連休に、主人と「鬼滅の刃」の映画に行って来ました。
写真はオマケで貰える作品紹介冊子。
中は声優さんのインタビューや、相変わらずの美しいイラスト等々。

一緒に写ってるレーシト?は、併設の書店で、松潤の写真集の平積みを見掛け無かったので、店内の自由に使える機械で調べて記念?に出力して来ました。
相変わらず方向音痴なので、店内地図を見てもウロウロしてたら一冊だけ飾って有りました。

「鬼滅の刃」が好きと云うのは、blog内でも大分前の方に呟いてます。
キャラは皆好きだけど、
「時透「有」一郎」君には、ちょっと別の思い入れが有る事を呟いてます。
彼の絶望感と、更にそれを上回る弟、無一郎君への想いとか。

「鬼滅の刃」を読むに至った経緯には、
勿論凄い人気だとは知ってましたが、
「VS嵐」の中で松潤が、好きな漫画として挙げて居たと云う事が直接で、漸く、息子が集め持って居た単行本を借りて読みハマりました。
私は兄が居たからか、子供の頃から少年ジャンプの「正義!友情!努力!」的な漫画で育ったので、滅茶苦茶好みのストーリーでした。

その鬼滅の刃を、まだ10巻くらいですが最近読み直してます。
映画の為では無く、
「どうする家康(松潤)ロス」で、何気に創作サイトの鬼滅の刃ファンの方々の、素晴らしい(二次)作品を拝見してたら、原作を又読みたく為ったので。

「どうする家康」頭で読んでるせいか、何となく共通の「想い」と云うかテーマを「連想させる」シーンや言葉が有るように感じます。

例えば8巻の、煉獄さんが瀕死の時、
煉獄さんの走馬灯にお母様が現れ、
煉獄さんを褒めてくれて煉獄さんは、
「母上の希望に叶う事の出来た自分」、
「皆の為に使命を果たせた自分」に、
満足?幸せ?安堵?して逝ったのが、
「どうする家康」の最終回、
結局、戦ばかりだった自分の人生を卑下?してた家康に瀬名が、「後の人達の為に良くやりました」と褒めてくれて、本当にやっと、
重い荷物を下ろせて(責務を果たせて)、
安堵して逝けた家康に重なりました。

もう1つは5巻で、
自分の、恐怖と後ろめたさからの早合点で、
罪を犯した自分の為に「一緒に死んでくれる」程の愛情深い両親を殺した蜘蛛の鬼、
「十二鬼月下伍の累」君が、
冨岡さんに倒され、両親とは別に「自分だけは地獄に行く」と漸く罪を自覚し、覚悟した場面を見てると、
「どうする家康」で、
「本能寺の変」間際に、自分は地獄に行くと家康に話してた信長を思い出しました。
あれは信長は、家康に告白と云うか懺悔も入ってて、有る意味「救いを求めて」たんでは無いかと。
誰にも言え無い「(実は)後悔」を、家康だけには吐露し、もし家康が信長の望み通りに、
「側で支える」と言ってくれたら、それこそ下伍の鬼、累君の両親のように、
「一緒に地獄に行くよ」的な、
唯一無二の理解者兼愛情を感じられ、
幸せだっただろうと妄想します。

この5巻のサブタイトル「地獄へ」は、シンプルですが非常に良く合って居るなあと改めて思いました。

「悪い事をしたら地獄に行く」
と云う教えは、人間には必要な戒めだと思います。
やはり「どうする家康」で、一向宗の空誓上人様の教えかどうか分かりませんが千代さんが、
「現世の罪は現世限りよ!」
と言ってますが、それには賛同し兼ねます。
それなら、生きてる時に他人はどうでも、自分の好き勝手、犯罪もやり放題で、
「捕まらず逃げ切った者」は、全く罪を償う事は無いように聞こえます。
大分前から、何やら幼稚園や小学校、果ては大学生や大人に迄、
「悪い事をした者も許しましょう!」
ってのを、教育だったりマスコミが流行らせてるようですが、
それは「有る側の者」だけに限り主張されてて、「皆が平等の権利では無く」、
その「有る側の者」を、「おかしいのでは?」と、疑問や批判する側の者には、一般的な言動すら「犯罪扱い」され、犯しても居ない罪や罰が課せられると云う、
「異常な常識」、「本当の差別」が、今の日本の流行り、常識にされて居ます。

