「大丈夫ですよ。」
心配そうに両手を胸元で合わせるあかりのマネージャーに、俺は抑揚のない声で告げた。
仕事だ。
プロならこれくらいやりこなせ。
これから先も、この人の側にいようと思えば、こんな機会は何十と巡ってくるだろう。
その言葉は、そんな自分への鼓舞もあったかもしれない。
逸らした視線の先で、2人は監督のOKがかかるまでやり切った。
安堵したのは、大野さんとあかりもだけど、もちろん関わるスタッフや俺たちマネージャーだって。
こうして1つずつ積み重ねて、作品は出来上がっていく。
いろんな仕事を大野さんとさせてもらって、この業界、この仕事にも慣らされてきたけど。
この人と引き離されたことへの傷だけは、いつまでもズキズキと痛んで。

「お疲れさまでした。」
再び黒のダウンを身に包んだ大野さんが、スタジオから降りて俺のところまで歩いてきた。
「大野さん、明日もよろしくお願いします。」
深々と頭を下げるあかり。
隣であかりのマネージャーも俺に頭を下げるので、俺も同じように頭を下げ、大野さんを振り返った。

………ふわり、と。

女物だろうか、香水の甘い香りが大野さんから香った。
「…帰るぞ。」
先に身を翻した大野さんの背中に、俺は左手を伸ばしかけてハッと我に返った。
ぎゅっと手を握りしめる。
その手をどうするつもりだ。
あの人の背中を捕まえて、俺は何をしようとした?

──抱きしめて、その香りごと消し去りたい──

そんなドス黒い感情にかられそうになった俺は、やっぱりこの人に、囚われてしまっていて。
大野さんを守りたい思いと、全てを投げ出して彼を手に入れたい衝動が火花を散らしてぶつかるような、そんな感覚………。
歩いていくその背中に苦しくなるこの思いは、いつか自分を壊してしまいそうで………。

ドラマの撮影が始まって3ヶ月。
ステアリングを握る俺の後ろに座って、大野さんはキャップを目深に被って寝ているようだった。
ついさっきまで台本を見ていたようだったけど、今夜の撮影はさすがにハードルの高いものだっただろう。
マンションに着いて、車を地下の駐車場に入れる。起こすのは少し可哀想な気がするが、家でゆっくり休ませないといけない。

「大野さん、着きました。」
いつものように低く声をかけ、スライドドアを開ける。大野さんの体がぴくっと動いて、顔をゆっくりと上げる。
そんな小さな動きが、こんなに愛おしいのに。
甘い言葉はかけてあげられないんだ。

「ん…さんきゅ。」
大野さんもいつものように、眠そうな声で応えた。
いつもと同じ、今日もこれで終わるはずだった。
大野さんが中腰で車から降りてきて、
「お疲れさまでした。ゆっくり休んでくださ…。」
い、と続けようとした俺の右腕を掴んだのは、大野さんの左腕。
すぐ側にあるマンション内へ続くドアを大野さんの右腕が開くと、一瞬のうちにそのドアの内側へと俺は掴まれた腕ごと引っ張りこまれていた。