朝三暮四という面白い話しがありますが、同様に聖書の中にも農園主と働き手の話しがあります。 

 

朝から働いた者、昼から働いた者、夕方になってから働いた者、、、農園主はまったく同じ金額をそれぞれの働き手に支払ったのです。 

 

一番面白くなかったのは、朝から働いた者でした。文句を言う農園主に対して、農園主は「約束した通りのお金を払っている」と。すると、不公平であると、朝から働いた人は不平と文句を言ったわけです。すると農園主は「私は朝から働いた者にも、昼から働いた者にも、夕方から働いた者にも、皆同じように払ってあげたいのだ」と。 

 

そして聖書はこのようにこの話しを結論づけます。「このようにして、先の者は後になり、後の者は先になるであろう。天国とはそのようなところなのだと」 

 

三次元の人間社会は、人間の理屈で作られる人間芝居の世界だとすると、非三次元の神世界は、神の思いがいきわたる神芝居の世界でもありましょう。 

 

私達の世界にもこの二つの芝居世界、人間芝居と神芝居が同居しています。そしてどちらの住人になるかで、私たちの立ち位置や人生そのものが変質します。 

 

三次元世界は一見力強く見えますが、物質ですから必ず滅びに向かいます。人間世界そのものに、ですから弥栄はあり得ません。弥栄となるには、どこかで神芝居の要素がなくてはならないわけです。 

 

朝から働いたのだからと約束された給与額に文句を言うのは、人間芝居の世界ならばなるほどとなりますが、神芝居ならば、どちらの人に感謝が残るか、、、の実験となっているかもしれず、人間心でああだこうだと言うことは危険なのです。 

 

今、私たちの時代は、人間芝居において行き詰まりつつあります。しかしその一方で、神芝居の世界では、様々なシナリオが自由に出てくるタイミングでもあるように思います。行き詰る人間芝居の世界に文句を言いながら暮らすか、三次元を超えた神芝居の世界に足を置くか、、、 

 

あなたはどのようにお考えになるでしょう。神芝居の世界は、後の者が先になる世界、、、、考えようによっては、後回しにされ、後にされてきた私たちにとって、とてもありがたい世界の到来でると思えるのです。