1日中私を捕獲したまま、一馬は自由をくれなかった。結衣に連絡をしたくとも、携帯を触る猶予も与えられず、体の何処かしらが触れ合っている。
貪るように私を喰らい尽くし疲れたら休み、そして又繰り返す。
私自身も二日酔いと精神疲労から倦怠感が襲い何もしたくない。
身を任せていれば気楽ではあると諦めの境地を開拓していた。両手の手首は一馬によって手錠をかけられたように赤く鬱血している。
リビングの窓に目をやるともうすでに西日が街に沈みかけていた。先に起き出した彼は何やら身なりを整える。
「どうしたの?」
「ん?めぐるが昨日お世話になった店に行こうかと思って…店。どこ?なんて名前だっけ?」
「え??…」
「なんて言ったかな、今朝此処にいた…助けて貰ったんだって言ってた。昨日電話代わったのあいつだろ?」
「あぁ、そうだと思うけど…店?名前なんだっけ…ちょっと。。覚えてない」
一馬の顔色が明らかに変化した
「覚えてない?そんなはずないだろ?もしかして庇ってるのか?」
「ううん。そうじゃなくて、本当に…会社帰りに衝動的に入ったお店で、名前もよく覚えてなくて…出る時は酔ってたし…」
一馬は不機嫌にベッドに腰を下ろした。
「会社の近くって…ことだよな。」
「うん、、」
何やら携帯をいじっている。
「……あぁ、分かった。BARシャリフか。地下なんだな。だからか」
「え?なんで分かったの?だからかってなにが?」
「うん、、、まぁ、婚約者が何処にいるかくらいいつでも把握しとかないと」
笑顔を見せ私の髪に触れた。だが逆に発する言葉には温度はなく一馬に恐怖を感じた。
「……確かに、地下だったような…」
「で?助けてくれた彼はなんて名前?…いや、まぁいい。自分で探すから」
答えに詰まりそうになるのをきっと見越して彼は先に私の言葉を待たずにそう宣言した。
「ちょっと待って。私も行くわ。だって私がご迷惑をかけたんだから…」
身体があちこち痛むのを抑えて何とか立ち上がる
「……良いけど…渡した婚約指輪していくよな?」
「……え…うん」
つける気にならないとは言えなかった。元々私には高価過ぎて普段つけるには重過ぎた。
いくら時間をかけて準備しても一馬には時間稼ぎはどうでも良い事だった。
保管している場所から指輪の箱を手に取る。
「貸して、俺がつけるよ…」
箱を開けて指輪を確認し私の薬指にゆっくりと通す。
それはまるで自由を失い逃げる事は叶わない枷のように感じた
「………」
「じゃあ、行こう…」
彼は私の手を捕まえ笑った。
無邪気で少年の頃と変わらない一馬の笑顔は今は異様に不安に駆られる。
羽根を捥がれた鳥の様に完全に私は捕らえられてしまった。
繋がれたままの手は昔となんら変わらない温もりだった。
BARの入り口は路地にある。暗がりで目印らしきものはあまりない。路地裏のビルの地下に降り、重々しい扉を開ける。
「いらっしゃいませ」
見習いのリョウの声が耳に飛び込み、身を竦めた。
その様子に気付いたのか、一馬の手に力が入る。
「こんばんは…昨日、私の婚約者を助けて頂いたようで、お詫びとお礼も兼ねて…ご挨拶に来ました」
マスターがこちらに気付き会釈を返す。
「いらっしゃいませ。昨夜のお客様ですね。えぇ、記憶していますよ。しかし、お礼をされるほどの事はしていません。店の者に送らせましたが…それも私どもの勝手な気持ちで送ったのですから…お気になさらないで下さい…さぁ、こちらにどうぞ。」
リョウは笑顔で一馬を席に案内すると、私に軽く頭を下げる。
「体調はいかがですか?」
「色々ありがとう。えぇ。スッカリ…とまではいかないけど…」
「やぁ、君かな…送ってくれて、、一緒に…朝まで?居てくれたっていうのは」
「え?ちがっ…」
一馬は後ろ手に繋いだ私の手をきつく握りしめた。
「あ、はい。私が送りました。おそらくかかって来た電話でご住所を伺った時に少しお話ししましたよね?店から車で送り、それから私は戻りました。朝、あんなに酔っていたのでどうだったかと心配になって、ちょっと様子は見に行きましたが…まさか夜通し一緒にというのはありませんね。」
襟を正し堂々と一馬に対峙していた。
「あぁ、そうですか。失礼。色々とお世話になりました。これくらいで良いかわからないが。君の好きに使ってくれて構わないから」
財布を取り出すとお札の幾らかをまとめて掴みリョウに差し出す。
「いえ、結構です。当然の事をしてこういう風にされますと逆に困りますので…」
