高校野球を経験していない者がプロ野球のマウンドに立とうとするように、旧約も新約も勝利していないで、成約聖徒だとうぬぼれている。
御言を頭で理解したからといって、その本質を自分のものにできたわけでもないのに。
本を良く読めば短時間で知的財産を手に入れられる。
しかし、作者と同等の荒波と格闘するような人生経験を積まなければ、こころの内にある心情を実感として理解することはできない。
御言は自らが神の子に至るための案内人。
それをこころで自分のものにするには、一歩ずつ歩む努力をして掴むしかない。
頭で一生懸命理解する事ばかりやったところで、霊人体の頭が異常に突出した歪な人間になるだけである。
頭で読めば、言葉は簡単。
しかしこの心情。「わかる」と簡単には言えない。この時の神様との生きた出会いは道元禅師だけのもの。
神様との関係性の回復は、当人の心情の成長度合いによるところが大きいのは、御言が与えられなかった時代も、現代も同じ。
そういう意味では人間のこころの成長に関しては、時代性関係なく皆が平等。
旧約時代は人々のレベルまで低かったわけではないし、新約の時代になったら人々のレベルが勝手に上がったわけではない。
時代の恵沢圏に入るには、それにふさわしい内的成長が必要であり、タダでそれを与えられはしない。(もちろん金を支払ってもだ)
「先の者が後になり、後の者が先になる」は時代的恩恵の大きさが後の時代の方が大きい事を現しているが、後の時代の方が人間のレベルまで高いという意味ではない。
例えて言うならば、最新技術と昔の技術の差はたった10年でも雲泥の差が生まれるが、その精神性は見た目の差とは関係がない。
昔のウルトラマンなどの特撮映画と今のCGをふんだんに使った映画とのリアリズムの差。
ウルトラマン
ターミネーター2
現在の高度な技術も、全ては小さな一歩一歩の積み重ね。
何もない草創期に苦労して作り上げたものは、今と比べれば全てにおいて劣るのは当然。
しかしその背後に、現在よりも多くの血を流す努力を重ねた苦労、それに賭けるひたむきさ、心情の投入、時代背景やその当時の人々の思いが複雑に入り交じった世界がある。
時代的恵沢を大きく受けた結果の世界を、その外的なものだけを単純比較して、内的なものを推し量ることはできない。
外的なものが時代と共に良くなろうとも、内的な心情の世界までがそれに比例して良くなるわけではない。
心がいまだに李氏朝鮮時代の韓国人に、高度な最新技術を与えても、人間の心までもが高度に進化するわけではないのである。
スピリチュアル系カルトのいかがわしいさは、先人の血の努力も無しに、完成したかのような幻想を抱かせるところに現れている。
神様は人間を神様に相対できるように作られたのだから、人が御言や美しい言葉に共感するのは何ら特別な事ではない。しかし、その美しい御言と自分とが一体化して美しいこころを持てるかどうかは別次元の話である。
美しい言葉に感動して、その世界に酔っているだけでは何も生まれはしない。スピリチュアル系カルトが言う完成した世界は永遠に来ないのである。
悪魔はいまだ存在し、世界に平和がやってきたわけではない。悪なる民族による善なる民族への虐殺や侵略は未だ横行し、それを見て見ぬふりをしている国際社会の現実が大きく横たわっている。
平和運動だけやっていても地上天国は来ない。だからこそ神様は文先生をとおして勝共を作らせ政治を変えようとされた。
この世界の悪なる現実から目を背け、もはや完成の時代がきて、自分達も完成レベルとなったかのように創造原理的世界を希求する集団は、もはや神様とは何の関係もない事を自ら証明しているのである。
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