先日、京都造形大学にて藤本壮介さんによる講演会に行ってきました。


行ってよかった~。


「オルタナティブモダン」と言う本で、非常に興味を持った矢先なので、藤本さんがおっしゃっていた事はしっかり自分なりにつかまえることができました。


では、ここで一つ。


最近自分は、人間にいかに多様なアクションを誘発させ、また空間自体も変化してゆく、といったような流動的な建築ができないものかと考えていました。

藤本さん自身も、無目的な空間をいかにデザインするかということをおっしゃっていて、そのことについてなにか答えがでているのかという質問をすると次のように答えてくれました。


一つの答えを導き出すということより、答えを探しだすプロセスが重要であり、そのプロセスが思わぬ偶然を喚起することがあるのではないか、と。


つまり、プロセス自体も偶発的なものであり、そのアクシデントから導きだされることが重要と言うことでしょう。


なんにせよ、僕自身が悩んでいることになんらかの芽ができたようです。


でも、ほんとに建築を楽しくしてるな~と印象を受けました。

人を楽しむものをつくるには、まず自分も楽しまなきゃね。

なにかと戦うということはとても勇気がいることだし、根気がいる。

それは課題あったり、朝早く起きることであったり、人と会話するということでもある。


惰性だ。

楽をしたい。

考えたくない。


ここまで、流されに流されてきた。

僕は、負ける勝負は常に避けてきたし、そもそも勝負の舞台には滅多にあがらないできた。

傷つきたくないから。


でも、いくら逃避しようとも、現実は勝負の数だけしか変わっていかない。

現実は自分自身だ。

今、舞台に上がらなければ、今と言う勝負は二度と巡ってはこない。


それが勝負の世界なんだろ?

知ってるか?

刀はぬかなきゃ刀にはなんねーんだぜ。

そりゃ単なる飾りだ。


僕は戦わなければならない。

そうすることで初めて一歩目が踏み出せる。


さて、ここら辺で建築の立ち位置というのをはっきりさせておこう。


建築はアートではない。

建築は社会でもない。

そして、そのどちらでもある。


建築は(ちゃんとしたものに限る)は決して美的感覚のみで作られているわけではない。

一見、独創的に見えるそれは、必ず社会や環境との係わり合いを強く考えられている。

その考えは、一般人からは到底考え付かないような深さと現実性を持っており、またユニークでもある。


無論、その考えが、建築家自身の独りよがりにはなってはいけない。

常に、個(自分)と全体(社会)のバランスをとりながら、神経をすり減らし、発狂寸前にまで妥協を許さない姿勢が、素晴らしい建築を生み出す。


どうも、最近は”おしゃれ”だとか”個性的”だとかという、表面的な、見るに耐え難いものが氾濫しており、哀しいしだいである。


建築は、人の直感に訴えかけるデザイン(造形)と、海よりも深い内面性(社会的概念)があることを忘れないでほしい。


建築はアートだけではない。

建築は社会だけでもない。

そのどちらでもある。

今日はクラスの友人どうしで討論会がひらかれます。

お題は「コンセプトと造形~自分のアプローチ~」

まぁ、答えなんぞでないでしょう。



最近、メモをとることがふえた。


人の言ったこと。

本に書かれていたこと。

今、自分の思っていること。

etc,etc...


文字にするということは、主体を客体化することだ。

自分から思いをいったん離す。

そこに文字が生まれる。


凄く困難な作業だ。


100%主体を客体化することは不可能だ。

歯がゆい。

そして、呆然とする。


なぜ?

何故?

ナゼ?


あくまでも、文字は仮の姿でしかない。

文字を書くと言うことは、自分との終わりない戦いだ。


なんだか話が飛躍しすぎていいる(混乱)


まあ、文字にしてみてよ。

わかるから。