「菊と刀」(ユダヤ人ルース・ベネディクト著)によれば、
「欧米の罪の文化に対し、日本は恥の文化」、という事らしい。
高橋史郎・明星大学教授が、これは日本人に「戦争を始めた罪意識」を植え付けるために作られた偽りの価値観だと述べている。
私は高橋教授の意見を支持している。
ルース・ベネディクトは占領期日本国民への洗脳を担当する戦時情報局の主任であり、日本人の精神を根本的にへし折る事を旨としていた。「菊と刀」とはその目的のために書かれた書物である。
「日本の『再教育・再方向づけ』のための最重要課題は、『罪の文化』が欠如した日本人の心に侵略戦争を起こした罪の意識すなわち『戦争有罪性』を植え込むことであると考え、『精神的武装解除』政策の最重要課題としてウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムが実施されたのです。」
いずれ高橋教授の説を取り上げるつもりだが、今回はそうではない。
日本人にとっての「恥」が、「世間の目を気にしての恥」なのかどうかを別の観点から見てみる。
日本が神中心でなく天皇を中心とした国家だという思い込みから、こうした捏造を受け入れてしまう素地があるのだが、天皇という現人神(あらひとがみ:神が人の姿となって地上に顕現した者)など存在しないし、元来、日本は神様中心の民族だった。
※詳しくは「8.古代の日本は一神教だった!」を参照。
8.古代の日本は一神教だった!
http://ameblo.jp/arashi-toranosuke/entry-11769482135.html
日本人は「お天道様が見ている」と言い、人が見ていないところでも悪事をせず、嘘を嫌う民族である。
お天道様(おてんとさま:太陽)は、悪人にも善人にも等しく光と温かみを与える存在。
つまり、お天道様=神であり、日本人のこころには「いつも神が見ている」との意識が根底に流れている。
恥と感じるのは、神様に顔向けできないから恥じるのであり、人様に顔向けできないのも、人間を神の御霊が宿った存在だと知っているからこそである。
日本人が世間を気にするだけで神を知らない民族などというのは、偽ユダヤ人が勝手にレッテルを貼っているに過ぎない。
では、欧米の罪観が、神を意識してのものかどうか。
イエス様を死に追いやった重罪人は、神を意識していたパリサイ人や律法学者であった。彼らは頭では神を知っていると言うが、こころで神を意識してはいない。
彼らの「神への意識」は口先だけであり、支配者の道具に過ぎない。
白人たちが有色人種を獣と同等に扱い殺戮しまくった事実は、人間を神の御霊が宿った存在として認めていないがゆえである。(白人全員がそうだというつもりはない)
神を意識した罪観という以前に、彼らのどこに神の御霊が宿っているというのか。彼らは偽りの神の民であり、真のクリスチャンではない。
クリスチャンは「罪を罪とも思わない事」が罪だと言う。
(三浦綾子「光あるうちに 信仰入門編」より)
新約聖書に罪人とされたのは、自分は義人であると言う人々ではなかった。神に救いを求めるこころの清い人々である。
ところが、自分達を義人だと主張するパリサイ人や律法学者は自らを罪人と認識してなどいない。
自分には罪がないという不遜なこころの姿勢こそ、神ではなく悪魔がその人の内に宿っている現れである。
そういう者達が作った「西洋人の罪、日本人の恥」の発想こそ、自分達が偽りの神の民である事を証明しているのである。
また、欧米人に比べて日本人は他人のしている事を見てから行動を決めるとよく言われ、ジョークと共に語られてきている。
欧米人にはそんな性格はないのかというと、そんな事はない。殆どの人はチップの支払い額は、他人が支払う額を参考にしている。
心理学では、他人の行動に注意を払わない方がおかしい。それは万国共通である。
日本人はとりわけ、他者への気遣いが、欧米人のそれよりもきめ細かいので、欧米人には他人に気を遣いすぎると映るかも知れないが、それを以て、日本人に主体性がないとは断定できないし、他者をより一層大切にしていると肯定的に捉える事もできるのである。
日本人に欠点が無いというつもりはないが、恥の文化を恥じる必要など微塵も無く、むしろ、それを誇りにしても良いとさえ思っている。
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