安倍首相のデタラメ憲法観 | 永田町異聞

安倍首相のデタラメ憲法観

先日の衆議院予算委員会で、生活の党、畑浩治議員が、日ごろから立憲主義に反するような発言をしている安倍首相にこう問いただした。


「総理、憲法とはどういう性格のものだとお考えでしょうか」


安倍首相の答弁は予想に違わぬ内容だった。


「考え方の一つとして、いわば国家権力を縛るものだという考え方がある。しかし、それは王権が絶対権力を持っていた時代の主流的な考え方であって、いま憲法というのは日本という国の形、理想と未来を、そして目標を語るものではないかと思う」


これまでにも、独りよがりの憲法観を批判されてきたにもかかわらず、いまだ無教養をさらけ出すことが快感であるかのごとき発言を続ける。なぜ、われわれはこういう人物を首相にしてしまったのか。


国家権力を縛る、つまり為政者が好き勝手にできないようコントロールする。それが憲法の目的だ。だれかの入れ知恵か独自の見解かは知らないが、「それは絶対王政の時代の考え方だ」と安倍首相は堂々と言ってのける。


どうやら、安倍首相は、王権を縛るために憲法がつくられたことはないという世界の歴史をご存じないようだ。


英国のマグナカルタは、貴族層が王の課税権をしばったものだが、これは憲法とはいえない。成文はなくとも英国に立憲体制が確立されるには名誉革命を待たねばならなかった。


フランスは、フランス革命のあと、すなわちルイ王朝の崩壊後に憲法がつくられた。アメリカはもちろん独立戦争の後である。


つまり、英、米、仏とも、市民が為政者をコントロールするため、統治権力をどのような目的で成立させたのかを明確化する、いわば覚書としてつくったのが憲法なのだ。


その意味で、自民党の憲法改正草案には違和感をおぼえる。特定の道徳観や規律を重視し、いわゆる「国柄」を国民に押しつけている。


「日本国民は、国と郷土を誇りを持って自ら守り…和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」(自民党憲法改正草案前文)


「常に公益及び公の秩序に反してはならない」(同12条)


「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わねばならない」(同24条)


これではまるで、旧東側国家の憲法のようだ。法と道徳が分離されていない。その時々の権力者が、こうあるべきだと思う国の姿を書き込むような憲法は名ばかりで、真の憲法とはいえない。


人にはそれぞれの道徳観があり、期待する国家像がある。民主主義とは、そのような人によって違うものを最高法規にして国民を縛るのではなく、選挙で自分の考えに近い候補者に票を投じる行為を通じて、望ましいと思う国づくりへ政治を動かしてゆくことであろう。


安倍首相のような憲法観を持った人物があろうことか首相となり、その内閣支持率が高どまりしているというのは、実に奇怪な現象である。



新 恭  (ツイッターアカウント:aratakyo)