プロデュース公演ユニットから劇団化する節目の公演。

私が主演を張ることになった。

 

客演の身とは言え、当然である。何度も出演してきたが、ここで私より上手い役者に会ったことがない。

そんな傲慢な考えも幾許かあったと思う。

 

しかし蓋を開けてみれば、私の想像するようなピンの主演ではなく、

W主演のような形になるようだ。

私と対を張れる役者なぞいるのか...?

 

主宰は言った。

「すごく上手くて、歳も俺とこーへーと同じなんだよね」

 

すごく上手い?本当か?

この軽薄でノリの軽い主宰の言うことだ。私は大して信用していなかった。

 

2009年。年齢で言うと25歳の年。集団as if〜第8回公演『自分の聲』の頃の話である。

やってきた『上手い役者』の名は、山本恵太郎といった。

 

立場

高校演劇や小劇場て接点がなく、当時の私の舞台経験と言えばas if〜と、

大阪の戦後から続く超老舗劇団だけだった。

 

演劇で飯を食う老舗劇団と比べると、当時のasif〜なんぞ主宰の年相応な児戯でしかなかった。

見識を広げれば上手い俳優なんて山のようにいたに違いないが、

井の中にいた私の鼻っ柱を粉々に砕いたひとりが山本恵太郎である。

 

先に私が劇団員となり、その後に恵太郎が劇団員になり、私が先に結婚して板の上を去った。

年数にすると10年に満たない間の話だ。

私が役者をやめてから10年経つことを考えれば、人生において最も長い期間というわけではない。

しかし特別に密度の高い経験だった。

 

 

私がいた頃のasifは私と恵太郎の二枚看板だとよく嘯いていた。

しかし実際はどうであったろう。

私は劇団員になったのに、何かと言って客演の恵太郎に主演が回った。

 

「主役は客演でまわすもんだから、さ」

主宰にはそう躱されたが、恵太郎が劇団員になっても傾向は変わらなかった。

 

技巧と主演は必ずしもイコールではない。

しかし当時の恵太郎は、まごうことなく劇団の看板だった。

そして何より悔しいのが、私がそれを納得していたことである。

 

 

モラトリアム

私は飲みの席でも芝居の話しかできない厄介なタイプの俳優で、

稽古後に演劇論について交わすのが好きだった。よくある自己陶酔である。

 

大抵の役者が飲みの席で大層な演劇論を述べるが、そのくせ板の上で下手くそな輩を私は嫌悪した。

口だけ野郎とは話したくなかった。

 

そういうこともあって、私は恵太郎と芝居について話すのが殊更好きだった。

as if外でもふたりで客演するような機会もあり、

チャリで帰る道すがらしょうもないことも含めていろいろ話した。

 

家も近かったので、毎日のようにダーツに行き無駄話をした。

あの東日本大震災の直後でさえ、私は恵太郎と遊び、

閑散とした小さなダーツバーのテレビで2人で枝野幸男の顔を眺めていたのを覚えている。

 

とにかく恵太郎と過ごす時間が長かった。

黄金のようなモラトリアム期である。

 

 

そしてその頃、恵太郎は映像の事務所に所属し、私は公にはせず有名劇団のオーディションをいくつか受けていた。

asifの面々は私にとって間違いなく家族であった。

しかし少なくとも私は、asifとだけ関わって演劇で飯が食えると思っていなかった。

 

 

岐路

オーディションは幾つか落ち、僅かは受かったが、結局出演することはなかった。

30手前になり、私は結婚を理由に劇団を去った。

 

恵太郎は残り、私が去った後もas ifは続き、新しい面子が入り、そして解散した。

 

その後にasifの主宰は新しい劇団を立ち上げることになる。

ヨドミだ。

 

応援する気持ちは7割ほどか。

私はasifは大きくなれないと思っていたし、実際にそうなった。

しかしヨドミは中核に山本恵太郎が入ると聞いたので、もしかするかもしれないと思った。

 

敢えて酷い言い方をすれば、見限って離れた故郷が再生する話である。

見限った方はバツが悪かった。

 

しかしいざ離れて見てみると、小劇場という時代が進むにつれ苦境に立たされる世界で、

かつての仲間が成長していく姿は見ていて晴々しいものがあった。

 

私は演劇から離れて幾度か、どうにか再度関わろうとしたことがある。

しかし自分の弱さ故、それは今日まで叶えられていない。

 

それを昔の仲間は今も続けているのである。

8割、9割と応援する気持ちが増し、私は自分が選ばなかったもう一つの人生を山本恵太郎に見ていた。

なんともジジ臭く枯れた傲慢だが、それでもいいと思えるほどに諦めと期待が胸を占めた。

 

 

そして今、山本恵太郎は俳優を休止する。

 

 

贈ることば

私が俳優を辞めて10年経つ。その間にあったドラマを私は知らない。

私より残る想いの強い人もいるだろう。

それでも私にとっては大きな出来事なのだ。

 

何かあるごとにブログに残していて、これを機に15年前の記事(アメブロには無い)を流し見していたのだが、

ここまで記録を残していたら今回の件も残したくなった。

 

もはやただのおじさんの昔話でしかないが、それでも記しておきたい。

 

あくまで休止だ。

会えなくなるわけでもない。

しかし本人に会えても、板の上の恵太郎とは長い別れとなるだろう。

敬愛する俳優の一つの終わりに、弔辞のひとつも捧げよう。

 

 

 

山本恵太郎は、

私が関わってきた中で、

最も、

『上手い役者』である。

 

その節目に立ち会えること、心から喜び申し上げる。

 

願わくばあの日のように、

その演技で誰かの鼻っ柱を折り、

バトンを渡して去ってくれ。

 

私たちは孤独な短距離走者ではないのだから。