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『黙って野たれ死ぬな--船本洲治遺稿集--』(れんが書房新社、1985年)
生憎カバー無の裸本。この表紙に印刷されている手書き文字は、船本の「これはイショではない」と断り書きされた遺書
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船本洲治略歴
1945年12月23日
「満洲」において「満洲国警察官」の五男として生まれる。父親が八路軍に銃殺刑に処せられた後、広島県呉市広町に引きあげ、母親一人に育てられる
1964年4月
広島大学物理学部に入学。時々、釜ヶ崎はじめ関西方面に出稼ぎに行っていた
1968年夏
広島学生会館に寄宿していた三名と共に山谷へ
1968年10月
山谷自立合同組合結成
1972年6月3日
暴力手配師追放釜ヶ崎共闘会議の結成に中心的な役割を果たす
1973年4月
対関西建設闘争に関する証人威迫容疑で指名手配。半潜行しながら釜ヶ崎・山谷の闘争に指導的役割を担う
1974年3月
愛隣センター爆破(72年12月26日)デッチ上げによって、主犯として爆取容疑で全国指名手配。完全に潜行し、全国を歩く
1975年6月25日
潜行先の沖縄嘉手納基地ゲート前において、皇太子訪沖反対を叫びつつ焼身決起。29歳

「船本洲治の発言や文章をあらためて読みなおすとき、わたしは、言葉はひとを動かすものだ--という実感にとらわれる。そして、それ以上に、船本洲治みずからが、そのような言葉の起動力をよくつかんでいたように思われさえするのである。」
「船本洲治の言葉がもつ力、ひとを触発し、共考にひとをさそうこの力は、寄せ場の仲間たちにたいしてだけ発揮されるのではない。「のたれ死に」がわが身のこととして実感され得ない「市民社会」の人間たちに向けて語るときも、かれは、みずからの言葉にこめるこの力を断念しなかった」
「船本洲治の言葉の力は、同じ時代がわれわれにのこした最小の遺産のひとつだった。だが、遺産は、小さければ小さいほど、あとに生きるものをゆたかにするのである」(池田浩士「十年ののちに」)

「政治は人々を崇高にし醜悪にもする」
「われわれは朝鮮人「労務者」・中国人「労務者」の中に労務者としての歴史的・普遍的な運命をみる」
「山谷・釜ヶ崎の仲間たちよ。黙って野たれ死ぬな!胸には熱いものがこみあげて、これ以上は書けぬ」

ECCE HOMO
コノ人ヲ見ヨ