中で誰かが花婿が実は普段とは違う装いの炎蛇将であると気付くと、あれよあれよと見る間に見物人の数は膨らんだのだ。
二人を筆頭に街は、それだけでお祭りのような騒ぎとなっていた。
賑やかさを置き去りにするように二人は粛々と歩みを進めた。それがすでに何かの儀式であるかのように。二人が向かった先は傭兵の姿がちらほら見受けられるとはいえ、静かな場所だった。
如何に戦時であれ、人々は有名人に纏わる話題が好きなものであるが、二人が向かう先、軍の施設である六門院の中までは流石に押しかけられはしなかった。
そうして、あのアルザビの爆走将軍、破壊魔としても有名なガダラル将軍が、どこの娘さんをかどわかし娶ったのかと、ざわめきのみが街に残されることとなったのだ。
六門院の衛兵は外の騒ぎとガダラルの姿、そして花嫁に奇異の視線を向けたが、彼も軍人だという事だろう、差し出された命令書に従い、何を問うことも無く即座に道を譲っていた。
他の場所への扉である移送の幻灯の使用許可は、それはガダラルの権限によるものか、それとももっと背景があるのかはラズファードには分からなかったが、こうして特に問題もなく下りたのである。
移送装置の先、二人に開かれた道は海底遺跡に至っており、ラズファードの運命を決したあのナイズル島の地下へと繋がるものだった。
ナイズル監視哨、軍が管理するとされながら、不滅隊士が守るそこは海底遺跡らしい重苦しさとひやりとした仄暗さを持っている。
そのような空間において金属で作られた床が二つ足音を高く響かせた。それに二人を不審者と感じて寄ってきた不滅隊士の忍ばされた足音が加わわる。
「どこへ行く」
二人に投げかけられた言葉は冷たい印象を持っていた。
「炎蛇将ガダラルだ。まあ、既にお見通しだろうが。亡くなった宰相殿に俺の嫁を紹介したくて来た。陛下の許可はここにある」
名乗りから流れをスラスラと述べると、ガダラルは先程の命令書を広げ見せる。彼女はこんなものに威厳あるザッハークの印を捺したのかとラズファードは軽く眩暈を覚えたが、それだけガダラルが陛下に信頼されている証拠でもあるのだろう。
もしくは情に篤い彼女の事だ、ガダラルの語る人情話にほろりと来たのかもしれない。その可能性も捨てきれず、それもまた軽率なことだとラズファードはますます渋い顔になっていた。
許可証を受けて不滅隊士が向かったナイズル島への通路を塞ぐ秘封の前には、幾つも折り重なるように花束が置かれていた。萎れたものも多いが、色彩を保つどれもがここ最近のものだと教えてくる。意外に宰相の死を偲ぶ者が多いとはガダラルの話であったが、花々はそうした人々の置き土産であるらしかった。
死を惜しまれる自分を思い少し俯いた花嫁の目元は少し潤んでおり、様子を察した花婿が肩を抱き寄せた。
海底から辿るナイズル島の内部は迷路の様になっているが、過去に失われた文明の遺産ともいえる移送装置は稼働しており、ラズファードの記憶通りにそれを乗り継ぐと機関巨人の鎮座する広間までにそう時間は掛からない。ラズファードにとれば巨人が完成するまで何度も通い詰めた道であり、その経路は解き過ぎた迷路同様もはや体に染みついて忘れられぬものとなっていた。
何故案内をさせるのかと、ガダラルにどのような意図があるにせよ、途辿るラズファードの胸中は複雑とならざるを得ない。それは別離した筈の過去を辿る行為に他ならないのだから。
辿り着いた天に近い広間の中心に据えられた巨人の前に、過日の黒い鎧を着て立っていた自分の影を見た気がしてラズファードは目を眇めていた。
「居た居た。悪いな」
ガダラルが声を掛けた先には、ラズファードが見た影に重なる位置に先程の不滅隊士と同じ青いメガス装束に身を包んだ女性の姿があった。
彼女、アミナフは以前のラズファードに忠実であった者の一人である。
「私は命令を受けただけです」
彼女が持つのは不滅隊士にはよくある機械のような冷たい声であり、ガダラルは苦笑する。
「そう尖がるなよ、嬢ちゃん。俺が好きなのかと勘違いするぜ」
そんな軽口に答えたのは彼女の冷えた褐色の瞳だけだった。
降参とばかりにガダラルは軽く両手を上げる。
「あーハイハイ。で、命令通りってことは人払いも済んでいるな?」
「このフロアには私とお二人以外の生体反応はありません。以上です」
「助かる。嬢ちゃん、悪いがここに誰も入れないよう向こうで見張っててくれるか? うちの奥さん、素顔を旦那にしか見せられぬ文化の人なんでな」
すらすらとそう言って、──結婚してよりのガダラルは嘘が上手くなったようにラズファードには思える──、ガダラルは花嫁の肩を抱くと、彼女の横をすり抜けるように歩みを促した。
