二〇一三年二月十一日

 

 松岡祥男の批評文を久しぶりに読んだ。松岡は、「自分は吉本隆明の一読者だ」と言っている。だが、一読者にすぎない者の著作に吉本が跋文を寄せるはずがない。彼は二冊の著作を出版社から公刊している。自費出版ではない。彼の思想表現が編集者の眼にとまり、あらかじめその編集者による出版の打診があったはずだ。そこから書店の棚に並べられるまでどんな経緯を辿ったかは知らない。知らないが、自分から吉本に跋文の依頼をしたのではなく、吉本に原稿を送ったところ、「跋文を書きましょうか」ということになったはずだ。出版の経緯を知らなくてもそれはわかる。「意識としてのアジア」に収められた批評文と詩を読めばわかる。
 地方の山村に生まれ、思春期に漫画、やがて政治思想と文学に。そして必然のようにして吉本隆明にめぐり逢う。この履歴は、左翼にはありふれたものだ。松岡がありふれてないのは、そこから先だ。知的に成り上がろうとしないだけでなく、成り上がった者たちを決して否定せず、あらゆる権力の欺瞞を批判し、その相対化と無化の姿勢を崩してないところだ。この松岡のスタンスはおいそれと真似できるものではない。私はただの中年男だが、のろのろした足取りでもその跡を追っていきたいと思っている。今の日本では、この人の発言はとても貴重で得難いものだと思う。


ー前略ー
しかし、そんなおれでも、いまだに「革マル」という表象が、強迫観念のように明け方の寝床で浮かぶんだ。

猫 そうとう、呪われているな。

松 それは、おれの資質もあるだろうけど、連合赤軍のリンチ粛清よりも、はるかに内ゲバの殺し合いの陰惨な影が〈心的外傷〉になっていて、いまだに払拭できないんだ。実際、「革マル」を見たのは、大集会やテレビのニュース映像での、あのヘルメット集団だけだ。具体的に「革マル」と直面したことは一度もない。それでも、こうなんだからね。嫌になっちゃうよ。で、埴谷雄高の革マル派擁護の「停止」の動きに影響を被った者もいるよ。おれの知っている埴谷雄高とつきあいのあった、ある「編集者」が、豊島区の中核派の拠点に、あの「提言」を届けたと聞いた。鉄パイプで殴られるかもしれないと覚悟して行ったらしい。その「提言の書面」を受け取るかどうかを決定するまで、戦国時代の敵方への使者みたいに留め置かれたとのことだ。

猫 いわゆる「千早城」だな、いまは移転してるらしいが。戦国時代なら、その「和睦」の使者というのは、殺されて晒し首になるか、あるいは、手打ちということで歓待をうけるか、どちらかの図柄になるんだろうな。

松 だから、おれにとって、「60年代」は無縁じゃないさ。60年代からの新左翼と学生運動の最終的な〈末路〉が、あの内ゲバなんだ。
ー後略ー
北川透の〈頽廃〉ほか(ニャンニャン裏通り・出前版7)松岡祥男(「快傑ハリマオ」7号 2011.6.10)より引用
 


 えっ、松岡さん、あんたも革マル見たことないの、と思った。かつて中核派のシンパだったことがある。明治神宮球場近くの明治公園で開かれていた集会を見に行き、オルグに一本釣りされ、集会後指示されるままデモの隊列に加わった。中核派の党員にはならなかった。その後移った別の党派でも党員になったことはない。
 中核派は当時革マル派と血みどろのテロ合戦を行なっていて、機関紙や集会で非合法部隊によるテロ戦の成果が仰々しく発表されていた。戦争中の大本営発表と同じように。革マル派は敵だ、と言われたが、一度も見たことのない革マル派を憎むことはできなかった。中核派の政治思想を信じていなかったからだ。ただ、行動の過激さだけが魅力だった。理想のための殉死。カッコいいと思った。集会を見学に行ったのも、オルグられることを予想してのことだったから、当たり前のようにデモにも加わった。
 ある時、品川地区反戦青年委員会の女性リーダーが、別の会場で革マルが集会をやっている、デモに移った後にこちらのデモ隊と遭遇するかもしれない、その際には敵を殺せと言った。この人、本気か?と思ったが、本音は口にできない。革マルを見られるという期待と、もし遭遇したらどうするか、どうなるのかという不安が入り混じった気持ちでデモに移ったが、その日は、革マル派の姿を見ることさえなかった。そして、その後、別の党派に移った。それでも、最後まで革マル派の姿を見ることは一度もなかった。
 得体のしれない怖さ。それが革マル派のイメージだった。怖い経験といえば、成田で長い警棒を持った千葉県警機動隊に追われ、死にものぐるいで逃げた時だけだ。
 先頭を走っていた私たち数名は、逃げた先にノンセクト系の団体の小屋があったため、途中で追跡をまぬがれた。一緒にいた他党派のヤツが殴られ眼の下に傷を負い、小屋のメンバーの車で病院まで運ばれた。山狩をする機動隊の声が不安を煽った。全世界を敵に回しているような気がし、こんなことはもうやめようと本気で思ったが、すぐには足を洗わなかった。

 後できくと、機動隊が無防備な私たち車両班を襲った理由は、別の場所で火炎瓶を投げたグループがいたからだった。最初に県警のヘリが上空を旋回するのを訝しく思った。しばらくして機動隊員が隊列を組んで向こうからやってきた。慌てて逃げたが、無事に逃げられた後は、午後の暖かい陽気で気が緩み眠気がやってくる。そんな時に、今度は機動隊員を乗せたバスが走ってきてバスから飛び降りた彼らに追跡されたのだった。

 大阪に帰っても、数年間は回転する赤色灯を見るとドキッとした。私にはその程度の経験しかない。する必然のない経験などしないほうがいいのだ。

註:写真家の福島菊次郎撮影。機動隊のガス銃による水平射撃を頭部に受け亡くなった東山薫さん(当時27歳)の成田現地での葬送シーン。私は、東山さんが亡くなった際の集会には参加していないが、この事件は忘れられない。