僕は、その日、普段来ることのない、古びた喫茶店のカウンターに座った。
「こんにちは。」
隣に座っていた女の人が、僕に伊達メガネを外して微笑んだ。
入ったとき、カランカラン、とお店特有の音に迎えられて、中は思ったよりも広くて、カウンターの内側で、マスターと思しき老紳士がコーヒー豆を挽いていた。

僕は被ってきたキャップをとり、サングラスも外した。
僕たちの他に、お客はいない、閉店前の喫茶店。
耳障りのよい音楽が流れてる。
どこの国の音楽かはわからなかった。

彼女の隣のスツール椅子に座った僕に、マスターがお冷を出してくれる。
「あ、同じものください。」
って、僕は彼女が飲んでた紅茶を指した。
「セイロンのハイグロウン、大丈夫ですか?」
彼女はゆっくりと微笑んだ。
だけど、その顔色はあまりよくなくて。
あれからまだ、そんなに時間が経っていなかったから。
「僕、紅茶時々飲むんですよ?」
って、僕は笑顔を返した。
彼女、翔ちゃんの元カノの小川さんは、そうですか、と小さく言って、その、セイロンを一口含んだ。

「今日は、どうして僕を?」
待つ間、温かいおしぼりで手を拭く。
「何となく、お会いできたら、と思ったんです。ドラマの撮影中なのに、ごめんなさい。」
綺麗な横顔が、ふんわりとした髪の毛と共に揺れた。
「ドラマのほうは、大丈夫です。ちょっと休んじゃったから、巻きも巻きですけど。」
「櫻井さんも、ドラマの撮影始まったんですよね。」
櫻井さん、と言った時の淋しそうな声に、僕はなんだか泣きそうになる。
「櫻井さんの大事な人、どこにいたのかしら?」
前を向いて、誰に問うでもなく、ぽつんと彼女が言った。
「順調でした。お互いわかり合えていると信じていました。だから、わからなくて。」
いつ、どのタイミングでその人が現れたのか、わからないんです。
そう続けて、彼女はまた、紅茶のカップを口元に持っていく。

いつ、どのタイミングで………。

僕は言葉にならなくて、黙って彼女の声に耳を傾ける。
「相葉さんなら、ご存知かもと思ったんです。あの時いたのは、あなたと私だけだったから。」

「……ごめんなさい。」
僕は頭を下げた。
入ったばかりの、僕のセイロンのハイグロウンが、カチリとカウンターに置かれた。
バラのようないい香りが、先日行った翔ちゃんの寝室を思い出させた。
翔ちゃんは、アロマが好きだ。

「せっかく誘っていただいたのに。僕も、知らないんです。」
嘘をつくのは、どんな理由であれ、僕は好きじゃない。

だけど、翔ちゃんのためなら。
どんな嘘でもつける気がした。
翔ちゃんをそれで守れるなら。
何も怖くなんかない気がした。

「……そう、ですよね。」
そう言って、彼女は片手でゆるふわの髪の毛を耳にかけた。
その仕草、その声、その姿。
僕は一生忘れない気がした。
櫻井翔、という、1人の人を好きになった者同士として。
「誰って、聞いたからって、知ったからって、あの人が戻ってくるわけではないのに。」
また、前を向いてぽつんと言った。
僕は目を閉じた。
泣きそうになった。
でも、泣いたらいけない。

「なんだか、とても心もとないんです。ぽっかり空いた穴が、心にあって。涙でも足りない、大きな穴を埋める手段がないんです。」

「それは……。」
僕は、言いかけて、また黙った。
美味しそうな匂いがするその紅茶を、僕も一口飲んでみた。
バラの香りが充満していたけど、少し渋かった。
カウンターに置いてある砂糖をとって、スプーンで一度掬った。
さらさらと紅茶に流して、くるくると混ぜた。

「辛いんです。」
彼女がそう言って、たぶん、涙を流した。
僕は見れなかった。
見たらいけないと思った。
辛い。
当たり前だよね。
大事な人を失ったら、誰だって辛い。

「……あなたの大事な人は、あなたを待ってると、僕は思います。」
悩んだ言葉を、僕はやっぱり口にした。
「だから、胸を張ってください。幸せになってください。」
甘くなった紅茶を、ぐいっと飲み干した。
お札を1枚、カウンターに置いた。
「僕、仕事に帰ります。なんか、役に立てなくてごめんなさい。」
マスターにもごちそうさまでした、と声をかける。
「……今日、会えてよかったです。私はもう少しここにいます。もう少しだけ泣いて、帰ります。」
「わかりました。」
スツールを降りて、僕は再びキャップを被り、サングラスをした。
「きっと、現れますように。」
呟いた僕の彼女への最後の言葉が、聞こえたのか、彼女は俯き、僕はその背中を少し見つめて、暗い夜の街の中への扉を開けた。
カランカラン。
もう二度と会わないであろう、彼女にさよならを心に置いて。


翔ちゃんのところへ、僕は帰っていくのに───。






おしまい。

彼女との後日談、こんな形になってしまいましたが、よかったのかな?
やっぱり、難しいですね。

読んでいただき、ありがとうございました
m(_ _)m