「まぁまぁ、お客様。店として放って置けなかったこちらの余計なお世話でしたからね、もし気が咎めるのでしたらその御札の束はこの店で使ってくださると有難いですよ。というのは冗談です。ここにはメニューがないんです。私がイメージで作らせて頂いてるんですが、それでよければ1杯ご馳走させて下さい。」
優しい笑顔でオーナーが納めた。
そして席に座りなおすとしばらく一馬とマスターが仕事の事などを話していた。
「あー、リョウ!すまんがオレンジを買ってきてくれないか?」
「あ、はい。すぐに行ってきます」
カウンター席で、目の前を通るリョウと視線が飛びあう。
ただそれだけで、何故か安心した。
「彼は…リョウ?君と言いましたか?こちらは長いんですか?」
一馬はマスターに不躾に質問をする。
不快に感じながらも平静を装う。
「彼は見習いで、言わば私の弟子みたいなものですよ。もう半年、、いや、10ヶ月になりますね。だが身元はしっかりしていますよ」
「いえ、早朝に独身女性の1人住まいの部屋に行くなんて…お世話になってこういうのも差し出がましいですが…この先何か問題起こさないとも限りませんよ?」
一馬の言葉に驚愕する。
「ちょっと!何をいうの?失礼じゃないの…それを言うならいい歳して意識もない程飲んだ私の方が問題でしょう?」
大きな瞳で彼は私を一瞥した。
「いえ、すみません。そうですか今朝お客様のお宅へ?確かに些か軽率だったかもしれませんね。しかし彼の名誉のために言いますが彼は大切な人をアルコールで亡くしてます。ですから純粋な心配からの行動だと思います。。長い間苦しみの中にいます。あの時もし自分が気付いていれば…という自責の念に駆られたまま生きています。彼の行動は軽率だったかもしれませんが、許して頂けませんか?」
「マスター。すみません。 私…」
思わず立ち上がる。
一馬は何を考えているのか無表情だった。
「個人的な事なのでこれ以上は私からは何も言えませんが、ただ、彼を誤った見方で見て欲しくないので失礼を申しました。今聞いた事はどうぞお捨て置き下さい」
居た堪れなく情けなかった。
「ただ今戻りました!…ん?どうかしました?なんか、、変なタイミングで帰って来ちゃいました?」
不穏な空気を察知する。
「オレンジあったか?うん。これこれ。これで良いぞ」
「ちょ、マスター?オレンジくらい分かりますって!なんか変だけどもしかして悪口言われてた?」
可愛らしくおどける表情に、私は首を振る。
「ううん。全然。」
「あ、そうですか?よかった。」
マスターは笑顔で私の前にグラスを置いた。
どこまでも深い青が注がれ店内の照明に揺れていた。心に沁みる色に何かが込み上げてくる。
「え?っと、、これは…」
「はい、お客様に。私からのカクテルです、、リョウ、説明して差し上げて」
「……はい。」
グラスと色、それからマスターの前に並んだリキュールを見遣り推理するのだろう。真剣な眼差しで見つめ顔を上げた。
「こちらは…スカイダイビングです。ラムベースでライムを使っているので少し酸味があります。。」
「固い固い。。じゃあ、最後に気の利いた一言は?」
「えー、、気の利いたって…あ!青空に羽ばたいて…とかです?」
青空に羽ばたいて…羽根を捥がれた私には痛い言葉だった。
「こら、、「とか」って言うのは余計だな。ま、その感覚で良いかな。では、こちらは?」
乳白色のカクテルが一馬の前に出された。
またもや推理する。
「……はい。え、、XYZです。ホワイトラムを使っています。。意味はXYZの次はない。つまりはこれ以上ない、究極の愛です。」
究極の。という言葉に一馬は満足したようだった。
私は目の前の泣きそうなほど青い色のカクテルを暫く眺め、そして飲み干した。
体の奥から熱が上昇するのが分かった。
一馬がそっと腰に腕を回す。
スカイダイビング…このグラスの中の青空に飛び出して羽ばたいていけるならきっと…
「溺れちゃうわね」
「え?」
「ううん。なんでもない。2日も続けてカクテル漬けになりそうって話…あら?携帯鳴ってない?」
「あぁ、、ちょっと…失礼」
一馬が店の外へ出ていくのを確認し、ホッと一息ついた。
「どうしたの?メグさんなんか…安心した顔してるけど。あれからどうだった?一日中しんどかったでしょ?」
「こら、ちゃんと敬語使うって約束したじゃない!」
リョウは先程までの大人びた表情から一転し少年の様に無邪気に笑う。
私にはもうこんな笑顔は作れない。何故かそう思えて寂しく胸が軋んだ。
「……」
「どうした?…っていうか、、何?その腕…」
