二〇一三年四月一日
 
  今、NHKの「おやすみ日本 眠いいね!」に出ている又吉直樹は、太宰治の「人間失格」を自分のことのように読んだ。そう何かのテレビ番組で言っていた。私と違って、又吉は、太宰治の良き読者だと思う。
 私が言うべきことがあるとすれば、晩年の「人間失格」は作品としては優れていないと思う、というところだろう。彼の小説は、前期、中期、後期に別けられる。作品として完結性があり、表現として高度な達成は、中期の戦争中のものだと思う。たとえば、検閲で全文削除された「右大臣実朝」は、中世歌人源実朝論だ。また、「駆け込み訴え」は師キリストに対する、弟子ユダの愛と憎しみのアンビバレントな感情をとてもうまく描いていると思う。
 太宰治の小説は、私小説を装った虚構だ。晩年の「人間失格」も作者の内面告白のように読まれがちだが、明らかに作者と語り手と主人公が分離されている。表現意識が、自然主義の流れをくむ、私小説作家とはまるっきり違っている。川崎長太郎という作家がいた。彼は、海岸べりに小屋を造り、その中で行われる女との情交を描いた。作品にリアリティを与えたいために現実を演出したのだ。造りものではない、リアリティを得たい。そのために、作品をではなく、現実を虚構化したのだ。
 太宰治は、どこかで「小説は読者に対する心づくしである」と言っている。この場合の「心づくし」とは、嘘の世界を嘘ではないかのようにサービスする。そんな意味が込められている、と思う。小説という嘘の世界に読者を導くために、まるで事実であるかのように装いながら、じわりじわりと自分の作品世界に引きづりこむ。読者に与える効果をよく計算して小説がつくられている。小説家としての技術力がなければそんなことができるはずがない。
 作家冥利につきるのは、又吉のように、ここに自分がいる、と思ってくれる読者だと思う。私のような者ではない。