~架空廃園の書斎から~-CA3G080000010001.jpg

『パンとペン』裏表紙より。岡本一平画による堺利彦の肖像。
……………

今しばらく、『パンとペン』について。

堺利彦は、同志たちにこう語っていたという。
「われわれの社会主義運動はインテリの道楽だよ……本当の社会主義運動は労働者や小作人の手で進められるのだよ……だからといってインテリの社会主義道楽が無価値で、真摯でないとはいわんがね、道楽で命を落とす人はいくらでもある……」

売文社解散後、堺は東京市議会選挙にも出馬、再び運動の表舞台に立つ。
が、1922年には二回に渡り暴漢から襲撃を受け負傷。
さらに翌23年には、日本共産党創立に加わったことでまたも逮捕される。
収監中に関東大震災が発生。堺は難を逃れるが、その後の騒乱状態の中、かつて共に大逆事件を危うく生き延びた大杉榮が妻の伊藤野枝、甥の橘宗一少年と共に官憲によって虐殺される…
「命がけ」にも程がある、と言いたくなるような苦境が、老年に入りつつある堺を次々に襲う。

そんな中でも堺は新たな大衆政党の結成に関わり、満州事変に際しては出兵反対を公然と唱え、その闘いの姿勢はブレることがなかった。


1931年、脳溢血で倒れて後の堺利彦は、ついに再び起つことの叶わぬ体になる。
寝たきりになり、もつれる口で妻に口述筆記させた一節は--

「僕ハ諸君ノ××[帝国]主義××[絶対]反対ノ叫ビノ中ニ死スルコトヲ光栄トス」

「帝国主義戦争絶対反対」
--40年あまりに渡って、言葉の力によってこの近代日本に「自由の新たな空間」を切り開いてきた堺利彦の「ペン」が記した、最後の言葉である。

1933年1月23日、堺利彦死去。

……………

堺の死から一カ月後、作家・小林多喜二が警察の拷問により虐殺される。
これ以降、日本に於ける「ペン」がどのような路を進んでいったか、その無惨な行く末を我々は嫌という程に知っている。
だが、その最中にも、己の「ペン」の力を遂に放棄することのなかった幾人かについても、また我々は知っている。
それらの「ペン」たちの刻んだ言葉を想起すること--それはまた別の、しかし、ふたたびみたび行われねばならぬ「仕事」である。