二〇十三年三月二十二日

昨日のオモテに引き続き、中核派と革マル派のテロ戦争関連の感想。
立花隆の「中核VS革マル」を読んだことがある。テロで使用する道具は、鉄パイプ、バール、斧、ハンマーの他に、屠殺銃というのがあったと記憶している。この屠殺銃がどういうものかわからなかった。
別居している息子に勧められて、アメリカ映画「ノー・カントリー」を観た。主人公の殺し屋の使う銃が、屠殺銃だった。保安官役のトミー・リー・ジョーンズが「牛の屠殺も昔と違って、鉄のボルトを頭に打ち込む。牛は即死する。」と劇中で語っている。
殺人をした男を二人知っている。二人共ヤクザだ。このヤクザの殺人については、今回は触れないが、ヤクザの抗争にはヤクザなりのルールがある。大抵の場合、物質的利害による対立、抗争だから、引き際もわきまえている。
ところが、政治思想が絡む組織の対立、抗争は、それぞれが自分たちの正義を信じ決して疑うことがない。信と信との対立、抗争だということだ。それは、宗教組織による信仰的確信のせめぎあいではないのか?と問われれば、もちろん、そうだと応えるほかない。ここが個人と個人の間の憎しみや利害による殺人と全く異なるところだ。
今、この瞬間も、世界のどこかで行われている、国家と国家の間の戦争も、信と信をめぐる対立の物理的解決を目的としている。こんなことを続けている限り、無知に由来する人間の絶望的なまでの愚かしさは永遠に消し去ることはできないと思う。

註:写真は、京都の真言宗醍醐寺派総本山醍醐寺の桜。見事な桜だった。坊主は、私みたいな俗人を超える俗物だが、桜にその罪はない。文句なく美しい。

付記:他サイトで投稿した過去の文章を今再投稿している。基本的に過去の文章には手をいれないので、そのまま投稿する。
私は、自分の文章に執着しなかった。一旦書いてしまえば、書きたいという欲求は充足する。面倒なこともあって、文章は投稿してそのままほったらかしにしていた。手元に保存なんてしなかった。
今は違う。文章も写真も映像も記録には違いないから、私が生きてきた軌跡をたどる手段のひとつになるのだ。その時々で、自分が何を考え、どう感じ、それをどう言葉にしたか。それを知る手立てになるのだ。過去の自分を愛おしいと思うのは多分自分しかいない。若い頃から書いてきたが、すべてが手元に残っていない。もっと、自分を大切にすべきだったと今は思う。

二〇二十四年二月