その二人に道を譲る彼女の心は実は穏やかではない。
花婿である炎蛇将ガダラルは宰相ラズファードの最後を看取ったという人物であり、その由縁の為か今上聖皇より奇妙な信頼を勝ち取っていた。
西方のアルタナ同盟四国により破棄が求められた機関巨人がある空間をこうして貸し切りに出来るのもそうした立場の上にある事で、まるで失った兄の代わりを務めているかのようだとどこか皮肉交じりに宮廷では噂されている。
到底、あの方の身代わりなどになる筈もないのに。
他から見れば血も涙も無いとも言われる不滅隊士であっても、胸にある思いは偽る事は出来ない。魂よりの忠誠を誓った主とこの様な男を並べ評して欲しくないと、正直、アミナフは不快に感じていた。
その様な思いもあって、彼女から炎蛇将とその妻に向けられるのは神聖なる場所を侵す穢れを見るような目であったのだが、それも二人とすれ違うまでの事。
しずしずと歩く花嫁の姿に、彼女は何かしら懐かしさを感じて戸惑った。ガダラルが護る花嫁はふわりと風に香りを残す。それが海を越えて東、皇都アルザビの中心たる皇宮の空気を感じさせるものだったからだ。
アミナフは思わずと振り向き視線を花嫁にへと向けていた。そうして彼女は何故目が離せないのだろうと自問した。
花嫁が持つのは貴人を思わせる柔らかな足音、緩やかに纏う風、それはまるで在りし日の皇太子と同じような。
宰相として鎧を纏い戦場に立ったあの人はその在り様を尊大に、威厳ある様にと変えてしまい、肩で風を切る姿で早足で歩み、非情な冷たさを身に纏ったが、個人である時に少しだけ過去に立ち戻った。
失われた人の懐かしい素顔が思い出されてしまい、彼女は悲嘆にくれる。
あの時御傍に居られたならば、ここにいる炎蛇将が告げた通りであれ事故であれ、虚空へ身を投げられる事も防げただろうに。そんな焼付く様な痛みが彼女の胸を満たして、魔物と成り下がり涙を失った瞳を憂愁に染め上げていた。
広間の中央、神の巨像の前まで進んだガダラルが困った様に苦笑交じりにアミナフを見なければ、彼女はそのまま石化したように立ちどまり、後悔に沈んでいたのかもしれない。
巨人の周りには風の音がありながらも、まるで時にすら取り残されたような空間が広がっており、夫に導かれてラズファードが立たされたのは蛻の殻である機関巨人の正面だった。
「ここに立って」
そう告げてから、ガダラルはヴェールをめくり上げて後ろへと掛ける。霞が晴れた視界に懐かしい巨人の姿を見て、魂に痛みを感じてラズファードは目を閉じた。
捨てたもののの象徴。恐らく普段は厳重な警備の元に解体作業を進められているそれはラズファードが知る姿とは大きく変わり、装甲が剥がされ内部構造が露出し、獣に食われた動物の残骸のようなみすぼらしさとなっている。
ゆるりと瞼を持ち上げ、皇国にとっても過去になりつつあるものを睨む。捨てたつもりであっても、過去は追い駆けてくる。それをガダラルは言いたかったのかもしれないとラズファードは思っていた。
「お前を娶ると宣言しなければならない相手がいる」
花嫁の前に跪くガダラルの様は姫に忠誠を誓う騎士のようで、取られた手の甲にそっと落とされた接吻は軽い感触ながら、何かの重大さを思わせるものだった。
一条の光が天より漏れ射して、ガラクタとなった巨人を照らしている。
巨人の足元に進み出たガダラルが床に集め置いたのは黒い鎧で、一揃え揃うと見覚えのあるそれは音を立てて中に誰かが居るように組みあがっていった。まるで地に取り残された亡者たるフォモルの様に、兜に隠れたその顔貌は闇に沈み、白い光を持つ眼だけが花嫁を見ている。
しかし、これは誰だ、とラズファードは黒い鎧姿を見つめていた。それは在りし日にラズファードが着用していた鎧を依代に降り立った者だが、幽体離脱を経験した事がある身とは言えども、それは俄かには信じ難い光景だった。
よもや、ガダラルによってアストラル界から呼び戻される時に、この魂は引き裂かれたのであろうか? とラズファードは花嫁衣裳の上から心臓に手を当てる。
ガダラルを、夫を恋い慕う心のみが現世に戻り、宰相としてあるべきだと固い信念を胸にした己が魂は白き神の御許に召されたのかもしれない。
「白き神、秘された名の英雄に仕えし英霊。貴殿の子をこの私に頂きたい」
ガダラルは亡霊に向かってそう言った。まるでその中身の正体を知っているように。
亡霊は乾いた足音を立てて近づいてきては、心臓に当てているラズファードの手に触れた。
この者と生きるのだな?