私が「鬼滅の刃」を好きなのは、平等に人の命、権利を大切にしようとする人達が頑張って居て、
他人の命を奪うと云う罪を犯した者(鬼)が、
自分を振り返り、正しく罪を償う気持ちに為り、それを命で償う所が、読んでて精神的な健全さを感じるからだと思います。
まあ残酷な場面は有りますが、それこそ「どうする家康」にも有りましたが、
愚かさや残酷さを持つ人間、
そう為らざるを得無い状況も、
「相手が有るからこそ」確かに存在する事。
そしてそれを阻もうとする者が居る事を、表現する為には必要なのだろうと思います。

「正しい事」と云う定義は、確かに難しいでしょう。
国民性、民族柄、信じる物(者)が違ったり。
それぞれの損得等も有り、いけ無い事を無理矢理正しいと言う者も居るでしょう。
要は「他人の権利」を、
「自分に置き換えて」、
同じに認める事が「正しい事」かと思います。
それさえ出来れば、考えられたら、
無闇に人が殺されるとか、盗まれるとか云う事が起き無いと思うのですが。
まあ物や金が溢れてる国々では、難しいでしょうが。


例の、日本の芸能界暴露で一躍有名人に為った人は、物理的な証拠や警察も介入して無い事で、他人を好き放題貶め、現在有罪と為り、名実共に犯罪者に成りましたが、そう為ってから、自分や家族を如何に可哀想か主張してるようですが、自分は(恐らく)金の為に、他人の人権、財産、家族、関係者、そして命すら奪う事に、何の罪悪感も戸惑いも持たず、自らが罪を犯し続けた訳で、そんな事をし無ければ、自分も家族も平穏に暮らせた訳で、自分と他人の「それ(平穏な生活)」を奪ったのは、自分自身だと云う事を、「鬼滅の刃」の鬼達のように、気がついて欲しいです。

自分の欲の為に、罪を簡単に犯す人(自覚の無い人)は、つまり自分に甘い人間だろうと私は思ってます。
姿形の見映えがいいからか、
親が金や社会的地位(権力)が有るからか、
自分が金や社会的地位(権力)が有るからか、
そう云う集団(組織)に属してるからか。
その力が有る自分は、「他人の権利」を奪ってもいいと、勘違いしてると。

亡く為ってるジャニーさんを、「好きだった」とか「感謝してる」とか言いながら、本人不在で勝手に利用してる人達は、実は死んでからもジャニーさんに甘えてるのかな?と感じるように為りました。
「ジャニーさん為ら許してくれるよね?」
って、勝手に思ってるような。
きっと本当にジャニーさんは生前、
「出来の悪い子程可愛い(放って置け無い)」と云う感じで目を掛け、世話(お金の工面とかも)をして上げてたのでは無いかなあ?と、最近妄想するように為りました。
果ての無い、「そうだったらいいな」的、
「彼等の欲(妄想)」を伝え聞いてますと。
「現世の罪は現世限り」と、誰を傷付けても、何人の人を悲しませ、命すら奪っても、
「自分達だけ」が贅沢出来たり楽しければいいと云うのが、今の日本の経済界、メディアの常識何でしょうね。
最早国別、民族別では無い、「価値観が同じ」人々が、それぞれ分かれて暮らせるような世界が実は、良くも悪くも「安寧の世」なのかも知れ無いなあ何て、思ったりした昼下がりでした。

最後に妄想をもうちょっと。
明日はバレンタインですね。
松潤にチョコは贈れ無いので、展覧会のグッズの追加注文を細やかに貢ぐ事にしました(笑)

今は、なかなか姿を見せ無い松潤。
「どうする家康」が終わった直後、現世のいつもながらの華やかな姿を見てると、ロン毛にして、実写の「鬼舞辻無惨」様何てどうですか?
と思ったりして。
松潤は、気持ちは煉獄さんだと思いますが、今の年齢の迫力有る美貌が無惨様にも合うかなあと。
殿松潤や、平八郎山田裕貴君はどちらかと云えば童顔だから、「どうする家康」での晩年も可愛い感じでしたが、思いの外晩年が渋くていいなあと思ったのは小平太杉野遥亮君でした。
殿と家臣団で、鬼滅の刃っぽい、又力を合わせる正義か、悪か。
チームの話しが見たいです。
米ドラ「CSI(マイアミ)」好きの私としては。

あ、そうそう!
FCラジオで松潤が、インド映画「RRR」の話しをしてましたが、インド(女性)好きも以前のblogで呟いてる私は、「RRR」もとっくに去年観てた事を自慢したいです。
松潤の美貌は、インド映画にも合うと思いますよ!