さきに本欄で「虎ノ門今昔」(平成十年四月発行、三九七号)を執筆させていただいたところ、多くの方々から種々感想を頂戴することができた。その中で、新井幸男先輩(元文化財保護委貝会記念物課文化財調査官、史跡指定調査台帳整備を担当)からは、江戸城外堀遺構についての貴重なご教示をいただいた。その点について、後輩の文化財調査官の協力を得て、高山純氏(東京・港区立港郷土資料館学芸員)からいくつかお教えいただいた。省庁再編成の進む中、国立教育会館も、建物自体は文部省別館となるなど、慌ただしい変化のただ中にある。ここに、「虎ノ門今昔」の続編として、両氏のご教示を中心に、江戸城外堀遺構についてその後知り得たところを纏めておくこととしたい。
外堀通りを挟んで、文部省別館の斜向うに、虎の門三井ビルがある。そのビルの前に、蔦で被われた部分が見える。これが昭和三一年三月二六日国指定の史跡「江戸城外堀跡」(東京都千代田区・新宿区・港区)の一部である。空堀の池状の一部に、高さ約一・五メートルの外掘の隅石の遺構があって、一方は文部省の方に、一方は霞が関ビルの方に伸びる恰好となっている。池の部分の隅には、「文化庁」と刻った境界標示の石が打ちこまれ、これが国の史跡であることを示している。
一方、文部省別館にある石塁およびロビーの床の上の白点については、前回紹介したところである。これに若干説明を加えると、駐車場の中央にあって外からもよく見える遺構は、これも隅石の形状を見せているが、周囲をコンクリートで固めており、遺構としては旧状を厳密に伝えているものとは言いがたい。しかし、そこが外堀遣構の一部であることは認めてよい。次に、その石塁の延長上を文部省別館のロビーへと辿ると、階段のところからロビーの床を経て正面階段の上まで、白点でかつての外堀遺構の外面が示されている。その更に延長上、外堀通りに面した霞山会館から15mほどのところに、虎の門三井ビルの遺構と類似の隅石が残されている。掘下げ部分がないので高さは約一・二メートル。片面は駐車場の石塁ヘ一直線に繋がり、他は直角に建物の方に向いている。ただ、虎の門三井ビルの遣構と文部省別館の遺構は直線では繋がらない(新井先輩のご指摘による)。しかし、高山氏のご教示により『江戸復原図』(平成元年、東京都教育庁社会教育部文化課)を検討したところ、虎の門三井ビルの遣構の位置は外堀の折れ曲る部分に合致する。その上、戦前の『芝区誌』(昭和十三年、芝区役所)には、次のような記載が見える(「虎之門址」の項)。
虎之門と呼ばれる場所は本来から言へば、琴平町に接した麹町区内の土地である。昔此処には江戸城の外壕があり、其外郭門の一つとして虎之門があつたのである。(中略)此門は明治六年十月四日に撤去されて、僅かに其跡を留めてゐたが、今日では其跡すら求めることができない。惟だ、虎之門小公園の池の上に枡形櫓台のものと覚しき巨石が一個物寂しく残つている。
ここにいう「虎之門小公園」は、金毘羅神社と霞山会館の間にある三角形の土地で、まさに現在の虎の門三井ビルの建つ場所にあった公園である。すると、虎の門三井ビルの遺跡は戦前から知られていたことになる。
