まだ20歳そこそこの若いパートの女の子が、懐メロ歌謡曲が好きだというので、適当に曲を集めてCD-Rを作ってあげたらすごく喜んでくれてずっと聞いていました。
最近は若い世代でも懐メロが好まれてるのかなと思って聞いてみると、そうではなくて、付き合ってる彼氏が懐メロ好きだから。
その子は彼氏にすっかり熱を上げて、ああしてあげたこうしてあげたと一生懸命尽くしているんですが、あまりに頻繁に電話をかけているんで、いろいろ話を聞くと浮気が心配で彼氏の携帯のメールをチェックしたりしてずっと監視しているような様子でした。
「じゃぁ彼氏が本当に浮気したらどうするの?」と聞くと「会社に火をつけに行く」と真顔で言う。
この子は「私だけを見て!」という気持ちが強い「捨てられる女の典型」だなと思っていたら、案の定、彼氏に逃げられて、しばらくしてパートも辞めていきました。
家族で出かけた時に偶然見かけたら、ずいぶんやつれた顔をしていたのを思い出します。
この子はそれ以前にも何度か彼氏に逃げられたと言っていて、パートさん仲間からは愛されていたし外見も性格も悪くないのに、あの嫉妬深さでずっと監視されてりゃ男も息が詰まって嫌になってしまうんじゃないかと、どう客観的に見てもそう思います。
こういう女の子には、何を言ってあげても馬耳東風。話を聞いてあげる事しかできませんでした。
ドストエフスキーの小説 「カラマーゾフの兄弟」にこういう一節があります。
「彼女は本当に、本心からグルーシェニカに惚れ込んだんだよ、つまり、グルーシェニカにじゃなく、自分の夢に、自分の夢物語にさ。なぜってそれはあたしの夢、あたしの夢物語だからさ!」
この嫉妬深い彼女は誰を愛していたのか。彼氏でしょうか?
彼氏と一緒に幸せな世界にいるという”あたしの夢”を、”あたしの夢物語”を愛していたのではないでしょうか。
巷ではよく愛情関係のもつれから、殺人事件が起きたりしますが、相手を愛していると言いながら、裏切られると殺人事件にまで発展したりします。
これは愛の対象がその人にではなく「自分の夢物語」を愛しているに過ぎず、相手が自分から離れてしまい”あたしの夢”を壊されたからこそ、相手を憎しみ殺す事になってしまうのでしょう。
本当に、その人を愛しているのであれば、たとえ浮気されたとしても相手の事を思い、殺すなどできないはず。愛すると言いながら、実は徹底した自己愛に陥っている事に気づかないのが「恋愛」というものの怖さです。
アイドルが好きになる人が、お目当てのアイドルが他の異性と噂になると急に心が冷めたりする場合、そのアイドルの幸せを願って祝福する気持ちなど微塵もありません。
絶対にそのアイドルと自分が一緒になれるはずもないのに、そんな”あたしの夢”を思い描いて、その夢物語を必死に愛しているだけです。
それに対して、信仰者の考える「真の愛」はそれとは無縁です。
新約聖書マタイによる福音書第5章46節
「あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。」
同44節
「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」
水に溺れている人を助けようとする時に、その人が自分の好きなタイプか嫌いなタイプかで助ける助けないを判断したりしません。
自分の好き嫌いを越えた愛、たとえ自分を憎む人でも愛する愛。
それがあるからこそ、親は子供に嫌われようと憎まれようと、その子を甘やかさずに厳しく育てる事ができます。
ところが、子供を甘やかして、いくらでもお金を与え、子供が人の道に外れても許してばかりいたとすれば、本当の愛で育てているとはいえません。
子供を甘やかす事は自分の気持ちを優先する行為に他ならず、子供の心を歪なものにし、物の有り難みもわからない人間に育ててしまうため、子供の未来と永遠の命を思う愛ではありません。
本来、神様から来る真の愛というものが、自分中心の「好き嫌い」や自分の情を優先させたとたんに、”あたしの夢物語”を愛する恋愛感情のうような私的なものへと堕落させます。
好き嫌いが動機となった愛情は、嫌いになれば終わってしまうはかないもの。いつまでも続く「永遠の愛」にはなりません。
現代は「愛」を自分の幸せを求める極めて私的な営みとして捉えるようになり、本来の神様から来る愛という本質を歪めていると言えます。
これは堕落論とは別次元の社会論として捉えるべき問題だと考えます。
江戸期以前の日本は、主君には正妻一人と側室を何人も持ち、正妻だけでなく、側室に生まれた子も我が子として扱い、家督相続もし、血統を残すという公的なものとして捉えていました。
側室の存在は血統を残すためには理に適っており、正妻も側室も私的な愛情ではなく、血統のための公的な愛情を主君に捧げる考え方に立っています。
この方達が主君に対する私的な愛情ばかりを求めてしまうと、とたんに愛憎の悲劇による女性間や兄弟間の争いが起こって、家系の秩序は失われ、血統を失う事態に陥ってしまいます。
戦(いくさ)や疫病などで8人中1人くらいしか満足に大人になれないほど生き残るのが大変で、血統を残す事が難しかった時代とはいえ、愛の本質を大切に保護する仕組みだったと言えます。
文先生により聖書を学んだ私たちは血統がいかに重要かを知っています。
血統に命を賭けたタマルにメシヤが生まれ、旧約聖書創世記最後の義人でエジプトの総理大臣となってイスラエル家を救ったヨセフの血統には生まれませんでした。
現代は、血統という公的意識が消滅し、全てが私的なものとして捉えられるようになり、愛も私的なもの、家庭も私的なものとなった以上、性欲が社会に於いて様々な犯罪となって現れるのも無理ありません。
血統を残すという意味で性欲もそれに付随する公的な意識の中で昇華される世界では、性欲ばかりがことさら強調される事もなく、性に関するある種の大らかさや健全さが担保されて、現代のような性にまつわる犯罪が起こりにくい社会だったと考えられます。
現代の私的な恋愛観に染まった考え方が、愛と性の本質を歪めてしまっており、本来神様が与えた最大の喜びと命の源泉を踏みにじるものとなってしまっているように思えます。
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