結局、千文に何を聞こうとしても肝心な事実、私と律がすでにキスしたという事実を伝えることができないために、核心の話はできなかった。
『土曜はどんな感じでいくの?正装?正装って事は着物?』
『分かんないんだけど・・』
『ま、いきなり2人で会うってことじゃないよね。そんな事になったら恋愛初心者のすーには無理でしょ』
『大学に入ってもずっとこんな感じでさ幼馴染のうちらとばっかりつるんで新規の友達あんまり作らない』
『そうだね』
『人に興味がないんだよ・・すーは』
『いや、あるよ』
『え?あるの?』
『でも、結局みんな卒業したら別れるし寂しくなるの嫌いなんだよ』
『そんな・・普通に連絡とればよくない?』
『そう言う事じゃない・・・説明が難しいよ・・なんだろう・・・』
この胸にあるどこかすっきりとしない靄のかかった心の深層が自分でも見えない。
見えないのか見ようとしないのかは分からないけど、いずれその欝々とした心に向き合わないとならない。
その必要が生じた時に向き合えばいいと後回しにしてきたのだ。未処理のままの心中はやがて坂道を転がる雪の玉のように大きな不安の塊になっていくのに、それすらも無視していた。
『律・・・』
『え?どした?律?』
千文が驚いてこちらを見ている。
『は?何で?』
『いや、今律って呼んだよ・・何?無意識?』
その言葉にこちらこそ驚く
『ああ、いや、最近律はバイトにも入らないから』
『あの人は医学部だからそんな暇ないよ。あれでしょ、実家継ぐの』
『代々医者の家系』
『そういうすーのところは・・確かおばあちゃんって』
『うん、昔はおばあちゃんは華族の令嬢でこの一帯では有名だったって槙のおじいちゃんから聞かされたね・・華族ってなんだか分からなかったけど』
『綺麗だもんね』
『でも厳しいし冷たい』
『冷たいイメージはないけど確かに厳しいよね。』
『でもま、1人息子が大学辞めて突然自称冒険家でアフリカに行ったきり死亡なんてしたら厳しくもなるよね』
『そうだったの?』
『うん、流行り病であっけなく逝ったらしいから・・・』
『お母さんは?』
『分かんない・・大学時代の彼女っぽい・・ちょっと記憶にあるけど・・思い出したくない』
母親の事を思い出そうとすると恐怖が襲う。
絶望感に苛まれるくらいなら最初から思い出さない。ただ、気づけば祖母と二人暮らしだったという事実だけで他に支障はなかったし。女2人で何か困ることが起きても、それこそ槙の祖父や近所のおじいちゃん達がこぞって助けに来た。今思えば本当に祖母は深窓の令嬢だったのだろう。近所の少年たちが憧れの目を向けた時代そのままに何かあるとすぐに誰かが駆け付けたものだった。
『だったら余計に見合いさせるかもね・・』
『うん』
『で?律がどうした?』
『ん?』
『バイトに来ないくらいで律の事そんな気にしたことあった?』
『ないけど』
『近くにいすぎて気にしなかったんだろうね』
『・・・』
千文の言うことはいちいち正しかった。
毎日一緒にいる事が当たり前すぎて、律がいない事が不安になるのだ。突然のキスから世界は変わった。その戸惑いをいつもなら落ち着かせてくれる筈の律がいない。
朝からその不安感に襲われている。
『でもさ、だったら律で良かったんじゃない?』
『え?なにが?』
『キスもだし、恋愛もだし・・どうせ愛で結ばれて結婚するんじゃないんだから・・その前に恋愛しとけばよかったのに』
『気まずいでしょそんなの・・・それに人はいつかは別れる。関係が深くなったら別れが寂しくなる。みんな離れていったから律とはずっと友達のままこのままでいい』
『ずっとって・・すー、それって律の事好きって言ってるみたいだよ』
『え?』
『まあ、好きかは別としても、このままなんてないよ。時間は流れていくものだからいつかは別の道に進んで行く』
その言葉に急にチクリと心臓が痛んだ
『・・・・いたっ』
『どうした?急に・・胸押さえて・・』