直接頭に響くその声にラズファードはハッとする。己自身ではないそれは慈悲深いものだったからだ。
ならば、これは要るまい。
鎧の指は物質であることを忘れて胸に突き刺され心臓に直に触れてくる。それは何の苦痛も無く行われ、そして引き出された手には暗い闇を纏う冥闇の古鏡が握られていた。
濃い闇色の鏡は脈打つように周囲を暗く照らす。黒き神オーディンが人の望みの為に与えた魔導器は禍々しくも美しかった。
それを封じるためにこの躰を差し出したのは随分と前の事。神々の干渉を受けてアストラル界に魂が呼ばれるようになったのも、己をそれを封じる為の器にする過程で生じた弊害だった。
冥府の王でもある黒き神がこの大陸に恵みを与える為に与えたそれは、同時に黒き神を呼び寄せる道標でもあり、黒き神の降臨を予感させる異変がこの大陸には起き始めていた。
この国は古の繁栄の代償に冥府へと沈みかけていた。死者は蘇り生者を脅かし、世界の境界を守る冥府の番犬が姿を現していた。
そのような異変の数々を何とか収めようと考えた結果の選択。この道標を体に封じ本来ならばアストラル界に持ち去り、己の躰と共に破棄するつもりだった。
結局、それは叶わなかった事だ。鍵を封じた状態でアストラルゲートを開くにはどうあっても二柱の神の力が必要だったものを。
戦乱を呼び込み、内乱を目論んだ宰相の野望は潰えて、その神の依代、皇国の悲願であった白き神の機関巨人は今はガラクタと成り果てている。
今の現状においても機関巨人を奪還し目的を達成する手段はあるのだろうが、その何れも悪戯に国家を騒がせるもので、重なる内紛に国力の減じた皇国では耐えられるものではないと考えられた。ならば命ある限りこの肉体に封じる他に無い。
決してガダラルへの愛情も嘘ではないが、本来は戦乱の首謀者として裁かれるべきである己を生かそうと思ったのも、この躰が無暗に壊された時の弊害を重く見ての事でもあった。
器の期限が如何程かは分からぬ事。無意味に生きるしかないのであれば、愛する者の為に時を使うのは罪ではあるまい。だからガダラルの妻として生きよう、そうラズファードは思っていたのだ。
嗚呼、それが奪われてしまった。死ねない理由が持ち去られてしまった。もっと焦るべきだと思うのだが、心を壊されてしまったかのように、ラズファードはただ目の前の鎧姿を見ていただけだった。
幸せになりなさい。我が子よ。
祝福と共に握られた闇は、目を焼く程の白い焔に焼かれて崩れる。黒き神の力の結晶は対となる白き神の力に壊された。
「父上っ……」
ラズファードは漸くと呟く。自分に言葉を残した、鎧に宿った人物に呼び掛けて。
呼び出されたのは相当に強い力であり、生身では呼び出す事も難しい程であったに違いない。黒鎧は呼び出された光の強さに耐え切れず、その一揃え、姿かたちすべて塵に消えてしまっていたのだから。
それはまるで幻のような一時だった。時に取り残されたような空間の中に鎧姿の亡者は無くなり、ただ両膝を付き亡羊として涙を落とすラズファードがいるだけで、解体途中の機関巨人もそれを照らす光も何も変わらなかった。
ガダラルは妻たる人の傍に膝を付き、その肩を優しく包む。
「泣かないで……。貴方の父君の許しを受け、神の御許にて婚姻の証として永遠の愛を誓う。貴方を幸せにしたい。受け入れて欲しい」
「わた、俺は……、ガダラル……、俺は宰相として裁かれるべきではないのか?」
喘ぐようにラズファードは言葉を口にしていた。この身体を死なせても良いのならば、それが宰相として取るべき道である筈だと。
生存を知られれば、この国の災禍となるのは目に見えている。自分であればその様な者など生かしては置かない。
「それはダメ」
「しかしっ」
「ダメ。それをやったら、俺はお前もお前を裁いたこの国も民も許さぬ。ラグナロクなど起きずとも灰燼に帰してやろう」
ぎりっと音が出る程、ラズファードは歯を食いしばる。暫く瞑目し、落ちる涙を堪えようとした。
矜持と責務、皇国を支える事、自分を形作ってきたもの総てを擲って、自分は何に成ろうと言うのか。愛に生きると言う程それを信じていない己が、その様な自己欺瞞に耐えられるのか。
こうして花嫁衣裳を纏ってすら、大した茶番だと自分を嘲笑っているものを。
根本ではガダラルからの愛すら、皇国の大義の前にはただの戯言だと思っているのだ。皇太子であった、そして宰相である自分は。
「ふ、ははは……。お前を苦しめて、良い妻ではないな、私は」
「今更。もう十分知っている」
抱き締めてくる腕は逞しく、思いを伝える強さは息も辛い程だった。
「……お前でなければ、成らぬのかもしれぬ。愚直に愛を告げてくれるお前なかりせば、私は個人として存在できぬ。
 貴殿の愛を受け入れよう。ガダラル、この馬鹿者め。全く、酷い妻を捕まえたものぞ」
「ま、そう言うなよ。俺の嫁さんはいい子さ。本当に」
妙な自信の下にガダラルは言い切っていた。
「何せ、この俺サマが跪いて、頭を下げて口説き落とした位だぜ?」
そう言って笑うのだ。とても無邪気な綺麗な笑顔で。
「そうだ。嗚呼、本当にそうだな」
友人であった時にそうであったように釣られるように微笑んでみれば、不思議なものでまるで総てが許された気がしたのだ。