「実は救急のクリニックに来てて。子がリフティングの練習してて転んで…。骨折してるって先生から」
「な、なんだって!?」と驚くも、入院していて駆けつけることも出来ず、歯がゆい思いをしたことのある皆さん、こんにちは。ただ本にこもるとこトン、です。
1に惹かれた箇所は155ページのあたり。
尾張や美濃の前線から「早々にご出陣を」と催促を何度受けてもびくともせず江戸城にこもっている。
動かざること山の如し。
この期に及んでも、自分に忠誠を尽くすと言った諸将を信じきれず、慎重に慎重を期す徳川家康。
まずは行動を持って証明せよ、と諸将をけしかける。福島正則以下諸将はやっきとなって攻めかかり、天下の名城である岐阜城を落とすことに成功。この知らせの到着を待ってやっと動きだす。
本文より~
8月27日
「そろそろ江戸を発つか、と事務の話でもするような表情で家康は侍臣たちに言った。~中略~
この冒険ぎらいの老人は、戦略の冒険性をすべて消していき、勝利がほとんど事務化するほどの状態にまで事を運び、時を待ち、しかるのちに腰をあげようとするのである。」
どうして、この箇所に惹かれるのか、と考えてみた。それは、もっとも自分には真似の難しい行動だからではないか。
確実に事が成るというところまで、努力を積む。手を抜かない。
(しかし関ヶ原の合戦場では、宇喜田・石田方の奮戦に押され、このままではまずい、と家康が焦る局面もあったようですが。島左近!)
2に注目したのは、9月14日の夜から15日の朝にかけて。
14日、石田三成ら西軍は大垣城に集結し、家康の本隊3万が加わった総勢7万を越える東軍に対峙していた。
家康は大垣城をスルーして、その先の佐和山城や大坂に向かうぞ、というフェイントをかける。
このフェイントに慌てた石田三成。東軍の行く手を阻むには、彼らより先回りし、要害の場に布陣して、決戦を挑むしかない。
この要害の場が、大垣城から西方12キロにある関ヶ原。
そこで三成ら西軍は14日の夜陰にまぎれ、ひそやかに行軍する。「行軍は酷列をきわめた」とあるように、激しい雨が降りしきる中、明かりもなしで、鎧かぶと、下着にいたるまでびっしょりとなりながら関ヶ原まで16キロ、5、6時間(近道を避け、迂回するコースのためより困難)をひたすら音を立てないようにして、歩いた。
なんという人たちだろう❗。そんな悪条件の中、夜の山を行くなんて。
着いたのは夜中の1時過ぎで、着いたら柵をこしらえたりして陣地を作らねばならない。さらに、翌朝からは、生死をかけての合戦があるのだ。
彼ら先輩方に対し敬意を込めて、お疲れさまでした、と言いたい。
できることならいつの日か、大垣城から関ヶ原まで、歩いて小なりとも息吹きを感じてみたい。
三成はさらにたいへんで、雨と寒さで下痢が止まらぬ中、各陣中を使い番のように、駆け回る。抜かりはないでしょうな、のろしが合図ですぞ、くれぐれもよろしく頼み申す、と。
各陣中、とはその動向がちょっと気になる毛利勢や小早川。彼らの陣はいずれも山の上にあり、登っていくのも一苦労。
しかし、ここが勝負の勘所、と三成は訪ね続ける。安国寺の陣、長曽我部の陣に続き、長束の陣、松尾山山頂の小早川の陣、盟友の大谷の陣、再度心配になり小早川の陣、とやれる限りのことを。
実質の総大将が夜明け前、こんなに必死に駆けづりまわっているなんて、家康が知ったら何を思うだろうか。
私は思う。
三成は自分に出来ることを精一杯やったのだ。家康のように諸事万端に整え準備することは彼には出来なかった。ほころびがあるとは分かっていても信じるところに向かってやるしかなかった。
首尾一貫した、潔い生き方を見習いたい
。
しかし、まずは多少はへこんでいるだろう息子に何て言おうか。リフティングとは言っているが、正面からの練習は避け、ボールを足にはさんでかかとで蹴りあげる、というトリッキーなことにばかり夢中になり、足がボールに乗ってしまい転倒する、そんな息子に対して。
三成ならどのような言葉をかけるだろうか(^^;