私は基本的に
自分の投稿に対して
過度に慰められたり
アドバイスをもらうのが嫌。
 
 
 
 
これには
明確な理由があって
 
被害者と救済者の
ポジションに振り分けられた
感覚になるから
なんだよね。
 
 
 
 
 
大前提私は私自身を
被害者として扱いたくないし
扱われたくもない。
 
(労わりたくないとは違うよ)
 
 
 
 
 
スピな言い方をすると
この世界の創造神は
自分自身で、
 
潜在意識の言い方だと
自分の意識が
世界を作ってるんだよね。
 
 
 
 
 
だから自分自身を
被害者にしておくことは
自分の世界の主導権を
他人に譲ることとも
言えるんだよね。
 
 
 
 
 
 
言い換えると
加害者は能動的で
自分で決めて動く存在で、
 
被害者は受動的で
人にやられて支配されて
生きる存在みたいな。
 
(ニュアンスで捉えてね)
 
 
 
 
 
 
 
で、
タイトルに書いた
救済者なんだけどね。
 
 
 
 
 
 
その救済が
ナチュラルに愛から
来るなら良いんだけど、
 
救済が過分な人は
人を救うことや
尤もらしい言葉を
掛けることで、
 
救済者側の劣等感や
欠乏感の解消が
メインになってる
ケースがけっこうある。
 
 
 
 
 
 
被害者は救済者に溺れ
救済者は被害者を
吸いながら生きるみたいな
 
いわば共依存の関係。
 
 
 
 
 
私はそのループに
入りたくない。
 
(とはいえ
それも私が作り出してる
現実なんだけどね)
 
 
 
 
 
 
こんな話をして
誰かを責めたいわけでなく
例に漏れず私が今まで散々
やってきたことだから(反省)、
 
過度な救済者ならではの
不安感とか脆さも
嫌というほど分かる。
 
 
 
 
 
 
ただ今の私は
人を慰めて自分の欠乏感を
満たす心地よさに
溺れたくないし
溺れさせたくもない。
 
 
 
 
 
そこに溺れてる間は
両者共に被害者の
可能性とか希望とか
見れてないから。
 
 
 
 
 
むしろ被害者に
希望を見出しちゃったら、
 
被害者は
慰めという愛が
もらえなくなるし、
 
救済者も
相手を慰めるという
自己有用感が見出せなく
なってしまうから。
 
 
 
 
 
もちろんそれが
必要な時期もあるけど
 
被害者と救済者の関係性を
重要視している間は
ずっとそこに
留まってしまうから。
 
 
 
 
 
 
私はそれぞれが
自分のことを愛して
自分の価値を思い出して
自分の可能性を信じて
 
それぞれが
自分を輝かせながら
生きていける
世界がいいから。
 
 
 
 
 
取り扱いが
難しいところでは
あるんだけど
 
私は自分にも人にも
希望を見出す側の
人間でありたい😌✨