その場にいる者の心に絶望しか湧き起こらない程歴然とした威圧に恐怖心が一同の心を支配する。
『…上官秋月…た、只人になった?嘘じゃないか』
碧水の者は余りの恐怖に叫んだ
『噂はただの噂だったという事か?だがあの凄まじい禍々しさはかつての力を失っていない証拠…』
人々の言葉など嘲笑うように秋月は口を開いた
『我が妻と子供達が世話になった…そなた達にはこの秋月心より礼を尽くす事を誓う』
冷気を纏いながら秋月が一歩前に足を出す。
広角は僅かに上がっていながらそこに笑みはなく視線は鋭く尖った氷の刃の如く銀に光っていた。
『ひ…こ、こいつは人質だ!上官秋月よおかしな真似をすればどうなるか…わかっているか?』
春花の腕を掴み引き寄せ後ろ手にされる。
乱暴な扱いに春花は顔を歪ませる。その瞬間に広がる冷気は益々と温度を下げていく。
『ほう…どうなると?』
『な、ななっ…妻がどうなっても良いのか?』
『いくら魔教でも人質がいては手も出せまい!』
『……笑わせるなぁ葉顔。かつて面白い話をしろと命じた私にお前がした話より遥かに笑える話をしているようだ』
『はい…誠に…』
後ろに控えた葉顔は秋月の問いかけに答えた。
『お、面白い話?笑えるか?』
『大いに笑わせてもらった。これも礼に値するな』
『おい!自暴自棄になるな…碧水の者達』
蕭白が仲裁するように割って入る。
秋月は邪魔者を睨みつける。
『なんだと?元はと言えばお前が!お前達が武林の統一争いをした為にこんな目に遭ったんだ!』
『私を離した方が良いわよ…あの人は本気で怒っているみたい…』
春花は己を捕縛している男に囁いた。
『離せば私があの人に許して貰えるように頼むから…』
『う、うるさい!無駄だろう!』
男は春花を地面に叩き付けるように突き飛ばした。
『春花っ…』
『春花様っっ』
蕭白と蝶瑶は咄嗟に春花へ駆け出す。
しかしそれより一瞬速く秋月の氷蚕系が春花を絡め引き寄せる。
春花は秋月の腕にしっかりと抱かれた。
『これは…白前盟主に翼星主…気遣い礼を申す』
秋月の言葉に蕭白は動揺した。
何故ならこの一瞬の行動は殆ど頭で考えるより先に体が動いた。
いついかなる場合も沈着冷静な己の行動に動揺したのである。
『いや…私は別に』
『いえ、秋月様。私は当然の事を…したまでで…』
手を差し伸べた蕭白、蝶瑶は引っ込みがつかず気まずく俯く。
勝ち誇った表情で秋月は笑った。
『くっ…俺たち碧水だけじゃない他の村や町の人々にとって武林の統一などどうでも良い事だ。人々が集まる事で生計を立てている者達に正邪もない。魔教の者達からの仕事も請け負っていたのだからな』
『そうだ!あの長生果の競りの後、負の噂が回り町に人々が来なくなり生計が成り立たない…初めは宿屋が立ち行かなくなり他もみんな悪くなった…』
対峙する男達は口々に不満を述べた。
『努力もせずに不平不満か…平和に溺れた者の戯言か。春花の子守唄の方がまだましだ…な?』
『は!!まだマシ?ちょっと!兄上?』
春花は秋月を睨みつけた。
『そう睨むな…泣いても怒っても醜いと言ったであろう?…さっきまで死にそうだったのに、もしやこの兄を見てもう元気になったか?』
『?ちがうわ。雪蘭を見つけたら安心して、それから桃雨を探さなくちゃならないと思ったら気力が湧いてきて…』
『……』
予想と大幅に違う答えに笑顔は消え眉間に皺を寄せる秋月。
『何が戯言だ!お前に何がわかる!』
男は手に持っていた鉈を力の限り振りかぶり投げつけた。
『!!!』
瞬時に秋月を庇うように立ちはだかった春花の衣を掴みその身を呈した秋月。
しかして男が捨て身で投げつけた鉈は葉顔の暗器によって軌道を外され炎輝の足元に落ちた。
『妹よ、何故前に出た!危険であろう?それともこの兄が信用できぬか?』
秋月はあわや己のために身を投げた春花に怒声を浴びせた。
『そ、そうじゃないけど…私だって守りたい人はいるんだから怒らなくてもいいじゃない!』
『…怒ってるんじゃない…ただ…又そなたに何かあったら…』
『何もなかったでしょ?ほら。それに、碧水の皆さんもね暴れてどうなるの?そんな事では何も生み出さないでしょ?いい加減に目を覚ましなさい!』
春花の言葉が響き渡る。
男達は母親に叱られた気分に陥る。
しかし幾らも時間が経たぬうちに何処からともなく地響きが聞こえてくる。
『な、なんだ?揺れてる…地震か?』
壁という壁にはヒビが入り岩が剥げ落ちていく。
『峡谷の岩を削った城だ…このままだと崩れるぞ』
男達は騒ぎ出した。
『まずい…これはもしかしたら…父上っ』
炎輝の叫び声に秋月は春花を引き寄せる。
『兄上、桃雨が…桃雨の所に急がないと』
『桃雨なら大丈夫だ、炎輝。』
炎輝は秋月の目配せに頷く。
その間にも天井が崩れ出し大小様々な岩が足元に散らばる。
『蝶瑶さん、大丈夫ですか?ほら、血が滲んで…』
『雪蘭っ…こちらへ』
雪蘭は清流の手を取らず腕から流血しながらも母を庇おうとした蝶瑶を心配した。
『雪蘭!?』
『清流、貴方は白前盟主と一緒に彩彩先生、お義母様をお願い…私は蝶瑶さんを…』
『雪蘭様…私は大丈夫です。自分の事は自分で身を守れます…』
『雪蘭?どうしたんだ…何故そんな』
崩落は止まる事なく雪蘭と清流の間に崩れ出した土砂が隔たりを作った。
それはまるで2人の心を表しているようにも見え、雪蘭は諦めにも似た絶望の迷宮に足を踏み入れていくのだった。
青天9へつづく