「え?」
カウンターの向こうから身を乗り出し私の両腕を掴んだ。
「いたっ、、」
「あ、ごめん…でもこれ。色変わってる…」
「…何でもないわ。大丈夫」
リョウの手を振り解く
「大丈夫なわけないだろ?昨日は無かった…もしかして今日?」
「気にしないで」
無意識に他にも無数に付けられた一馬の痕跡を隠す様に首もとを手で隠した。
「え?何隠してんの?……は?何だこれ…」
リョウの目が怒りの色を湛えた。
首に巻いたスカーフをするりと引くと点在する赤い跡が痛々しく残っていた。
「メグさん、これ…」
「……」
「何だよこれ…」
「愛の証さ…君にはまだ分からないかな…」
戻ってきた一馬が露わになった私の首筋に唇を押し当てた。
「ちょ、、辞めて。こんなところで」
「愛の証?…」
「一日中愛し合った証…」
「あ、あぁ。そうですか…」
リョウは目を伏せ、それから私を見なかった。
「で、電話。大丈夫だった?」
「あぁ、ごめん。部長から呼び出し。近くで飲んでるみたいで来いって…それで悪いけど明日の打ち合わせキャンセル出来ないか?ちょっと急ぎの仕事が入った」
「又部長のゴルフ?」
「あぁ」
本当は明日の式場の打ち合わせは式自体をキャンセルしようと考えていた。
明日の打ち合わせの時間までにきちんと話がしたかった。
いつも、肝心な場面で一馬はスルリと交わす。 肩透かしにあった気持ちで不完全燃焼になる。
でも…
「無理だなぁ。」
「え?何が?」
「あ、いや…部長と土日一緒なんて無理だなぁって事…」
ごまかしは効かないのは承知で口にする。
「まぁね…家族ができるんだし出世したいから」
そんな出世しなくても、貴方は重役の息子でしょ?なんて言えるはずもない。
「じゃあ、一度めぐる送ってから出るよ」
「今日は昨日みたいに泥酔してるわけじゃないわ…大丈夫だからここから行った方が面倒が無くていいでしょ?マスター。ごちそうさまでした。また寄らせて貰いますね」
立ち上がる
「スカイダイビング。とても…美味しかったです。凄く…綺麗で。お酒もあまり飲めなかったけど新しい発見で楽しかったです。お勘定お願いします」
「いえいえ、これは私からの気持ちですので…又懲りずに来てください。カクテルは奥が深いです。新しい世界に飛び込んで頂いて光栄ですよ。正にスカイダイビングですね」
「ありがとうございます。ごちそうさまでした」
リョウとは目を合わせなかった。
何故かあの真っ直ぐな瞳と視線を交わすのは自分の打算的な部分を暴かれそうで怖かった。結局私はいつも…自分の気持ちを吐き出して相手に投げつけたりはできない。丸め込まれる事に抵抗せず丸く収めてしまう情けない性質がもどかしかった。
あぁ、だからマスターは殻を破るためにスカイダイビングを作ってくれたのかと腑に落ちた。
店を出る頃には心が前を向いていた。
「めぐる。送るから…」
「………先に出てるわね」
外の空気を思い切り吸いたかった。
扉を開け、階段を上って行こうと一歩踏み出した。
「めぐさんっ、、待って…」
追いかけてきたリョウが腕を掴んだ。
「本当に…大丈夫?こんな…こんなの…」
赤く色付いた手首を痛々しく見つめた。
「うん…大丈夫。と思う。マスターのカクテルで少し考えが固まったし…ちゃんと前向いて行かなきゃね…これまでの私じゃあ一馬の人形だわ」
「え?」
「このままじゃいけないって気付いたわ。ありがとう。又、寄らせてね」
「あのっっ、、もし、なんかあったらいつでも連絡して。」
「ううん。大丈夫よ」
彼の手をゆっくりと離し、階段を駆け上る。
「気持ちいい…」
風は春の香りを連れて鼻腔をくすぐる。
一馬がゆっくりこちらに向かうのを見つめた。
去りゆく2人の背をリョウと後から出てきたマスターが静かに見送る。
「……彼は…悲しい人だな…」
マスターの言葉に驚いた。
「え?」
「悲しい…」
どういう意味か分からなかった。
「僕にはそう思えませんけど…浮気症の鼻持ちならない金持ちエリートに見える」
「ははは。金持ちエリート。君がそれを言うのは趣味が悪いな。でも、人は必ず裏と表がある。金持ちエリートが表なら裏の彼はもしかしたら孤独な少年かもしれないぞ?人は平面じゃない。奥行きがあるんだから…」
「………」
めぐるの手首の痣を思い出していた。
「まぁ、とにかく人を見極めるには君はまだまだ若すぎる。色々な人間を見て成長して欲しい。それが願いだよ」
マスターは都会の雑踏に消えた2人に背を向けると立ち尽くす後継者の肩を叩き元の世界へ戻って行った。