ここ数年、「親ガチャ」という言葉がネットでよく見かけられる。
ガチャをするようなゲームを通ってこなかったが、意味はなんとなく分かる。
残念なことに、ゲームと違って人生はリセマラが出来ない。
ガチャはお目当てが引けるまで引き続ければいいが、自分の人生ではそうもいかない。
親ガチャという言葉を使う人は、多分その使われ方の中では「ハズレを引いた人」なのだろう。
いわゆる当たりを引いた人は、親に対して当たりだのハズレだのと考えないからだ。
ではハズレを引いた人はどうだろう。
幼い頃から自尊心をくじかれ、やりたい事もさせてもらえず、自分の夢を持つことさえ許してもらえない。
親が幸せになるため、楽をするための道具として生かされる子供もいる。
例えば、家事を丸投げされたり、両親の喧嘩の愚痴相手になったり、鬱憤を晴らすためのサンドバッグにさせられたり。
そんな人間でも、等しく自分の理想や夢を持つのだが、それを叶えるための努力をさせてもらえず、夢半ばで諦めざるを得なくなったりする。
昔はそれに適した言葉が無かったと認識しているが、この親ガチャという言葉は、現代の価値観に沿って作られた、「この状況を一言で言えば」なのだろう。
そりゃそんな風に生きてこさせられたら、誰だって愚痴を言いたくなるものだ。
親が、家がこうだったら、と。
彼らは怠け者なのではない。夢を語り、それでも努力をせずにただ口を開けて待っていたわけではない。
彼らは、叶えたい目標へのまっすぐな道を歩かせてもらえなかったのだろう。
それ以外の障害が多かったからだ。
親ガチャで当たりを引いた人は、そんな道中には目標に直接関係するような障壁は、ハズレを引いた人より少ないはずだ。迷いなく、目標に向かって努力し続けることができ、そして自分の努力で夢を叶えたのだろう。
そしてそう言う環境で育った人は、まさか自分の目標への道中に、そんな余計な邪魔が入る、ということは想像できない。人は実際に得た経験からでしか想像ができないものだ。
誰だって同じ人生は二人と歩めない。だから数十年の歩み、その葛藤を知らない他人に対して、「お前は努力が足りないのだ」と自分の人生を物差しにして断じるべきでもない。
まあ、これすら「自分の物差し(価値観)」で断ずるな、と言われてしまえば、言い返す言葉もない。
だから、これは自分に向かって言うことにしている。
共感できる人もいれば、そうでない人もいると思う。それでいい。みんな同じ価値観なら、人はこれほど多様に存在しない。
もし親ガチャハズレのせいで人生が苦しいと思うのなら、自分にとっての幸せを見つめ直すのがいいのだろう。
MARCH以上のランクの大学に行き、4年間程々に単位をとりながらたくさんの友人と学生生活を楽しく過ごし、就活で上場企業や外資系企業に入社して人よりちょっといい暮らしをする。そのうち結婚して、子供は2人くらいできて。そうでないなら一人でも楽しく生きて、そして最後を迎える。
そんな人生を思い描いていたはずが、大学受験に失敗、または受けさせてももらえず、高卒や中卒で社会に出され、収入は期待できず、食べて寝ることしかできない。そんな人もいる。中には大人になっても親の世話をさせられている人もいる。
これは努力不足であろうか。本当にそうかも知れないが、そうでないかも知れない。それを決めていいのは自分自身。他人がとやかくいうことではない。
一つ、親や周りのせいだと思っても、倫理的に間違ったことはしてはならないのは人間として生まれたものの責務だと思うが。
それを間違えなければ、自分の人生の生き方やゴールは、今この瞬間から自分で決めることができると思う。
こう生きたかったのに、という事もあるかも知れない。それが過去のことなら取り戻せないが、人は過去のために今を生きているのではなく、今や未来がより良くなっていくように生きていると思う。
だからこれからの目標の軌道修正とそれに至るルートは、今からいくらでも考えられる。
そうしていくうちに、過去の親ガチャなどいつのまにか忘れているかも知れない。