山田太一さんのエッセイを読んでいるうちに、私の中で俄然クローズアップされてきたのが
沢村貞子さんである。
まず、これでひかれた。
「美しい侍の死」というエッセイ。
渥美清さんと沢村貞子さんが相次いで亡くなった頃に書かれたエッセイだと思われる。
お二人とも身ぎれいな終わり方だった、として書かれている。
「他人との距離を測り、気持ちを制御して油断がない。」
「おふたりとも人間について深く諦めているようなところがあった。人間関係についても深入りを断念しているようなところがあった。仲良くなりすぎて制御を取り払ったらお互いを壊してしまうという気持ちが胸襟を開くという様なことを避けさせているようなところがあった。そして、そういう自己制御、節度が主義より気質に支配されていたから、嫌みがなかったのだと思う。ほどが良かったのだと思う。」
社会生活を続ける中で程よい人間関係の作り方や距離の取り方というのはなかなか難しい。
ここに書かれているような人との付き合い方ができて、それでいて感じが悪くなかったら
それは達人じゃない?と思ったのだ。
沢村さんはご主人ともども80才を過ぎた頃に女優をやめて、(ご主人は記者の仕事をやめて)長く住み慣れた東京の家を引き払い、海と富士山の見える逗子のマンションに引っ越ししている。
80才を過ぎた、という年齢で転居を決行するというのも、その年齢がそう遠くない私は感心する。
そして女優という仕事をやめたので、髪染めをやめる。
それを見て山田太一さんはその白髪が美しかったと書いている。
ご主人が亡くなられ、お宅に尋ねて行って、マンションの前まで見送ってくれた沢村さんをタクシーから振り返ると
「ぽつんと立っている沢村さんは、びっくりするほど品格があって、奇麗だった。色気の様なものさえ感じた。」
これは、この後、「徹子の部屋」に出演された時の写真を見て、私も納得した。
本当に品格があって美しい。
沢村貞子さんは、私が若い頃はかなりいろいろなTVドラマに脇役として出演されていたので
見知ってはいたが、いったいどうしたらこんな風に年をとれるのだろうと、俄然、興味がわいたのである。
幸いにたくさん、ご著書があるので読んでみることにした。
一番初めに読んだのは沢村さんの最後の著作と思われる『老いの道づれ』。
(二人で歩いた五十年)という副題がついている。
そう、これはご主人がなくなられた後に書かれたお二人の五十年史である。亡くなる前に二人で交互に書いていこうと約束したのに、第一稿を書いたところでご主人は亡くなられ、後は全て沢村さんが書かれたという。
他の沢村さんの著作とはかなり違ったものであるらしい。
沢村さんは徹底的にご主人をた立てている。
それは、外部からの影響などでは全くなくて、ご自分の主義のようなものである。
名監督から名指しでオファーされ、映画史上に残る作品になるといわれた作品への出演も、1ヶ月のロケがあるから断ってしまう。
なぜならご主人のご飯が心配だから。
稼ぎは沢村さんの方が多いけれど、それを意地でも、ご主人に意識させない。
どうも、沢村さんがあんなに多くのドラマに出演されたのは生活を支えるためだったような感じさえある。
そして、毎日、美味しいごはんを作り続ける。
ご主人もまた、それを十分、承知のうえ、その役割をまっとうしている。
夫婦のあり方として二人の呼吸はピタリとあっているのである。
そして亡くなられた後に沢村さんが発見した、ご主人の手紙は感動的な、名品と言いたいようなLOVEレターだった。
沢村さんは、きっと、精神的にずっと充足されていたんだろうな、と思った。
Amazonで沢村さんの本を探しているなかで、ある書評に
僕も沢村さんのような女性にめぐりあいたい、
と言うようなコメントがあった。
うーん、今どきの女性にそんなヒトはいるかなぁ、無理だね、と思ったけど、世の中には実に色んな人がいるのであるかもしれない、ということにしておきます。
しかし、参った。
これからの老後の人生を歩む際になにかの参考になるかも、と思って読み始めたのに、わたしにはそんな道づれの存在は残念ながら、ないのだ。
それでもめげずに著書をよみつづけている。
本の中に書かれてあったことで、まねしたいと思っているのはこれ。
「いま、食べたいと思うものを、自分に丁度いいだけーつまり、寒いときは温かいもの、暑いときは冷たいものを、気どらず、構えず、ゆっくり楽しみながら食べること」(『わたしの献立日記』)
沢村さんは晩年には「結構おもしろい人生だったよ」と言っておられたそう。
できれば、私も、そう思いたいなぁと思うのであります。