~架空廃園の書斎から~-CA3G080900010001.jpg

“Art is not a mirror - it is a hammer" - John Grieson



(昨夜から続く)

「オールナイトニッポン」が終了し、ほどなくして川村かおり本人がメディアから姿を消し、自分の中で彼女の存在が「過去」になってしまった頃になって初めて、Pistols、そしてP.I.L.の音を聴いたのだった。

それまでには多少なりジャズ、プログレ、クラシック(現代音楽含む)など雑多なジャンルを聴きかじっていた耳には、pistolsはまるで衝撃には感じられなかった。むしろP.I.L.の方にある種のヤバさを感じ、そちらの方が「音楽的」には面白かった。

「なんだ、川村、メタル・ボックスの良さが分からなかったのかよ」
などと、生意気な回想などしたりしたものだ。
今となってはいかにも半可通な、赤面ものの気取りだったと、正直に告白しておく。
そもそも、彼女と自分ではpistolsの受け止め方がまるで異質なものだったのだと思う。

つまり自分は飽くまで、そこに「音楽」をしか聴き取らなかったのだ。pistolsって意外にオーソドックスなロックじゃん、というスタイル、サウンドetc.の次元での聴取。

しかし、自伝を読んでも分かるように、川村にとってのpistolsは、最初からすでに「音楽以上の何か」だった。
彼女はそれを「音楽」として「聴いて」などいやしない。そんな次元を超えた、圧倒的な〈経験〉そのものとして、彼女は全身を撃ち抜かれたはず。

「音楽は知的であるだけでなく、もっと内臓や肉体的なレヴェルに働くことが重要だ…」(ベン・ニール)

内臓どころか下手すればミクロな神経細胞レヴェルにまで衝撃は達し、それまでの小さく縮こまっていた少女“カオリーシカ"は、まさにこの一撃によってその心身の一片に至るまで、たぶん徹底的に粉砕された。
そして、その音楽はバラバラに砕かれた破片を以前とは全く違う姿に再び編み直した。
こうして、新たな“川村かおり"というひとつの〈魂〉が生成した。
川村かおりにとってのpistolsの音楽は、自己を映す「鏡」などではなく、まさに古い自己を破壊し、まるで別の何ものかへの生成変化を促す強靭な「槌」であったはずだ。


それに比べれば、自分などはpistolsもP.I.L.もせいぜい「知的」に、ただの「音楽」として聴いていたに過ぎない。
否、それどころか、今まで自分は「音楽」という「槌」に徹底的に打ち砕かれた〈経験〉など、そもそもあっただろうか…?


改めて、川村かおりという人間の、言わば「攻撃的な受動性」とでも呼べそうな、感受についての天賦の才に感心もし、羨望すら抱いているこの頃である。