『分からないけど・・胸が痛くて急に・・・冷えたから又発作かな・・おばあちゃんに似て時々あるんだけど治まってたのに』
『確かに急に寒くなったけど違うんじゃない?土曜日、延期できないの?もしかしたらストレスなのかもよ』
『ま、私だったら、元華族の祖母の伝手でお見合いなんて絶対いい話と思うけど・・すーはそうじゃないもんね』
『・・・・』
正午過ぎ、いつもはこの構内のどこかで遭遇する筈の律にも槙にも会わなかった。
胸の靄は晴れるどころか余計に大きなものになる。何事も我慢には限界がある。
こんなに靄ついた気持ちを終わらせたかった。
携帯を取り出した。
暫く呼び出しても出ない。それがまた余計に心を地の底に引き摺り込む。
『・・・もしもし』
長いコールの後でようやく応答した。
『もしもし?律・・いまどこ?』
『・・・家だけど・・・なにか用?』
『・・・用ってわけじゃないけど』
『忙しいんだ』
『待って・・ねえ・・会えないかな?今から。いつもの西公園で』
互いの家の丁度中間地点にある公園。
いつもこの場所で遊んだ。
遊具の外れに散歩コースの小道が伸びる。ほんの小さな散歩道。二人掛けのベンチで待つ。
こちらからは公園入口から入る人が見えるが逆に木の陰に隠れて入り口からは見えにくい。
呼び出したくせに何を言えばいいか分からなかった。ただ、窒息しそうな程の苦痛で、律の顔さえ見れば呼吸が元に戻る。そんな感覚だった。
でもその希望は見事に裏切られる。
やってきた律は不機嫌だった。キスの後怒ってしまった事が原因だろうか。
『なんだよ?俺たちは何だ?ただの友達なんだろう?一生の』
『・・・』
『でも、急にあんなこと・・』
『お前が人の気持ちも考えずに変な事頼んでくるからだ・・そのくせ見合いするって?』
『でも・・』
『結局願いは叶っただろ?それで今度はなんだ?俺を振り回すな』
『なんだっていうか・・よくわからなくて』
『それはこっちの台詞。』
『あのキスの意味は・・・』
『それを俺に聞くか?あのキスには何の意味もないって言ってほしいんだろう?』
『そうじゃない・・』
『意味はない。あんなの唇がぶつかっただけだろ?俺はお前がムカついただけだ!分かったか?分かったらもう帰れ・・』
『律・・・』
律は冷たく背を向けた。この背中を見たことがある。
こうやって背を向けて、それから二度と会えなくなった人間がいる。
毎日毎日待てど暮らせど、会いになど来てくれなかった人間のあの背中が頭の片隅によぎった。
『・・・・た・・痛っっ・・り・・待っ』
胸が激しく痛み潰れそうになる。
呼吸は乱れ視界が外側から暗くなっていく。
真っ暗に陥る最後に光の閉じる直前に律の顔が見えた。
『律・・』
『おいっ!すず!すず!!!』
海の底で声を聞いている様に微かに届く声。
深海の水は冷たくて光が差す事もない。
ああ、これはいつもの海底の夢だ…起きなければ。そう夢の中で思い目を開けた。
『ん・・・つめた』
律の冷たい手が頬に触れていた
『どうして・・帰ったんじゃ・・』
『どうして?どうしてって・・振り向いたらお前が胸を・・』
『ああ、また・・』
『発作か?治ったんじゃなかったのか?』
『うん・・ずっと発作起きなかったんだけど・・最近寒くてよく眠れないから』
『・・・・』
律は私を抱えるように後ろから抱きしめたままベンチに腰掛けていた。
さっき着ていたジャケットをそのまま私に被せて、律は薄着で私をきつく引き寄せて暖を取る。
『これ…懐かしい』
律の鼓動が聞こえる
『・・・ああ』
『昔発作が起きたらいつもこうしてくれた』
『落ち着くまでな』
『うん・・』
律の腕の中は酷く温かかった。
秋の風が吹き抜けるとその度に公園の小道には落ち葉がカサカサと音を立てる
『律・・・』
『ん?』
『なんでもない・・』
『・・・うん』
どんな言葉も出すことができなかった。
ただこのままずっとこのままいたいと・・そんな気持ちが湧きあがっていた。