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ガタリ、平井玄、浅田彰、竹田賢一、ラジオ・ホームラン、梶洋哉(写真)『東京劇場-ガタリ、東京を行く』(UPU、1986年)
これは地元の図書館で借りたもの。未だ現物を入手できていない。
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今月に入って、寒さが厳しくなってきた。この時期を路上で生き延びねばならない人々を想像する。一年前のように、この年末も「年越し派遣村」を設置しなけれはならないのだろうか。ふと、そんな事を思った時、この一冊を思い出した。
ドゥルーズ=ガタリの著作は持っているが、敷居が高くてまだ読めていない。しかし、そんな自分でもこの中のガタリの言葉には刺激されずにはいられない。

1985年11月27日、来日したガタリは浅田、平井らに導かれ寄せ場の街・山谷→新宿→下北沢を踏破してゆく。その「即興的な旅」の写真と対談によるドキュメント。

およそ四半世紀前の記録であるが、ガタリの言葉にはハッとさせられる。
「現在の日本経済の発展がいつか崩壊する、そういうことは想像できないでしょうか…そのとき…まったく新しいマージナルな人たち、手形返済に苦しみ、一文無しになってしまった人たちが出現する。彼らは精神的にもマージナルな立場に身をおく準備ができていない」
今まさに、路上に流出しているのは「準備ができていない」ままに職と住居を奪われた「新しいマージナルな人たち」だ。全国が「寄せ場」化している。
「あるいは、日本のシステムにとって…苛酷な関係で緊張感をしき、絶対的貧困、絶望、死といった極点を維持することが、無意識なレヴェルではあっても絶対に必要なことなのかもしれない」

「この横断する残酷さ」を転覆させる、新たな「横断」が今こそ欲望されなければならない。

「山谷はおそらく絶対的貧困を代表する以上に既成秩序の決定的拒否を代表するのだという安倍公房の言葉。この作家は彼自身が「山谷に比べて恥ずかしくない」ものでありたいと公言する」(ガタリ)
この一節に感応するガタリという知性のあり方に、自分もどこかで共鳴している。