先月末から訳あって、中井英夫の『黒鳥館戦後日記』を空いた時間をぬって読み返しているところだ。そこにみつはしちかこさんと下野博の縁についての逸話が重なり、改めて中井と下野の関係についても想像を巡らすこととなった次第。
実際、立風書房の刊行物には、中井・下野両者の往年の交友関係を連想させる書名が散見される。彼らとともに「新思潮」同人だった椿實の全作品集、中井の盟友だった澁澤龍彦の著作、そして全5巻に及ぶ『新青年傑作選』。

中井英夫自身は下野博の立風書房から数冊の著作を刊行している。アンソロジー『幻戯』(出版芸術社、平成20年)の「著作リスト」から抜書きしてみる。

79年9月: 『地下を旅して』
79年11月: 『月蝕領宣言』
81年7月: 『LA BATTEE』
83年1月: 『流薔園変幻』
83年3月: 『黒鳥館戦後日記』
84年4月: 『続・黒鳥館戦後日記』
85年4月: 『月蝕領崩壊』

特に『黒鳥館~』以後の日記は、中井が生涯の伴侶・田中貞夫を喪い失意に沈んでいた時期の刊行だ。『続・黒鳥館』の中井本人の後書きにもその悲痛が刻まれているが、末尾には
「「新思潮」同人だった下野博社長の立風書房から出版されるのも、因縁というより必然に近い。この一冊を、錯綜しうねりを返す海さながらの、苛酷な“時間”に投じるとしよう」とある。
この後、「苛酷な時間」が海となって中井の生身を押し流す。数年後、住み慣れた羽根木を離れ小金井市に転居した中井英夫は、近くの多摩霊園を訪うことが増えたという。そこには乱歩、三島由紀夫、田中貞夫が眠っていた。生地田端から西荻窪、市ヶ谷、羽根木、そして小金井へと至る彼の流転はまるでそのまま、生者から死者の域へと歩を進めるかのような道行きの如くに映る。

とはいえ、そんな中井を懸命に生者の域に留めようと努める者ももちろんいた。田中幸一、本多正一といった援助者たちの尽力はすでに周知のとおりである。
下野博もまた、その一人だったのかも知れない。今読んでいる『黒鳥館戦後日記』の収められている創元ライブラリ版全集第8巻『彼方より』には、「今頃、『虚無』の読後感」と題する下野博の回想が載っている。



「一九九三年晩秋、本多正一さんから電話があった。もうほとんど見込みはありません。中井も、下野さんには会いたいと言っているので見舞ってやってほしい」
「二年か三年前のことになる。既にその頃、危機的状況を伝え聞いていた。何か力になれたらと思い羽根木を訪れたが、中井はソファの真ん中に腰掛けていて、下からしゃくるような目で見て言った。「何しに来た」」

事情に無関係の人間が読んでもこの中井の“やさぐれ”ぶりには身の凍る思いを禁じ得ない。
結局、本多とともに病室の中井を見舞ったのが下野と中井の今生の別れとなった。


同じ回想文の冒頭では、「新思潮」時代の中井との交流が語られている。「西荻窪、焼け残りのアパート青雲荘、例の屋漏」

「対称、鏡像、AとアンチAの思想は、その後も長く、いや終生彼のモチーフであり続けたのは周知の通りだが、無論、おそらくは乱歩さん譲りの鏡の思想は、量子力学入門などより遥か昔からのものだったろう」
若き日の中井は「反宇宙という概念」に入れ込んでいたようだ。宇宙には反宇宙、陽子には反陽子、それをぶつければ両方とも瞬時に消滅する。だから中井英夫には反中井英夫が存在する…そう、既にここに萌芽があったのだ。ミステリーに対する反(アンチ)ミステリーが…
「久生十蘭、小栗虫太郎らの名とともにアンチ・ミステリーという言葉を聞かされたのもこの頃のことだ。「一作だけは必ず、オレはそれを書く」」


この回想よりも遥かに以前の、もうひとつの下野博の文章がある。中井英夫の告別式で読まれた「悼」。これは中井追悼特集を組んだ雑誌「幻想文学」40号に収録されている。



「新思潮」準備場で初めて知り合った中井は、それからわずか十ヶ月の付き合いの間に、既に下野にあの五色不動の話をしていたのだった。
「「新思潮」のあの頃、たぶん一九四七年という時点で、あなたの頭の中には、『虚無への供物』断片が浮かんでは消え、消えては浮かんでいたのかしれません。だとすると、あの頃はあなたの助走の期間である以上に、もうアリバイ作りが始まっていたのかもしれない。短編にしか興味がないようなことを言っていながら、突然千何百枚大長編を世に問うた、そのことだけでもそんな気がします」

二つの文章で、下野は中井の人生と作品を「アリバイ作り」「完全犯罪」と一貫して形容している。個人的に熟考してみたい点であるが、既に紙幅を相当に超えてしまった。それはまた別の機会にでも。

下野博は、最後にこう友に語っている。
「ぼくはいま、仏教の葬儀に送られた魂と、キリスト教の葬儀で送られる霊が、果たして向こうで一緒になれるかどうか、阿弥陀経の「倶会一処」、倶[とも]に一処に会すという理念は、諸神諸仏に共通するものかどうか、この問題をまじめに考えています。もし、共通するとしたら、もうそんなに先のことではありません。また、改めていろいろお話を聞かせてください。
今はただ謹んで、さようならを申します」

下野博は、キリスト教徒だったのだろうか。なら、確実にこの二人は再会できていることだろう。中井英夫は晩年、「贋法王ハネギウス一世」を名乗っていたのだから。


(「幻想文学」40号冒頭に掲載された中井英夫の絶筆、「眠り」)