二〇十六年四月九日

ペンデレツキは、現存するポーランドのモダンミュージックの作曲家だ。「広島の犠牲者に捧げる哀歌」という曲の名のみ知っていた。
昨年のことだった。NHKBS放送で深夜にペンデレツキのドキュメンタリー映像が流されていた。季節の花々が咲き乱れ木々の緑が豊かな自然の中の自宅で、親しい友人であろう映画監督のワイダや元大統領のワレサに自作のレクイエムについて語っていた。さっそく、大阪市立図書館でCDを借り、ペンデレツキ指揮のレクイエムを聴いた。
ポーランドレクイエムは、悲痛な調べという言葉が最もふさわしいと思う。モーツァルトの絶筆のK.626は、一番好きなレクイエムだが、ペンデレツキの作品の前ではオペラの域を出るものではない。そう思うようになった。
英文ウィキペディア「Polish Requiem」によると、この作品は、当初、一九八〇年ポーラド独立自主管理労働組合「連帯」の依頼により、ポーランド反政府暴動(一九七〇年)「Polish 1970 protests」の犠牲者を追悼するモニュメントの除幕式の伴奏として作曲された。その時に書かれたのが「Lacrimosa(涙の日)」であり、それは、レフ・ヴァウェンサ(ワレサ)氏に捧げられた。次に一九八一年、「アニュス・デイ」が、ペンデレツキの友人であった枢機卿ステファン・ヴィシンスキ(Stefan Wyszynski)を追悼して書かれた。そして、一九八二年には「Recordare(思い出してください)」が、マキシミリアノ・コルベ神父(Maximilian Kolbe)の列福式(beatification)のために書かれ、「Dies irae(怒りの日)」は、一九四四年八月一日に起こったワルシャワ蜂起を記念して書かれた。

http://koshiro-m.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-de58.htmlより引用

現実にたくさんの血が流れたポーランド近・現代史の悲劇的な歴史的事件を題材にし作品化しているのだから、調べが悲痛でないはずがないと思う。
一九三九年、ポーランドは、ヒトラーの第三帝国とスターリンのソ連とで交わされた独ソ不可侵条約により占領され、両国により分割統治される。ソ連側に占領された地域で将校を含めたポーランド軍兵士がソ連の強制収容所に移送され、ソ連領内で数万から数十万単位の将兵が虐殺される。
これが、カティンの森事件だ。虐殺された将兵の実数は今も不明である。ロシアが虐殺に関わる公文書を全面開示していないからだ。
一九四一年、ポーランドは、不可侵条約を一方的に破棄してソ戦に侵攻した第三帝国領となる。その後の独ソ戦でソ連は反撃に転じる。ソ連の前線がポーランド国境付近まで進軍した一九四四年、ポーランド軍と市民が蜂起し第三帝国の支配に抵抗を試みるが、圧倒的なドイツ軍の武装力によって鎮圧され、首都ワルシャワは徹底的に破壊される。
このワルシャワ蜂起で流れた血は二十万人を超えるということだ。また、犠牲者数では及ばないにしても、一九四三年のワルシャワ・ゲットー蜂起で流されたユダヤ系の人々の多数の血も忘れてはならないと思う。
 
*参考文献
映画「戦場のピアニスト」:第二次大戦下のポーランド国内の状況が、アメリカのポーランド系ユダヤ人であるポランスキー監督によって詳細に描かれている。
映画「カティン」:「地下水道」で名高いポーランドの映画監督ワイダにより、カティンの森事件が真正面からとりあげられている。
『カチンの森―ポーランド指導階級の抹殺』:ヴィクトル・ザスラフスキー 根岸隆夫訳 みすず書房刊
私がポーランドについて知る材料はこれだけだ。